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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

信仰に基づくハードSF──『エコープラクシア 反響動作』

SF オススメ!

エコープラクシア 反響動作〈上〉 (創元SF文庫)

エコープラクシア 反響動作〈上〉 (創元SF文庫)

エコープラクシア 反響動作〈下〉 (創元SF文庫)

エコープラクシア 反響動作〈下〉 (創元SF文庫)

前作『ブラインドサイト』から3年以上経ってしまったので、ピーター・ワッツとはどんな作家だったかねえと忘れかけた状態で読み始めたのだが、すぐに「うおおおこれが、これこそがワッツだ!」と思い出し興奮の絶頂にいくぐらいにおもしろい。理詰めで吸血鬼やゾンビ、機械知性に仮想現実の引きこもりまでを語り尽くし、無数のアイディアを惜しげもなく披露しながらストーリーも冒頭からぶっ飛ばしていく。

軍用ゾンビを引き連れた、無数の監視衛星さえもハッキングした吸血鬼が、脳をつなぎ合わせ集合精神を獲得した宗教団体"両球派"に対して戦争をふっかける。そんな混沌とした状況へと巻き込まれてしまった現生人類・ブリュックスは、目が覚めると地球を遠く離れた宇宙船の中にいて、なぜか吸血鬼、集合精神らと共に人類の主要なエネルギーを生み出す重要拠点であるイカロス衛星網を目指すことになっていた。

なぜイカロスを目指すのか。

なぜ彼らはイカロスを目指すのか(なぜブリュックスは巻き込まれたのか)。それを説明するためには前作の話をせねばなるまい。経緯をざっくり説明すると、2076年に地球から半光年離れた天体で謎のX線を観測。その6年後に65536個の人工物体が地球を取り巻き、それらは解析不能な大量の信号を発信したのちに盛大に燃え尽きた。

正体不明の異星知的生命体からの一方的な接触。戦闘の前の視察だったのか、はたまた何らかの友好的なコンタクトが行われるのか。地球サイドでは敵対的存在である場合も想定して調査船〈テーセウス〉を建造し、謎の信号を発信する彗星に向けて調査派遣した──『ブラインドサイト』で描かれるのは主にその旅の記録である。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
一方地球では先に書いたように宗教団体と吸血鬼の抗争が勃発するが、地球生命への脅威である異星知性体に向けて一時的な和平/協調を選ぶことになった。イカロスを目指すのは異星知性体への対抗策の一環であり、〈テーセウス〉が残した成果/結果とも関連している。結局、イカロスに行くのは前作同様「調査」と総括できるだろう。ちなみに解説の渡邉さんは前作から読んだ方がいいよと言っているけれど、前作で起こったことは最低限説明されるし、僕は本書から読んでもいいと思う。*1

信仰に基づくハードSF

視点人物となるブリュックスは、ほぼ改造を行っていない生身の人間だ。"超人化"が容易な時代ゆえに、無改造派は珍しい部類のようで、他のキャラクタに幾度か驚かれている。その上、この世界には集合精神や機械知性、AIまでがいるのだ。そんな人類を遥かに超越した知性たちの間で、"無能な彼の役目とは一体なんなのか"が、自由意志をめぐる議論と、神をめぐる宗教論争などが相互に関連しあって展開していく。

 わたしは執筆にある程度の不快感が伴うようにしている。顔面から着地するリスクを負わなければ、新しい場所にはたどり着けないと考えるからだ。わたしを快適な環境から放り出したければ、偏在するが目に見えない神の存在を真剣にとらえ、それをハードSFと合体させるのがいちばん確実だ。"信仰に基づくハードSF"という語句は、実際──クラークの第三法則があろうとも──究極の自己矛盾だろう。

とは「参考文献」での弁だが、ピーター・ワッツは記事タイトルにも拝借した"信仰に基づくハードSF"という高いハードルを見事に乗り越えてみせた。たとえば、本書に出てくる宗教団体両球派は、神を"物理法則を破るもの"として定義している。ありえない出来事、物理学からの逸脱──そうした現象を"奇蹟"というのであれば、それを引きおこすプロセスこそが神なのだ。

"わたしたちはいつも、光速度cやそのお友達を不変の法則と考える。クェーサーやその彼方まで行っても通用すると。もしもそれが──つまり、地方条例にすぎなかったら?"

両球派は"神"の実在をすでに確認していると言われているが(奇蹟を確認している)、この仮定がもたらす宇宙観およびそれが可能にする展開の広さを考えると身震いしてしまう。イーガンは我々の宇宙とは異なる物理法則を持つ〈直交〉三部作を創り上げたが、ワッツはまた別のやり方で異なる物理法則を物語に取り込んでみせたのだ。

凡庸な現生人類の在り方

我々が現実ととらえているものは所詮脳が引き起こしている感覚でしかない。脳に直接パルス刺激を与えることで快感や不快感、運動感覚といったものを操作できてしまう。脳科学/神経科学の世界では、人間が自由意志を持つと想定するのは難しい、という結論を示唆する研究成果がいくつも出てきているが、ワッツもそのあたりの知見を盛り込みながら"超越した知性に振り回される凡庸な人類の姿"を描き出している。

結果として本書に通底していくのは、"無常観"のようなものだ。変化と進歩から取り残されてしまった、現生人類。幻想としての自由意志を抱きながら、もはや何をしようとも先へ進んだ知性に敵うことはない。本書はそうした状況/人類を、肯定するのでもなく否定するのでもなく"そういうものだ"とばかりに淡々とみせつけてくる。

超越的な知性体達の思惑が錯綜する中、自身の目的を達成する/自由を手にするのは誰なのか。終盤の圧倒的な破壊のヴィジョンと相まって、読了後には荒涼とした、爽やかな読後感が残る。本書が映し出すのは取り残されてしまった人類に対する悲しみでも喜びでもなく、ただ"新たな知性体が繁栄した、次の世界の情景"なのだ。

おわりに

凡庸な人類であるブリュックスを視点人物にしているせいか、彼の周囲に存在する超越知性体の言動と行動は始終理解が追いつかない。しかし最後、ある種の"答え"が与えられそれまでの行動に意味が通るという意味では、本書はミステリ的な構成ともいえるだろう。大多数の人間が参加するMMOを疫学のシュミレーションに用いるなどちらっとしか出てこないアイディアも抜群に魅力的/情報量豊かで、まあとにかく読むのに時間/手間がかかる。でも、それだけの楽しさの詰まった傑作である。

ブラインドサイト〈上〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈上〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈下〉 (創元SF文庫)

ブラインドサイト〈下〉 (創元SF文庫)

*1:ま、『ブラインドサイト』も素晴らしい作品だし、ワッツは前作での議論を繰り返すような野暮はしないので、前でも後でも読むのはオススメする。

飛浩隆、十年ぶりの短篇集──『自生の夢』

SF オススメ!

自生の夢

自生の夢

『ラギッド・ガール』から10年ぶりに飛浩隆さんの短篇が本になった(文庫化除く)。

一言でいえば極上のSF短篇集である。身体へとダイレクトに感覚が伝達され、SFならではの特異なイメージが現出する悪魔的な表現力はなお健在。本書で描かれる新しいタイプの"天才"の造形も素晴らしく、読んでいて何度も表現とストーリーの両面、その凄まじさに感嘆するというよりかは恐れおののいてしまった。

漫画『HUNTER×HUNTER』には、瞬間的に成長したゴンさんが強敵・ネフェルピトーの頭を打ち砕くシーンをキルアが目撃し、「どれほどの代償を払えば これだけのオーラを…!!」と絶句する場面があるのだが、まさにそんな感じのリアクションを読みながらしていた(どれほどの代償を払えば これだけの文章を…!!)。寿命を50年ぐらい差し出しているか、半身持ってかれて義体になっていてもおかしくはない。

さて、もし仮に飛浩隆をご存知ないということであれば本書でもいいし短篇集『象られた力』でもいいし、長篇『グラン・ヴァカンス』でもいいので読んでもらいたいものだ。僕は「人にオススメのSF」を渡せと言われたら何も考えず『グラン・ヴァカンス』を渡すことにしているのでもう10冊以上買い直しているぐらいだし。

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

本書には様々な媒体に発表された中短篇が7つ収録されている。およそ10年に渡る期間の作品が集まっており、統一性といえるようなものはあまりないが(ただ、「自生の夢」「#銀の匙」「曠野にて」「野生の誌藻」の4篇は世界観を共有している)その分あちこちに投げらるボールを追いかける楽しさがあるといえるだろう。

それでは、一通り紹介してみよう。

海の指

何らかの惨禍によって、培われた技術や歴史の大部分が失われてしまった世界。僅かに残った人々が暮らす四角い陸地を、灰洋という灰色の流体が取り囲む。そこでは時折〈海の指〉と呼ばれる、大量の建築物や物体を灰洋から陸に押し出してくる現象が発生し、時代も様式も異なる建築が混合する特異な風景が広がっている。

スズメバチの巣のような白茶色の球体がある。玩具ブロックを積み上げて上下逆さに据えたような鋭い尖塔の群がある。時代も様式も異なる建築が山裾から山頂まで、ウロコのように重なり合いながらびっしりとこびりついているのだ。

灰洋は地球の情報を可逆的に圧縮したものであり、海の指は灰洋による陸地の演奏なのだと語られる。コミュニケーションの取れぬ異質な"何か"が、その形を自由自在に変化させることで想像を絶する情景を描き出す。漫画の原案として書かれたものだそうだが、それも相まって本書の中でも特にイメージの喚起力が強い一篇だ。

灰洋が情報を可逆的に圧縮したものであれば、人間はどうなのか──というフックはホラー・サスペンス・SF的であり、ストーリーとしても力強い。

星窓 remixed version

80年代に書いた短篇群をリミックスした作品だという。星間に広がった人類社会で少年を語り手として描くという時点で飛作品としては珍しいなと思ったが、モチーフとしては後年の作品と共通している。記述することの難しい"なにか"、だれにも理解できない論理で駆動するものの存在。身近な存在が別の存在(本作の場合は少年の姉)に変わってしまっている恐怖。霧。加えて、とびきりロマンチックな一篇だ。

「自生の夢」「#銀の匙」「曠野にて」「野生の誌藻」

それぞれ独立した短篇ではあるが、連作として書かれているのでまとめて。まず圧巻なのは表題作にもなっている「自生の夢」で、巻末の著者による「ノート」いわく『二〇一〇年代の作者の看板作だろう。』という言葉通りの作品である。

喋るだけで相手をコントロールし自殺にすらおいやることができる男、間宮潤堂。彼の死後30年が経過した世界で、彼は蘇り〈忌字禍〉と呼ばれる人類の知的財産を変容させる現象が起きていることを知らされ、〈ぼく〉と〈わたし〉と奇妙な対話を続けてゆく。あるじの行動やサービス参照記録を自動書記しそれをパブリックな空間へと放出し続けるCassyの存在は圧倒的な"言葉の奔流"、"動き続ける言葉"を視覚的に表現することに成功し、他の連作でも重要な位置を占めることになる。

〈忌字禍〉とは何か。なぜ生まれたのか。間宮潤堂はなぜ呼び出されたのか。〈忌字禍〉の元ネタは水見稜さんの『マインド・イーター』にあるが、google時代の今だからこその存在となって現れている。間宮潤堂という"言葉の怪物"と〈忌字禍〉という言語空間に現れた災厄との読み合いの一篇といえるかもしれない。

「#銀の匙」「曠野にて」は「自生の夢」のサブキャラクタを描く短篇。僕は「自生の夢」を先に読んでいたからCassyがどんなイメージなのかとか捉えきれないところがあったのだが、最初にこの二篇を読んでいると背景などがわかりやすくなる。「野生の誌藻」は〈現代詩手帖〉に載った異色作だが、動的な詩の表現がたまらん。

はるかな響き

我々が持っている〈私〉があるという感覚──。生きる上で大した役割を果たさないこの現象は、いったい何のためにあるのか? 言語能力、知性、それらを得たことによって"失われるものはなかったのか?"そんな単純な仮定が解き明かされてゆくうちに、物語は人類外文明の存在と抗争にまで話が広がっていく。

ロボット・人工知能研究者とSF作家のパネルディスカッションで生まれた問いかけから生まれた作品だけあって、本書の中でも最もノンフィクション的な*1作品だ。宇宙の知性がひとつ残らず焦がれる、計測や観測のできない〈あの響き〉、ピアノ演奏のメタファーなど今読むと特に「海の指」との共通性がよくみえる。

おわりに

できれば次はまた10年後ということはナシにしてもらいたいところだがSFマガジンで連載していた長篇(とっくにおわっている)『零號琴』があるし、『BLAME!』のアンソロジーで短篇が載ることが発表されたし、これは5年後ぐらいには短篇集か長篇がワンチャン読めるんじゃないか?? という希望的観測。まあ、これほどの作品を読ませてもらえるのだからこちらとしては待つしかないのだ。

*1:具体的な問いかけに対するアンサーとして提出されているぐらいの意味

本を読んで変わる人生

エッセイ

人を動かす 文庫版

人を動かす 文庫版

大学生で暇で暇でしょうがなかった時、学内新聞をつくろうと思ったことがある。*1

立派な大学なら学内新聞の二つや三つあるだろうが(偏見かもしれない)三流の私大だったからそんなものはなかったし、僕は文章を書くのが好きだったから、できるだろうと適当にアイディアをまとめてつくってみることにしたのだ。

読書で人生が変わった経験がありますか?

ブログを始めたのは大学一年生の頃ですでに書く方については経験もあったから、(二年の頃つくろうとした)学内新聞には僕がいくつかの書評とコラムを書こうというのがまず決まった。第一号ではそれに加えて教授陣へのインタビューを実施することになった。その中の設問に、どういう理由で入れたのかよく覚えていないのだが「読書で人生が変わった経験がありますか?」という質問を入れていたのだ。

僕としてはそんなものは愚問というか、そこら辺の犬ならともかく大学で教鞭をとるような人間なのだから読書で人生の一つや二つ変えたことがあるだろうと思っていたのだが、意外と「本を読んだぐらいで人生が変わるわけがない」と答える人がいた。当時はそういうもんなのかと反感を覚えもしたけれど、ざっくりとした質問なので解釈次第でどんな答えが返ってきてもおかしくはなかったと今は思う。

極論をいえば、ただ息を吸って吐いているだけだろうが身体の組成は変更され何もしていなくともインスピレーションを受けたりもするものだから、"この世に人生を変えない事象などない"とさえも強弁できる。その逆もまた然りであろう(本を読んだ人生と読まなかった人生を比較して検証できるわけではない)。とはいえ僕としては本を読むことで人生は変わりえると主張しないわけにはいかない。

冬木糸一の読書遍歴、またいかにして本を読んで人生が変わったか

というよりかは、しこたま本を読んで/読みすぎてしまって、もはや本を読んで変わらなかった人生とは一体何なのかというのがわからなくなってしまっている。ドリトル先生やエルマーのぼうけんに心を踊らせ(話はさっぱり覚えていないが表紙のイラストと、彼らの物語が温かで愉快だったのは覚えている(過誤記憶かもしれない))、ファーブル昆虫記からはノンフィクションのおもしろさをしった。

司馬遼太郎作品に惚れ込んだ流れで宮城谷昌光や塩野七生の手による、過去の血なまぐさい時代の小説に没入し、指輪物語を読んでこの世にこんなにおもしろい物語があっていいのかと思い震えた。そうした一つ一つの出会いが、レールを切り替えたとまではいかずともハンマーで杭を打ち付けるように少しずつ生き方に変化を与え、最終的には逃れようがないぐらく今の人生に変革されてしまったように思う。

『人を動かす』に感銘を受ける嫌な小学生

とはいえ、明確に人生のレールが切り替わったと思った本との出会いもある。

一冊は、小学生の時に誕生日プレゼントに買ってもらったデール・カーネギーの『人を動かす』だ。なぜ小学生にして、自己啓発本をもらいたいと思ったのかわけがわからないのだが、この本との出会いは衝撃的だった。言わずと知れた本なので内容を紹介する必要があるとも思えないが、この本は人間関係について、とりわけ人を動かす方法についてデール・カーネギーが考察した一冊である。

この本の中には重要なことが書いてある。たとえば、誰もが褒められたがっているのに褒められる機会は少ない。だから、人に好かれ、動かしたければ人を褒めることだ。それも嘘をつくのではなく、心の底から相手の良いと思うところを誠実に。また、誰もが話したがっているのに聞いてもらえることは少ないから、あなたは聞き手に回るべきだ──などなど。で、僕は小学生にしてまったくその通りだと感銘を受け、以後人を本心から褒め、聞き役に回ることで相手をコントロールできることに気がついてしまった(嫌な小学生だな)。

今も僕は相手の良いところを探し、褒めるようにしている。逆に自分が褒められた場合は「この人間はこっちをコントロールしようとしているのではないか」と過剰な警戒を抱くようになった(それはどうなんだ)。ともあれ、そうした経験があったおかげで僕は"本を読むってのは使えるぞ!"とかなり早い段階で気がつくことができたのである。そういう意味でレールが変わった一冊といえるだろう。

膚の下

もう一冊は神林長平先生の『膚の下』という小説である。

神林作品の中でも代表作といえる火星三部作、その刊行順としては最後になる作品なのだが、僕はこれを読んで完全に頭がおかしくなってしまった。読んでいる最中に時間の経過が一切感じられなくなって、読み始めたときは朝だったのに、読み終えて外に目をやったらもう日が沈んでいた。そして、そのままいてもたってもいられなくなってブログ「基本読書」を立ち上げ、その興奮をそのまま書き付け更新し、移転し、10年後に至る現在までちまちまと更新し続けている。
plaza.rakuten.co.jp
今なお『膚の下』を読んだときの熱狂は自分の中に残っている。「基本読書」のおかげで、SFマガジンやHONZなど無数の媒体で文章を書くことにもなった。先日は機会があり神林先生に直接お会いして感謝を直接伝えることもできた。もし『膚の下』を読んでいなかったら──とたまに考える。文章はなんらかの切っ掛かけで書いていたのかもしれないが、今のような形では書いていなかったと思う。

あくまでも僕個人の話ではあるが、読書によって常に人生には微細な変化が加えられ、時として強烈な一撃によってレールが大きく切り替わってしまうことがあるのだ。きっと、みなそれぞれ自分の"レールが切り替わった体験談"があるだろう。

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚の下 (下)

膚の下 (下)

*1:※シミルボンに投稿した自己紹介コラムをブログ用に編集して記載しております。

『ユリシーズ』から『これはペンです』まで──『実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で』

その他のノンフィクション

実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で

実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で

この世には実験小説と呼ばれるたぐいの作品がある。実験=experimental というぐらいだから、要するに普通の小説ではない。そもそも"普通の小説"を定義するのも難しいが、まあ、登場人物がいて、ページをめくると物語が前に進んで、読める言葉で書かれていく、あたりから外れた工夫が凝らされた小説といえる。

たとえば最近再刊行もされたコルタサルの『石蹴り遊び』。この本の冒頭には読み方を指示する「指定票」がある。なぜそんなものが必要なのかというと、『石蹴り遊び』は「向こう側から」と題された一部、「こちら側から」と題された第二部、「その他もろもろの側から」と題された第三部から成り立っており、これを順番で読んでいくような構成にはなっていないのだ。指定票によると、第一の読み方は、第一部と第二部を順当に読んでいって第三部は読まない。第二の読み方は指定された順番で読むように言われ、第一章を読む前に第七三章を読まなくてはならない。

頭から最後まで読ませてくれりゃあいいのに、何故そんな面倒な読み方をしなければならないのか? と思うが、それを考えることまで含めて実験小説のおもしろさだといえるだろう(たとえばスゴ本Dainさんの記事を読むとそれがよくわかる)。
『石蹴り遊び』読書会が面白かった: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

実験する小説たちの紹介

というところで本書『実験する小説たち』の話に戻るが、これは『石蹴り遊び』のような実験小説をまとめ、分類し、必要に応じて作品からの引用をひっぱってきて"どのような実験を行っているのか"を具体的に紹介してくれる、いわば実験小説ガイドブックである。「実験小説」の定義からはじまって、現代文学の起点であるジョイス『ユリシーズ』、詩と注釈で小説に仕立て上げたナボコフ『青白い炎』などなど主に実験の種類から代表的な一冊を取り上げて詳細な解説を加えてくれるのだ。

各章の最後には類似する手法を用いた実験小説の簡単な紹介も載っており、当然ながら変な話ばかりで、これがまたそそる。実験小説大好きで読み漁ってます! という人でもない限り(そんな人あんまりいなそうだ)何らかの発見のある一冊だろう。

個人的におもしろそうだなと思った本。

僕が読んだことないのでおもしろそうだなと思ったのは、一人の男がエスカレーターに乗ってから降りるまでの数十秒間に考えたことが200ページの小説になったベイカー『中二階』。主人公が死んだところから始まる、時間が逆さまに展開し会話が「ウユ・ア・ウハ?」(ハウアーユーの逆読み)などと記述されるエイミスの『時の矢』。無について書かれた小説、マークソン『これは小説ではない』(小説だろ)あたりか。

中心で取り上げられるのがほとんど翻訳小説なのはちと寂しいが(サブガイドで筒井康隆作品などが取り上げられるけれど)、日本人作家では疑似小説執筆プログラムとして円城塔『これはペンです』が取り上げられている。円城塔さんはこの作品に関わらず、実験と小説的なおもしろさが相乗効果を発揮する稀有な傑作を無数に書いているので個人的にもオススメである(『エピローグ』『プロローグ』など)。

日本でも小説ならぬ大説として奇想天外な小説を連発した清涼院流水さんなど実験小説の書き手は大勢いるから、もし第二弾があるならば日本作家限定で書いてもらいたい気もする。とはいえ筒井康隆さんや清涼院流水さんのやったことを取り上げ始めたら一人一冊費やさないと足りないぐらいだろうが。

"新しさ"と"受け入れられる範囲"の妥協点

"新しいこと"をやろうとするのは小説を商品として捉えた場合でも当たり前のことだが、かといって商業作品として売ろうとする以上は"ただ新しいだけ"では価値がない。極端な話、「あああ」と十六万文字書かれたものを小説として売るのは新しいかもしれないが、そんなもの誰も読もうとは思わないだろう。

つまり実験小説とはただ"実験"すればいいだけではなく、ある程度以上は読者に受け入れてもらえるギリギリの逸脱を狙わなければならない。コントロール能力を必要とされるものであるといえる(趣味として書いていれば誰も欲しないものを書けるが)。実験小説ガイドといえる本書だが、各作家らのそうしたギリギリの"攻め"を分析した一冊として読んでもなかなかに楽しい。斬新ではあるけれど、評価の伴わない実験小説だって、それこそいくらでもあるわけだし。

東京創元社編集者の本語り──『ぼくのミステリ・クロニクル』

SF ミステリ

ぼくのミステリ・クロニクル

ぼくのミステリ・クロニクル

北村薫、有栖川有栖、宮部みゆきなどそうそうたる面々をデビューさせ、東京創元社で編集から社長、会長までつとめた名編集者戸川安宣さんへのインタビュー本である。幼少期から本との関わりを語っていくが、やはりおもしろくなっていくのは多数の名のしれたプレイヤーが頻出する大学入学以後だろう。僕なんかはミステリ史や東京創元社の歴史も知らなかったから(二回倒産してる事とか)、あくまでも東京創元社での出来事が中心とは言え時代の空気や流れを感じ取れるのもよかった。

戸川さんのやってきたことは今も書籍や作家たちのデビューした結果として具体的に残っているわけだし、ここで僕がことさらにその経歴を讃え上げる意味もないだろう。となるとこれ以後は「こんなエピソードが興味深かった」ぐらいしか書くことが残っていないので幾つか簡単に。まず戸川さんが1970年に入社したときの出版社の状況がおもしろい。当時勤務時間は9時5時で残業もほとんどなかったというし、初版部数も基本的には2万ときまっていたりとなかなかに牧歌的な時代である。

当時は文庫に関する捉え方も大きく違っていて、『文庫は評価の定まった作品が収録され、恒久的に手に入れることのできる廉価でハンディな容れ物』、ようは名誉の称号のようなものだったのが、だんだんアメリカ流の廉価で軽装な読み捨て本=ペーパーバックに近づいていったのだ、というのはなるほどなと。今は最初から文庫から出るし、単行本と文庫の同時刊行なんてのも珍しくはなくなったし、そうなると読者からすれば「なぜ単行本で出た作品を文庫で読むために3年も待たねばならないのか?」と不満も出る。もともとあった文庫に関する(評価が定まったら文庫として落ちるという)前提がなくなったからで、これも時代の流れでしょうね。

ありえたかもしれない別の可能性

講談社でこちらも名編集者と名高い宇山日出臣さんとの交流や(第4回本格ミステリ大賞特別賞を二人で受賞しているのだが、その時戸川さんが一旦辞退したのを宇山さんが説得したのにはほんわかさせられた)、宮部みゆきや北村薫をいかにしてデビューさせたのか、などの回想は戸川さんだからこそ/担当編集だからこそのものだ。

たとえば、宮部みゆきさんだと犬の視点のある『パーフェクト・ブルー』が最初は若い男の子の視点で書いたハードボイルド小説だったとか、淡々とした日常を描いていくうちに最後の4、50ページで実は殺人事件が密かに起きていて、それが伏線として日常描写に描かれていたと判明する話が別の編集者にボツにされたなどなど。

作家によって完成したひとつの作品の裏にはプロトタイプだったり、別の形で展開していた可能性が内包されているものだが、編集者本というのはそうした無数の可能性を堪能できるのが醍醐味だなと思う。とはいえ本書のおもしろさはそうした"編集業にまつわる興味深いエピソード"だけではなく、後半で戸川さんはミステリ専門店の運営にまで関わるようになるし、その道中も合わされば読み/編集し/書き/売りと出版のほとんどの工程に関わっているさまが描き出されていく。

SFの話題もけっこうある。

「ミステリ・クロニクル」と書名がついてはいるものの、けっこうSFの話題も出たりする。浅倉久志さんに東京創元社からも依頼を出したけれども、浅倉さんが早川に遠慮して最初は本名に近い変名でやっていたこと。東京創元社で採用を行っていたときに、京大ミス研出身の松浦正人さんと京大SF研出身の小浜徹也さん二人が候補に上がって最初は小浜さん一人を採る予定だったのが編集者が一人やめたおかげで二人採用になったことなどなど。めっぽうおもしろい話が揃っている。

そういうわけで非常に懐の深い本となっており、ミステリ・ファン外まで含めて楽しめるだろう。若干時代はズレるが、昨年は早川書房の編集者常盤新平さんのかつてのエッセイをまとめた本も出ており相乗効果でおもしろかった。

翻訳出版編集後記

翻訳出版編集後記

ニューヨークの魔物の生態を描き出すお仕事物──『魔物のためのニューヨーク案内』

ファンタジー

魔物のためのニューヨーク案内 (創元推理文庫)

魔物のためのニューヨーク案内 (創元推理文庫)

『魔物のためのニューヨーク案内』という書名からは最初どんな話なのかよくわからなかったが、実際読んでみればそのまんまであった。ヴァンパイア、ゾンビ、インキュバス、水の精、人造人間などあらゆるモンスターが跳梁跋扈するニューヨークを舞台とし、魔物専用の"ニューヨークガイドブック"をつくろうとする人間の女性のお話なのだ。ジャンルはいわばファンタジィお仕事小説である。

簡単なあらすじ

編集者のゾーイは、勤めていた会社を上司との不倫がその妻にバレたことをきっかけとして辞め、一刻も早く次の職を探さねば──と焦っているところで新進気鋭のプラチナ出版社に勤めることに。君はここではうまくやっていけないぞ……と直接的に断られながらも自分を売り出した結果(経歴は文句なしなわけだし)モンスターの住処でモンスターに対するガイドブックを作るはめになってしまったのだ。

モンスターの中にはドラゴンのように巨大な者もいるが、たいていは人間の形をとれるので表向きはそうとわからない。とはいえ人間と完全に同一かといえばそんなこともなく、ヴァンパイアは血を吸う必要があるし、ゾンビは脳を食べる必要があるし、インキュバスは誘惑し生気を吸うしで、根本的に人間に害をなす存在である。ゾーイはいわば餌も同然、それも人間は彼女だけなのだから当然うまくいくはずもなく、あちこちで問題を巻き起こして/巻きこまれていく。

魔物たちの精緻な生態

モンスターへのガイドブックをつくらなければいけない(ゾーイは希少な編集経験者なので、いきなり編集長だ)というのは設定的にうまくて、ニューヨークのあちこちへと出かけていって、モンスターたちの特性を把握する動機として都合よく機能している。たとえばゾンビは皮膚がはがれるのを嫌って握手を嫌うが、ヴァンパイアは好む。ヴァンパイアには血を吸うもの、生きる意欲を吸うもの、などなど種類がいて──とこの世界のモンスターの生体を輪郭豊かに描き出してみせるのだ。

下記は面接のシーン。この世界にはドラゴンだろうが神だろうがだいたいなんでもいることがコメディタッチで描かれてる(かなり思い切っているよなあ)。

 面接にやってきたのは、疥癬悪霊、二流どころの北欧の神(エイルと言って、治癒の女神だとモルゲンが教えてくれた)、それにバーティという名のウィルム(ヨーロッパのドラゴン)。バーティはまだ赤ん坊のドラゴンで、自分は"たったの"二百歳だと言った。知識旺盛なドラゴンで、とことん町を食い尽くしたいと思っている。しばらくのあいだなら人間の姿でいることもできると彼は言い、「ほんとうに重要なとき」には、ドラゴンであることをほぼ隠し通せると請け合った。
「ほぼ」というのが気になる。

同僚のインキュバスはやたらとゾーイを狙ってくるし、インキュバスのターゲットを変更させるために一緒にモンスター御用達のSMクラブへといってみれば、まんまと誘惑に引っかかりセックス一歩手前までいってしまう(描写はかなりエロい)。などなど、エッチだったりコメディだったりでゆるい雰囲気のままお仕事小説としてまとめあげるのかと思いきや、実は後半から雰囲気が大きく変わってくる。

意外と規模の大きな話に。

何しろゾンビによる人間襲撃事件を発端として、ニューヨークに迫る大きな危機が明らかになると、過去の因縁も絡まってきてただの人間であるゾーイがニューヨークを守るための一大決戦へと巻き込まれてしまうのだ。巨大なゴーレムやゾンビの大群らとの戦いはお仕事小説の影も形もなくなっており、大丈夫かと心配になるが、これはこれで魔物大戦の様相を呈しており派手/無茶苦茶でおもしろい。

後半のイメージとしては『血界戦線』に近づいていく感じか(『血界戦線』は異界と人界とが交差してニューヨークが超常日常・超常犯罪が頻発する異常地帯となっている世界の漫画で魔物/能力者が大量に出てくる)。特に後半部の規模のデカさについていくらか疑問は覚えはするものの、人造人間からヴァンパイアまで"魔物"が街に住んでいるなどという無茶を持ち込むのであれば、そりゃあこれぐらいはやってくれないとねと最後には納得してしまった。

おわりに

各章の終わりに刊行された『ニューヨークよろよろ歩き』からの抜粋が載せられていて、これがまたユーモアにあふれていてよい。宿泊施設の探し方、空港はどこがいいか、ヴァンパイアは血液をどこで入手したらいいのか(ひとつの選択肢として、赤十字社にいけば消費期限切れの血液が手に入る)──魔物のためのひとつひとつのお役立ち情報が人間とは大きく異なるので、本書一冊の中には人間の街と魔物の街という、ニューヨークに関する二つの異なるレイヤーが収められているのだ。

ほんわかコメディファンタジィであると同時に派手なアクションも味わえる、よく言えば一粒で二度おいしい作品なので好きそうな人はどうぞ。

古典ディストピアSF三冊+SFマガジン最新号を紹介する

SF

最近『動物農場』、『すばらしい新世界』がそれぞれ山形浩生訳、大森望訳で新訳、『破壊された男』は伊藤典夫訳そのままに文庫化され、この機会に一気に読んだ。この三冊の刊行は虐殺器官の映画公開に合わせたディストピアSF企画の一環だが、どれも今読んでおもしろいし作風もそれぞれ異なるのでまとめて紹介してみよう。

動物農場

動物農場〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

動物農場〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

オーウェルの代表作の一つ。この三冊の中では、訳者あとがきや序文を入れても200ページちょっとでページ数が一番短い。薄い本が好きだからこれは嬉しい。

中身も可愛らしい(かどうかはともかくとして)動物たちが人間たちに対し蜂起し、すべての動物は平等であるという理想を実現した「動物農場」を設立。ところが次第に一部の動物たちの中で富/権力の独占がはじまっていく──という感じで、起こっているのは現実のソ連を思い起こさせる陰鬱な事象ながらも、真剣に議論しているのがブタとか犬とか猫なので童話チックになっており笑いながら読める。

まもなくみんな、仕事があるときに限ってネコが決して見つからないのに気がつきました。何時間も姿を消して、食事時とか、仕事が終わった晩になると何事もなかったようにまた姿を見せるのでした。でもいつも実にもっともらしい口実を述べたし、実に愛らしくのどを鳴らしてみせるので、その善意は信用せざるを得ませんでした。

とまあ、大変読みやすくおもしろいものの、人が権力を奪いあった時に出現する普遍的に存在する傾向/理屈を見事に描き出している。いうまでもないが、無数の解釈を可能とする力のある作品だ。あと訳が山形浩生さんなのもあって訳者あとがきが充実しているのもいい。それは『すばらしい新世界』の大森望さんも同じだが*1

すばらしい新世界

すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

『動物農場』は寓話的なので今読んでもまったく問題なく楽しめる。一方でこの『すばらしき新世界』も同様に今読んでもおもしろいが、それは寓話的だからではなく本書で構築されている世界観/テーマが当時(1932年)にして既に完成されていたからだろう(その先の道や、別パターンなどは現代でも無数に生まれているが)。

表紙が真っ白なのは作中で言及とテーマ的な関係性のある伊藤計劃『ハーモニー』の流れかな*2。物語の時代はフォード紀元632年、西暦だと2540年。人々はみな人工受精で瓶から産まれ、そこで階級が決定されその後の人生をおくることになる。大衆に対して、自然を愛することは生産に対する需要を喚起しないから自然を嫌うよう条件づけをするなど、徹底した性能コントロールが行われている嫌な社会だ。

とはいえそこで暮らす人々は主観的には幸せで、仮に嫌なことがあっても多幸感をもたらす副作用のないソーマを用いることで容易く打ち消してしまえる。何か嫌なことがあったと愚痴れば「ああそうなの? ソーマ飲めば?」と返ってくるのがお決まりだ(全体的にノリが軽い)。そのおかげで『1984』とかと比べてもずいぶん雰囲気は明るくて、訳者の大森さんもあらためて読んですばらしく笑えるじゃないですかと感想を書いているが、たしかに笑える箇所が随分ある。

たとえばこの世界ではみな瓶から生まれるので「親」という概念がとても恥ずかしいものに思えるらしく、親について説明させられるとモジモジしてしまう。その様は現代とのギャップを明確に感じさせて、コメディ的に読めるだろう。

「簡単に言えば」と所長がまとめた。「親とは"父"と"母"だ」実際は科学用語だが、猥褻な響きを持つその言葉に、生徒たちは強い衝撃を受け(ガーン)所長から目をそらした。「"父"と"母"」所長は、科学について解説しているのだから一点も恥じるところはないと言わんばかりに声高にくりかえすと、椅子の背にもたれて、「たしかに不愉快な事実だよ」とむっつり言った。「しかし、歴史的事実とは、たいていの場合、不愉快なものだからね」

最初はこの世界そのものが作品の主人公のようなものだが、次第にこの世界で違和感/孤独感を感じるバーナード君に焦点があたるようになり、その後はこの社会の外からきた"野人"を主人公とし「誰もが強制的に幸せにされる世界では、不幸になる/不都合を得る権利の価値が高まるのでは」というテーマが持ち上がってくる。ディストピア/ユートピア物の古典と言われるだけのことはある強さのある作品だ。

破壊された男

破壊された男 (ハヤカワ文庫SF)

破壊された男 (ハヤカワ文庫SF)

『虎よ、虎よ!』で知られるベスターの長篇。他二作と比べるとPSYCHO-PASS系の文脈の作品でディストピア性は落ちるが、おもしろい。社会にはエスパーが生まれるようになり、彼らによって誰もが精神を読み取られてしまうため世界は実質的な監視社会化にある。エスパーがそこら中をパトロールし、70年間一度も計画殺人が行われていない状況下で、あえて"殺人"を行おうとする巨大企業の社長を描く。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
それはただの殺害ではなく、殺人を許容しない社会との壮絶なる戦争なのだ──と社長が宣言するところはめちゃくちゃ燃え上がってくるが、そのへんの詳しいところは昨日上記の記事で書いてしまったのでそっちを読んでもらいたい。

SFマガジン 2017年 02 月号

SFマガジン 2017年 02 月号 [雑誌]

SFマガジン 2017年 02 月号 [雑誌]

最後にSFマガジンの最新号を紹介。ディストピアSF特集になります。

『虐殺器官』で声優を務める中村悠一さんと櫻井孝宏へのインタビュー。監督の村瀬修功さんへのインタビュー。ディストピアSFメディア別ガイドに評論各種などいろいろ揃ってます。僕はディストピアSFメディア別ガイドで小説を『1984』から『ボラード病』まで13作品担当しているので(書くの大変だったねん……)読んでね。映画もゲームも揃っているという、なかなかに網羅性の高いガイドである。

*1:このあたりの人たちの訳者あとがきはあとがきというよりかは解説としての役割を担っていて、「訳者あとがき」の水準を異常に引き上げているよなと思ったりもする。

*2:チョロいから真っ白な表紙だとそれだけで格好いいと思ってしまう