基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

何千時間も使って未解決事件を解決しようと奮闘する人々──『未解決殺人クラブ~市民探偵たちの執念と正義の実録集』

市民探偵というと日本でイメージとして上がるのは毛利小五郎(with/江戸川コナン)か金田一あたりだろうが、実は世の中には多種多様な市民探偵が存在する。

事件現場にかけつけたり、たまたま居合わせたりして事件を解決するのではなく、市民探偵の多くはインターネットで公開された情報を集め、フォーラムで議論をしながら事件解決への糸口を探す。やっていることは地味な行為の積み重ねだが、解決にあたって重要な役割を果たすことも多い。確かに彼らも市民探偵なのだ。

その執念の凄まじさは、おそらく多くの読者の想像を超えたものだ。たとえばテネシー州の元工場労働者トッド・マシューズは、両目を失い腐敗した状態で大きなバッグに入れて放置されていたことから「テント・ガール」と呼ばれていた身元不明の女性を、11年にもわたって調査して、最終的にはついに彼女の身元を発見してみせた。連続殺人鬼の正体を暴き出すことに熱中するあまり郡保安官事務所に侵入し書類を盗み見した二人組もいれば、何千時間もかけて身元不明の犠牲者の顔と行方不明者リストを突き合わせる人もいる。掲示板での議論が白熱し関係ない人間を犯人と名指ししてしまい、その家族も含めて追い詰めてしまったひどいケースも存在する。

というわけで本書『未解決殺人クラブ』は、そうした市民探偵たちの活躍(光もあれば、闇もある)を描き出した一冊だ。市民探偵をやるにあたっての注意点に触れている箇所もあるので、本書を読むと自分でもトライしてみたくなるだろう。

サイバー探偵のパイオニア

様々な市民探偵の姿が紹介されていくが、(本書の中で)代表的な例といえるのは、身元不明の犠牲者の身元を明らかにする作業だ。先に挙げた「テント・ガール」を追うトッドも、そうした作業を行う一人。テンド・ガールが発見されたのは1968年のことだ。トッドはその事件を20年近く後の1987年になってから死体の目撃者であった彼女の父親から聞いて、彼女の身元を判明させる作業にのめりこむことになる。

しかし先に11年かかったと書いたように、その道のりは簡単なものではない。検視報告書など、手に入るデータはすべて精査した。何度も何度も現場に足を運び、警察署や新聞社に行き、住民、記者、警察官に取材を重ね、時には葬儀社にまで行くこともあったという。結婚に暗雲がたちこめるほどそうした執念の調査を何年も続けた後、1997年にはダイアルアップ接続のインターネット回線をしいて、Yahoo検索で行方不明者の情報を何十時間も検索し続けた。最終的にインターネットの検索作業が実るのは1998年のこと。テントガールの特徴と一致する女性の行方不明情報を入手し、その情報の発信者とコンタクトをとって警察を動かし、DNA鑑定にまでこぎつけたのだ。

彼の11年にもおよぶ執念の調査はついに答えにたどりつき、彼はサイバー探偵のパイオニアとして一躍有名人となる。物語はそこで終わらず、アメリカ政府は彼を全米行方不明者・身元不明者システム(略してネイムアス)の設立者兼共同運営者として2007年に雇用し、その後も多くの身元確認に関わってきた。

Web探偵

トッドは特異点のような個人だったが、インターネット時代がくるに従ってWebの集合知を使ったWeb探偵たちも現れることになる。たとえば、犯罪関連フォーラム『Websleuths.com』では、20万人もの登録会員がオンライン上で未解決事件や行方不明事件の解決に取り組んでいる。人数が人数なのでおそらくほとんどの職業がここでは網羅されているはずだが、具体的には看護師、医師、外科医、定年退職した警察官、心理学者、インクの専門家など、専門的知識を持った人たちが揃っている。

世の中には多くの未解決事件があるので、こうした犯罪関連フォーラムでは事件ごとにスレッドが立って議論が起こる。たとえばある少女が自宅の地下室で死体で発見された事件(ジョンベネ事件)では、死体の発見前に両親にたいして身代金を要求する長い手紙が届いていた。死んでるのに身代金要求の手紙が届く? それも死体が地下室に? かなり不思議な事件だが、Websleuthsでは、筆跡鑑定のエキスパートにしてサイトのメンバーであるティナ・ウォンに身代金要求の手紙の筆跡鑑定を依頼し、その筆跡が死んだ娘の母親の筆跡と一致(280箇所も)することを突き止めている。

ようするに、母親が娘を誤って殺してしまって、それを隠すために他殺を装った、と推測されている。とはいえ、現在のWebsleuthsの所有者兼管理者は、犯罪を解決するのは法執行機関の役割であり、Websleuthsでやるのは、各メンバーがその専門性を使って証拠をまとめて、捜査官や未解決事件の解決に役に立つ情報を警察に提供するまでだと語る。噂話は禁止、名前は書き込まない、侮辱行為なし、事実を追い求めるというルールを徹底し、新しい管理者(現在10人しかいない)メンバーを入れるにあたっては徹底的な確認作業を行って、書き込みをモデレートしているという。

市民探偵の負の側面

「徹底的な確認作業を行って、書き込みをモデレートする」ということは、それをしないと市民探偵の集まりは時にマズい事態を引き起こすことを意味している。たとえば容易に想像できるだろうが、誰が容疑者なのかを議論するスレッドで、「◯◯が怪しい」と誰かが書き込んで、大勢が同調したとする。正義に乗っかった人々はその◯◯が犯人だと決めつけ、ネットで突撃し、場合によっては住居にまで押し寄せるだろう。実際、そうした市民探偵の暴走といえる事例もいくつも起こってきた。

その好例が、2013年のボストンマラソンのテロ事件で起こった魔女狩りだ。事件直後に犯人を見つけようとインターネットの市民探偵たちが動き始めたが、特に人が集まったのがソーシャルニュースサイトのRedditだった。「ボストン爆弾犯を探せ」のスレッドには数千人が参加し、現地の大量の写真が投稿された。素人の分析屋がそうした写真を漁りながら、レースに集中していないかのように見える人物をマークし、彼らが何か別のものに気を引かれていたのではないかと邪推した。中でも、重い物がはいっていそうなショルダーバッグを持った男、黒いバックパックを背負っていた男の二人が怪しいとされ、それがニューヨーク・ポスト紙にまで掲載されてしまった。

この二人は何の関係もない無実の人間だったが、インターネット上では彼らが犯人だと決めつけた人々による悪意に満ちた脅迫が撒き散らされ続けた。そのすぐ後、ボストン爆弾犯の容疑者として強く疑われる二人の画像がFBIによって公開されたが、今度はその片方と似ているとしてスニール・トリパティという人物の名前が挙げられ、これまたまったく無関係だったが次なる標的として血祭りにあげられてしまった。

本人だけでなく家族への誹謗中傷も次々と行われそれに踊らされたテレビクルーも自宅に押しかけた。結局それが致命的な大誤報であることはすぐに明らかとなるのだが、これは多数の経験不足で慎重さもないインターネット探偵らがもたらす負の側面をよく現している。結局スニール・トリパティはもともとうつ病を患い1ヶ月前から行方不明になっていた人物で、最終的には川で死体で発見されている(おそらく自殺。ただし、時間的にネットの狂騒を苦にしての自殺ではなさそうであった)。

おわりに

下記はまた別の市民探偵の正義の暴走にたいしてのトロント警察殺人課の元刑事マーク・メンデルソンのコメントだが、非常に重要なことをいっている。

「テクノロジーの危険のひとつは、世界中の何百万人もの人たちが、今やスーパー探偵になっているということです」と、マークは説明する。「殺人について読み、犯罪ドキュメンタリーをテレビで鑑賞すると、すぐに検索をしはじめます。(……)疑問なのは、導き出された結論をどうするのかということです。危険なのは、それぞれが、あるいはグループで何かをすることなんです。理想としては、その情報を警察に届け出ることなのですが」*1

「正しく」市民探偵でいることは難しいことだ。最初に紹介したサイバー探偵のパイオニアトッドも、「テント・ガール」事件を最初に解決した時、いきなり親族の姉に電話でコンタクトをとってしまったが、その後それはするべきではなかった、まず警察に連絡すべきだったと語っている。事件解決には順序があるし、称賛されることを期待するものでもない。インターネットで正義を振りかざすことはとても気持ちのいい行為であることには違いないが、しかしとても重い責任を持つ行為でもある。

インターネット時代にどう振る舞うべきなのかも考えさせてくれる、素晴らしいノンフィクションであった。

*1:ニコル・ストウ. 未解決殺人クラブ~市民探偵たちの執念と正義の実録集 (p.276). 大和書房. Kindle 版.

現代人(WEIRD)はなぜかつての社会と大きく異なる心理状態を獲得するに至ったのか?──『WEIRD「現代人」の奇妙な心理:経済的繁栄、民主制、個人主義の起源』

この『WEIRD「現代人」の奇妙な心理』は、西洋を中心とした現代人が人類進化の途上で存在してきた社会の人々と、神経学的にも心理学的にも大きく異なっていることを解き明かしていく一冊である。同時に、なぜ現代人が歴史の過程で「WEIRD(奇妙)」になってしまったのか、その起源を追うことで、産業革命が起こった理由や、ヒトの社会を突き動かす遺伝子や環境以外の要因についても明らかになっていく。

上下巻で分厚いが、経済から民主制、個人主義まで、幅広いテーマを一本の筋でまとめていく、明快でエキサイティングなノンフィクションだ。

WEIRDな人々の特徴。

重要な前提から紹介するが、複数の集団から得られた文化的データを分析すると、西洋人のサンプルは必ず分布の最端部に位置することがわかってきた。つまり、西洋人は心理学的な観点からみて外れ値なのだ。西洋の大学人が研究しやすいからという理由で、心理学や行動経済学の実験では身近な大学生を研究対象にされることが今なお多いが、彼らを「ヒトの普遍的な状態」だと解釈すると、現実からズレてしまう。

教科書や学術雑誌、さらには一般のノンフィクション作品の多くが、実は、ヒトの心理について語っているのではなく、WEIRDな文化心理を反映しているにすぎないことが判明し、続々とその証拠があがってきてもなお、多くの心理学者や経済学者たちは現実から目をそらしている。警鐘が鳴らされてから長い年月が経過した現在でも、実験的研究の参加者の九〇%以上がWEIRDな集団であるという状況は変わっていない。(p90-91)

著者らは2010年に発表の論文の中で、心理実験や行動実験にいつも使われてきた人々の集団を「WEIRD」と呼称している。これは西洋の(Western)、教育水準の高い(Educated)、工業化された(Industrialized)、裕福な(Rich)、民主主義の(Democratic)社会の出身だからである(そこにWEIRDの本来の意味もかかっている)。

WEIRDな人々の特徴として本書で繰り返し語られていくのは、「極めて個人主義的で」「自己に注目する」「自制を重んじ」「集団への同調傾向が低く」「分析思考に長け」「公平なルールや減速を忠実に守る傾向があり」「自分の本来の性質や業績、目標を重視する」あたりである。わかりやすいところでいうと、「私は()です」の()を埋めさせるテストをすると、WEIRDな人々はそこに「好奇心旺盛」とか「情熱的」とか「エンジニア」とか、自分自身の属性や業績を示す割合が非常に高い。

実はこれはWEIRDに特徴的な、分布の最端部に位置する答えである。ではもう一方の端はなにかといえば、社会的関係に言及する回答(私はジョシュの父親、マヤの母親など)がそれにあたる。人類史を通してほぼずっと、人々は親族同士の緊密なネットワークの中で育ってきた。このような親族関係に統制された世界では、生存もアイデンティティも安全も結婚も成功も親族ベースのネットワークの安定と繁栄にかかっているから、自分が親族の中でどのような立ち位置にいるかは非常に重要であり、こうやって単純な心理テストの回答にもその傾向が現れてくる。

もう一つわかりやすいテストとしては、親友の運転している車に乗っている時、歩行者をはねてしまったとする。その時、車は制限速度をオーバーしていたが、その事実は友人とあなた以外知らない。この時、あなたが制限速度以内だったと証言すれば、友人の罪は軽くなる。その場合、あなたは「真実を語る」か「嘘をつく」かどちらだろうか。WEIRDな人々はこれにたいして偽証しない方を選び(カナダ、スイス、アメリカで調査すると9割以上の参加者がこっちだ)、ネパール、ベネズエラ、韓国ではほとんどの人々が虚偽の宣言をすると答える。こちらは親族重視の文化といえるだろう。

WEIRDな人々が生まれたのはなぜなのか?

現代のようなWEIRDな社会は、最初から存在していたわけではない。歴史の中で少しずつ個人主義的傾向と組織が現れ、特定の地域で多数を占めるように変化してきたわけだが、その転換点はどこだったのか。現代のWEIRDな社会には病院、警察、失業保険など各種セーフティネットが存在するから、親族のネットワークがなくても過去と比べて困ることは少ない。しかし、親族内で助け合うことがそのままセーフティネットとなっていた過去の時代に個人主義を推し進め、WEIRD社会の基礎を築くのはかなりの困難を伴ったはずだ。本書では後半でその点を突き詰めていくことになる。

人々には親族ベース制度から自らを引き離す意思がないとしたら、あるいは、そんな力はないとしたら、文化進化はそもそもどうやって、まず最初に、近代国家やそれに関連する公的制度を築くことができたのだろうか? どうすれば、ここからそこに到達できるのだろうか?(p.178)

多くの人がこれについて真っ先に考えつくのは、産業革命やそれに伴う経済的反映、都市化によって個人主義が根付き、今のようなWEIRD社会ができたのだ、というものである。が、実はヨーロッパではそのはるか前から親族ベース制度の解体がはじまり、独立した一夫一婦制の核家族や、親族や部族への帰属意識ではなく、共通の利益と信念に基づいた新たな団体が徐々に生まれはじめていた。具体的には西暦400年頃から1100年頃にかけての話だ。この時、何が起こっていたのだろうか。

その要因は複数あるわけだが、でかかった理由のひとつに、西ローマ帝国の滅亡以前から徐々に導入されていった、教会の教え(の中でも特に婚姻・家族に関わるプログラムであるMFP)がある。教会は当時、①血縁者との婚姻を禁じた。②一夫多妻婚を禁じた。③非キリスト教徒との結婚を禁じた。④養子縁組を阻止した。⑤花嫁と花婿の双方に大使、自由意志を持って、結婚への同意を表明することを求めた。⑥新婚夫婦にたいして、独立した所帯を構えることを奨励し、時にはそれを要求した──など様々なルールを打ち出した。少なくとも最初はこうした施策に一貫した計画は存在しなかったようだが、これには伝統的な家族を破壊する力があり、既存の親族に代わる、新たな共同体としての教会の勢力拡大に寄与していったとみられている。

いとこ婚が当たり前だった11世紀頃にこれを厳密に守ろうとした場合、1万人にものぼる親類を候補者から除外しなければならなかったはずだ。現代のように都市に見知らぬ人々が集まる時代なら対処できるだろうが、農場や少人数の村が散在する世界では遠い場所まで候補を探しに行く必要があっただろう。富裕層なら賄賂を送って規制をかいくぐることもできたが、そこまでの力がない経済的中間層の人々から、緊密な親族関係が瓦解していったのかもしれない。技術の変化や物質的な豊かさではなく、宗教をはじめとした”文化”で、そうした社会的な変化が起こったのだ。

おわりに

当時から宗教は複数あったわけで、それぞれが婚姻・家族に関わるルールを持っていた。そのため、それぞれの宗教の影響力が強かった地域における個人主義度の違いなど、本書の後半に行くにつれより詳細なデータの紹介と分析が行われていく。

緊密な親族ベース制度の崩壊によって都市化への道が開かれ、自己統治型の政治が発展。商人が主導権を握る都市が成長し、市場統合の水準が引き上げられ──と、WEIRDの誕生を端緒として、経済から民主主義、最終的にはイノベーションまでを語ろうとして見せる。仮説や推論が多く含まれることもあって全部が全部正しいわけではないだろうが、現代の「WEIRD」社会がどのようなルーツから成立しているのか、その道筋が、本書を読むとよく分かる。新年早々、わくわくさせてくれた一冊だった。

全世界の誰もがこの人間の影響を受ける、お騒がせ男初の公式伝記にしてアイザックソンの最高傑作──『イーロン・マスク』

この『イーロン・マスク』は、その名の通りイーロン・マスク初の公式伝記である。マスクの伝記自体はこれまでにも出て、翻訳もされている(読んだけどおもしろい)が、その中にあって本作の特徴は刊行された直後だから、つい最近のツイッターの買収など”最新の情報・エピソード”まで網羅されているところにある。

そしてもう一つの特徴は、スティーブ・ジョブズをはじめとした無数の偉人たちの伝記を書いてきた、伝記の名手であるウォルター・アイザックソンがその私生活にまで密着して描き出している点にある。僕もアイザックソンの本は昔からファンでほとんどすべてを読んでいると思うが、これまで彼が手掛けてきた伝記の中でも本書の書きぶりには熱が入っていて、しかもこれまで書いてきた天才・偉人たちとの比較という評価軸もうまく機能しており、最高傑作といえる内容だと思う。

全世界の誰もが、このお騒がせ人間の行動の影響を受ける

ブルドーザーのような性質上マスクに否定的な人間は多いが、肯定的か否定的かはともかく、このトンデモお騒がせ人間の行動の影響は全世界の人間に及ぶのだから──電気自動車、自動運転車、インターネット、ロケット開発、人型ロボット開発、ブレイン・マシン・インタフェースにAIなど──、人類の未来について考えるにあたって、我々はマスクの思考・形成プロセスを知っておく必要がある。

マスクの周囲の人間は多かれ少なかれその行動や言動の被害を受ける。彼こそが世界を変える人間だと付き従う人間もいるが、離れていく人間の方が圧倒的に多い。アイザックソンは周囲の人間にも膨大なインタビューを行っているが、多くの人が「彼はすさまじい人間だが、彼のすさまじい成果とあの性格はセットでなければならないのか? 性格を矯正したら成果も出なくなってしまうのか」と疑問に思っている。

本作では、マスクの善性も悪性も含めて全面的にその人物像を描き出している。ルーツから、プライベートから、会社の中から。初の公式伝記とはいえ、アイザックソンはマスクを持ち上げるばかりではなく、時に強烈にディスってもいる。

マスクは心のありようから陰謀論に傾きがちで、自分に対するネガティブな報道は、基本的に、報道機関の人間がなにがしかの意図でわざと流していたり、あるいは、よからぬ目的があって流していると信じている。*1

マスクの人物としての是非はともかく──本書にはいくつものテーマが流れているが、その一つに「性格や行動が最悪な人物が凄い成果を残している時、その性格と成果は不可分なのか?」というテーマもある。許されるか許されないかはそれとはまた別の問題なのは無論だが──彼が無類におもしろい人間なのは間違いない。

上巻と下巻の内容について

本作は上下巻に分かれている。ざっくりとした区分けとしては、上巻では幼少期の話からはじまってどんな家庭で育ち草創期にどんなことが起こったか、また数々の事業の創業を経て苦難をいかに乗り越えていったのか(たとえばロケット打ち上げの民間企業スペースXも、電気自動車のテスラも、どちらも資金ショートの間際の局面を乗り越えている)がメインとなっている。上巻はだいたい2019年頃までの話だ。

そして下巻では、主に2020年代の話が語られる。スターリンクがウクライナに通信を開放していたがロシア軍への攻撃に用いられそうになったので(ひいてはそれが核戦争に繋がりかねないことを危惧して)突如として遮断した話や、ツイッターの買収、そして「有能なエンジニアだけ残して後は全部切り捨てる」決断をした舞台裏など、そのあたりは下巻でみっちり触れられている。この二つは特にニュースバリューや興味関心が集まるだろうが、そのへんの裏話が知りたい人は下巻だけ読めばいい。

幼少期の話──スペースX・テスラの安定まで

上巻は幼少期の話から始まるが、これがまあとんでもないエピソードの連続だ。たとえばマスクは南アフリカで育ったのは有名な話だが、12歳の時にベルドスクールなる荒野のサバイバルキャンプに放り込まれたという。配給される水も食料も少なく、人の分を奪うのは自由でむしろそれが推奨される、蝿の王の実験版みたいなキャンプで、殴る蹴るのが当たり前の環境だったという(何年かにひとり死者も出るとか)。

マスクは幼少期のエピソードも50代のエピソードも対して印象は変わらない。SFが好きで(よく名前があがるのは『銀河ヒッチハイク・ガイド』だ)ゲームが好きで(超多忙なはずなのに隙間をみつけて対戦ゲームもやるしエルデンリングもやっている様子が本作では描き出されている。しかも対戦系ゲームはめちゃくちゃ強かったらしい)、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』もやり──と、ゲームやSFに熱中しながら、それを”フィクション”で終わらせずに現実のものにするために活動力を費やしている。

上巻の盛り上がりどころの一つは、テスラもスペースXも資金がショートしかかり絶望的だった2008年、スペースXの3連続で失敗したロケット打ち上げが、最後ぎりぎりの部品をかき集めて臨んだ4回目で成功し、NASAからの受注も入りテスラの工場も正常に稼働し始めた2008~2009年あたりだが、このあたりは胸が熱くなる展開だ。下記は3回失敗してもうキャッシュに後がない状態で、再起をはかるシーンである。

 だがマスクは、ロサンゼルス工場に4台目の部品がある、それを組み立て、なるべく早くクワジュに運ぼう──そう提案した。期限は、ぎりぎりなんとかなりそうな6週間だ。
「あの状況で『がんばろうぜ』ですよ。感動しました」とケーニヒスマンは言う。*2

その根本的な行動原理

マスクという人間はこうして本で読んでみると行動原理は単純で、とにかく幼少期から思い描いてきた壮大なヴィジョンの実現のために、できることは何でもやる。その夢はたとえば人類を複数惑星に入植させるみたいに普通にやってたら数百年かかってもおかしくない事業なので、それをなんとか自分が生きている間に間に合わせるために一日中働くし自分の部下にもみな同じような水準の労働を求める。

その過程で他人と喧嘩しまわりを不幸にするが、実現のためにありとあらゆることをやるせいで既存の因習だったり思い込みを打破して結果的に多くの人に利益をもたらすこともある。テスラで内製にこだわって徹底的にコストカットしたのも、スペースXで実費精算(かかった金額分だけ請求できるので、できる限り作業を引き伸ばすのが儲かる)でぬるま湯に浸かっていた宇宙産業に乗り込んで徹底的にコストにこだわって実費精算以外の民間ロケットの道を示したのも、そうした特性からきている。

ジョブズとマスク

著者のアイザックソンがスティーブ・ジョブズの伝記も書いているのも関係しているだろうが、本書にはジョブズとマスクを比較する描写も多い。たとえばどちらも強迫性障害のような特性があり、問題に気づくとなにがなんでも解決してしまう。

そうせずにはいられない性格だからだ。しかし、どこまで解決しようとするかの範囲が二人は異なっている。ジョブズは概念とソフトウェアを押さえてデザインにこだわったが、生産は委託していた。ジョブズが中国の工場を訪れたことはない。だが、マスクはデザインスタジオより組立ラインを見て歩くことを好む男だ。

『マスクがジョブズと違うのは、製品のデザインに加え、それを支える科学や工学、生産にまで強迫的な接し方をする点』だという。マスクは生産や材料、巨大な工場を脅迫的なまでに効率的にしようとする。工場好きが講じて、カリフォルニア州の工場をトヨタが売りに出していたのを知ってトヨタの豊田章男社長を自宅に招いて資産価値10億ドルと言われたこともある工場を4200万ドルで買うことに成功している。

工場改善男

僕が本作を読んでいて特に印象に残ったエピソードも工場絡みのものだ。マスクは生産工程においては5つの戒律があり、たとえば第一の戒律は「要件はすべて疑え」だ。

ネジがその本数である理由、ネジカバーを使わないといけない理由、そのすべてに「理由があるのか?」ときいて回る。当然「安全のためです」などと返答があるわけだが、本当に耐荷重の計算を行って数値的に必要なのか? としぶとく問い詰め、結果必要なければ全部とっぱらってしまう。その工程を部下に強いるだけでなく、マスク本人が実際に工場に何日も寝泊まりしてでもやりとげるのがすごいところだ。

たとえばテスラの工場では、車のボディのボルトの本数が6本なのはなぜなのか? もっと減らせるんじゃないか? と問う。ボルトが6本なのは事故のときに外れないようにですと返答されるが、事故の力は基本的にこのレールを伝わってくるはずだ、と力が加わるはずの箇所すべてを頭に思い描きそれぞれの許容値を挙げ、もっと減らすことができるだろう──と設計の見直しと試験を技術者に伝えたりする。

彼の指示はとんでもなく間違っているものもあるが、とはいえあっているものも多く、あっていた場合はボルト一本、ネジ一本、ネジカバー一本単位で工程から削減されていく。この徹底した要件定義の見直しによる工場の効率化によって、最終的に破壊的な製品を産んだり、無茶な生産期日がまかり通ってしまったりする。

工場を歩きながら、1日に100回は指揮官決定を下しただろうとマスクは言う。
「2割はあとでまちがいだとわかり、直さなければならなくなるでしょう。でも、ああして私が決断を下して歩かなければ、我々は死んでしまうわけです」*3

とは本人の弁。「2割はあとでまちがいだとわかり」の比率はもっと高いと思われるが、仮に6割が間違いだったとしても、物事を前に進めるためにはプラスになるのかもしれない、と本書と彼が成し遂げてきたことをみると思う。

それを特に実感したのは、2010年に無人宇宙船を軌道に打ち上げ、戻ってくるのを目的とした試験のエピソードだ。高難度なので民間ではもちろん国レベルでも成功例は少ない(米国、ロシア、中国)。その打ち上げの前日に、2段階目エンジンのスカート部に小さな亀裂が二つはいっているのが見つかった。宇宙では少しのことが命取りになるので、通常万全を期す。NASAの関係者は、みんな何週間か延期になると思ったそうだが、マスクは「亀裂が入っているスカートを切ったらどうだろう」という。

スカートを切ったら推力が少し落ちる。しかしミッションに必要な推力は得られるはずだと計算が出て、翌日の打ち上げは無事行われ、そして成功したのである。

おわりに

通常の書評の文字数を超えて紹介しすぎた感もあるが、これでも全体からするとほんのわずかなエピソードに過ぎない。普通の人間ならテスラかスペースX、どちらも軌道に乗った時点で満足するだろうに、リスク大好き人間のマスクは歳をとっても何も変わらずに新しい対象にキャッシュをベットし続けている。そもそも彼の目標は金持ちになることではなく人類を複数惑星に住まわせることなわけだから。

最終的に彼の旅がどこまで届くのかはわからないが、本書はその旅の現時点で最新で最良の記録書である。

*1:ウォルター・アイザックソン. イーロン・マスク 下 (文春e-book) (p.64). Kindle 版.

*2:上 (文春e-book) (p.264). Kindle 版.

*3:ウォルター・アイザックソン. イーロン・マスク 上 (文春e-book) (pp.408-409). Kindle 版.

〝唯一真実の治療法〟に覚醒してしまった人たちが、反ワクチンの旗のもとに結集する、トンデモ医療アベンジャーズとでもいうべき傑作ノンフィクション──『リバタリアンとトンデモ医療が反ワクチンで手を結ぶ話』

この『リバタリアンとトンデモ医療が反ワクチンで手を結ぶ話:コロナ禍に向かうアメリカ、医療の自由の最果ての旅』は、リバタリアンが集まる自由な町を作ったら、そこは整備も何も行き届かなくなり、自由を目当てにやばい奴らが集まってきたという実話を描き出す『リバタリアンが社会実験してみた町の話:自由至上主義者のユートピアは実現できたのか』の著者マシュー・ホンゴルツ・ヘトリングの最新作である。

タイトルが前作と似ているが、同じ町が舞台など、内容に直接的な繋がりがあるわけではない。ただ、自由を求める人達、自由の旗印のもとに自分たちの意見を強引に押し通そうとする人たちが社会を歪めていった過程を描くという意味では、テーマが連続している。本作は、ヒーリング、祈りなど、普通に考えたらそれで治るはずがない手法が「病気を治すための唯一真実の治療法」であると売り込み、実際にある程度成功した人々を描き出す、トンデモ医療についての一冊だ。そして、著者によればそうしたトンデモ医療が受け入れられてしまう土壌がアメリカにあったことで、新型コロナウイルスで他国と比べてもたくさんの犠牲者を出すことに繋がったという。

本書はトンデモ医療に目覚めた人たちの〝覚醒〟の瞬間を描き出す章から始まり、筆致も相まってその部分は笑えてしまうのだが(現実に被害者が生まれるわけなので笑い事ではないのだけど)、次第にそれがいかにアメリカを蝕んでいったのかが明らかになるにつれ真顔に引き戻される。アメリカで何が起こっていた/いるのか? を知ることができる一冊であり、ここで描かれている事態は日本で進行してもおかしくない(というか、部分的には進行している)ので、備えにもなるはずである。

〝覚醒〟の瞬間

さて、先に書いたように本書の第一部は各トンデモ医療界の著名な人々の〝覚醒〟の瞬間から始まる。第一章で取り上げられていくのは、サウスダコタ州に住むラリー・ライトルという歯科医の男性だ。彼はある種のヒーリングに目覚めてしまった男性なのだが、その最初の兆候に気づいたのは農園で育った少年時代だったと語る。

彼は父のナイフを持ち出して木を削っていたが、手がすべって脚に深い傷を作ってしまう。彼は両親に黙って塩の含まれた井戸水で傷の手当をしたが、その傷は一晩で治ったのだという。そして、次のように考えた。『「どうしてあの傷は一晩で治ったのかと、よく不思議に思ったものだ。今ならわかる」何年ものちに彼は書いた。「エネルギーのおかげだ」』(p22)。ライトルは歯学部を出て歯科治療を行いながらも、普遍的なヒーリングの光があらゆる生き物を満たすと〝覚醒〟した。

 この普遍的エネルギーは自然治癒からダウジングに至るあらゆるものの原動力となりうる、とライトルは信じるようになった。彼は、この古代の力を操って、すべての人間により良い健康を享受させるようにその力を集束させる医療機器の開発に取り組みはじめた。
 ラリー・ライトル──コーチ転じて歯科医転じて市民リーダー──にとって、ヒーリングの光こそが〝唯一真実の治療法〟だった。(p23)

といってライトルの第一章は幕を閉じる。そして第二章では自作のハーブ薬こそががんでもあらゆる病を治すと信じるトビー・マッカダムの覚醒エピソードが語られていく。トビーは近代医学は人間の体にとって害をもたらすとして自分の母親に自作のハーブを渡し、母もそれを受け取ってあなたには人を癒せる力があるのよ、絶対やめないと約束して、と優しいことを言っていたが、結局母はそのハーブを飲まずに脳卒中で亡くなってしまう。トビーは、ハーブを服用してくれていたら母はその後何年も生きていたはずだと考えるようになり、ハーブ薬信奉に〝覚醒〟する。

いまわの際に、フランシスはトビーに新たな生きる目的を与えていた。彼、トビー・マッカダムは、自分のハーブ薬こそが、〝唯一真実の治療法〟であることを悟ったのである。

飲まなかったのに悟るなよ! と思うのだが、このレベルのトンデモ代替医療覚醒エピソードが連続していく。ヒルが唯一真実の治療法だと信じた女、神が病気を治してくれるのだから、祈りこそが医学に勝ると信じ布教に走った夫妻、果てには自分がアンドロメダ星雲から来た古代のエイリアンの神なのだと語るトンデモ白人男性ジム・ハンブルまで現れる。彼はミラクル・ミネラル・ソルーション(MMS)と呼ばれる自作のドリンクこそが〝唯一真実の治療法〟だとして世に打って出る。

まさに世は大トンデモ医療時代! とでもいうべき状況である。

トンデモ医療アベンジャーズvs国家機関

そうしたトンデモ医療に目覚めた人たちはそれを他者にまで布教しはじめる。トンデモ医療を広める人は昔から多くいたが、現代は治療師たちがインターネット経由で直接大衆と繋がるようになったことで、より広まりやすくなってしまっている。もちろん、トンデモ医療の布教に対抗するための手段もある。資金力のある機関の一群がそれで、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)や、FDAなどである。

実際、FDAはトンデモ医療の提唱者を追い詰めてきた歴史と実績がある。だが──そう簡単にうまくいくわけではない。先に述べてきたトンデモ医療アベンジャーズはみな何らかの形でFDAや警察の調査を受けるのだが、反省しますとかもうしませんと何度も繰り返して業務をし続け、マンパワーに限界のあるFDAやCDCなど専門家たちも目立つ形で叩き潰して抑止するしかないと奔走する。その結果何が起こるのか?

 そしてFDAと〝唯一真実の治療法〟側との戦いは、まったく別種の人々に思わぬ影響を与えることになる。反ワクチン運動家である。(p133)

と、ここで驚くべきことに反ワクチン運動家をはじめとした〝医療の自由〟思想の信奉者たちに話が繋がるのだ。反ワクチン運動家らは2000年代初頭、資金不足やその影響力不足に悩んでいた。一方、〝唯一真実の治療法〟勢力はインターネットを背景にその力を増し、両勢力は互いの保護と利益を目的に手を組めるのではないか──と考えるようになった。代替医療博覧会など数々のイベントを通して両勢力は接近し、〝唯一真実の治療法〟を売るバラバラの勢力だった人々は、声を一つにし始めた。

 〝唯一真実の治療法〟の販売者が医療の自由推進派に変貌するにつれて、反ワクチン運動の中に残っていた過激派を歓迎する政治空間が生まれるという副作用が起きた。代替医療治療師たちと同様、彼らも議論の焦点を科学からアメリカ人の選択の自由へと移すことを熱望していた。そして、ワクチンが予防する伝染性疾患への対策として、〝唯一真実の治療法〟を積極的に取り上げた。(p136)

医療の自由が推進されれば、〝唯一真実の治療法〟にとっても反ワクチン運動家にとっても渡りに船だ。自分たちの意見を自由に布教することができる。反ワクチン運動家は、そのうえ、ワクチンを打たない場合の医療手段として〝唯一真実の治療法〟を利用するようになり、両者は最悪の形で手を組んでしまう。

おわりに

どんな状況やねん、という感じだが、話はこれで終わらない。リバタリアンが代替医療産業の政治力を吸収し、医療の自由を求める声が共和党主流派にも影響するようになった。選挙で選ばれた政治家たちが怪しげな医療運動を支持しはじめたのだ。

これがだいたい2000年代の話だが、ではそこから20年をかけてアメリカと代替医療界隈の状況はどのように変わっていったのか? なぜアメリカではこんなことが起こってしまったのか? ラリー・ライトルをはじめとした〝唯一真実の治療法〟勢力は逮捕されなかったのか?──といった問いかけへの答えは、実際に本書を読んで確かめてもらいたい。これは現実の話なのか? と疑りたくなる話の連続である。

下記は前作のレビュー。こっちも傑作。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

現代ではありえない、数々の破滅的な冒険を繰り返した海賊たちの冒険録──『海賊たちは黄金を目指す: 日誌から見る海賊たちのリアルな生活、航海、そして戦闘』

この『海賊たちは黄金を目指す』は、1600年代の後半、スペインの海や街を荒らしまわり、破滅的な戦闘を幾度も乗り越えてきた伝説的な海賊たちの日誌をもとに、その冒険を描き出した一冊である。「海賊ノンフィクションに外れなし」と僕が勝手に思うぐらいには海賊について書かれたノンフィクションはおもしろいものが多い。

本書もその例に漏れないどころか、数多ある海賊ノンフィクションの中でも群を抜くおもしろさだ。原題「BORN TO BE HANGED」(絞首刑になるために生まれてきた)が示すように、自分の命を投げ売ってでも大金を手に入れ、敵を殺すぞ! という破滅的な気性。船や街を襲って大量の金を手に入れても、船内の賭博で金をすべてスってしまい、マイナス分を取り戻そうとしてまた別の街を襲いにいく暴力性。襲撃を成功させたら酒樽を抱えて酒盛りをし、自分たちの身を危険に晒すとしても酒と豚や牛を食うために突撃する──と、いかにも海賊らしい海賊の姿が描かれている。

そうした冒険の数々や考え方は我々現代人からするとあまりにかけ離れていて現実のできごととは思えないが(実際、日誌にそのままのことを書くわけでもないので誇張や嘘もある程度混じっているはずだが)、ノンフィクションとしては、”だからこそおもしろい”。海賊たちの出会いから別れまで、あまりに美しく破滅的で、まるで凄まじい冒険小説を読むかのように楽しませてもらった。

冒険の前提、海賊たちの最初の目標など

冒険の舞台となっているのは主に1680年代、当時カリブ海を根城にスペインの船舶や町を襲う、バッカニアと呼ばれる海賊が350人以上存在していた。そのほとんどはイングランド人で、スペインの港湾都市を襲う目的で1669年に団結した一団だ。

その襲撃の結果、バッカニアらは大量の銀を手に入れたが、それだけではなくスペイン商人が南太平洋に面した植民地の警備上の脆弱性を嘆く手紙も手に入れ、バッカニアたちは新たな遠征計画を立てることになる。そこ(パナマ)はスペイン人が中南米から搾り取った金銀宝石の宝庫で──と、いかにも海賊が狙いそうな場所だった。

そうはいっても自分たちだけで目的地へとたどり着けるほど環境は整備されていない。そこで案内役が必要になるわけだが、その任を務めるよう自分を海賊らに売り込んだアンドレアスは、自分の孫娘が囚われているサンタ・マリアを先に襲撃するようオススメし(そこにも大量の金があるとされた)──、「囚われのお姫様(と財宝)の奪還作戦」と、まるでアクションゲームのような目的に邁進することになる。

例年雨期のあいだに山から流れてきた砂金を、十二月から四月の乾期に、スペイン人の監督下で先住民がパンニングをし、一万八千ポンドから二万ポンドの金を集めるという。もし孫娘を救い出してくれるなら、そのすべてをバッカニアにやると、アンドレアスはいった。

それだけの金があれば、一人あたりで割ってもみんなは大規模な農場を購入することができる。しかし当然ことはそう簡単な話ではない。サンタ・マリアはスペインの要塞があり、400人の兵士が配備され、策もなく突っ込めばマスケット銃の銃弾を浴びせられるだけだ。しかも道中のジャングルは案内人がいるといっても過酷な環境である。それでも、海賊たちは投票で、その冒険を決断する。

主な登場人物

このサンタ・マリア遠征に参加している海賊には華々しい経歴を持つ人々がいた。たとえば、30歳でのちに船長になるバーソロミュー・シャープは海賊歴14年のベテラン。数々のスペイン人との戦いの経歴がある他にイングランドの刑務所を脱獄した伝説の男リチャード・ソーキンズは最初の船長で、また後に作家・博物学者として有名になるウィリアム・ダンピアも乗り合わせていた。本書の中でとりわけ中心に描かれていくのは、フランス語やラテン語のみならず道中でスペイン語にも堪能になっていくバジル・リングローズで、彼も後にこの旅の記録を綴った航海記が有名となる。

戦闘に次ぐ戦闘、小説家としての筆の冴え

本書の特筆すべき点はいくつもあるが、ひとつは戦闘シーンの描写のおもしろさにある。著者のキース・トムスンはセミプロの野球選手や映画監督・脚本家など多くの仕事をこなしてきた人物で、ノンフィクションのみならず小説家としての著作も多い。

たとえば海賊一行がサンタ・マリアの要塞にたどり着き、少数の決死隊が要塞へと向かって駆け抜けていくのだが、その時の描写には小説家の筆の冴えを感じるものだ。船長のソーキンズが敵の銃撃の精度やマスケット銃の射撃間隔の長さからスペイン人たちが訓練を欠いていることを見抜き果敢に突撃し、時に体に矢を受けながらも、後続のために突破口をひらく。そしてその後は短剣カトラスを用いた白兵戦だ。

 接戦の距離はまたたくまに狭まって白兵戦となり、剣が引き抜かれた。バッカニアは剣術にも優れており、独特な形状を持つ短剣カトラスが、海賊生活にはすこぶる使い勝手がいい。船上では、その重みと厚みのある短い刃で、キャンパス地やロープを易々と切り裂けるうえに、いざ戦いとなれば、敵の身はもちろん、軽量な剣の刀身も、それでぶった切ってしまえるのだ。残りの部隊が到着する前に、決死隊はすでに二十六名の敵を殺し、十四名を負傷させ、スペイン軍を降伏へと駆り立てた。

こうしてサンタ・マリアを攻略し囚われのプリンセスも発見し保護できたのだが、当然それでめでたしめでたしと終わらずに彼らは次なる目的地、パナマへと向かう。しかしそこは1500人の守備隊が守り、しかも今ではサンタ・マリアからの警報も届いているはずで──と、ここから冒険・戦闘はより激しさを増していくことになる。中には、『海戦史上、最も不可能に思われた勝利』とさえ言われる戦いもあるのだ。

船の上の日常

そうした戦闘だけで日々が構成されているわけではなく、大半は何でもない船上やジャングルでの日々の記述だ。日常の文章も美しいんだ。

 幸いなことに、船内で高まる緊張と倦怠に解毒剤として働くものがあった。帆を動かすのは風、海賊を駆り立てるのは音楽。軽快なジグの音楽や船頭歌でもきこえてくれば、リングローズはハンモックからはね起きて、甲板へ急ぎ駆けつけただろう。フィドル奏者、太鼓叩き、ラッパ吹きは、海では珍重される。海賊につかまった船乗りは、おもちゃの笛でもいいから、なにか音楽を演奏できたほうが命が助かりやすい。

船上では当然、酒を飲むのも良い暇つぶしになる。混雑した船倉で飲酒をすれば喧嘩が起こるので、暗くなって酒が飲みたくなったら甲板へ出るべしとルールができて、日が落ちると同時に甲板はナイトクラブへと早変わりするなど、海賊たちの連帯と愉快な日常(時に食料や水不足による苦境)が本書ではじっくり綴られているのだ。

おわりに

バッカニアの一行らは戦闘に次ぐ戦闘でその数を徐々に減らしていくのだが、最後に残ったものたちはイングランドへと帰り、「旅の終わり、そして──」とでもいうべき胸熱のラストを迎えることになる。もうすぐNetflixで『ONE PEACE』のドラマも公開するが、この暑い夏を文字の海の上で過ごすのも悪くないだろう。たいへんおすすめな一冊だ。

あとバッカニアの一人だったウィリアム・ダンピアの冒険を漫画で描いている『ダンピアのおいしい冒険』もおもしろいのでこっちも良いよ。
matogrosso.jp

高野秀行の新たなる代表作といえる、イラクのカオスな湿地帯を舟を造るために奔走する傑作ノンフィクション──『イラク水滸伝』

この『イラク水滸伝』は、『独立国家ソマリランド』などで知られるノンフィクション作家・高野秀行の最新作だ。間にコロナ禍を挟んだこともあって取材・執筆に6年がかかったという大作で、事前の期待は大。家に届いた瞬間からいてもたってもいられずに読み始めたが、おもしろすぎて当日中に最後まで読み切ってしまった。

今回のテーマはイラクとイランの国境近くにある「湿地帯」。ティグリス川とユーフラテス川の合流点付近には、最大時には日本の四国を上回るほどの大きさの湿地帯が存在し、そこには30〜40万人の水の民が暮らしているという。そこで暮らしているのは、アラビア語を話すアラブ人ながらも、生活スタイルや文化が陸上の民とはまるで異なる人々であるという。しかも、道路もなく隠れやすいので、戦争に負けた者や迫害されたマイノリティが逃げ込む場所で──と、それはまるで「水滸伝」の梁山泊じゃないか! といって本書では一貫して湿地帯=梁山泊として話が進行していく。

amazonページより引用(https://www.amazon.co.jp/dp/4163917292

日本のほとんど誰も行ったことがない場所に自分なりのテーマを持って挑みかかり、現地の人との人脈作りや、新たなテーマの発掘をその場のライブ感でこなしていく。道中数々のピンチに襲われながらも、現地で募った個性豊かな協力者たちや持ち前の機転と運と根性で乗り越えていく──と、それが高野秀行冒険ノンフィクションに求めているものなわけだが、本作はしょっぱなから「うお〜これこれ〜こういうのが読みたいんだよ〜」と、期待通りのものを読ませてもらった満足感に満ちている。

高野さんも50代なかばを超え、体力的に昔と同じようなやり方ではやっていられないだろうが、デビュー作の『幻獣ムベンベを追え』(改題後)の時のような冒険心を未だに感じられたのも嬉しかった。そのうえ今は数々の経験を経てきているので、要所で「この文化は◯◯と共通している/反している」など、比較文化論のような視点まで獲得している。ページ数は460ページ超えと分厚いが、写真も多くページあたりの文字数はそう多くないので、サクッと読めるだろう。たいへんおすすめな一冊だ。

冒険の目的

高野さんの冒険系ノンフィクションが好きな理由・箇所はいくつもあるが、ひとつは「手さぐり感」にある。一体何をどうしたらいいのかわからない五里霧中の状態から始まって、少しずつ協力者やルートを確保し、前に進んでいく。今回で言えば、イラクの湿地帯に行きたいです! といってもすぐに行けるわけではない。アラビア語もわからなかったらいざという時に地元の人とコミュニケーションもとれない。

最初にアラビア語のイラク方言の勉強からはじめ、そのためにイラク人を探し、文化や伝統、言語を教えてもらい──とひとつひとつ進めていく。そうした人々によると、どうやら湿地帯の人々は湿地の外に住む人々からすると評判が悪いらしい。すぐに物を盗むとか、水牛をとりあって争いばかりしているとか、教育水準が低いとか、悪い噂ばかりを教えられる。湿地帯なので道もなければでかい村のようなものもなく、点々とした人々にどうアプローチするべきなのか? と悩みは尽きない。

もう一つ冒険系ノンフィクションで欠かせないのは、「目標」だ。わかりやすく、同時に達成困難な目標があってこそ冒険は輝く。今回は、湿地帯の動画を見ていた時に映っていた舟に着想を得て、これを旅の目標のひとつにしようと決意している。湿地帯では舟は必需品。田舎で軽トラがパスポート(軽トラに乗っていればどこにいっても警戒されない)であるように、現地住民に舟で親近感をわかせようというのだ。

 そうだ、湿地帯で舟大工を探して、舟を造ってもらえばいいんだ! 地元の舟大工、とくに「名人」と呼ばれるような人の造った舟に乗っていたら、誰もが一目置いてくれるだろう。それに舟大工なら多くの氏族と取引があり、湿地帯で最も顔のきく人にちがいない。

完全に机上の空論なのだが、こうやって仮説を立て、実行し、間違っている(あっていることもあるが)のを確認するのも未知の領域への旅・目標設定の楽しさだ。そして旅がはじまるのである。

湿地帯の人々の生活

道中のおもしろかったエピソードのひとつに、高野さんとその同行者の山田高司(隊長と仲間から呼ばれる探検家・冒険家)さんが、イラクではバクダード市内でも地方でいく街道沿いでもチェックポイントで金を要求されたことがないので、「アフリカより(秩序だっていて)良いね」といったら、「アフリカと比べないでくれ。アメリカや日本と比べてくれ」と声を荒らげて言い返されたというのがある。

 返す言葉もなかった。
 日本で見聞きするイラクのニュースはよくないことばかりだ。実際に現地へ行ってみれば決してそんなことはないだろうと私は自分の経験から確信していたものの、それでもイラクを「なめていた」のは否めない。

イラク現地の人の感覚・感情が伝わってくる良いエピソードなのだけど、それとは違う意味で、湿地帯の人々の生活は日本的な感覚からはかけ離れている。たとえば湿地帯といっても家は地面の上に立ってるんでしょ? と思うかもしれないし、実際川の周辺に住んでいる人もいるのだが、かなりの人が川中の葦をなぎ倒して家を造っている。浮島と呼ばれる居住地は葦で作られ、場合によっては粘土で補強される。

amazonページより引用(https://www.amazon.co.jp/dp/4163917292

船着き場から上陸すると、下も上も、どこを見ても葦の世界。積み重ねられた葦の上を歩き、葦の家と葦の水牛小屋の間をすり抜ける。すべて葦簀でできた庭付き一戸建てを想像してもらってもいい。

水上の小さな葦の家なので、当然電気もガスも水道も来ていない。目と鼻の先にある陸地の街にはすべてあるのに。便所もないので敷地の端っこでする。まるで古代メソポタミアの生活か、古代メソポタミアのほうがまだ文明的かもしれない。現代の湿地帯の住民はなぜか識字率すらも低く、古代の時代の方が文明が進歩している「逆タイムマシン」状態なのだ。そのせいで、本書では滞在しているうちに徐々に時間感覚がおかしくなっていく様子が描き出されている。『イラクの水滸伝エリアでは時間の流れがおかしい。というより、時間とは一体何なのだろう。』

小ネタ

小ネタは相変わらずどれもおもしろい。クライスラーのセダン(車)がイラクで「オバマ」と呼ばれていて、エンジントラブルを起こすと「こいつはオバマじゃないどころかトランプだ」と悪態をつくとか、湿地帯で取材中に似顔絵を描いていると、16、7歳ぐらいの年頃の娘が本来禁忌の(親族以外への)顔見せをしたせいで主と険悪な空気になり、襲われないために、「電気漁で魚だけでなく漁師も感電して痺れる」という一人コントをして命がけで場を和ませたり、愉快なエピソードだらけだ。

おわりに

湿地帯で作られている謎の紋様の布の話など、ここでは紹介しきれないほどたくさんの探検要素があるので、はたして高野一行は舟を造って湿地帯での旅が完遂できるのか!? のオチも含めて、興味がある人は読んでもらいたい。年間ベスト級の一冊である。年によって水量が異なるので、ある年は一面乾燥地帯だった場所が翌年は湖になっている。湿地帯は常に移り変わる、摩訶不思議で魅力的な場所なのだ。

日本の競輪、その特殊性と、だからこその魅力についてを英国人記者が語る──『KEIRIN: 車輪の上のサムライ・ワールド』

この『KEIRIN: 車輪の上のサムライ・ワールド』は、英国人記者が語る日本の競輪論である。日本でどのように競輪が生まれ、育ち、危機を乗り越え、そして日本ならではの独特な魅力はどこにあるのか、それを一冊を通して語り尽くしていく。

なぜ英国人記者が日本の競輪を語っているんだと疑問に思うかもしれないが、その理由は簡単で、著者のジャスティン・マッカリーは日本研究で修士号を取得し、読売新聞で編集者や記者として活躍。その後ガーディアンに入社し日本特派員として活動する、日本在住歴が30年にも及び、同時に競輪の熱狂的ファンだからだ。

本書の「はじめに」は2017年に平塚競輪場で行われた日本競輪最高峰のレースKEIRINグランプリの描写からはじまるが、その熱量ある文章は競輪について何も知らない僕の「英国人記者が書いた競輪の本〜? そんなんほんとにおもしろいんか〜?」という懐疑的な態度をあらためさせるに十分なものであった。

 平塚のバンク上では、深谷が両腕をまえに伸ばし、空を見上げる。渡邉は、白い手袋をはめた親指とほか指先を合わせて輪を作って口元を包み込み、あたかも古代の石器から霊薬を飲むかのごとく背中を反らせる。(……)平原はサングラスを調節し、桑原は両腕を天に突き上げる。各々がスタートぎりぎりまでヘルメットやジャージの袖を何度も何度も調整しつづける。選手のふくらはぎにはベビーオイルがたっぷりと塗られて光っているが、それは落車時に素肌とアスファルトの摩擦を減らすための予防措置だ。この時点で、半分の選手がハンドルを握っている。(……)

競輪は後述する特殊性により「日本文化を見せてくれる入り口」にもなっていて、本書は競輪を通した日本文化論にもなっている。競輪の歴史からはじまって、競輪学校でどのようなことが教えられるのか。女子競輪の誕生と成長、さらには競輪用の自転車を作る職人たちにまで話題は及ぶ。選手らへのインタビューを通して競輪の深い魅力を探ると同時に、初歩的な戦術・戦略の解説も行われていくので、僕のように競輪についてほぼ知らない人にも(というかそういう人にこそ)オススメしたい一冊だ。

競輪の歴史

最初に競輪の歴史について少し触れておこう。日本の土に自転車のタイヤが最初に触れた瞬間は、1865年にアメリカから横浜に到着したものだった。当初はごく限られた富裕層が購入できるもので、日本で行われた最初のレース(1894年鎌倉)に参加できたのは日本在住のアメリカ人だけ。初めて日本人が参加するのは1897年のことだ。

だが、それは競輪と呼ばれているわけではない。競輪の創設者は倉重貞助と海老澤清の二人で、この二人はスポーツをとおして労働者階級層の家庭生活を豊かにする考えを共有していた。二人は戦後1947年に国際スポーツ株式会社を設立。その後当時の社会党系の総理大臣片山哲を含む国会議員への働きかけがあり、1948年には自転車競技法施行。その直後の1948年の11月20日、日本ではじめての競輪レースが福岡県の小倉競輪場で開催される──というのが、かなり省略したが、大まかな流れになる。

競輪の歴史は順風満帆だったわけではない。戦後に産声を上げ、荒っぽい男たちが集う公営ギャンブルの性質があいまってたびたび暴動などの騒動が起こり、そのたびに競輪は失われる危機に陥ってきた──が、そのあたりの詳細は本書に譲ろう。

競輪はたんなるスポーツではない。それは、日本の近代史上最悪の暗黒時代に産声を上げた、国家が認める公共の慈善活動なのだ。

日本の競輪の特殊性

次に競輪とは何なのかの話もしておこう。競輪は競艇・競馬、オートレースなどに並ぶ日本の公営競技のひとつで、選手が自転車を漕いで一着をかけて競い合う、個人競技である。それぐらいはさすがに僕も知っていたが、日本の「競輪」の特殊性は、それが単純な個人競技「ではない」ところにあることはよく知らなかった。

たとえば、日本の競輪の特徴のひとつに「ライン」がある。レース序盤の周回で、選手たちは(関東や九州など、主に同じ地区出身の選手同士で)一時的なチームを組んで走る。レースではだいたい2〜3人で構成される2〜4組のラインが組まれる。高速で走るので自転車は風の影響を強く受けることで知られるが、「先行」の選手(たいていは経験の浅い若手が務める)は先頭について、同じラインの(大抵は自分よりベテランの)残りの選手を続かせる。先行の選手は風の抵抗を受け、仲間を守るのだ。

2番手以降の選手はただ風をよけてもらってお気楽に走ってるわけではなくて後方から捲って追い抜こうとする選手を牽制・ブロックしたり、熾烈にポジション争いをする役割を担う。最初にこれを読んだときは「個人の結果を競い合ってるのになぜ若手だからという理由で損をする状態を受け入れるんだろう」と疑問を覚えたが、別に先頭だからといって力尽きてしまうわけでもなく、逃げ馬のようにに逃げ切って勝つのも競輪の醍醐味だという。『先行選手が全体力を振り絞ってレース中ずっとリードを保って勝つ、競輪においてそれ以上にスリリングな光景はないといっていい。』

最初は一番若手の後輩として、同じ地区・地域・県・競輪場出身の選手の風よけになるために頑張っていたとしても、数年もすれば最年少ではなくなり、やがてもっと若いほかの選手が盾になってくれる。競輪選手は場合によっては50代でもプロとして活躍できるので、キャリア初期に誰かを助けることで、いずれ自分にかえってくる。

年功序列による「先輩・後輩」関係が個人競技にまで持ち込まれるのは、日本の文化的習慣に特有のもので、単純に素晴らしいとして本書で語られているわけではない(諸刃の剣という表現も用いられる)。ただ、このラインがあることで競輪にさらなる予測不能性が生まれ、観戦していておもしろくなっているのは確かだ。

オーストラリア、メルボルン出身の自転車競技選手で、日本の競輪レースにも参加しているシェーン・パーキンスは、レース中にはライン同士の争い──自分たちの足を引っ張ろうとするラインの存在がいることから、自分の位置取りと、複数の相手チームがどこにいるのかを理解しないと勝てない──によってレースは複雑になり、圧倒的なスピードがあれば勝てるわけではないところが「競輪の美しさだ」と語る。

正しいポジションを取れば、まずまずの脚力の持ち主であれば誰でも勝つことができる。脚力がそれほど優れていなくても、競争力と人間性で勝負ができるということです。脚力があまり強くないのに勝つ選手がいるとすれば、それが精神的な勝負であり、レース展開を理解することが重要であるという証拠です。だからこそクリスは驚異的だった。競輪のレースで彼は、何もないところから魔法のように何かを生み出すことができたんです。

おわりに

本書を読み終えてからすぐにYouTubeで競輪のレース動画をいろいろ観ていたが、想像以上にレースは複雑だった。ポジション取りは熾烈で、ほんの一瞬の間にブラフもかましながら、時に接触もいとわずに激しく体を入れて(たびたび転倒する)ぶつかりあう。本書を読むかどうかはともかく、競輪を一度も観たことがなければ、一度観てみることをおすすめしたい。下記は昨年のKEIRINグランプリ動画だ。
www.youtube.com

サダム・フセインやポル・ポトのような独裁者は何を食べてきたのか──『独裁者の料理人 厨房から覗いた政権の舞台裏と食卓』

この『独裁者の料理人』は、その書名通りの一冊である。カンボジアのポル・ポト。イラクのサダム・フセイン。ウガンダの大統領イディ・アミン。アルバニアの首相エンヴェル・ホッジャ。キューバのフィデル・カストロ──。そうした独裁者と呼ばれることもある彼らにかつて仕えた料理人らにインタビューを行い、彼らが何を食べ、何を好み、どのようなコミュニケーションをとってきたのかをまとめている。

最初はそんなに期待しないで読み始めたのだけど、これが大変におもしろい! 独裁者は常に暗殺に怯えるものだが、この世でもっとも使い古されてきた暗殺手段の一つは「毒殺」だ。もちろんそんなことは独裁者側だってわかっているから、毒味役もいるし成分検査が行われることだってある。とはいえ、だから料理人が誰であってもいいという話にはならない。独裁者の料理人には一定以上の信頼と腕が求められる。

どんな食事を好むのかや、食事の時の立ち居振舞は、その人物の個人的な側面が出る瞬間でもある。そうした「信頼された」料理人の視点からしか見えてこない人柄やエピソードが、本書ではしっかりと語られていくのだ。

 たちまち次の問いが浮かんだ。サダム・フセインは何万人ものクルド人をガスで殺すよう命じた後、何を食べたのか? その後、腹は痛くならなかったのか? 二百万近いクメール人が飢え死にしかけていたとき、ポル・ポトは何を食べていたのか? フィデル・カストロは世界を核戦争の瀬戸際に立たせていたとき、何を食べていたのか? そのうちだれが辛いものを好み、だれが味の薄いものを好んだのか? だれが大食漢で、だれがフォークで皿をつつくだけだったのか? だれが血のしたたるビーフステーキを好み、だれがよく焼いたのを好んだのだろう?
 そして結局のところ、彼らの食べたものは政治に影響を与えたのか? もしかしたら料理人のだれかが食べ物に付随する魔法を使って、自国の歴史に何らかの役割を果たしたのでは?

本書では、特に重要な料理についてはそのレシピや作り方についても太字で言及してくれていて、レシピ本的に使うこともできる。地域はバラバラに独裁者と料理人を取り上げているので、各大陸の料理が出てくるのが楽しい。

サダム・フセインの料理人

最初に語られていくのはサダム・フセインの料理人だ。経歴をざっと紹介すると、イラクの政治家で、2001年の同時多発テロ事件以降アメリカと激しく対立。2003年にアメリカ軍に捕らえられ、06年末に死刑が執行されている。その料理人だったのが、アブー・アリだ。彼はもともとバクダード医療センターや兵士たちのために料理をしていて、その後大臣や大統領、国の代表団のための料理を作るようになった。

その時はサダム・フセイン専属ではなかったのだが、ある時突然、サダム・フセインのお付きの料理人として厨房で働くことを告げられたのだという(もちろんその前に犯罪歴などの調査は行われていたのだが)。その待遇は良かったのだという。たとえば、サダム・フセインには4人の専属料理人がいて、2人で一日働いたら次の日は休み。機嫌が良ければサダムからのチップもはずみ(機嫌が悪いと給料を減らされることもあったが)、トータルでは大きくプラスになったという。それどころか、料理人には一年に一度新車がプレゼントされるなど、金銭的な気前はよかったようだ。

アブー・アリを通して語られるサダムは、なかなかに魅力的な人物だ。兵士らを気にかけていると示そうとし、事前にアブー・アリがほとんどを用意したものではあったが料理をふるまったこともあったとか(塩を入れすぎたり写真をとったりしているあいだに焦げ付きすぎたりで失敗も多々あったようだが)。前線の部隊をサダムが訪れた時、敵が決死の攻撃をしかけてきて、(イラクの)兵士が一目散に逃げてもサダムは一切動じず踏みとどまって、逃げたアブー・アリを処分することもなかったとか。

もちろん、メインの「何を食べていたのか」もしっかりと語られている。サダムの好物のひとつは魚のスープで、「泥棒の魚スープ」と呼ばれていたものだ。本来脂の多いガッターンという魚を使うが、鮭や鯉でもできるという。魚は二センチ幅に切って小麦粉をまぶし、鍋底に玉ねぎと脂を少し入れ──と、本書では何分煮込むかまで含めて各料理の作り方が紹介されているので、試しに作ってみることもできるだろう。

サダムが暗殺を恐れて居住を転々としていた時、料理人がどう対応していたかのエピソードであったり、辞職を申し出た時のやりとり(あっさりと受け入れられたが、好物の干し牛肉だけは一年に一度ストックするため作りにきてくれと頼まれたなど)など、独裁者と料理人の親密な関係性が、この章ではよく語られている。

イディ・アミンの料理人

ただ、独裁者と料理人は(当然だけど)常に良い関係を築けるわけではない。続くイディ・アミンはウガンダの独裁者で、人肉も食べていた残虐な男という噂が流れている人物だ。その料理人オトンデ・オデラは、前代の大統領に仕えていたのだが、当時(1971年)参謀総長だったイディ・アミンはクーデターを起こし権力を掌握。

権力を脅かしそうな人物は手足や舌を切り取られ残虐に殺されたが、オデラはそのままアミンの料理人として雇われることになった。イディ・アミンは疑り深くその気になればすぐに部下を殺す男であり、そうした人物のもとで料理人をやるのはやはり簡単ではない。たとえばある時、料理人(オデラ)がレーズン入りのピラフを作ると、アミンの13歳の息子はそれがおいしくてばくばくと食べ、ひどい腹痛を起こした。

普通に考えたら食べ過ぎてお腹が痛くなっただけだが、アミンは息子が毒を盛られたと勘違いして、宮殿中を走り回って、うちの息子になにかあったらお前らを全員殺してやる!! と叫んでいたという。料理人(オデラ)はこのままじゃ自分の命がまずいと思い、アミンの息子を連れて裏口からこっそり抜け出し、大統領一家のかかりつけ医にかけこみ、腹を押してもらっておならをだし、息子の腹痛を楽にさせた。

すぐに料理人(オデラ)は医者に電話をかけさせ、お子さんは大丈夫ですと連絡したが、アミンはその時気も狂わんばかりに毒だ! 毒だ! と叫んでいて、電話が繋がっている間も料理人のひとりの頭にピストルをつきつけていたらしい。その後、アミンは料理人(オデラ)をみかけるたびに笑って「おなら、おなら!」と叫んでいたというが、料理人からすればまったく笑い話ではない。

私は別に可笑しくはなかった。仮に冷静さを失って、モーゼスを病院に連れていかなければ、私はとっくに死んでいたかもしれない。

おわりに

他にもアルバニアの独裁者エンヴェル・ホッジャは糖尿病により、一日1200キロカロリーしかとることが許されない。ホッジャが死んだら責任問題となって、最悪死刑にされることから、命がけで低カロリーの料理(しかも満足するほどおいしい)を作るはめになった料理人の話など、とにかくどのエピソードも面白い。

ポル・ポトやカストロ、ゲバラなど、このあともいろいろな人物が取り上げられるが、料理を通してはじめて見えてくる人間性というのもある。訳も良いので、サクッと読み通せるだろう。おすすめの一冊だ。

最後に宣伝

最近『SF超入門』というSF小説への入門書を書いたからよかったらよんでね。Amazonは在庫がなくなりそうだけど。

どうやって「10000時間」の英語学習を楽しい時間に変えるのか?──『英語は10000時間でモノになる ~ハードワークで挫折しない「日本語断ち」の実践法~』

この『英語は10000時間でモノになる』は、長年「情報考学」というサイトで書評を書いていた橋本大也さんによる英語学習本である。英語学習本はありふれた存在だが、本書の特徴が何かといえば、「10000時間」というキーワードに集約される。

英語学習本は「楽して」とか「これだけ覚えればいい」とか、省力化して英語を使えるようになろう、という発想が多いが、本書の場合その主張しているメソッドは、「10000時間やれ!」と全然楽じゃないのである。その時間があればギターでもピアノでもイラストでもフランス語でもなんでもモノになるじゃろがい! とツッコミを入れたくもなる。だが、本書が良いのは、「では、どうやってその困難な10000時間の英語学習を現実的に達成できるのか」についてつらつらと書いている点にある。

10000時間を学校のお勉強のように「苦しい」時間として捉えるとそれは過酷な道のりだが、毎日のゲームやアニメ鑑賞のような「楽しい」時間として使えることができれば、それはそう難しいことではなく、日々の生活を送っていくうえで自然に達成されるものになる。本書は「できる限り楽しく」英語に1万時間触れる(学習ではなく)ために、何をしたらいいのか、何ができるのかを書いていく本なのだ。

知識英語と感覚英語

本書は英語が「モノになる」と表現するだけあって、「読める」だけでなく「聞ける」「話せる」「書ける」までを含めて、何をすればいいのかを解説している。

本書では前提として、英語学習で身につく英語を「知識英語」と「感覚英語」の二つに大別し、前者は学校で習った文法などを使って目の前の英語を解読していく行為だと語る。たいして後者は文字通り感覚的に、日本語話者にとっての日本語のように、直感的に使える英語だという。前者も悪いことばかりではない。じっくり文法を理解して解読していけば意味を100%近く理解できる。和訳するならこちらが必要だ。

しかし、速度は圧倒的に遅い。だから、本をすらすらと読むこともできない。著者も感覚英語を身に着けはじめてからは、わからない箇所はあれど本をすらすらと読めるようになった(一ヶ月に一冊だったのが、数日で一冊へ)という。『そして何よりも、書かれていることを楽しむことができます。文法分析回路や和訳エンジンを作動させないので、脳の100%を中身を味わう、楽しむことに集中できるからです。』

感覚英語に強くなるために重要なのは「完全理解」を諦めて、とにかくわからないままに英語に触れ続けること。英語を「勉強する」のではなく「使う」こと。そして、英語との接触回数を増やし、「使う」ために最良の方法が本を読むことなのだ──といって、本書では洋書多読の方法論について語っていく。

まずは、多読だ!

本を読めば短時間で大量の英語のパターンに触れられる。しかもそれはネイティブが使う自然な表現に近いものだ。特に小説は、細かな描写を味わい、人々の服装や持ち物、自然や天候の状態などほかのジャンルではめったにでてこない単語や表現と出会えるので、小説を読むのがおすすめされている。

で、これは本書で感心したポイントの一つだが、初学者が単語もわからないままに小説を読み始めた時に陥りがちな穴を、本書は網羅的に塞いでくれているのが優しい。たとえば、僕もかつては未訳のSFが読みたくて英語が苦手なまま何十冊も洋書を読んでいたからわかるのだが、いきなり読み始めても冒頭がよくわからないのだ。

登場人物Aが朝起きてブレックファストを食べて〜みたいにわかりやすいプロローグなら入りやすいが、情景描写や背景設定や場面切り替えが頻発する物語も多く、曖昧な英語力では誰が主人公なのかすら、最初にスッと把握するのも困難だ。

本書ではまず、洋書を読む前に、小説の袖や裏表紙に書いてある概要を熟読すること、目次を丁寧に読むこと、舞台となる国や都市がわかるのなら、Wikipediaで調べて概要を把握しておくこと──といった下準備を推奨している。そして、仮にオープニングがわからなかったら、飛ばすか、読み直すかだ! といって、その次にやるべきなのは、人物関係図をノートに書き出すことで……と、洋書、中でも小説を読む上で、引っかかりそうなポイントで何をすべきなのかを丁寧に教えてくれている。

自分の話

本書を読んでいて既視感があったのだけど、それは僕も同じような理屈(楽しんでやらないとだめだ、そして英語の接触頻度を増やさないとだめだ)で多読に至った人間だからで、その軌跡は実はこの「基本読書」にも残っている。一時期一、二週間に一冊ぐらい洋書を読んでこのブログで書評を書いていた時期があるのだ。

で、何十冊も洋書を無理やり読みこなしているうちに、たしかに本書に書いてあるような感覚的に読むことができるようになっていった。ある程度「感覚的に読める」ようになると、別の場面でも英語で情報が収集できるようになる。YouTube動画はだいたい自動の書き起こし字幕がついてるから、海外の興味のある動画(ゲーム攻略とかSF作家インタビューとか)を英語字幕で観たり、映画を英語字幕で観たり(そのほうが翻訳が入らないので意図がとりやすい)と横展開できるようになっていって、「観たいものを観る」だけで、意識せずとも英語に触れる時間が増えていった。

今もよくゲームLeague of Legendsの韓国リーグや世界大会の英語実況を聞いているが、その意味がいつのまにか聞き取れるようになっていたのは「勉強を勉強と思わない下積み」の時間が長かったからだ。つまり、僕は本書を読む前からここに書いてあることを実践していたのだ──ということで、僕にとってはそう新しいことは書いてはいないが、僕みたいにやってる人がいるんだなと新鮮な驚きがある本だった。

おわりに

とはいえ橋本さんももともとめちゃくちゃ本を読む人だし、同じようにできましたと言っている僕もそうだしで、人間としては外れ値感がある。普段そこまで本を読まない人たちもここで書いてあるような多読を実践できるのか。実践しようと思うことができるのかはよくわからない。

それでも本書の基本的なテーマ──「楽しむことで、10000時間英語漬けになる」──を知ることは無駄にはならないだろう。結局、最終的には、自分の好きなもので、時間を作れば良い。海外のプロゲーマーや配信者で驚くほど日本語がうまい人がよくいるが、大抵そういう人は日本のアニメをひたすら観て勉強してるんだよね。

特に洋書多読をしてみたいと思っている人におすすめの本だが、本書には他にも、小説の読み方だけでなくノンフィクションの読み方について。どんなサイトや人を洋書を読む際の参考にすればよいのかについて。Bing AIやChatGPTの活用術(このあたりに触れているのは、2023年の本の強みだ。)、リスニングや英語で書評を書く方法についてなど、かなり細かく取り上げてくれている。

旧石器時代の人間の意識、世界の認識を「体験」する過程──『人間のはじまりを生きてみる: 四万年の意識をたどる冒険』

この『人間のはじまりを生きてみる』は『動物になって生きてみた』で知られるチャールズ・フォスターの最新邦訳作。『動物になって生きてみた』は、僕も刊行当時読んで記事を書いているが、衝撃的な傑作であった。『動物になって〜』の中で、チャールズはアナグマやキツネ、カワウソといった動物になりきって生活し、その過程で彼らがどのような世界を観ているのかを実際に体験している。

それが、仲間や撮影スタッフを引き連れて数時間アナグマ的な体験をしました〜といった内容だったら微笑ましい内容だが、彼の凄いところは普通の人間がやらないレベルまでやっていたところにあった。アナグマとして生きる章では、巣穴を本格的に彫り始めるところからはじめ、何日もそこで泊まり込み、ミミズを生で食い、雨が降っても家に戻らず、川や地面に落ちていて食べれそうなものを何でも食う。道路でぺちゃんこになったリスから、カタバミ、野ニラ──そして、そうした壮絶な体験、その主観を、仔細にレポートしていくのである。これは、かなりイカれた本だった。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
で、そんな彼の最新作、それも「人間のはじまりを生きてみる」というタイトルなので、今度はもっと凄いこと──たとえば狩猟採集民の生活を何ヶ月にも渡って実際にやってみたり──に挑戦しているのかと思うだろう。実際、その推測はあっている。今度のテーマは、アナグマやキツネではなく、「人間とはいったいどんな生き物なのか」だ。われわれは人間だから人間をよくわかっていると思うかも知れないが、実際にはわれわれは「現代人」なのであって、その来歴がわかっているわけではない。

そこで、彼は人間にとって三つの重要な時代──狩猟採集民時代、新石器時代、啓蒙時代──の人間の生活様式を追体験することで、人間の歴史を生きなおそう、その過程で人間とはいったいどんな生き物なのかについて答えを出そうというのでる。

 これは旅行記だ。この旅では過去に向かい、人間とは何か、自我とは何か、過去は現在の私たちとどのようにつながっているのかを探る。ひとりの男が、そのつながりを感じようと試みる──私がどうやって狩猟採集民に、農民に、そして啓蒙思想をもつ還元主義者に変身しようとしたかの物語で、そのすべては、私とはいったい何者なのか、私はどう生きるべきなのか、そして意識というものが人間の体に組み込まれるとき、それはどんな形をとるのかを死にもの狂いで知ろうとする旅になる。

ある意味では『動物になって生きてみた』の続篇ともいえる本作だが、その向いている方向は実は異なっている。『動物になって〜』の路線を踏襲するのであれば、彼は狩猟採集民と同様の生活をして、その苦境を赤裸々に臨場感たっぷりに語っていくことになっただろう。だが、本作はそうではないのだ。

思索と感覚

確かに、苦境は語られる。たとえば最初はいきなり狩猟採集民の生活を「冬」に体験しようとするので、何も食べるものはなく、何日も飢餓状態でさまよい歩くことになり、食べるものといえば車にはねられた動物の残骸ばかり。だが、そうした苦境の描写、彼の行動を直接的に示すパートは、本作のわずかな部分を占めるにすぎない。

ではそれ以外の大半のパートで本作は何を書いているのか? といえば、思索と感覚である。狩猟採集民のように生活をして、何を感じたのか。森と一体化する方法、またその感覚について。森に、鳥に、カエルに、キツネに、煙に、雨に、何を感じたのか。『学者が過去に関する本を書くときは事実からはじめる。私は自分の感覚ではじめる』と語るように、森の中で狩猟採集民として暮らし、彼らがどのような感覚で世界を認識しているのか? その感覚をただひたすらに書き連ねていくのである。

必然、その描写は時折スピリチュアル性を帯びていく。霊のキツネが当たり前のように彼の周囲を走り回り、いるんだかいないんだかわからない謎の人物(トムやその父親のX)との対話が常に繰り広げられる。かなり特殊な本だ。

 意識を呼び起こすのに、大げさな幽体離脱体験など必要ないように思えてくる。その代わりに、炎をじっと見つめ続ければいい。炎は文字通りの生き物を、記号を表現するものに変えてしまう。炎はすべての人を、隠喩的で物語を話す動物に変えてしまう。

抽象的だが、だいたいこうした文章が全体に渡って続く本である。こうした、個人が森の中で暮らした感覚を(本書後半では新石器時代、啓蒙時代が続くが)ひたすら読まされて、それにいったい何の意味があるのか? と疑問に思う人もいるかもしれない(正直僕も最初は読みながら思わずにはいられなかった)。しかし、当たり前のように暖房があり、捨てるほどのカロリーがある生活に浸った人間が、こうした野生の中に帰り、感覚、感性を一度ゼロリセットしようとする試み、その描写には、異様なまでの迫力とスペシャリティ(唯一性)があり、読んでいておもしろいのである。

また、『動物になって〜』も彼の実体験と共に動物の細かな生態などの純ノンフィクション的な記述のレベルが高くておもしろかったが、その筆致は本作でも健在。狩猟採集民の生活が現在の最先端の研究で判明している限りどのようなものだったのか、思考や行動、言語の成立過程まで、詳しく語られていて、「いや、そんな感覚の話なんか興味ないよ」という人も読める本にはなっている(満足はしないだろうが)。

おわりに

 この本はマニュアルではない。トナカイ肉のシチューのレシピもガンの皮で作る脚絆の型紙もないし、丸いキノコで火を運ぶ方法も、フリントの斧を柄に取りつける方法も、石柱を立てる方法も書いてはいない。別の時代の暮らしを再現しようとする体系的な試みの記録でもない。そうしたことを書いた本もウェブサイトも、たくさんある。

しかし、本書に書いてあるようなこと──、その狩猟採集民の視点からみた世界の認識とその感覚──を書いた本やウェブサイトは、そうそうないだろう。少なくとも僕は本書ではじめて読み、そこには斬新な驚きがあった。興味がある人は、ぜひ手にとって観てね。

ロシアの大規模な工作活動、個人情報の流出などフェイスブックの数々の失態はなぜ起こってしまったのか?──『フェイスブックの失墜』

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フェイスブックは今なおSNSでは最大の存在感を誇るが、もちろん完璧なサービスというわけではなく、トラブルや批判は特にこの5年間で頻発している。ユーザ情報の流出、広告のために執拗にユーザをトラッキングしようとする姿勢への批判。表現の自由を理由にヘイトスピーチやフェイクニュースを取り締まろうとしない姿勢、国家ぐるみの工作活動の展開(フェイスブック上で)など、とにかく問題は数多い。

軸足をメタバースに移そうと社名を「メタ」に変更するも、現状この領域も売上に関してはそこまで見通しが明るいわけではない。いったい、フェイスブックで何が起こってこのような状態になっているのか? 本書『フェイスブックの失墜』はその原因を、多数の関係者への調査によって明らかにしていく一冊である。

 多くの人は、フェイスブックを「行き先を見失った企業」であり、創造主の意図しない行動を取る「フランケンシュタイン」のような存在だと考えている。しかし、私たちの見方は違う。(……)
 本書では、フェイスブックがユーザーを保護せず、世界的な支配力を持つITプラットフォームとしても脆弱であることが露呈した、前回と前々回の大統領選をまたぐ五年間に焦点を当てている。フェイスブックを現在の姿にしたすべての問題が、この期間に頭をもたげてきたのだ。

刊行時期的に「メタ」への社名変更への言及がないのはともかく、Oculusの買収やその関連の話についてほとんど触れていないなど物足りないものの、「まあ、社内がこんな状況・体制・思想じゃ、フェイスブックがこうなるのはしゃあなしやな」と納得せざるを得ない内情が語られていて、なかなかおもしろい。

フェイスブックに興味がなければ読む意味はないだろうが、多少なりともフェイスブックを使っていたり、ユーザを何億人も抱えるような巨大なSNSサービスがどのような問題にさらされるのかを知りたい人には得るものもあるだろう。

フェイスブックの問題点──自由な社風と責任感の欠如

『フェイスブックの失墜』という題だとまるで天高く登りきったフェイスブックが何らかの理由によって落ちていったようにも思えるが、読み終えてみればフェイスブック社が抱えていた問題はその最初期から内包されていたといえる。その問題が、規模がでかくなるにつれてさまざまな形で表にでてきただけなのだと。

いくつかある問題点のひとつは、この手の少人数のハッカー気質の若者らが集まった企業がでかくなった時にありがちな、「多くのユーザーを扱う企業としての責任感」と「自由な社風」の相容れなさにある。たとえばフェイスブックのシステムは、オープンで透明性が高く、すべての社員がアクセスできるように設計されてきた。そのおかげで、面倒な承認をとることもやりとりも経ずにデータを閲覧し、操作できた。

100人規模であればそれでもよかったかもしれないが、エンジニアが何千人にもなるとそう簡単な話ではなくなる。ユーザの個人的なデータを閲覧できるエンジニアらは一度デートした相手のことを調べたり、デートをする前の相手を調べたりと自由に情報を利用していた。その幾人かは仕事用のノートパソコンを使っていたので、普通ではない活動を社内システムが検知し、上司が違反行為を報告することで処罰を受けたが、その数は所詮数十人で、その裏に具体的に何人いたのかは不明確である。

そうした事態が明らかになったのは2015年の9月で、それはセキュリティ責任者のステイモスが就任直後の出来事だった。彼が調査を行ったところ、判明しているだけでも何千人ものエンジニアがユーザーの個人データにアクセスしていた。フェイスブックはユーザーデータを自社のコンピューターセンターで暗号化する約束を守っていなかったし、責任の所在は不明瞭で、セキュリティに対する意識はその規模がかなり大きくなった2015年時点においても完全に欠如していた。

フェイスブックの問題点──マーク・ザッカーバーグの王国

フェイスブックのもう一つの大きな問題は、創業者のザッカーバーグに権力が集中している点にある。たとえば、フェイスブックではフェイクニュースやヘイトスピーチが野放しになっていると批判がよく上がるが、これには言論にたいして「最大限のオープン性」を保つというザッカーバーグの基本的な姿勢、立場が関係している。

ナンシー・ペロシ下院議長のフェイク動画(酒が入っているかのようにろれつが回らずスピードもおかしい)が蔓延した時も、ユーチューブは偽情報ポリシーに違反していると削除した一方、ザッカーバーグと政策チームはこの動画をパロディと定義できないかと考え、このままにしておこうと決断を下した。ナンバー2であるサンドバーグはこの決定は自分にとって非常につらいものだったともらしたが、ザッカーバーグに対抗できるであろう唯一のポジションともいえる彼女も従う他なかったのだ。

ザッカーバーグは「企業は国を超える」とスローガンを挙げ、世界中の人間を繋げるために急スピードでの成長を求め続けてきたが、それが生み出した弊害も大きかった。たとえば開発途上国への上陸では、コンテンツをチェックするモデレーターが数人しかおらず、現地の事情を考慮しなかったがために数多くの問題を引き起こした。

ミャンマーでは100もの言語が用いられているが、投稿をチェックするモデレーターはビルマ語を理解する一人のみ。結局ミャンマーでは陰謀論やフェイクニュースが入り乱れ暴動に発展し政府がフェイスブックへのアクセスを禁止する事態にまで発展した。

おわりに

ザッカーバーグが悪かのように書いてきたが、SNSで広告を利用するビジネスモデルの都合上、ユーザーデータの取得とビジネス領域の拡大は必然的に求められる部分である。フェイクニュースや誹謗中傷じみたデータの削除、少なくともフィードに上がってこないようにする変更にフェイスブックが積極的でない理由の一端は、そうしたニュースがフィードに流れてくることでユーザーの滞在時間が増えるからだ。

 こうした弊害はもともとシステムの設計に焼きついていたのだ。かつてフェイスブックでプライバシー分野を専門に担当したディパヤン・ゴッシュが指摘するように、「一般社会においては倫理上超えてはならないラインが存在するが、エンゲージメントを優先する機械ならいつでも進んでそのラインを超えていく」のである。

その誕生の時からフェイスブックはジレンマにさらされてきたのだといえる。もっとも、社内には警告を発する社員が多くいたのだけれども……。僕はもともとフェイスブックは嫌いなサービスだが(ユーザー情報を執拗に取得しようとする姿勢、ニュースフィードに関する不明瞭なアルゴリズム、Webのデザインの根本的なダサさ)、本書を読んだらフェイスブックを積極的に利用したいとはとても思えなくなるだろう。

フェイスブック上でロシアの大規模な介入があったと判明した時の社内の混乱の様子など紹介した以外の部分にも読みどころはたくさんあるので、読んでみてね。

今月の気になる新刊&いま読んでいる本

なんとなく今月の気になる新刊を備忘録用に羅列してみようかと。

ノンフィクション

『WORLD WITHOUT WORK AI時代の新「大きな政府」論』(みすず書房)。『労働が人と人とを結びつけていた時代が終わったとき、これまでの社会政策は、いったいどのように変化していくべきなのだろうか? 新進気鋭の経済学者が「ALM仮説」「摩擦的テクノロジー失業」といった経済学的知見と、AI革新を結びつけ、21世紀の新たな「大きな政府」像を提示する。』とのこと。おもしろそうだがどうだろうか。『サスペンス小説の書き方 パトリシア・ハイスミスの創作講座』(フィルムアート社)。これはもう手元にある(献本御礼)。ぱらぱらめくるかぎり詳細なノウハウというよりも概論的・エッセイ的な内容でおもしろそう。イアン・ネイサン『ギレルモ・デル・トロ モンスターと結ばれた男』(フィルムアート社)。デル・トロの本。『最新作『ナイトメア・アリー』『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』に至るまでの、人生と(未完の映画を含む)全ての作品を解き明かす決定的評伝!』とのこと。まあおもしろいだろう。エマ・チャップマン『ファーストスター 宇宙最初の星の光』(河出書房新社)。『宇宙誕生後の「暗黒時代」に現れた最初の星の輝き。「ファーストスター」(初代星)はどんな星だったのか? どんな役割を果たしたのか? 宇宙史の空白に迫る、研究・観測最前線!』宇宙の第1世代の星という発想がなかった。これもおもしろそうだ。ニック・ランド『絶滅への渇望』(河出書房新社)。ニック・ランドの本。おもしろいかどうかはともかくとしてぱらぱらとめくって内容を把握しておきたい一冊。セス・J・フランツマン『「無人戦」の世紀 軍用ドローンの黎明期から現在、AIと未来戦略まで』(原書房)。この手の軍事兵器関連の本は当たり外れが大きいのであまり期待していないがとりあえず読むかなあ。シーラ・フレンケル セシリア・カン『フェイスブックの失墜』(早川書房)。これは今読んでる本。ユーザーを保護せず、世界最大の規模を持つITプラットフォームとしてあまりに脆弱なその内部体制について書かれていく。今のところおもしろい。

小説

塗田一帆『鈴波アミを待っています』(早川書房)。VTuber小説。表紙イラスト:しぐれういさん、装幀デザイン:木緒なちさんが帯コメントがにじさんじの健屋花那とちゃんとわかっている人が構築した布陣でなかなか良さそうだがどうだろうか。ウィッチャーは長篇もいいけど短篇の切れ味がいいんだ。Netflixのドラマの出来も(短篇をベースにしてることもあって)素晴らしい。郝景芳『流浪蒼穹』(早川書房)。「折りたたみ北京」の著者、郝景芳の長篇だったっけ? おもしろそう。チャーリー・ジェーン・アンダーズ『永遠の真夜中の都市』(東京創元社)。チャーリー・ジェーン・アンダーズは科学で世界を作り変えていく科学少年パートと魔法の力で特別な力を持つ少女パートによって構成されたSF✗ファンタジィな『空のあらゆる鳥を』の著者。『永遠の〜』はドストレートなSF作品のようだ。そこそこ期待作。