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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

天才が天才について描いた映画監督漫画──『映画大好きポンポさん』

www.pixiv.net
傑作である。

非常にシンプルで洗練された作品であり、何よりも"フリーで"公開されている漫画作品なので、(あと僕にあまり漫画を語るスキルがないし)長々と紹介するのはやめておこう。一度でも読み始めたら最後、最初の一コマから最後の一コマまで無駄なく洗練された台詞回しと演出にぐっと掴まれ最後まで読みきらずにはいられないだろう。

表紙の「イカちゃんかな?」みたいなデフォルメされたキャラクタからはシリアスな物語が展開するとはとても思えないが、凄腕映画プロデューサーのポンポさんを筆頭として魅力的な"天才"たち──一瞬で別人に変貌してみせる、演技に関して天性の才能を発揮する天才俳優、映画のこと以外考えられない、それ以外の能力はまったくもって存在しない目が濁っている天才映画監督、本物の才能を見つけて、適切なタイミングで適切なお題を与えることができる天才プロデューサー──そのすべてが集まって、映画の歴史に残る、素晴らしい映画を一本残す、ただそれだけの漫画である。

台詞回しには一つ一つ意味とその後の展開を予兆させる伏線の情報量がこめられ、推測させるべき箇所は台詞まで落とし込まず背景や表情で演技させ、僅か136ページで完結するコマ割りとプロットには一切のムダがない。最初は買い出しなどの雑用しか任せてもらえないまだ見習いのプロデューサ手伝いであるジーン・フィニ、芋臭くバイトしかしていないナタリー・ウッドワード、その両名がポンポさんに見出され、彼らのための脚本を与えられ、いっぱしの映画監督と俳優として成長していく。

その凄まじいテンポの良さから「都合が良すぎる」と思う人もいるかもしれない。が、それは極少数派だろう。なぜならこれは天才による天才たちの物語であり、天才プロデューサーが見出した、映画を作るしか能がない天才監督と、映画に見出された最高の俳優の物語なので"成功するのは必然"としかいえないのだ。映画しか頭のなかに入っていない天才監督(このときはまだ見習いのお手伝いさん)に対して、ポンポさんはこういってのける。『心の中に蠢く社会と切り離された精神世界の広さと深さこそが その人のクリエイターとしての潜在能力の大きさだと私は確信しているの』


『現実から逃げた人間は自分の中に自分だけの世界を作る まさに創造的精神活動!』まあ、僕は現実から逃げない人間がつくった作品はそれはそれで現実から逃げてしまう人間の作品とは違う味があって好きなのだが、これは彼にやる気をださせるための"プロデューサー"ポンポさんの台詞なのでそれでいい。これは要するに、ジーン・フィニの物語であり、彼がつくる映画の物語なのだから。そんでもってもちろん僕は最初の一コマから最後の一コマまで十全に楽しんだのだが、あまりに美しいのはそのラスト1ページであって、ここで完全に評価が爆上がりしてしまった。

まさかそうくるとは、という驚愕と、でもそれしかありえないという深い納得が僅か136ページの中に凝縮されている。これについて書かなければブログをやっている意味がない! というぐらいにドハマリしてしまったのでガッと勢いで書いてしまったが、最初に書いたようにすぐスマホでもパソコンでも仕事中でも学校でも読めると思うので、ほんの1時間ぐらい何かをサボって読んでもらいたい。

世にも珍しいキノコ小説アンソロジー──『FUNGI-菌類小説選集 第Iコロニー』

FUNGI-菌類小説選集 第Iコロニー(ele-king books)

FUNGI-菌類小説選集 第Iコロニー(ele-king books)

  • 作者: オリン・グレイ,シルヴィア・モレーノ=ガルシア,飯沢耕太郎,野村芳夫
  • 出版社/メーカー: Pヴァイン
  • 発売日: 2017/03/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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世にも珍しいキノコ小説アンソロジー集である。収録作にはスチームパンクあり、現代物あり、ホラー/怪奇小説あり、ゾンビいくつもあり、異世界転生風ファンタジィあり、となんでもござれで愉しい作品が揃っている。ちなみに目次を見比ると、原書では1巻本のところを、邦訳版は2分冊している。だから第Iコロニーなのだ。

それにしてもなぜキノコ小説アンソロジーなんてものが作られねばならないのか? そもそも寄稿者がよくもこれだけ(第Iコロニーだけで11人)集まったものだなと菌類に対する特別な興味も愛情も持っていない僕は(食べるのは好きだけど)疑問に思ったが、世の中にはきのこを愛する人達はけっこういるようである。本書の編者も当然ながらそうした菌類愛好者たちである。序文を一部引用しよう。

 当然ながら疑問は、"なぜ菌類のアンソロジーをまとめるのか?"に向けられる。その一番手っ取り早い答は、わたしたち編者の知る限り、かつて誰も編纂しなかったからだ。怪奇小説の歴史には、菌糸体のように細くとも容易に切れない糸が通っている。この菌糸はウィリアム・ホープ・ホジスンの海洋恐怖小説、なかんずくキノコ恐怖小説の決定打「夜の声」の朽ちかけた廃船や海藻ひしめく海域にしっかりと根づいたのである。それは歳月を経てハワード・フィリップス・ラヴクラフト、レイ・ブラッドベリ、スティーブン・キング、ブライアン・ラムリーといった作家から、本アンソロジーに作品を収録した書き手に至るまで、子実体、すなわちキノコの豊かなみのりをもたらした。

執筆陣にはSF界隈ではよく名の知られたラヴィ・ティドハーやジェフ・ヴァンダミアの名前も執筆陣にはあり、それ以外の書き手も怪奇小説家からファンタジィを得意とする人まで、気鋭の作家が揃っている。しかも訳者の方も指摘しているが、素晴らしいことに、執筆者はみなそれぞれ菌類に対する愛があるように読めて、おざなりにキノコ要素を小説に入れておきました、みたいな作品はまったくない。

それでは全11篇を簡単に紹介してみよう。

菌糸/ジョン・ランガン

トップバッターに相応しい、オーソドックスなキノコ怪奇短篇。父親の様子が徐々におかしくなり、息子がその様子を探りに地下室へと降りていくとそこには──。人間であったものが変質してゆく、生々しい描写が見事である。

白い手/ラヴィ・ティドハー

菌類が強い勢力を誇って世界に広がっている状況を歴史語りとして書いた菌類史。非感覚菌類、感覚菌類、菌類神話、菌紀元945年の人類−菌類協定 など読んだだけで強烈に惹きつけられるワードと与太話が連続していく。本作の中では特に好きな一篇

甘きトリュフの娘/カミール・アレクサ

アミガサタケ、シイタケ、クリミニ博士が試験運用中の生体潜水装置に乗り込んで少探検をはじめたら、予想外の事態が起こって──という海洋冒険譚。読み進めていくうちに潜水装置のキノコ的な機構や世界の特殊性が顕になっていくのがおもしろい。

咲き残りのサルビア/アンドルー・ペン・ロマイン

キノコ短篇にして西部劇。菌類の賞金稼ぎである越境者(ビヨンダー)や肺の中に小さな虫が生じる"煙霧肺"、魔法など特殊な設定がいくつも出てきてアクションもおもしろいがなぜキノコで西部劇をやろうと思ったのかと強烈な違和感が残る作品である。

パルテンの巡礼者/クリストファー・ライス

特殊なキノコを食べてトリップすると異世界に飛んでしまう。はまり込んだカップルが異世界に入り浸るようになって──というキノコ版異世界転生みたいな話である。

真夜中のマッシュランプ/W・H・パグマイア

こっちもきのこの幻覚を産む性質を利用した一篇。まったくの異世界にトリップするのではなく、現実と幻想が入り混じっていく怪奇/ゴシック短篇である。

ラウル・クム(知られざる恐怖)/スティーヴ・バーマン

ここではじめてゾンビ要素が出現する。ノンフィクション調でメキシコ南部の密林で発生した、人に寄生してゾンビ化させる菌類の存在が語られる。

屍口と胞子鼻/ジェフ・ヴァンダミア

菌に支配されているっぽい世界でのハードボイルド探偵譚。何かを調査するわけではなく、死にかけているキノコ男と探偵との短い邂逅を描く。わずかに描かれる世界観が抜群に魅力的な短篇(ショートショートぐらいの短さだけど)である。

山羊嫁/リチャード・ガヴィン

そうと意識する間もなく徐々に菌類におかされ、旧弊な価値観や迷信が支配する価値観などが相まって悲惨なことになっていく村を描く。良い怪奇小説。

タビー・マクマンガス、真菌デブっちょ/モリー・タンザー&ジェシー・ブリントン

ネコやネズミなどが喋り、国家をつくっている世界で、意匠陰毛細工師のネコであるタビー・マクマンガスを中心に描く。菌類要素だけでもよくわからないのにネコ宮廷とか意匠細毛細工師とかわけのわからない要素が山盛りにされた一品。

野生のキノコ/ジェーン・ヘルテンシュタイン

チェコからアメリカに移民としてやってきた娘が語るキノコ狩りと父親の話。チェコにはキノコ狩りの風習があるらしく、それがこの家族がキノコに取り憑かれていく展開に密接に関係していくわけであるが、絡め方が見事。

おわりに

一通り読み終えてみると菌類小説の特徴が見えてくる。匂いの描写が多かったりやけに印象に残ったり、小説家に人気のキノコが判明したり、ゾンビとの相性が良かったり、幻覚/幸福感、自分/他者が変質していくことへの恐怖──などなど。

どういう人が買いたいと思うのかよくわからないが、キノコ小説に興味がある人はマストバイだろう(そりゃそうだ)。あ、あと読まなくても買っても良いと思うぐらいに装丁が抜群にカッコいいのは素晴らしい点。第Ⅱコロニーが楽しみだ。

最後の一秒まで楽しかった──『けものフレンズ』

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

全12話、たいへんおもしろいアニメだった。

それだけでなく、わけがわからんぐらい物凄い話題になった。なぜこんなに物凄い話題になったのか、というのは運も絡むところであるし、「これだ!」と原因を言い切っても仕方がないが、少なくともつまらなければこの結果はなかっただろう。

全体的に予算があるとは言い難い。動くはずのところが動かない、アクションがあまりにショボい、など幾つもの要素が"安い"が、明確なコンセプト、洗練されたキャラデザ、細かな感情や空気感の伝わってくる脚本/動物たちの仕草、"安く"とも"目指す志"の伝わってくる絵作り/構成などいくつものプラスの要素があった。その結果としていくつかのマイナス要素があろうとも、視聴者の側でそのマイナスを補完しようと思って画面をみれば"理想"が伝わってくる内容に仕上がっていたと思う。

個人的には、最初は"通常のアニメっぽくないところがおもしろいな"と思っていた。ドキュメンタリー映像のような背景(自然)の映し方をするし、1話の初っ端からわけのわからん主観視点の狩りごっこをするし、突然(騙されて声を録音されたとしか思えない)動物園の人の動物紹介が入る。2話ではせっかくの3Dモデルがほとんど動かない(というか動かせないのだろう)、苦労して目標を達成した後にその目標を達成する必要あった!? という超展開(サーバルジャンプ)まで発生する。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
製作会社のヤオヨロズは『てさぐれ』『みならいディーバ』などの声優にアドリブで演技させた内容を3Dキャラクタで動かしてアニメにしていく作品が代表的で(ヤオヨロズの特徴ではなく監督の石ダテさんの特徴だったわけだが)、最初「通常のアニメをほとんど作ったことがないから、普通アニメでやらないことばかりやるんだろうな」「でもそれがおもしろいな」と愉快に眺めていたが、2話は"何かこれまで観たことがないものを観せられている"という感覚に切り替わっていくタイミングだった。

その後はもう一話完結でそれぞれ大きくテイストの異なる脚本を愉しみながら、廃墟と自然が入り交じった終末感漂う風景/世界観にのめりこみ、新しく出会うフレンズたちの個性、魅力的なキャラデザに惚れ込んで──とドハマリするまであっという間だった。12話は、最後の1秒まで全力で楽しませようとする絵と音楽に満ちていて、特に最後もう放送時間が完全に終わる──その瞬間にオープニングの音楽がかかった時に"物語はまだまだここから続くんだ"という意志を感じて胸が熱くなった。最後の瞬間までどころか、終わった後の"期待"まで含めて楽しませてくれたアニメだった。

Vコンは作品を成功に導くか

いくつものインタビューで監督であるたつきさんの超人的ながんばりであるとか、こだわりであるとかが表に出てきているけれども、中でもシリーズ構成の後にVコンを作った、という情報が興味深かった。
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──放送された第11話まで、コンテと演出はすべてたつき監督が担当していますが、どのような工程で制作されているのですか?
福原 一般的に手描きアニメだと、シリーズ構成(各話ごとの大まかな展開など作品全体の流れ)を決めた後、各話の脚本を作って。脚本を元に絵コンテを作ります。でも、「けものフレンズ」では、シリーズ構成の次がVコン(ビデオコンテ)になるんです。たつき君が全話のVコンを作って。そこからセリフの内容を詰めて、脚本を作る形ですね。

思えば『君の名は。』の新海監督もVコンテ(登場人物全員の台詞、足音まで全部自分でいったん入れたもの)を作って製作に望んでいるし、『シン・ゴジラ』も製作に先行してプリヴィズ(動く絵コンテ)をつくっているしと考えると「ヒットしたければVコンテをつくれ!!」結論づけてしまいそうになるが、まあそう簡単な話ではない。

昔からある手法だし(類似だとリーン・スタートアップとか、ゲームだとゼルダもそう)。Vコンテ段階で作り込んでいける作家性のある人間が必要とされる面もあるし、そもそもコストに対してメリットが少ないパターン(Vコンまでつくらなくても完成形が予測しやすい場合など)もあるなどいろいろあるけれども、"つくってみたけどぜんぜんつまんなかったです!!"という時の軌道修正がしやすいのは確かだろう。

うまい結論が特に思いつかなかったけれども、アニメ3D、実写、脚本をつくりこんでからVコンテをつくるのか絵を作り込んでから脚本をつくるのかなどやり方も無数にあるし、こうした成功事例から色んなことが積み重なっていって、たくさんおもしろい作品が楽しめたらいいなってところで。

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

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バラード×キング×ラヴクラフト──『時間のないホテル』

時間のないホテル (創元海外SF叢書)

時間のないホテル (創元海外SF叢書)

二作目でこんなの書いちゃってどーすんの

本書は本邦初紹介のイギリス作家、ウィル・ワイルズの二作目の作品にあたる。つまりそのキャリアにおける初期の作品ということになるが、これが、バラードからキングまで傑作揃いのホテル物、建築物の作品にひけをとらないぐらいにおもしろい。

ホテルについてさまざまな角度──建築的視点、客の視点、運営側の視点、それらを総括する社会学的な視点の描写からしてもう抜群におもしろく、謎が謎を呼び恐怖と好奇心を喚起するストーリーテーリングの手腕はキングを引き合いに出すのも納得という程に洗練されている。二作目でこんなん書いてどーすんだ! って感じだ。

簡単なあらすじとか

『時間のないホテル』と、書名にあるように基本的にはホテルの話である。

主人公のニール・ダブルは珍しい職業といえるイベント代行業者であり、その関係上ホテルに泊まることが多いのだ。これがどんな職業なのかといえば、ようはどんな職業でもパーティ的なイベント、コンベンションというものがそこら中にあるわけだが、わざわざ移動して話を聞いて、さらには酒を飲んで交流して名刺を渡すというのはなんとも大変である。あるいは、大変でなかったとしても時間の無駄である。

でも、もちろん交流も情報収集も大事だ。そこでイベント参加代行者が現れる。その人物に依頼をすれば、依頼を受けた人間は情報をせっせと集めてレポートにまとめてくれるし、名刺を預ければ自分の代わりに交流までしてくれるのである。その上、そうした代行を何十人分も同時に請け負うので、費用も格段に安く済む──。参加者が多いほど好ましいイベント開催者以外はウィンーウィンの関係といえるだろう。

そうやっていつものようにイベントを代行するために現地に向かい、ホテルにチェックインしたニール・ダブルに不可思議な出会いが訪れる。彼がバー架けられた絵の写真を撮る赤毛の女性に「なぜ壁の絵を写真に撮っているんですか」と話しかけたところ、彼が宿泊するウェイ・イン・ホテルに存在する不思議の話が語られるのだ。

なんでもウェイ・インのホテルには各部屋に、それぞれ固有の、印刷ではない抽象画が割り当てられている。しかしウェイ・イン・ホテルはチェーンのため世界に500軒以上あり、部屋は100を超えていることを考えると、少なくとも絵の総数は10万枚を超えると予想できる。それだけの抽象画を、どうやって集めているのか? それ以前の問題として、なぜ彼女はその絵の写真を撮って回らなければならないのか?

彼女曰く絵は工業製品であり、これを理解したいのであれば全体像を把握しなければならない──として、ホテルと女性の謎を追うのが第一部(全三部作)である。その部分だけ読むと「創元海外SF叢書から出ているのにSFじゃないやんけ!」と思ってしまうが、物語は第二部に至り、彼が眠れぬ夜を過ごすためホテル内を考え事をしながら闊歩する時にこのホテルに潜む異常性/不条理の一端が明らかになる。

ホテル、その特性を異界として抉り出す

なぜなら彼がホテルを歩き続け、無作為に曲がっても終点につく気配がない。喋り声も少なくなり、ドアの外にある配膳も姿を消していく。何かがおかしい、と思い進んでいくが、方向感覚は完全に消失し、進む道順的に本来なら数字が減っていくはずの部屋番号がなぜか増えていたりする。いったいここで何が起こっているのか?

本書が抜群におもしろいのは、普通のホテルが持っている特性が、こうしたウェイ・イン・ホテルの異常性にそのまま接続されているところにある。著者は建築関係のライターとしての仕事もこなしているというが、その経歴を活かすようにしてホテルについての言及がさまざまな場面で行われ、それがプロットに結びついていくのだ。

「ホテルにチェックインした客は、ただちに一定の行動パターンにはまってしまう。そしてそのあとは、同じことをくり返すだけになる。部屋を出たかれらは、まっすぐエレベーターや階段に向かう。なぜなら、逆の方向に行く理由がまったくないからだ。行ってみたところで、いったいなにがある? ドアを閉ざした客室がつづき、あとは非常口があるくらい、こうしてホテルのほかの部分は、存在しないも同然となっていく」

「ホテルのデザインというのは、外観も内部のレイアウトも、最初からある程度決まっている。わたしが建築場所を選定し、だいたいの規模と部屋数を推奨すれば、あとは既成の設計パターンのなかから適当なものを選ぶだけで工事がはじまる。その国の法規に従って、看板の大きさや正面部分の色を微調整することはあるかもしれない。だけどそれ以外は、どのホテルも判で押したように似かよっている」

画一化した行動をとる客、画一化された外観/内部構造の設計、客には一切気づかれずに絶対に開かないドアをつくることのできるホテルの構造。無数に存在する特性を活かして、ある種の"異界"と化されたホテル。その異常性に気が付いたのが、ニール・ダブルや絵画を追う女性のような"特別な事情でもってホテルに泊まり続ける客"であったのは必然であった──というプロットの流れは、非常に美しい。

意味もなくホテルに泊まりに行きたくなる小説

ニール・ダブル君はまた、ただの職業的な義務感からではなく、幼き頃からホテルに泊まることに特別な魅力を感じ続けてきた人間でもあるので、その語りにはホテルへの愛情と批評性が詰め込まれている。『ぼくは、ホテルの客室で目を覚ますのが大好きだ。たしかにホテルの客室なんか、どこへ行っても似たようなものであろう。しかし、人びとをげんなりさせるその画一性に、ぼくは逆に大きな喜びを感じる。』

こうした魅力的な語りが連続するおかげで、読み終えたときにはついつい読み終えた時にはホテルに泊まりたくなってしまった。後半の展開も含めて、ここで描かれていくホテルの魅力も、またその恐怖も、現実から地続きのものなのである。

おわりに

果たして、ホテルはどのような状態になっているのだろうか? 時間のないホテルとはどういう意味なのか? 著者は本作のことを『J・G・バラードが書き直した『シャイニング』』と言い表しているようだが、まさにバラードの建築への向き合い方を踏襲しながら、不可思議な謎が恐怖と好奇心と共に物語を牽引し、謎の多くが明らかになったあとはまた別種の展開をみせ(解説の若島正さんもラヴクラフトなど無数の作品を挙げながら本書を評している)、と一冊で二度も三度も美味しい作品である。
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東京創元社から先日出たばかりの G・ウィロー・ウィルソンの本邦初紹介作品である『無限の書』も大層よいできだったし、新しく翻訳紹介される作家らの作品がどれもおもしろくて最近ほくほくしている。

廃棄指定済みのコロニー、息苦しさの中で生きる狂人達──『屈折する星屑』

屈折する星屑 (ハヤカワ文庫JA)

屈折する星屑 (ハヤカワ文庫JA)

江波光則さんによる『我もまたアルカディアにあり』に続く、早川から刊行される文庫の二冊目になる(話にまったく関連性はない独立したもの)。これがまあ、濃縮還元江波光則みたいな感じですごくファンにはおもしろい。以下簡単に紹介してみよう。

簡単なあらすじとか世界観とか

物語の舞台は火星と木星の中間地点に浮かぶ廃棄指定済みの円柱型コロニー。コロニーにはなぜか資金があり、住人らはあまり働かなくとも生きていけるし、頑張って働いてもたいした利益は得られない。ジリジリと人口は減少しつつあり、進歩もなければ大きな変化もなく、いずれダメになるだろうという予感を抱えながら生きている。

そんな中、特に若者は、当然のごとくその鬱屈した生の向け先に困っている。何をすることも意味のない倦怠感。その結果として生まれたのが、ホバーバイクにまたがって人工太陽めがけて疾走し、煽ってくる相手を蹴散らしながら熱を持たない人工太陽にハイタッチする(時折そのまま人工太陽に激突して死ぬ)退廃的な遊びである。

頭上を見上げれば大地があり、眼下を見下ろせば地面がある。
金属の円筒に閉じ込められた内側の閉鎖空間で、俺たちは息苦しく生きている。
成層圏を飛ぶと同時に垂直降下を繰り返す。飛び上がり飛び降りる。
俺たちは死ぬまで自殺未遂を繰り返す。
死ぬまでだ。

語りの主である主人公ヘイウッド君は、この息苦しいコロニーで、それでもなんとか生きていくため、こうしてギリギリのところまで"死"に接近するフライトを繰り返している。仲間たちが何人もいるけれども、冒頭の一文が『俺たちはもちろん正気だなどと自惚れていない』で始まる様に、彼らは皆どこか狂ってしまっている。

ちなみにヘイウッド君の名前はデヴィッド・ボウイからとられているのだろう。僕は最近デヴィッド・ボウイがミュージシャンであることを知ったぐらいなので、彼についてはなんにも知らないに等しいのだが、本書の書名(と幾らかの世界観)も五作目のアルバムである『ジキー・スターダスト』からの引用っぽい(当初邦題が「屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群」だったようだ)。

乾いた鬱屈

話を戻すと、ヘイウッドの恋人であるキャットの存在や、火星から戦争を嫌って亡命してきた元軍人のジャクリーンの登場、人口減少の続くコロニー、千年生き、地球から来たと自称するアンクルアーサー、見捨てられた場所に迫りつつある"戦争"の足音など複数の条件が重なって、ただでさえ鬱屈度1000%みたいな状態から始まる物語なのに、終わる頃には鬱屈度2万%ぐらいまで急降下/急上昇していってしまう。

江波光則という作家が描く物語は、その舞台が現代だろうが遠未来だろうが近未来だろうが大抵人々は鬱屈しており、世界は暗く、人間関係は良いとはいえない状況から始まるのだが、同時にあまりジメッとしておらず、乾いた鬱屈がある。そうした指向は、ディストピアSFやこうした息苦しいコロニーを描くには抜群に合う。

その全てが合わさったような本作は、もうどのページを開いても鬱屈した人の思い、息苦しい情景、そこからなんとかして抜け出したいと足掻く、乾いた情熱/熱量に溢れていて、THE・江波光則みたいな一冊に仕上がっている。

取り残されていく寂寥感

 もし仮に、歳と共に消えていくのではなく、残り続け燻り続け、それでもみんな大人になると共に背負うものができてしまって「妥協」しているだけだとしたら。飛びたいのに飛べないのだ。太陽に近づき飛び込んで死にたかったのに、死ねない。挙句地上でくだらないしようもない死に方で死んだりもするのだとしたら。
俺が思うに、そんな人生はただの地獄でしかない。

これはヘイウッド君の独白である。若い、若いねーと思うけれども実際問題少年なのだから若いのだ。最初は彼の周囲にも、彼と同じように考えている人間が多くいる。しかし時が経つにつれて、一緒に「降りる予定はねえよ」と笑い、狂って太陽に突撃していた仲間たちもだんだんと、子供が産まれた、薬をやりすぎた、あるいは突然バカバカしくなった──いくつもの真っ当な理由をあげて、彼の前から消えていく。

そうやって一人一人見送るうちに、気がついたら日が暮れて一人公園に取り残された子供のように愕然としてしまっている。この物語に通底するのはそうした"取り残されていく者の寂寥感"、そしてそんな中でヘイウッド君は"いったいどこまでいけるんだ"という狂気──その行末への期待感である。果たしてヘイウッド君はいつしか正気に返ってしまうのか。はたまた、狂気とも正気ともつかない第三の道があるのか。

後半、とある事情によって極度に荒廃していくコロニー、その風景と、取り残されていく彼の心情がシンクロする。彼がもたらす最後の帰結は、極度に鬱屈しながらも同時に爽快感の残る、素晴らしいものだ。

おわりに

『我もまたアルカディアにあり』とあわせて、江波光則入門的に渡したい一冊である(入門篇にちょうどいいというよりかは、あまりに色が濃いこの二冊がダメだったら他のもダメだろうなという試験紙的な意味で)。余談だけど最初設定から雰囲気まで森博嗣『スカイ・クロラ』やんけ! と大興奮だったけど終わってみればぜんぜん違う方向へと舵が切られていてこれはこれでたいへん満足でした。
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ファンにはたまらん一冊──『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

これまで村上春樹さんが訳してきた本をひとつひとつ取り上げながら(概ね70冊ぐらいかな)、本人が簡単なコメントを残していくスタイルで構成された一冊である。

簡単なといっても多いものだと800文字、少なくてもだいたい400字ぐらいはあり、そのほとんどが当時の思い出話であったり、著者と交流した際の思い出話であったり書評のような文章でなかなかに読み応えがある。僕はけっこう春樹翻訳を読んできたと思うけれども、「おお、こんなのが出てたんだなあ」と意外な一冊もあったりして、こうやってまとまってくれると拾いこぼしを防げるので大変ありがたい。

村上春樹翻訳で記憶に強く残っているのはレイモンド・カーヴァー関連の本(の中でも個人的には大聖堂)、ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』、サリンジャーだとキャッチャーよりかは『フラニーとズーイ』、レイモンド・チャンドラーなら『ロング・グッド・バイ』で、代表的なところが多いか*1。マーセル・セローの『極北』やダーグ・ソールスターの『Novel 11,Book 18』のような村上春樹さんが自分で"発見"しておもしろすぎて訳してしまった系のものは例外なくアタリだったので記憶に残っている。特に極北はよくぞ訳してくれたものだと感動したものだ。

あとは翻訳企画ではおなじみの、柴田元幸さんとの対談も載っている。失礼ながらこの二人しょっちゅう話しているイメージがあるので、新しい話題があるのかなと思っていたのだが、少なくとも僕は読んだことがない話が多くておもしろかった。

村上さんの翻訳を柴田さんがチェックしていた時の話が多いか。個人的におもしろかったのは、その柴田チェックを早川書房から出ている物にはしたことがなくて、理由は早川書房は翻訳慣れしているから、編集部内でチェックしてくれるのだという話。早川の翻訳編集の方が文章を一文一文原書と突き合わせてチェックをしているのは聞いたことがあって、その際に「海外翻訳の編集者って滅茶苦茶大変なんだな〜〜〜」と恐れ慄いていたから、普通はそんなにしないのかと驚いたのであった。

とまあ、そんな感じの本です。おもしろかった。

*1:フラニーとズーイはほんとよかったな。チャンドラーもちょっとびっくりするぐらいに村上春樹訳がよかった記憶がある。

極端な危険と利益──『毒々生物の奇妙な進化』

毒々生物の奇妙な進化

毒々生物の奇妙な進化

本書は毒を持つ生物について書かれた本である。

毒がどのように人体やその他目標とする生物に機能するのか。どんな仕組みによって体内で生成されるのか。毒に耐性を持つ生物──たとえばハブに対抗するマングースとか──はどうやってその能力を得たのかなどなど、複数の毒生物の事例について科学的に解説してみせる。読むことで各種毒生物について詳しくなることができるが、いってしまえばそれだけの本ともいえる。しかしこれがなんともおもしろい。

毒生物という切り口での生物の本を僕がこれまでほとんど読んだことがないこともあるけれども、毒にまつわるエピソードには人間の業の深さ、愚かさが詰め込まれているからだ。特に毒性生物の研究者ときたら好き好んで致死性の毒を持つ生物を求めて冒険をし、時にはわざと咬まれることもいとわないド変人どもなので著者が体験したもの、見聞きしたものを含め、話のひとつひとつが鉄板でおもしろいのである。

 その努力の甲斐あって、彼は二六種類の毒ヘビに咬まれ、二三回骨折し、三尾のスティングレイ類と二匹のムカデ、そして一匹のサソリの毒液に触れた。何回くらい毒のある昆虫に刺されたことがあるのかと私が質問したところ、彼は声を出して笑った。「ミツバチをどうやって数えるんだ? 胸くそ悪いアリも、君はいちいち数えろというのかい?」

DIO様を彷彿とさせる名言だがこんな話がぽんぽん飛び出すのだから恐ろしい。

最凶の殺戮者は誰だ?

カモノハシの話からはじまり、クモ、クラゲ、と様々な生物について触れられていくがなんといっても好奇心をくすぐられるのは"最凶の毒性生物はなんだ!"という問いかけである。当然、これは最凶をどう定義するかの話になってしまうところはある。

たとえば想定される基準としては、殺傷能力を調べる方法があるだろう。科学的にはLD50という、実験動物に投与した場合に、ある日数のうちに半数を死亡させる量を表す指標があるけれども、これが低ければ低いほど少量で死に至ることになる。とはいえ、マウスで値が出されるので人間に対しては違う結果をもたらすこともある。

死亡率を比較するのもいいかもしれない。咬まれたり刺されたりした場合に、生き残れなかった人のパーセンテージを出すのだ。オーストラリアンウンバチクラゲの毒性は地球上でもっとも高い部類だが、刺された人が死ぬ確率は0.5%と低めである。それと引き換えキングコブラは持っている毒液はそう殺傷能力は高くないが一咬みで最大7ミリリットルの毒液を送り出して(20人を殺せる量)咬んだ人間を50〜60%殺す。

とまあいろいろな基準があるわけだけれども、咬まれた時近くに医療機関があるか、血清ができたか否かといった要因も大きいし、ヘビは大変多くの人間を殺しているとは言え"世界最多"ではない。では年間の死者数で見た場合、いちばん人間を殺しているのは毒生物とは何なのか(ここでは前提として人間にとって最凶を決めることにしている)──といえば、それはカ科である。そのへんを飛び回っている蚊だ。

彼らは血を吸っている間傷口を宿主に気づかせずに開いたままにしておくため、抗炎症化合物をつくりだす毒液を送り込む。そのため、捕食対象となった人間は、蚊がたっぷり血を吸い終わっても吸われたことにさえ気づかない。その毒自体が我々を殺すわけではなく、彼らが毒液を人間に注入するときに、他所で拾ってきた病原菌を感染させるため、死亡率が跳ね上がっているのだ。マラリアでは毎年60万人以上、黄熱病では3万人、デング熱で1万2000人亡くなっているが、蚊の影響が大きいのである。

毒々生物と人間の話

そんな感じで毒々生物についての話はどれも魅力的だが、それと並行して語られるのが毒々生物と暮らす人間の話である。研究者らの話もあるけれど、中心となるのは毒を自分の身体に意図的に注射したり、免疫として取り込もうとする人々の話である。

たとえば自家免疫実践者たちは、自分の身体の自然免疫反応を誘発させるために、薄めた毒液を自分に注射する。彼らは次第に注射する毒液の量を増やしていくことによって、馬などで血清をつくるようにして自分の身体の免疫が高まると信じているのだ。それを実践する人の多くは毒を持つヘビなどの飼育者ではあるが、中には健康になるという発言だったり、若返るような気分になるといったことを言うひともいる。

僕はまったくしらなかったので読んで驚いてしまったのだが、実は都市のスラムなどでヘビに咬ませるのを商売にしている人間も多いのだとか。たとえばインドコブラに脚をかませ「幸福で、意識が薄れ、眠くなるような失神状態」を体験した人がいる。長期的な薬物乱用者では、一週間に足指を二回、三回咬ませる人もいる。この危険な遊びは広まりつつあり、毎日咬ませるのが無理なほど値段も葛藤しているという。

ヘビの毒液から得られる恍惚状態は、即効性のものではない。ウィスキーをダブルで飲むのととてもよく似ていて、体に入れてから、実際に毒が入っていると感じはじめるまではしばらく時間がかかる。しかし、咬まれてから三〇分から二時間もすれば衝撃が訪れる。神経毒が効いてくるのだ。目眩がし、視界がかすむ。そして、陶酔感がやってくる。

えーほんとかよー絶対ウソでしょ、だって毒じゃんと思うんだけど、体験者の声は多いし何しろ金を払ってまで咬ませる人が大勢いるのだから本当なのかもしれない。とはいえ安全な毒ではないし、死亡者も出ているし、利益が危険性にまさるとはどうしても思えないがそんだけ魅力的なのかな……。まあ、科学的にはいくつかの実証も出ているのは確かである(たとえばコブラの毒液は強力な鎮痛物質を含んでいる)。

薬になる毒

悦楽をもたらすかどうかとはともかくとして、毒を薬に用いる話は最近特に増えている。ミツバチの毒液成分アパミンは大量に投与されると震えや痙攣を引き起こすが、少量では学習・認知能力が改善されることが示されている。実験動物の膵臓を肥大させる毒トカゲからは、インスリン昏睡が起こらない新しい糖尿病の薬ができた。

その応用で、アメリカのドクトカゲのペプチドを使った早期のアルツハイマー病や軽度認知障害の人に対する薬の臨床試験もはじまっている。ミツバチの毒液成分がHIVを殺せることが発見されたし、イソギンチャクの毒は自己免疫病に、タランチュラの毒は筋ジストロフィーに対して効果があるのではとされており、試験がはじまっている。これらの試験がうまくいけば毒の薬利用はさらに広がることになるだろう。

おわりに

毒は極端に危険性のあるものだが、同時に極端な利益を産む可能性もある、というのがここ最近科学的に*1判明してきた事実といえるだろう。本書にはそんな、薬利用にしろ麻薬的な利用にしろ、危険だからこそ生まれている毒生物の魅力が(+当然ながら恐怖が)十全に描きこまれているので、ぜひ楽しんでもらいたい。ちなみに、僕が読んでて一番怖かったのはエメラルドゴキブリバチですね(詳細はググってくれ)。

*1:ローカルな言い伝えとしては毒の薬利用は古くから行われていた