基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

なぜ言論の自由は前進と後退を繰り返すのか──『ソクラテスからSNS: 「言論の自由」全史』

この『ソクラテスからSNS』は、紀元前の古代アテナイの時代からはじまって、インターネット時代である21世紀の現代に至るまで、世界中の「言論の自由」をめぐる事件や動きを取り上げていく、「「言論の自由」全史」に嘘偽りない内容である。

言論の自由は昨今突然現れた概念ではない。古代アテナイの政治家、ペリクレスは紀元前431年に開かれた議論、反対意見の許容といった価値観を称揚したし、9世紀、自由思想家、イブン・アル・ラワンディはアッパース朝で預言者や聖典にたいして疑問を呈した。その後も印刷技術の誕生による出版物の大規模な増加など、各種イベントに呼応する形で、言論の自由は前進と後退を繰り返してきた。

言論の自由が抑圧されると社会では何が起こり得るのか。言論の自由が良いものだとして、ヘイトスピーチやフェイクニュースの拡散のはどこまで許容すべきなのか。なぜ言論の自由は前進と後退を繰り返すのか。著者によれば、『今、世界の言論の自由は急速に縮小している(p.9)』そうだが、それはなぜなのか──。

本書は言論の自由をめぐる約3000年の歴史を扱っている。言論の自由は現代日本でも日々議論が巻き起こるホットなトピックであり、様々な立場の人間が存在するが、言論の自由について少しでも考えたいと思うことがあるのなら、一度本書にざっと目を通しておくべきだろう。今ネット上で繰り返される議論も、状況も、すべて歴史上で何度も行われてきたものなのだから。それを知ることの価値ははかりしれない。

 しかし、ほぼいつも同じなのは、言論の自由が導入されると、その時からエントロピー増大のプロセスが始まるということだ。政治制度がどのようなものであれ、その指導者──どれほど良識のある指導者でも──はいずれ、「今の言論の自由はさすがに行き過ぎだ」と言い始める。(……)言論の自由のエントロピー増大の法則は、二五〇〇年前と同じように現代にも生きている。認めたがらない人は多いかもしれないが、注意して見てみると、二一世紀においても大昔と同じように、何かと理由をつけて言論を制限しようとする動きは非常にありふれているとわかる。(p8-9)

とにかくおもしろいし、参考になる本だった。気になる人は、「はじめに」と現代について語った最終章の「インターネットと言論の自由の未来」だけでも読むべきだ。

最初期の言論の自由

さて、ひとまず「最初の言論の自由についての議論」の事例を紹介していこう。民主主義や言論の自由の価値がはっきり認められているのは、紀元前5世紀、アテナイでのことである。アテナイは直接民主政で、市民たちが自ら提案し、議論をしていた。そうした統治体制が機能するためには、言論の自由は何よりも重要なものだった。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、アテナイが強い都市国家となったのは、市民が言論の自由を得てからだったと語る。アリストテレスやプラトンのような人物がアテナイで教育をし、文章を書き、アカデミーを設立することまでできたのは、アテナイが異なる政体の樹立を提唱することすら許す、言論の自由のある場所だったからだ。

アテナイ人は自由な思索ができたことで、科学や医学を大きく進歩させることができた。厳しい政治的、宗教的検閲があるような政体の下では同じような進歩はとても不可能だっただろう(p25)

とはいえ、アテナイでの言論の自由の黄金期はそう長く続かない。権力に飢えた政治家たちに自由、平等な言論が悪用される。野心家が民会を扇動し、シチリア遠征を開始することを議決したことで、アテナイの陸海軍がほぼ壊滅してしまう。このようなことが起こると、貧しく無知な者たちが、裕福で学のある者たちと同様の発言権を持っている状態で、どうして帝国を維持できるかと考えるエリートたちも増えてくる。

その後アテナイは寡頭体制と民主主義体制の間を行ったり戻ったりするが、共通しているのは「クーデーターなどで寡頭体制に移ると、専制と抑圧によって真っ先に言論の自由が犠牲になる」こと。そして、仮に民主政に移行できたとしても、その体制が不安定なままであれば、寡頭政と同じぐらい(言論の自由にたいして)抑圧的になることの二つだ。後者は、民主政を守るために扇動者らを取り締まろうという動きが活発になるからだ。そのため、『言論の自由を守るためには、民衆の恐怖や熱情を和らげられるような抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)が必要になる。』

グーテンベルクの革命と言論の自由

その後言論の自由は長い停滞期に入るが、(言論の自由をめぐる)状況が起きるのは15世紀〜17世紀にかけてだ。1450年にはグーテンベルクによる活版印刷技術の発明が起こって出版点数が大幅増加。それに伴ってヘイトスピーチ、宗教的・政治的扇動、プロパガンダ、猥褻な図画などありとあらゆる本が刊行されるようになり、教会や権力者たちは即座に言論の自由の規制へと動くことになる。

宗教・権力をめぐる混乱が収まりつつある17世紀に至ると、書物はイノベーションを加速させ、芸術、科学、学問などあらゆる分野を発展させたが、それに伴って言論の自由を推進する人々もぽつぽつと現れ始める。特に各地域の政体の力が強く分権的だったオランダでは書物の検閲などで足並みを揃えることが難しかったことから比較的言論の自由が保証されていた地域であり、学問が大いに栄えた。

検閲はあらゆる学問の停滞につながり、真実の拡散を止めると訴えた詩人、ジョン・ミルトン。言論の自由は、自由の偉大なる防塁である。両者は同時に栄え、同時に死ぬ。と書いたゴードン。市民的自由の命、強さは、立憲政治と書き言葉の無制限の自由の中にあると書いた哲学者のペテル・フォルスコールなど、様々な人がこの時代に言論の自由を語り、少しずつその重要性が根付いてきた。1760年代にはスウェーデンで「出版自由法」が可決し、スウェーデンの一人あたりの書物の年間消費量は18世紀後半には前半の倍以上に増えた。これは、言論の自由のパワーといえるだろう。

インターネットの時代

そこから時は流れてインターネットの時代。誰もが自由に発言できるようになったのだから、言論の自由は揺るぎないものになったのではないかと思うかもしれないが、そうとはいいきれない。それは先の事例をみれば明らかだろう。

新しい技術によって自分の意見を表明できるようになると、それは最初大いに歓迎される。しかし、すぐに誰かが「これは行き過ぎだ」といって、制限を加えはじめる。その例は現代でいくらでも見つけることができる。たとえばドイツはナチスへの恐怖があるから、独裁の復活を防ぐべく、極端な意見を封じ込めようとする傾向が強い。2017年には大規模なSNSプラットフォームに、明らかに違法なコンテンツを24時間以内に削除することを義務づける「ネットワーク執行法」が制定されている。

フェイスブックやツイッターはアルゴリズムによるコンテンツモデレーションを行っているし*1、それはグローバルサービスが避けては通れない国家権力の圧力を受けてのものだ。*2

当然、そうした規制も無根拠なものではない。人種差別、扇動にプロパガンダ、あらゆる表現が世に溢れる。2018年のMITの調査によると、虚偽のニュースは正しいニュースよりも70%もリツイートされやすいという。ソーシャルメディアにおいては、虚偽やネガティブ、誇張され、感情をかきたてられる特徴を持つコンテンツは速く、広く拡散されるが、事実に即した話、理路整然とした話は拡散されない。

では、どうすべきなのか? 著者は、SNS上でのヘイトスピーチは想像以上に少なく(全体の0.1%から0.3%)、言論の抑制はヘイトスピーチを減らすよりもむしろ増幅する効果をもたらし得るとフェイクニュースも含めいくつかの研究を引きながら書いているが、ヘイトスピーチやフェイクニュースの反乱にたいしてどのように対抗していくべきかについては、より広範な研究が求められる部分だろう。

言論の自由に負の側面があることは間違いないが、同時にそれがどれほどの発展を促し、言論以外の自由の防塁として機能してしてきたのかを思えば、言論の自由を死守する意義が、本書を読めばよくわかるはずだ。

おわりに

歴史的にみて言論の自由は何度も前進と後退を繰り返してきたし、それはこれからも変わらない。ウェブはまだ普及して30年あまり。言論の自由についての混乱はまだまだ続く。ある意味では激動の、おもしろい時代といえるのかもしれない。

現代を理解するための、重要な一冊だ。

*1:フェイスブックの2020年のデータによると、「ヘイトスピーチ」が見つかったとされたケースの約10%で処理にミスが起きているという。

*2:ツイッターは「言論の自由党の言論の自由派所属」を自称していたが、もうそんあことはいえないだろう。2017年にイギリス議会の公聴会に赴いたツイッターのマネージャーは、敵意に満ちた議員の前にたち、「ジョン・スチュアート・ミル流の哲学」を捨て去ると宣言せざるを得なかったという

第11回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作にして、刺さる人にはこれ以上なく深く刺さる物語──『ここはすべての夜明けまえ』

この『ここはすべての夜明けまえ』は、第11回ハヤカワSFコンテストの特別賞を受賞したSF中篇(もしくは短めの長篇といえるかぐらい)だ。特別賞は長さが短めだったり一点突破の魅力があったりで受賞する作品が多いが(たとえば過去事例で代表的なのといえば草野原々の「最後にして最初のアイドル」など)、本作も「刺さる人にはこれ以上なく深く刺さる」、2100年代を舞台にした、問題まみれの家族の物語だ。

とある理由からひらがなだらけの文章で物語が始まるので面食らうのだが、設定開示の順番は心地よく、すぐに作中世界へと入り込んでいくことができる。単行本になる前からゲラが配られたりSFマガジンに全文掲載されたりしていたのでエモいエモいと評判だけは聞いていたのだけど、実際に読んでみたらたしかにこれはエモーショナルな物語だ。しかし、ただ感動させよう、感動させようという気持ちがはやる素人臭さの残る感じではなく、テクニカルにじわじわとエモい空気を醸成していて、デビュー作にもかかわらずシンプルにうまいなあとその技巧にまず感動する作品だった。

あらすじなど

物語は次の一文からはじまる。『二一二三年十月一日ここは九州地方の山おくもうだれもいない場所、いまからわたしがはなすのは、わたしのかぞくの話です。』漢字がまばらにしか使われていないし、文章もおかしいが、どうやら語り手は100年以上前に「ゆう合手じゅつ」を受け、意識を引き継いだロボット的な存在になり、1990年代からこの2123年までを生きてきた人物であることがすぐに明らかになる。

その語り手がとつぜん「家族の話」を語りはじめたのは、もうすでに亡くなってしまっている父親から家族のことを書いてほしいと過去に頼まれたからなのだという。融合手術(今後はこの表記で)を受けたのは家族の中では語り手だけで、その家族は当然時間経過にともない一人またひとりと死んでいくわけだから、最後に残ったお前がその記録をとれ、というわけだ。家族はまず父親と母親。そしてこうにいちゃん、まりねえちゃん、さやねえちゃん、最後に、語り手の恋人であった「シンちゃん」。

シンちゃんはさやねえちゃんの子どもで、語り手にとっての甥っ子でもあったのだという──。その時点で問題が感じられるが、はたしてこの家族には何があったのか。なぜ語り手は家族の中でただ一人だけ融合手術を受け、さらには姉の子どもと恋人になるに至ったのか。家族はなぜ、死んでいったのか、修理も受けていないようにみえる語り手は、はたしていつまで言葉を発することができるのか? そうした謎が明らかになるにつれ、次第にこの世界の背景、歴史もまた明らかになっていく。最初、語り手の家のまわりにはだれもおらず、人類がどうなっているのかもわからないのだ。

なぜ融合手術を受けたのか。

語り手はなぜ融合手術を受けたのかといえば、愉快な話があるわけではない。そもそもが生きるのに苦労していて、何を食べても飲んでも極度の胃下垂によって胃に溜まりトイレで吐いてしまう。夜も眠れず、何度も昼夜逆転を繰り返し学校に満足に行くこともできない状況だったのだ。働くことも当然できないわけだが父親からはお金はあるから働かなくていいよ、安心していいよ──と保護してもらっている。

とはいえ、それでめでたしめでたし、とはならない。語り手は夫婦にとって最後の子どもであり、その出産タイミングで出血が激しく母親は亡くなっている(1997年)。当時一番上の兄は18歳、長女は15歳。年の差のある兄姉であり、はなから語り手は兄たちから「母の命を奪った子ども」として、敵視とまではいかずとも、良い捉え方はされていなかった。ろくに働くこともできない体質。母の命を奪って生まれた存在。兄姉たちからの敵意。融合手術を受けたくなる気持ちもわかる、つらい人生だ。

 それでたべるのもねるのもいやな生活が十才ごろから二十代のぜん半までつづくとさすがにうつっぽく死にたくなっていろいろありけっきょくゆう合手じゅつをうけることになるんだけど、ふとおもいだしたからボーカロイドのはなしがしたいです。まどの外があかるくなってきたからいまはいわゆる夜明けまえ、でも夕やけみたいに空が赤くそまり、いまはほんとうのところ朝なのか夕方なのかわからなくなるけしきをまえにするとわたしのあたまはアスノヨゾラ哨戒班を自どうさい生します、メモリからとりだしてさい生するまでもなくもうなん百回なん千回なん万回ときいてきたからなにもしなくてもきこえます。(p9)

刺さる人には刺さる

上記を読んでもらえればわかるが、1997年生まれの語り手はその人生の語りの中で、ときおり自分が体験してきたコンテンツの話を挿入する。たとえば「アスノヨゾラ哨戒班」はOrangestar作曲のボーカロイドを用いたオリジナル楽曲で、YouTubeに投稿されたのは2015年の1月12日。そこから月日は流れ、2024年現在YouTubeで5477万回再生と圧倒的な再生数を誇る。2015年に投稿された時語り手は17歳。
www.youtube.com
多感な時期にドンピシャのタイミングといえる。融合手術を受けた後も語り手の人生は基本的におつらいことばかりなのだが、それが読んでいても苦しさ一辺倒に陥らないのは、そもそも語り手の感情が平坦なことと、こうした「生きていてよかったあれやこれや」の話があるからだ。『IAというボーカロイド、音声合成ソフトウェアがうたうこの曲はわたしの心らしきもののまんなかをうち、歌詞もメロディもぜんぶぜんぶいい、すごくよすぎてずっときいていたい、三分もないとてもみじかい曲だけどきいていたらおもたいからだがういてどこまでもとおくにいけそうなかんじがする、』

最初に「刺さる人には刺さる」と書いたのは、こうした「ある時代」を明確に感じさせる要素が意図的に随所に挿入されているからだ。2015年でいうと、ボーカロイドだけではなく、将棋の電脳戦FINALの話題があったりする。同年代に近い人ほど深く刺さるのは間違いない(著者の生年は本書の裏によると1992年生まれ)。

SFとしても良い

ここまでの紹介部分だけ読むとあまりSFっぽさは感じられないかもしれないが、きちんとSFとしてもおもしろい。後半の話は省略するが、たとえば「自発的幇助自死法に基づく安楽死措置」といわれる安楽死措置が存在、それをめぐる議論であったり、融合手術を勧めていた父が、(語り手が)実際にその手術を経て冷たい身体になるとすっかり人間あつかいしてくれなくなって──と、「身体のマシン化」や「安楽死」が合法的に行えるようになった未来のディティールを見事に描き出している。

おわりに

無論後半にはSF的にももっといろんな展開があって──と、122pしかない中篇程度の作品なので内容の紹介はこんなところにしておこう。読み始めたらさらっと読めるはずだが、読後感はずっしりと重い。最初に書いた「姉の子どものシンちゃん」とのロマンス的な要素もあり、最後は愛とは、愛情とは何かと問うことになる。

現状今年一番といってもいいレベルの日本SFの注目作なので、興味があったらぜひ読んでみてね。

温暖化に動植物はどう対応してきたのか?──『温暖化に負けない生き物たち:気候変動を生き抜くしたたかな戦略』

気候変動で地球がヤバいとは近年しきりに言われるところである。温暖化で人類の生活が苦しくなるだけならまだしも、それ意外の動植物たちは環境に翻弄されなすすべもなく絶滅してしまう──かといえばそうともいえず、意外と移動したり適応したり避難したり進化したり、様々な形で「生き延びる」動植物がいる。

本書『温暖化に負けない生き物たち』は、気候変動によって「絶滅していく動物」ではなく、むしろ急速に変化していく環境に、現在の動植物が「いかに適応してきたのか」を解き明かしていく一冊だ。現在の推定によればい驚くべきことに”すべての”生物種の25〜85%が、その分布を移動させているという。

それだけの数の生物が一斉に移動すると生態系にはどのような変化が起こり得るのか? 生態系は一種のみで成り立っているわけではないから、その変化を推定するのは一筋縄ではいかない。本書はその複雑な糸の絡みを、丁寧に解きほぐしていく内容になっている。どの動植物の適応の事例にもミステリーの解決編のような意外性があり、最近読んだ中では群を抜いておもしろいノンフィクションだった。

 本書を通して、気候変動は憂慮すべき問題であると同時に、好奇心をかきたてる事象でもある、という私の考えに同意していただけたらうれしい。問題解決の第一歩は、みなが関心を持つことだ。(p16)

著者は保全生物学者にして『羽』や『種子』、『ハナバチがつくった美味しい食卓』など自然・生物系ノンフィクションの書き手の名手として知られるソーア・ハンソンであり、その筆致は愉快で安定感がある。気候変動に興味がある人にはもちろん、生物系ノンフィクションが好きな人にもよく刺さるだろう。超おすすめだ。

どのように対応しているのか?──移動

さて、では具体的にどのように動植物は気候変動に対応しているのか? といえば、そのもっともわかりやすい例といえるのは「移動」といえる。植物はともかく、動物は何らかの手段で動くことができるのだから、自分たちにとって最適な場所に移動すればいい。より暑くなったのなら北へ、寒くなったのなら南へ。山に住んでいて暑くなったのなら、シンプルに山頂の方に移動すればいいのである。

たとえばニューギニアの中央高地にあるカリムイ山で行われた鳥類の分布域の調査では、最初に調査が行われてから50年も経たないうちに平均気温が0.39℃上昇した。これは人間的には大差はない数字だ。しかし、鳥の分布域をもう一度調査すると、上限も加減も平均で100数十m上昇していたという。周辺が開発されたからじゃない? と思うかもしれないが、その地域の環境は50年前とたいして変わっていない。

最初に全生物種の25〜85%がその分布を移動させていると書いたことからもわかるように、こうした事例は無数にあげることができるし、移動するのは鳥だけじゃない。オーストラリアアスナロガンガゼ(ウニ)は海洋温暖化が南下するにしたがって、オーストラリア大陸から240km以上も移動してタスマニアの東海岸へとたどりついた。

一般的に、生物の移動にはシンプルな傾向がある。気温が上昇すると生物は北半球では北へ。南半球では南へと移動する。また、山地のような傾斜地に暮らす生き物は、標高が高いところへと向かう。しかしこの法則でおもしろいのは、いくらでも例外であったり、別の法則を見つけられるところにある。たとえば米国の森林局によって行われた森林資源調査では、特定の地域では温暖化に伴って樹木が「北」ではなく標高が変わらないか、むしろ低い「西」へ向かっていることがわかった。

理由としては、単純に動植物にとって快適な環境の要因が「気温」だけではないことが挙げられる。このケースで重要なのは「水分量」だ。気温が上昇すると大気中の水分量が増え、雨や雪や干ばつの発生頻度や時期に関係してくる。分析によると、西に移動した樹木の原因として大きな影響力を持っていたのは、気温の上昇よりもその地域における利用できる水分の多さだったのである(すべての樹木に当てはまる話ではなく、研究対象となった樹種の場合)。樹木の移動速度と距離が一番大きいのはアイオワ州など中西部の州で、そこでは年間降水量が15ミリメートル以上も増加していた。

アイオワ州のレッドオークやホワイトオークは10年で17km以上も移動し、アメリカアサダはそれ以上の移動速度──10年で34km──を示している。ここからわかるのは動物だけでなく、植物も柔軟に環境に適応している事実だが、植物の移動にはその種子を運ぶ動物たちも関わってくるから、その要因を解き明かすのは簡単ではない。

ミステリーのようなおもしろさ

様々な移動・適応・進化の事例が紹介されていくが、中にはミステリーのような驚きがもたらされるものもある。本書中で最も記憶に残ったのはジョシュアツリーという樹木についての研究だ。ジョシュアツリーは気温に直接的に反応してその分布を変え、寒冷期には現在のメキシコあたりまで南下し、気温が温暖化すると北上してきた。しかし、最終氷期以後は、その移動パターンが現れなくなってしまった。

現在ジョシュアツリーは北方への拡大は行えていない。なぜジョシュアツリーはある時までは気温の変化に応じて移動できたのに突然できなくなってしまったのか? その理由を知るためには、ジョシュアツリーについてもっと知る必要がある。この樹木は背が高く、動物を惹きつけることを意図した果汁が豊富な果実をつける。しかし、それはかなり高いところに実るので、それを直接食べる動物は現在いないらしい。

では、どうしてジョシュアツリーは大量のエネルギーを費やして果実を作るのかといえば、答えとしては「かつては果実を作る意味が存在していたが、今はもうないから」というあたりになる。マンモスと同じ頃に絶滅した動物に体長が3メートルと大型のシャスタオオナマケモノがいるが、こいつは高い位置に実るジョシュアツリーの実を食べるにはうってつけの存在だった。実際に糞の山の化石から、頻繁に食べていたこともわかっている。そして、ジョシュアツリーの移動が止まった時期は、シャスタオオナマケモノが絶滅した時期とぴったり重なるのである。

つまり、かつてジョシュアツリーはシャスタオオナマケモノに果実を食べてもらって北方から南方まで広い地域を移動していたのに、シャスタオオナマケモノが絶滅したことで移動が不可能になってしまったのだ。実は落ちることでラットなどのげっ歯類に食べられるが、彼らが分散してくれるのはせいぜい年に2メートル程度に過ぎず、ジョシュアツリーは今死に向かっているという。

おわりに

気候変動に対応する手段は移動だけではない。たとえばハリケーンの発生頻度が高い地域で生息するトカゲは足の指球部が大きい(その方が葉っぱや木にくっつきやすくなるので)ことがわかっているし、フィンランドに生息するモリフクロウの体色は灰色のものが多かったが(長い冬で雪がずっとふっていると灰色は隠蔽色になる)、温暖化に伴って積雪が減り始めたことで、過去50年で褐色型の頻度が200%近くも増えた。

スコットランドのチョウも計測できるほどに翅を動かす筋肉が発達して、移動距離を延ばしていて──と数々の事例から明らかなように、動植物たちもみな、時にはその体を変化させ、環境に対応しつつあるのである。ほーん、適応できるんならいくらでも温暖化させてええやろ、となるわけではないが、本書を読むと自然というものがいかに力強いものなのかと感動を覚えることだろう。

3月にしてすでに今年ベスト級のノンフィクションであった。

SFが読みたい2024年版で海外篇一位を獲得した、悪に堕ちたロボットの人生を描く長篇SF──『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』

この『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』*1は奇才ジョン・スラデックによって40年前(1983年)に刊行されたSF長篇だ。本邦では昨年邦訳が刊行されたが、あれよあれよというまに評価されて、2023年を総括するSFガイドブック『SFが読みたい!2024年版』の海外SF篇で見事一位の座に輝いた。

一位に輝いたぐらいなので本作はおもしろいが、なぜ40年前の作品が一位になったのか。理由が僕にわかるはずもないが、SFが読みたいは業界関係者による投票によってランキングが決定する仕組みなので、まず通に評価されたこと。また、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』や『三体』のようなド本命が不在だったこと。

『チク・タク(略)』が以前からおもしろいという評判が知れ渡っていたこと、企画の熱量など、複数の要素が合わさっているのだろう。本作は企画はそもそも訳者が訳した後に竹書房に持ち込んだところから始まっている。しかも翻訳経験こそあれど訳者としての商業出版はこれが初であり、企画に関する熱量、意気込みはひときわ高い。

と、出版事情はそんなところにしておいて、以下で具体的な内容を紹介しておこう。高度な知能を有するロボットが社会に広がった近未来。ロボットは本来人に危害を加えたりできないのだが、なぜかチク・タクだけは人を殺すことができて──と、本作は暗黒面に落ちたロボットをピカレスクロマン的に描き出していく長篇だ。

40年前の作品だがチク・タクは裏で殺人やテロを繰り返しながら絵を描くことで「芸術を理解するロボット」として一躍時のロボットになるなど、現代の生成系AIにも繋がる文脈を持った先鋭的で新鮮な作品として読める。また、何より本作の魅力は、闇落ちしていくチク・タクの描写にある。純粋無垢でこれから育つはずのAIロボットがギャングに拾われてしまったせいでギャングスターとして成長していく過程を描いたブロムカンプ監督の『チャッピー』など、僕はこの手の「単純に悪いことをするロボット物」が大好きなのだけど、「人に従順に付き従うロボット」というイメージ、価値観が転倒していく、コメディ的なおもしろさがあるんだよね。

世界観など

物語の舞台は先にも書いたように高度なAIを有したロボットが普及した近未来。本作主人公(未来のチク・タクによる回顧録の体裁を本作は取っている)の家庭用ロボットチク・タクは、ある一家で召使いとして働いているが、その家の周辺で八歳の盲目の少女が殺される事件が起こる。警察が周辺で事情聴取を繰り返すも、犯行の瞬間をみたものはおらず、事件は迷宮入り一直線だが、実はそれを殺したのはチク・タクなのだ、と自身によって語られる。しかし、その動機はいったいなんなのか?

 彼女が泥に夢中になっている姿を見たからだと思うが、そんなことは問題じゃない。動機はあとまわしだ。いまのところは、わたしがわたしの自由意志にもとづいて自由に殺した。それで十分。
 わたしが一人で殺したのだよ。その血をからっぽなあの壁にぶちまけたのもわたし。壁画の着想をもたらしてくれた、ネズミ形の汚れに向かって。そして、ひとりで死体を台所のゴミ処理機で適切に処理したあとで、〈手がかり〉になる量だけを残しておいたのだ。p.23

本来ロボットには人に危害を加えることができない「アシモフ回路」が存在するため、このような殺人事件は起こすことができない。チク・タクは警察に調査され、アシモフ回路がたしかに機能しているとチェックまでされている。しかし、チク・タクは殺人ができたのだ。そして、そこで出た血を使って壁面に絵を描いた(通常、この時代のロボットは絵を描くこと──人が感動するような──はできない)。

なぜチク・タクにはアシモフ回路が機能せず、人を殺すことができたのか。また、上記の引用部ではぼかされているが、「動機」はなんだったのか? 血で壁面に絵を描いたことから、それが理由かと疑りそうになるが、それだけとも限らない。

物語は、人を殺すことができるようになったチク・タクが人間社会で特別なロボットとして地位と名誉を得ていく現代パートと、どのようにして盲目の少女を殺すに至ったのかをチク・タクの過酷な遍歴から追っていく過去パートの両方で進行していく。最後まで読めば、最初にぼかされた「動機」、なぜチク・タクが殺人ロボットに変質してしまったのか、その軌跡がわかるのは、構成的に美しい部分だ。

成り上がりもの、ピカレスクロマンとしてのチク・タク

さて、最初の殺人(盲目の少女)を犯したチク・タクだが凶行は当然これで終わらない。なぜ自分がそんなことができたのか? はチク・タク自身にも答えのない問いで、彼は現代パートでその問いを突き詰めていく。

 さて、私は破壊されるべきなのか? その問い自体、魅力的な問いをはらんでいる。わたしはそのことを心に留めつつ、今回の手記を書き上げた。わたしは今回の事件を「実験A」とした。連続実験のはじまりはじまり、ってとこだな。p.23

自分(チク・タク)は何者なのか? 破壊されるべき存在なのか? アシモフ回路など存在するのか? 人間もロボットもプログラムに騙されているだけで何もかわらないのではないか。人間は追い詰められた時どういう行動をとるのか? 肉体的、精神的、経済的に健康で、熱心に教会に通い、人生に愛を抱き、一定の地位もある満たされた人物、その人物の家族や仕事やペットをすべて破壊した時、どのような行動をとるのか。チク・タクはそうした悪魔的な実験を次々と思いつき、それを実施していく。

本作のおもしろいところは、最初チク・タクはただの家庭用のロボットで、実験をこなすための金も権力も立場も存在しないことだ。所有物に過ぎないので、まずはそこから脱出しなければ、通りすがりの少女を殺すことぐらいしかできない。そのため、最初は少女の血で壁面に絵を描き、その後それを足がかりに「成り上がる」ための手をうっていく。まず、影響力と金を持ち、「自由」を得るのだ。そのため、チク・タクは地元紙に電話をかけ美術評論家を呼び出し、”絵を描くロボット”として評価され(『シンプルな機械仕掛けの心が生み出した、クリーンで簡素にして素朴な作品にほかならない。〈三匹のめくらねずみ〉には、ウェルメイドな人間の作品とは異なる、純粋な力が感じられる』)、最初は画家ロボットとして大成していくことになる。

チク・タクはすぐに絵を描くのをやめ(他人に書かせる)、メディアに出演し、ロボットと芸術に関する討論に参加し、ロボットに権利を認めさせるための運動〈ロボットに賃金を〉に関わり──と、一躍その存在感を高め、人間社会に対する実験は自由度を増していく。時にその行動は大胆すぎるほどだ。ナイフを買ってその場で相手を刺殺したり、堂々と爆弾の制作を依頼したり。チク・タクはロボットであり、したがってアシモフ回路が存在し、絶対に人に危害を加えることはできない。人間にはそうした認識があるから、チク・タクは平然と行動を起こすことができる。

ピカレスクロマンであると同時に、自分自身の権利すら何も持たない状態から、すべてを手に入れるまでを描く成り上がりもの(あるいは、奴隷解放テーマともいえるかもしれない)としておもしろさも備えた作品なのだ。

おわりに──ロボットの狂気だけでなく、人間の狂気も描き出す。

チク・タクは狂気に陥ったロボットなのだが、本作で描かれていく人間もどこかしらおかしかったり、滑稽だったりする要素がある。ロボットが描いた絵をよくわからない言葉で褒め上げたり、現実でロボットが人を殺すと宣言しているのに、「ロボットは人を殺すことはできない」という先入観にとらわれて危機感を抱かなかったり、ロボットを破壊するのを楽しむただ普通の狂人がいたりする。

ロボットの目からすれば、家中の家事をことこまかく指示してくる一般家庭の「所有者」すらも、どこかおかしな存在にみえる。狂ったロボットの話ではあるが、まともなように見える人間たちの狂った側面をあぶりだす話でもあるのだ。そして、人間のおかしさ、不合理的な存在であることを示すのに「政治」の舞台はうってつけで──と、本作は次第に舞台を政界へとうつしていく。はたしてチク・タクはどこまでのぼり詰めることができるのか──コメディ・タッチで読みやすい作品だが、いろいろな読み、現代への接続を可能にする作品でもあり、たいへんおすすめである。

先日出たばかりのSFが読みたい! ではスラデック全レビューや『チク・タク(略)』の訳者と編集者の対談(インタビュー)も載っているので、ぜひ読んでみてね。他にもたくさんおもしろいSFが載っているよ(僕は海外SFのガイド全般を担当。)

*1:原題はシンプルに『TIK-TOK』ちなみに邦題が10倍にされているのは編集者の独断で、理由はインパクトを出すことが目的&出版業界の暗黙のルールに対するアンチテーゼとしての意味があったなど(長すぎるタイトルだと書評などでも扱いにくいからと避けられがちな傾向にあるしね。)『SFが読みたい』のインタビューで語られている

今年(2023年)おもしろかった本を一気に紹介する。

今年おもしろかった本を一気に紹介します。大きめの書店が次々閉店し、人手不足や配送の問題もあって出版的には厳しい時期が続くがおもしろい本は依然として絶えない。あとゲームもいっぱいやったので、本だけでなくゲームも合わせて振り返っていこう。いつもは長くても5000文字ぐらいだが、今回は試しに合計1万文字以上書いてみたので、よかったら目次から興味あるやつにとんで読んでみてください。

SFを紹介する

キム・スタンリー・ロビンスン『未来省』

SFとして僕が今年最も記憶に残ったのは、キム・スタンリー・ロビンスンの『未来省』だった。近年進行する地球温暖化の影響もあって、特に英語圏では気候変動を扱ったフィクション群(Climate fiction)が大きく話題になっているが、本書はそのジャンルの筆頭ともいえる作品。物語は2025年の至近未来からはじまり、気候変動に関するありとあらゆる対策を実施する”未来省”の人々の活躍が描きこまれていく。

気候変動対策といえば二酸化炭素削減というイメージがあるが、できることはそれだけではない。たとえば住む場所を奪われた動物の保護も必要だし、住む場所を追われ移民となった人々の調整、海水を真水にする技術の開発に、炭素排出を削減することで発行される、世界中の通貨で換金可能なデジタル通貨の”カーボンコイン”の創造など、本作では経済から農業まで、世界のあらゆる側面を射程に入れて語り尽くしている。その性質上時に何ページにもわたってノンフィクションみたいな解説パートが入り(たとえば現代貨幣理論についてとか)、シンプルに小説、物語として評価すると評価は落ちるのだが、そうした弱点を補ってあまりある壮大さのある長篇だ。

N・K・ジェミシン『輝石の空』

王道系としては、歴史上始めて三部作が三年連続でヒューゴー賞を受賞した《破壊された地球》三部作の最終巻、N・K・ジェミシン『輝石の空』も歴史に残る出来栄え。

特に本作はネビュラ、ローカス賞も受賞してトリプルクラウンになっている。物語の舞台は、スティルネスと呼ばれる一つの巨大な大陸が存在する惑星。ここでは数百年ごとに大規模な地震活動や天変地異によって破壊的な気候変動が起こり、これまで多くの文明が滅びてきた。それでも人間が命脈を保ってきたのは造山能力者と呼ばれるエネルギーをコントロールする能力者がいるからで──と、最初はファンタジィの装いではじまり、次第に科学と魔法の関連、月など惑星が絡んだ壮大な規模の物語へと発展していくことになる。差別の問題も取り扱いながら、Fateシリーズを彷彿とさせる物語を三部を通して描きだしてみせた、完結した機会に読んで欲しい傑作だ。

ローラン・ビネ『文明交錯』

もう一冊、王道的なSFからは離れるがローラン・ビネによる『文明交錯』も今年のおすすめの一冊だ。これはスペインがインカ帝国を征服した現実の歴史を反転させ、逆にインカ帝国がスペインを征服していたら世界はどう変わったのか? を描き出す歴史改変長篇だ。普通に考えたら資源も装備も劣るインカ帝国がスペインを征服なんてできないが、どうしたらそれが可能になるのか? を軍事から内政、果てには宗教まで、数百年単位でさかのぼることで説得力を持って描き出している。

シーラン・ジェイ・ジャオ『鋼鉄紅女』

変わり種としては、シーラン・ジェイ・ジャオの『鋼鉄紅女』がおもしろかった。著者は中国出身で幼少期にカナダに移住した作家・ユーチューバーで、本作がデビュー策にあたる。TRIGGERとA-1制作による日本のロボットアニメ『ダーリン・イン・ザ・フランキス』に影響を受けて(不満を持って)書かれた、中華風のロボットSFだ。

本作ではロボットは九尾の狐や朱雀、白虎などの中国神話からモチーフがとられており、最初は動物形態だが次第に直立二足歩行形態、英雄形態に変化していく。で、『ダーリン〜』に影響を受けているのはどこかといえば男女二人乗りのロボットであることで、本書はその設定をもとに巨大ロボットを文学装置として青春とジェンダーとセクシュアリティを描き出していく。この世界では女は男に付き従うべきだ、などの男性上位の価値観があり、それを主人公の女性がぶち壊していくのが作品の根本のロジックに埋め込まれていて、そうした伝統・革新を破壊していく側面においては『クロスアンジュ』とか『天元突破グレンラガン』的なおもしろさもある。

ジョン・スコルジー『怪獣保護協会』

変わり種その2としては、『老人と宇宙』など数多のSF作品・シリーズで知られるジョン・スコルジーの『怪獣保護協会』もおもしろい。テーマは「怪獣」だ。怪獣がもし、並行宇宙の地球に存在したら、それを保護し研究する人もいるだろう──という発想で、本作でスコルジーはいきいきと楽しそうに描き出していく。もともとスコルジーがコロナで参って何も書けなくなってしまったあと、リハビリのように楽しんで書き上げた作品で、軽快でキャッチーなポップソングのようなおもしろさの作品である。とはいえ、どのような理屈なら巨大な怪獣が生存できるのか? どのような生態なのか? などはしっかりしていて、ただただ軽いだけで終わる小説ではない。

『宇宙の果ての本屋』

近年流れが続いていた中国SFの波も『三体』の完結に伴って少し落ち着いたように見えるが、数自体はけっこうでている。その中でもオススメだったのは中華SF紹介の本邦での第一人者立原透耶編による『宇宙の果ての本屋』。ヒトに造られたロボットが、同胞が解体され死んでいくのを目にして苦悩し、無常を感じるようになり、ロボットの間で禅宗ブームが起こった状況を突き詰めて考えていく韓松「仏性」。

人為的に造られた独自のナノロボット生命体を、その生殖に適した水星で繁殖させるために奮闘する生命の拡散をテーマにした王晋康「水星播種」、突如として時間が流れなくなった世界で、試験的に創られていた時間発生装置(周囲数メートルの時間を動かす)を複製するために奮闘する時の点灯人を描き出す万象峰年「時の点灯人」など、それぞれのテーマで年間ベスト級の短篇が揃っている。中国SFに限定せずとも、今年おもしろいSF短篇が読みたいなら、まず読むべきは本書だろう。

ジョン・スラデック『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』

特徴的な言葉遊びやオカルト研究など雑多な活動を行い、広いSF界の中でも奇才といえばまず彼の名が上がるといえるぐらいの作家ジョン・スラデック。その最新邦訳作(20年以上前に亡くなっているので最新作ではない)が『チク・タク〜』だ。人間に危害を加えない「アシモフ回路」が搭載されたロボットを使うことが当たり前になった時代を舞台に、なぜかその回路が機能しないロボットチク・タクが現れ、チク・タクは少女を殺しその血で壁に絵を描くなどの狂気の行動をとりはじめる。

しかし、その絵はなぜか芸術評論家に評価され──と狂乱のロボットを中心に、人間のおかしさをユーモアと共に描き出していく。絵を描くロボットなど、昨今の情勢をまるで見てきたかのようなロボット・ピカレスク長篇だ。僕はロボットがギャングに育てられて殺人ロボットに成長していく映画『チャッピー』とかも大好きなんだけど、ロボット☓ピカレスクってなんかやけにおもしろいんだよね。文庫で250p程度の作品なので今回紹介したSFの中では比較的とっつきやすい作品といえる。

酉島伝法『奏で手のヌフレツン』

日本SFとして今年トップだったと自信を持って言えるのは酉島伝法による最新長篇『奏で手のヌフレツン』。著者はデビュー作の連作短篇集『皆勤の徒』と第一長篇『宿借りの星』が共に日本SFを受賞した、寡作ながらも傑作しか書かない作家だが、その最新作である本作(『奏で手〜』)も、前作を上回る傑作だ。大量の造語を駆使して独自に生み出した生命体(人間や地球とは異なる姿かたち・生殖・文化・宗教・惑星を持っている)を生み出し、その生態と感情の揺れ動きを事細やかに描き出していく。

そして、その世界ならではの圧巻の情景、音楽を最後には魅せてくれる作品で、酉島伝法初挑戦の人にも本作をおすすめしたい。最初は読みづらいかもしれないが、100pも読めばこの世界に入り込んでいるはずだ。

川端裕人『ドードー鳥と孤独鳥』

純粋なSFというわけではないが、『我々はなぜ我々だけなのか』などノンフィクションの著作でも知られる川端裕人による『ドードー鳥と孤独鳥』は絶滅動物の魅力にのめり込んでいった二人の少女の人生を描き出す、絶滅動物長篇として珠玉の一冊だ。

ドードー鳥は絶滅動物として有名だが、孤独鳥と呼ばれる鳥は群れでみかけることはめったになく、捕まえるとたちまち鳴き声もたてずに涙を流し、どんな餌もがんとして拒み、ついには死んでしまうと語られるエキセントリックな鳥だ。絶滅した動物は、孤独鳥のように時に人の感情を揺れ動かす特徴を備えているもので、本作は遺伝子改変など現代的なテーマと共に絶滅動物たちの魅力と歴史に気づかせてくれる。

斜線堂有紀『回樹』『本の背骨が最後に残る』

日本SFでも良い作品がたくさん出たが、中でも記憶に残ったのは近年SF系の作品も旺盛に発表している斜線堂有紀による『回樹』と『本の背骨が最後に残る』。

紙の本が禁じられ、本の内容を人間が口伝で伝えていくようになった世界で、同じ本を覚えているはずなのに内容がズレた二人の人物が自身の正当性を主張する解釈合戦である”版重ね”──負けた方は生きたまま焼かれることになる──を行う「本の背骨が最後に残る」、映画に魂が存在する世界で、新たな傑作を世に生み出すため、魂を解放するために100年前の傑作群を二度と見れないようにフィルムを焼いて葬送していく「BTTF葬送」(『回樹』収録)など、特異な世界・状況を設定し、それならではのロジックを貫き通していく能力がずば抜けている作家・短篇集だ。

冬木糸一『SF超入門』

また、以下はノンフィクションだけどSFなのでこっちの枠で紹介するが、SF関連のガイドブックが珍しくたくさん出たのも印象に残る年だった。手前味噌ながらビジネスパーソン向けに現実の事象(気候変動や仮想世界など)とSFを結びつけて紹介した冬木糸一『SF超入門』が刊行された他、池澤春菜監修で海外・国内作家合わせて一〇〇人を紹介した『現代SF小説ガイドブック』も出た(こっちは著者名の間違いなど細部の問題もあって批判も出たが、大まかな内容や選出自体はよかった。)

二〇二二年にロンドンの科学博物館で開催された『サイエンス・フィクション』展のガイドブックとして刊行されたグリン・モーガン編の『サイエンス・フィクション大全』も『SF超入門』でできなかったことが達成されていておもしろい。SFはもちろん現実の科学の発展の影響を受けるし、現実の科学もロボットや宇宙回遺髪など、SFからインスピレーションを受けることが多く──と、科学とSFは相互発展してきた歴史があるのだが本書はそのあたりの歴史を小説、映画を中心に解き明かしている。

SFマガジン10月号も特集「SFをつくる新しい力」でSF入門を行っていたし、これも入れれば全部で4冊もの(見逃しがあったらすまん)ガイドブックが一年で出たわけだ。全部読む必要はなく合いそうなものがあれば手にとって見るといいだろう。

ノンフィクションを紹介する

ウォルター・アイザックソン『イーロン・マスク』

ノンフィクションとして特に記憶に残っているうちの一冊は、伝記の名手ウォルター・アイザックソンによる最新作『イーロン・マスク』だ。今年はX(旧Twitter)の混乱が特に印象に残った年だったといえるが、その中心にいて台風のように周囲を巻き込み続けているイーロン・マスクが、どのような生まれと育ちで現在のような人間になったのか。そして数々の偉業(と騒動)をどのような行動とロジックで成し遂げてきたのかを解き明かした作品で、この人物に肯定的であろうと否定的であろうと、おもしろいと思わずにいるのは難しい。迷惑人間なのは間違いないが、彼が成し遂げてきたことが本物でもあり、そこには確かに学びがあるんだよね。

ラッセル・A・ポルドラック『習慣と脳の科学』

もう一冊おもしろかったのが、ラッセル・A・ポルドラックによる『習慣と脳の科学』。日々行う習慣は人生の基本を作るから、ある意味生きていく上でもっとも重要な要素といえる。しかし、日々運動したり勉強したり、有益と思われる習慣を形成するのは難しい。どうしたら新しい習慣を構築できるのか。スマホの見すぎなどの習慣を破棄するのが難しい理由は何か──を科学的に解き明かしていく一冊だ。

本書によると、人生を飼えることに成功した人と失敗した人の間で一番大きな違いには、転居の有無があるのだという。習慣を変えることに成功した人たちは、失敗した人たちに比べて約3倍も引っ越しをしていたとか。

サイモン・マッカーシー=ジョーンズ『悪意の科学』

近年、ネット上の悪意ある嫌がらせとそれに対する訴訟が話題に上ることが多くなってきた。見ず知らずの有名人にたいしてなぜ嫌がらせや暴言を吐く人間が絶えないのか? どのような人がそうした行為を行うのか? そうした人間の悪意について科学したのが、サイモン・マッカーシー=ジョーンズ『悪意の科学:意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?』だ。世の中には他者に対して悪意を持つ人間が一定数いて、彼らは積極的にコストを支払って、経済合理性に反した嫌がらせを行う。

たとえばトランプが勝利した歴史的なアメリカの大統領選で、世論調査によればトランプに投票した人のうち53%が、トランプを支持してはおらず、クリントンを勝たせなくなかったからだと答えている。トランプが当選したら嫌な気持ちになると答えた人たちもトランプに投票しているが、その理由は「混乱であっても何が起こるのかを見てみたかったから」とか「すべてを焼き尽くして、新しいスタートを切りたい」とか、さまざまである。自分や社会にとってマイナスになる可能性があってもカオスや混乱を欲する心情は、そう珍しいものではないのかもしれない。

デヴィッド・グレーバー,デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』

この世の中にはやってもやらなくてもいいクソみたいな仕事で溢れかえっていると『ブルシット・ジョブ』で提言したデヴィッド・グレーバーの遺作となったのが、『万物の黎明』だ。多くの特に売れている人類史本は、ハラリの『サピエンス全史』が「虚構」をテーマにしているように「わかりやすい切り口」が存在するものだが、本書の特徴のひとつは数多かたられてきた「わかりやすい切り口」の「ビッグ・ヒストリー」を批判し、複雑な人類史を複雑なままにとらえようとしている点にある。

たとえば、これまで「わかりやすい物語」として、人類はある時期を境にして狩猟採集生活から農耕を主とした定住生活へと移行し、人口が増え、国家や都市が生まれ、法律や軍隊も生まれて不自由や不平等が生まれていった──とするスケール発展の歴史があった。しかし、実際の歴史や考古学的証拠を追うと、人類の発展はそうシンプルなものではない。たとえば、いわゆる狩猟採集民は穀物や野菜の栽培や収穫の方法を理解しながらも農耕に完全にシフトせず、数千年にわたって農耕や家畜化と狩猟採集生活を共存させてきたし、社会の形態も必要に応じて様々に対応してきた。

本書は数多のビッグ・ヒストリーへの批判や、「あったこと」ではなく、「なかったこと」を中心に展開するので、どうしても記述はわかりにくくなる。どういうことかといえば、都市生活や奴隷制度や農耕が、ある時代の社会に「なかった」のはなぜなのかと問うていくのである。それはただ「(発明前だから)なかった」のではなく、「拒絶した」から存在しなかった場合もあり、そこには重要な意味を見出して、過去を検証していくのである。長大な本で値段も高いが、それだけの価値のある本だ。

ダニエル・ソカッチ『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』

今年大きなトピックのひとつに、10月7日に勃発したパレスチナとイスラエルを中心とした戦争状態がある。依然として人権を無視した報復措置がとられていたり、プロパガンダも相まって情報が錯綜している状況で、何冊も状況を理解するために本を読んだがその中でもわかりやすくおもしろかったのがダニエル・ソカッチ『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』だ。著者はパレスチナとイスラエルの両者はどちらも土地にたいする正当なつながりと権利を有していて、両者ともに外部の犠牲になってきた二つの民族であるという前提を置いて語っていく。現在進行系の事態についてはもちろん触れられていないが、そこに至る道筋について学びたい人に薦めたい。

ジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』

近年僕が注目しているテーマに「労働の未来」と「ベーシックインカム」と「尊厳」の問題がある。ようはAIなどの自動化によって人間の労働力がだんだんと必要とされなくなりつつある&人間が労働したくてもできない社会がきた時に、労働で満たされてきた社会的な関係や尊厳はどうなるのかが重要になってきているのだ。

そのテーマの流れでおもしろかったのが、ジョナサン・マレシックによる労働で発生する燃え尽き症候群がなぜ起こるのか、どうやって対策をしたらいいのかについて書かれた『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』だ。燃え尽き症候群が発生するのは、自分のしている仕事が自身が期待する水準を満たさない時と簡潔に定義されているが、その性質上医師や看護師や教師のように、理想を高く抱きがちな職業ほど燃え尽き症候群が発生しやすい。対策としては労働に注力しすぎずほどほどにがんばることなどいくつかあるが、これは労働と尊厳のテーマにも接続できる。

燃え尽き症候群は自分や周りの人がいつどこで引き起こしても不思議ではないので、自衛や周りの人を助けてあげるためにも、重要な一冊だ。

キャスリン・ペイジ・ハーデン『遺伝と平等』

尊厳とも関わってくるが、近年遺伝子の研究が進んで、いったいどれだけ個々人の能力や学歴が遺伝子と関わってくるのか、だいぶ明らかになってきた。

遺伝子によって容姿だけでなく、人の能力も大きな影響を受ける。そのことを公言すると容易に優生主義に結びつける人間が現れる危険性があるが、しかし優生主義に陥らないように、遺伝子の差も考慮しながら平等な社会を構築することもできるはずだ──と、キャスリン・ペイジ・ハーデン『遺伝と平等―人生の成り行きは変えられる―』では、最新の双子研究やゲノムワイド関連解析(個人のゲノムの全領域について、遺伝的な変異のある場所と表現系の関係を調べる手法)の成果を用いて迫っていく。かなりおもしろく、今後の世界の行末や社会制度を考えるにあたっても重要な一冊だ。

マシュー・ホンゴルツ・ヘトリング『リバタリアンとトンデモ医療が反ワクチンで手を結ぶ話』

リバタリアンが集まる自由な町を作ったら、整備も何も行き届かなくなり、自由を目的にやばい奴らが集まってきたという悲しい実話を書いた『リバタリアンが社会実験してみた町の話』の著者最新作『リバタリアンとトンデモ医療が反ワクチンで手を結ぶ話:コロナ禍に向かうアメリカ、医療の自由の最果ての旅』は、リバタリアンとがトンデモ医療と結びついたことの顛末を描き出す今年ベスト級のノンフィクションだ。

波動でどんな病気も治るなどトンデモ医療を提唱する人は昔からいたが、今はインターネットの力でそうした人たちも布教がしやすくなっている。そうして個別に旗揚げしたトンデモ医療アベンジャーズを、反ワクチン運動家が結びつけたのだ。反ワクチン運動家は2000年代初頭、資金不足に悩んでいたが、トンデモ医療アベンジャーズらと結びつくことで不足していたものを補い、声を一つにしはじめたのだという。アメリカで今どんなことがおこっているのか、その実態が本書を読むとよくわかる。

キース・トムスン『海賊たちは黄金を目指す』

海賊ノンフィクションに外れなし、は僕が勝手にいっていることだが、その例に漏れずキース・トムスン『海賊たちは黄金を目指す』もおもしろい。1600年代後半、スペインの海や街を荒らしまわり、破滅的な戦闘を幾度も乗り越えてきた海賊たちの日誌をもとにその冒険を描き出した一冊である。原題は「Born To Be Hanged」で、絞首刑になるために生まれてきたみたいな意味。自分の命をなげうってでも大金を手に入れ、敵を殺すぞ! という破滅的な気性。船や街を襲って金を手に入れても、船内賭博ですべて失い、マイナス分を取り戻そうと別の街を襲いにいく暴力性など、いかにも海賊らしい海賊の姿がとらえられている。海賊たちの出会いから別れまであまりに美しく破滅的で、まるで凄まじい冒険小説を読むかのように楽しませてもらった。

ヴィトルト・シャブウォフスキ『独裁者の料理人』

古来より独裁者は暗殺に怯えるものであり、口にするものには(毒殺を警戒して)細心の注意を払う。もちろん毒見役などを用意するわけだが、だからといって料理人が誰でもいいわけではない。独裁者は、料理人には信頼のおける人物を配置するものだ──だからこそ、料理人は、独裁者の知られざる側面を知っているものである。

ヴィトルト・シャブウォフスキによる『独裁者の料理人』はまさにその点に注目した一冊で、サダム・フセインやポル・ポト、ウガンダの大統領イディ・ミアンなど数々の名高い独裁者たちの料理人に話を聞いていく。フセインは何万人ものクルド人をガスで殺すよう命じた後何を食べたのか? 普段はどのような言動をする人物だったのか? そうしたエピソードだけでなく、彼らが好んで食べていたもののレシピも載っていて、料理をする人なら本書の楽しみはより増すだろう。

高野秀行『イラク水滸伝』

僕は冒険ノンフィクション作家高野秀行作品を全部読んでいるぐらいには高野ファンだが、最新作の『イラク水滸伝』は近年の高野作品の中ではもっとも力のこもった一冊だった。今回彼がたびにでたのはイラクとイランの国境近くにある、四国を上回るほどの広さがある湿地帯。そこには30〜40万人の水の民が暮らしていて、道路もなく隠れやすいので、歴史的に戦争に負けた者や迫害されたマイノリティが逃げ込む場所で──と、それはまるで水滸伝の梁山泊じゃん! といって、水滸伝になぞらえてそのほとんど日本人が立ち入ったことがない場所に踏み込んでいく。

高野さんも50代なかばを超え、体力的に昔と同じようなやり方ではやっていられないだろうが、デビュー作の『幻獣ムベンベを追え』の時のような冒険心を未だに感じられたのも嬉しかった。そのうえ今は数々の経験を経てきているので、要所で「この文化は◯◯と共通している/反している」など、比較文化論のような視点まで獲得している。ページ数は460ページ超えと分厚いが、写真も多くページあたりの文字数はそう多くないので、サクッと読めるだろう。たいへんおすすめな一冊だ。

ジョセフ・ヘンリック『WEIRD(ウィアード)「現代人」の奇妙な心理:経済的繁栄、民主制、個人主義の起源』

これは出たばかりでまだ読み終えられていないのだが、ジョセフ・ヘンリックによる『WEIRD(ウィアード)』も上巻時点ですでに今年ベスト級の一冊だ。本書が扱っている論点は副題にも入っているように多岐にわたるが、「二つ以上の集団を比較した場合に、西洋人だけ異質のケースが多い」という重要な事実を指摘している。

ようするに、西洋人は「人間」の枠の中で実は「weird(奇妙な)」な存在なのだ。西洋の人は自分の属する大学など、社会や文化を中心にして実験することが多いが(自分が属する大学の学生など)、西洋人が人として外れ値なのだとしたら、その手法には問題がある。『私たち科学者がヒトの心理について理解していた事柄のほとんどは、心理面・行動面の重要な特質について、かなり異常と思われる集団から導き出されたものだということがわかった。p13』。本書ではなぜ西洋人はそこまで外れ値の集団になってしまったのか? ということを、個人主義の起源や宗教の影響から解き明かしていくのである。読み終わったら近日中に記事を書くので、また読んで欲しい。

ゲームも紹介するぞ

ここからはやったゲームについてすべて触れるわけではないが、記憶に残ったゲームについても軽く触れておこう。

Starfield

最初に取り上げておきたいのは『Fallout』などで知られるベセスダの最新作『Starfield』。昔ながらの王道的なスペースオペラの土台にオープンワールドの選択肢の多様性をずっしりと載せた作品で、宇宙海賊になって人から金を巻き上げる、財宝を追い求める、宇宙をめぐるパトロールになって悪い奴らをこらしめるなど、やりたいことはだいたいなんでもできる作品だ。単調なファストトラベルなど正直いってつまらない部分も多くて(特にメインストーリーのつまらなさがひどい)100点満点の作品ではまったくないんだけど、記憶に残るゲームだったのは間違いない。

Baldur's Gate 3

12月の21日に日本語版が発売されて、僕はSteamでプレイしたが『Starfield』を超えて今年一番のゲームといえば本作になるだろう。長年の歴史のある豊富な文脈・世界観から繰り出される大量のネームドキャラ。TRPGを元にしたがゆえに行動のあらゆる評価にダイスが関わってきて、同じ選択肢をとったとしてもダイスの偶有性によって異なる展開がもたらされる。とにかくD&D、そしてTRPGの自由さの(プログラミング上での)再現が素晴らしいゲームだった。ダイスの出目さえよければ、強敵を直接戦闘せずに倒したり、味方にしたり、何でもできるのだ。クリアまでに多大な時間がかかる&用語が多いので誰にでもおすすめできるものではないが、間違いなく歴史に残るゲームなので、興味がある人にはこの年末年始に是非手を出してもらいたい傑作だ。

アーマードコア6

今年SFゲームとして最もおもしろかったのは何かと問われれば『Starfield』よりもこちらに軍配が上がる。ロボットの機体を操作しスタイリッシュに敵を屠っていく名作シリーズの久しぶりの最新作だが、今回はストーリーもシンプルにまとめられ、アクションもダクソやSKIROの系譜を受け継いだ新しいシステムに仕上がっていて、入りやすい作品に仕上がっている。僕が本作をSFとして高く評価したいのは、ストーリーや機体のかっこよさもさることながら、とにかく絵、背景の素晴らしさだ。

各ステージがはじまる時、冬の景色だったり工場だったり様々なフィールドがあるが、その風景の中にロボットが佇んでいる姿が激烈にカッコよい。思わずスクショを何枚もとってしまうほどで、その点で僕にとっては特別なゲームになった。

おわりに

年末年始はランスシリーズの公認二次創作である大戦国ランスでもやろうかなと思っとります。あとゼルダとかもやったけど酔っちゃってろくにプレイできなかった。

ここで紹介した本のほとんど全部についてはこのブログで詳細な記事も書いているので、よかったら検索して読んでみてね(全部ペタペタ貼り付けてると邪魔だから)。

ヤドカリやハチやタコの「経験」はどのようなものなのか?──『メタゾアの心身問題――動物の生活と心の誕生』

この『メタゾアの心身問題』は、タコやイカがどのような「意識」を持っているのかについて様々な観察・研究をもとに紹介した、『タコの心身問題』の続篇にあたる。

『タコの心身問題』は本邦での刊行が2018年で、その後何度も「人以外の生物の心、意識」や「タコの知性について」語る時にこのブログや他所の原稿で何度も取り上げてきたノンフィクションだったが、本作(メタゾア〜)もそれに勝るほどの知的興奮を与えてくれる傑作だ! 本作でもタコの話題が前作より最新の情報とともに語られているので、ある意味では続篇にしてアップデート版といえる内容に仕上がっている。

タコに続いての「メタゾア」なので、当然本作ではメタゾアの心と意識について触れていくわけだが、メタゾアとはなんなのか。これはかつて生物学者ヘッケルが19世紀末に導入した用語で、基本的には多細胞動物のこと──つまりほとんどの動物のこと──を指している。本書では「自己」との関わりにおいて進化的に重要な動物──カイメンやハチやタコ──に絞って、その「心身問題」を扱っていくことになる。

ハチやタコの体も脳も人間とは大きく異なっていて、人間と同じように世界を感じているわけではない。しかしそれは「何も感じていない」ことを意味しない。大なり小なり彼らは彼らなりのやり方で世界を経験しているのであって、本書がテーマにしているのはまさにその部分──彼らはどう世界を経験しているのか──にある。

私たちは、現在するさまざまな生物を手がかりに、生命の物語をその始まりから歩いて──這って、泳いで、身体のサイズを変えながら──追いかける。それぞれの動物の身体や感覚の機能、行動の仕組み、世界とのかかわり方からの学びだ。この動物たちの助けを借りて、過去の現象ばかりでなく、今日私たちの周囲に存在する多様な主観性のあり方を理解することを目指す。

ヤドカリは痛みを感じているかもしれない

本書では最初、カイメンやサンゴのような比較的シンプルな構成の動物からはじまって、エビやタコ、魚に昆虫──と次第に取り扱う対象を遷移させていく。個人的におもしろかったのは、エビやヤドカリといった甲殻類の経験についての章だ。

エビやヤドカリは痛みなど感じていないと一般的に思われているが、実は「痛みのようなもの」を感じている可能性がある。ある動物が痛みを感じているかどうかについてどう判断すればいいだろうか。たとえば何らかの攻撃を加えて、何らかの反応が返ってきたとしても、それは単なる反射なのかそれとも経験として苦しさを感じているのかの判断はつかない。そこで、ダメージを食らった時にそこを手当するとか、痛みを和らげる化学物質を探すとか、ダメージの結果から反射以外の行動が起こるか(トレードオフなど)を見ることで「痛みの感覚らしきものを持っている」指標とする。

エビの例からいくと、彼らは触覚に酢や漂白剤がつくと、触覚をきれいにするような動きをし、水槽の壁に触覚をこすりつける。これは「傷口にたいする手当てをする行動」に含まれるだろう。おもしろいのはヤドカリの例だ。ある実験では、ヤドカリに弱い電気ショックを流す。そうするとヤドカリは住処の貝殻を捨てるのだが、彼らが状態の良い貝殻に棲んでいる場合は、それを捨てるのを渋って耐えたのだという。また、近くで捕食者の匂いがするときも、なかなか殻を捨てようとしない。

この実験が示唆しているのは、ヤドカリには善い、悪いと感じる一連の事象や可能性が存在し、弱い電気ショックによる痛みにたいして通常は殻を捨てるぐらいには悪いと感じる一方で、それ以外のリスクも勘案して行動を決定しているということだ。おもしろいのが、電気ショックを与えられて貝殻から出たヤドカリは、そのあとでその殻を入念に調べることもあったという。何か異常を探しているかのようだ。

この結果だけで「甲殻類が痛みを感じている」と結論できるものではないが、それを示唆するものではある。現在社会的に、甲殻類にたいする痛みの配慮は存在しないし、生きたまま茹でたりもしているが、もし甲殻類も痛みを──人間と同じではないにせよ──感じているのだとしたら、その状況は変わってくるのかもしれない。

タコと分離脳の話

著者は10年ほどオーストラリアにある二つの場所でタコの観察を続けているのだが、観察結果を知るといかにタコが複雑な生物なのかがわかる。たとえばタコは巣を作ったり掃除のためだったりで物を投げることがあるのだが、メスがしつこく迫ってくるオスのタコに物を何度も投げつけることもある。小型のカメラをタコが見つめて、突然死んだカイメンを自分の身体に覆わせてカメラから身を隠したりもする。

タコは普段群れをつくらないが、そのわりにまるで社会性の動物のように、人間の視線や他者(他タコ)のことを意識した行動ができるのだ。それには、ニューロンの数も関わっているだろう。タコは犬に近い5億個ものニューロンを持っているが、脳ではなく腕にその3分の2が集まっている。そのせいなのかどうか、タコを観察していると、何かを吹き出して腕も含めた統一体として身体全体で移動することもあれば、反対に腕一本一本が自分の意志を持っているかのようにバラバラに動いていることもある。

そうした事例をふまえて、タコの「自己」については複数の説が提唱されている。ひとつめは、人間と同じように、腕に多大なニューロンがあるにしても統制としてはひとつであるとする普通のもの。ふたつめは、腕は個別の脳といえるものであり、自己は1+8存在する説。みっつめは、タコの腕と脳は1+1の関係とするもの。著者はここに別の可能性を加えていて、タコの腕と脳の関係は「1」と「1+8」をスイッチングしている──とするものだ。これは、人間でいう「分離脳」のような状態だという。

人間の重度のてんかん患者は、脳で起きた発作が反対に伝達することを防ぐため、大脳半球を連結している脳梁を切断することがあり、この状態を「分離脳」と呼ぶ。で、この手術を受けた患者は、一人なのに二つの心を持つようにふるまう場合がある。基本的に分離脳であっても実験状況になければ分離しているようには見えないのだが、片目・脳半球ごとに別々のものをみせると、答えがバラバラになるのだ。

これと同じように、タコもある時(どこかに向かって移動したい時とか)は8本の腕まで含めて統一された単独の行為者であるが、また別の時は腕は勝手に動いて周囲の様子を探って情報を集める、「1」と「1+8」のスイッチングを行っていて、後者の時のタコの中枢は腕の動きを「自分のもの」とは認知していないのではないか(各腕から得た情報は中枢にも伝わるが)──と著者はいうのである。

おわりに

タコやヤドカリの事例をみただけで、われわれが気軽にいう「心」とか「意識」というものは、「ある/なし」で語られるようなものではなくて、生物種ごとにまったく異なる形で立ち現れるものなのではないかという考えが浮かび上がってくる。人間以外の知覚を想像する主体はどうしても人間になるから、自分に引きつけて考えてしまうのは仕方がないが、しかしその枷からは脱却する必要があるのだ。

ヤドカリやタコなどにはおそらく何らかの形の経験があるといったん認めると、広い見方──人間以外の動物にあって、なおかつ人間にもある、すべての動物を経験する存在にしているものについての包括的な説明──が必要になる。じつはそれこそ、私が本書で進展させようとしてきたものだ。(p274)

本書では他にも魚にはどのような知覚があるのか(痛みは感じているのか、自己を認識することはできるのか)や、一般的に痛みがないとされる昆虫に本当に痛みがないのかについての現代的な検証など、「各種動物がどのように世界を経験しているのか」についての、広範な仮説・研究が大量に紹介されている。

近年、『魚にも自分がわかる──動物認知研究の最先端』をはじめとして、「これまであまり知的と思われてこなかった動物たちに高度な認知機能が備わっている」ことを示すことが次々と明らかになってきていて、個人的に注目の領域になっている。

本書で述べられていることの多くも仮説であり、ヤドカリやエビに痛覚らしきものがあることが確定したわけではない。それでも、彼らの「経験」が、それぞれ程度の差こそあれど豊穣なものである可能性が、本書を読むとよく分かるはずだ。

時間から猫テーマまで中華SFの粋が集められた、今年ベスト級のSFアンソロジー──『宇宙の果ての本屋』

この『宇宙の果ての本屋』は、日本における中華SF翻訳・紹介の立役者立原透耶編集による中華SF傑作選になる。2020年にも同じ新紀元社から『時のきざはし』という中華SF傑作選が出ていて、本書はその続篇というか第二巻にあたる。

『時のきざはし』のレベルは高く、今なお中国の才能を知るためのSFアンソロジーとしてはトップクラスにおすすめしたいしたい傑作だが(文庫化してないから値段的にはあれだけど)、作品全体のレベルでいえば『宇宙の果ての本屋』に軍配があがる。それぐらい全15篇すべてのレベルが高く、時間や猫など様々なテーマ・題材がある中で、どれもが一生記憶に残るような鮮烈な印象を遺してくれる一冊だ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
編者による序文によれば、前集は入門篇を意識し、こちらは少し進んでSF色が強目のものを多めにいれたつもりとのことだから、そのへんも関係しているのかもしれない。以下、特に記憶に残ったものを紹介していこう。

特に記憶に残ったものを中心に紹介していく──韓松「仏性」

最初に紹介したいのは韓松に「日本人に読んでもらいたい小説を教えてください」と聞いて返ってきた短篇「仏性」。タイトルの通りに仏教をテーマにした一篇。ある時、ヒトに造られたロボットが同胞が解体され死んでいくのを目にして苦悩し、無常を感じるようになり、ロボットの禅宗ブームが起こった状況を描き出していく。

ロボットなのだから感じ方も動作もプログラムされている。煩悩を断ち切りたいなら工場にいってプログラミングしてもらえばいいじゃないか、と当然のことをいっても、プログラムで煩悩を断ち切るのは表象にすぎず、鏡に映る花、水に映る月なのです──とロボットが語りだす。寺院の住職の方丈はそれを聞き驚くが、はたしてロボットに輪廻からの離脱は可能なのか。すべての生き物が生まれながらにもつ、仏となることのできる性質、仏性はロボットにも宿っているようにもみえるが、それは電子の運動過程にすぎないのではないか。一見バカバカしい導入・状況を設定しながら、真面目に仏教☓ロボットテーマを追求していく、韓松らしさに溢れた一篇だ。

宝樹「円環少女」

続く「円環少女」は長谷敏司の長篇作品──ではなく(長谷敏司には『円環少女』という傑作シリーズがある)、三体のスピンオフ長篇『三体X 観想之宙』などで知られる宝樹による、不思議な少女の一生を描いた一篇だ。少女は凌柔柔(リン・ロウロウ)といい、7歳の誕生日に書き始めた日記の体裁で物語が進行していく。母親は亡く、父親と仲睦まじく暮らす日々が綴られているが、次第に違和感がつのっていく。

たとえば、4〜5歳以降の写真は家にたくさんあるのに、それ以前の写真がないこと。新しくやってきた中学の先生が、凌柔柔にそっくりな友達が昔いたと話していたこと。大病をわずらってすぐによくなったのに学校にいかせてくれなくなったこと──。SF短篇集なのでそこには無論SF的な事象が関わってくるわけだが、予想は次々と外れ、ジャンル的にはSFホラーかと思いきや……と次々と作品のモードが切り替わっていく。宝樹の技巧がこれでもかというほど詰め込まれた作品で、大好き。

陸秋槎「杞憂」

日本の金沢在住の中国作家陸秋槎による新作「杞憂」は、20年もの歳月をかけて構築した兵法を他国に広めるために杞国(古代中国の殷代から戦国時代にかけて存在した国)から出国した渠丘考(きょきゅうこう)についての物語。彼は杞国を出る前は自信にあふれていたが、各国を渡り歩くうちに比べ物にならないほどの進歩を目の当たりにし、すっかり自信を消失していく様が描き出されていく。

たとえば斉の軍隊では約半分の兵士が木を彫ってできた人形で──と、この後も特殊な技術・兵器が続々と細かな部分までその理屈・原理が描きこまれていて、精緻なほら話の魅力に満ち溢れている。その驚きの過程が、鎖国をやめ他国の技術を吸収しはじめた日本人の感覚にも繋がるのも意図してか偶然なのかおもしろい。

王晋康「水星播種」

中国SF四大天王の一人といわれ、本邦でも多数の短篇が翻訳されている王晋康からは「水星播種」が収録。舞台は2032年、真っ当に仕事をしていた陳義哲(チュン・イージョー)のもとに、昔関わりのあった父の客人の女性から遺産相続人に指定されたという連絡が届く。その遺産とは科学者だった女性の生命についての研究に関わるもので、なんでもボトムアップ式に自らの体を構築し、増殖していくことができるSiSnNa(ケイ素・スズ・ナトリウム)生命体のテンプレートを作ったのだという。

それは人為的に造られたナノロボットでありながら生命の様式も備えた、複合的な存在だ。問題は、そうした新しい、自動的に増え、変化していく生命体を野放しにはできないことだ。遺産の相続にあたっての便箋には筆記体で『真の生命体は囲いの中では飼育できない、太陽系で養殖に最適な場所は──水星だ』(p181)と書かれており、新たな生命体のテンプレートに魅せられた陳義哲は、なんとかしてこいつを水星に連れていき、数千年、数万年をかけて繁殖させる計画を練ることになる。

資金はどうするのか、倫理的な議論、はたしてそこで生まれた生命は創造主たる地球人にたいして何を思うのか──本書随一の壮大なスケールを感じさせる一篇だ。僕はこの手の”ヒトが作り出した生命とヒトの関係”を描く作品が大好きなんだけど(たとえば『時の子供たち』とか)本作もその流れに連なる作品といえる。

程婧波「猫嫌いの小松さん」

程婧波「猫嫌いの小松さん」は、チュンマイを舞台にした猫SF。物語はチェンマイに語り手が引っ越してくる場面から幕をあけるが、近所に住んでいる日本人の小松さんは猫が嫌いなのだという。家の裏庭にある工具小屋には、うずたかく毒餌が積んであると噂される。人付き合いも苦手なようで、誰が話しかけても反応はあまりない。

それなのに語り手は蛇対策にうっかり猫を飼ってしまい──と、小松さんがなぜ猫嫌いと言われるのか、その謎に迫っていくことになる。SFで動物といえばなぜか猫の登場回数が多い。神林長平の作品にはやたらと猫が出てくるしレイ・ブラッドベリもフィリップ・K・ディックも猫好きだ。はたして猫が嫌いな人間なんているのだろうか? という疑問が、終盤に鮮やかに収束していく。日本人が出てくるからという理由もあるが、後半のとある理由から日本人は特に受け入れやすい一篇だと思う。

ちなみに、この”小松さん”の本名は小松実で、小松左京の本名である。

万象峰年「時の点灯人」

本書の中で個人的に一番好きだったのが時間SFの「時の点灯人」。著者の万象峰年はこれが日本初登場作となるらしい。物語の舞台は、突如として”時間”と”物理量”がはがれて、時間が宇宙から失われてしまった世界。時間が失われたら何が起こるのかといえば、何もかもが動かなくなる。そしたら物語もクソもないわけだが、事前にその未来を予測していた人類は、一つだけ”時間発生器”の試作機を作っていた。

時間発生器は万能の存在ではなく、その狭い周辺にしか時間を発生させない。つまり、時間を与えられるのは多くて数人程度である。時間の消失は突如として起こったのでこの試作機のデバッグをやっていた人間だけが時間を得て、提灯守としてこの時間発生器のコピーを作れる人物を求めてさまよい歩くことになる。もちろん時間発生器は複雑な機械なので、天才にひとり時間を与えたところでつくることはできない。近くにいないと時間が動かないので、全員に同時にやってもらうのも不可能だ。

しかも、たくさんの人間に接触すれば、時間発生器を奪われる可能性も高まる。では、時間を取り戻すためにどう動くべきか──? といった提灯守の思考錯誤もさることながら、最終的には極上のロマンス(時間SFとロマンスは最高に相性がいい)にも繋がっていき、とにかくすべてのレベルが高い大好きな作品だ。

おわりに

最後の二篇も素晴らしい。昼温「人生を盗んだ少女」は言語、脳科学、遺伝子など無数のテーマが混交した二人の女性の物語。人間の一生はあらかじめ遺伝子や環境にある程度縛られている。大人になってから言語をネイティブレベルで話すのは難しいし、資産のない過程で育つと文化資本が遅れてしまう。そうした縛られた自分の人生の葛藤に悩む二人の女性が、脳のミラーニューロンに関わるあらたな発見によって、その差を乗り越える方法を模索していく──美しく、同時に残酷でもある短篇だ。

最後に収録されているのは、表題作でもある江波「宇宙の果ての本屋」。現代よりもはるか未来、太陽の出力が落ち地球人類は太陽系を脱出しつつあり、知識なんかいくらでも脳にインストールできる時代にあくまでも紙の本から得る知識にこだわって、本屋を開いている頑固な人物についての物語だ。果たして、本屋はいつまで残ることができるのか? 太陽系の終わりまで? それとも銀河系の終わりまで? そして、その終焉の時に、本の冊数と重量はどれほどのものになっているのか? 読書の喜びに満ちたこのアンソロジーを締めくくるにふさわしい一篇であった。

紹介したい作品が多くてちと書きすぎてしまったが、それだけおもしろい本ということで。中華SFに興味があるかどうかに関わらず、SF好きなら満足できるはずだ。

『皆勤の徒』の著者最新作にして、今年いちばんおもしろかった傑作SF長篇──『奏で手のヌフレツン』

酉島伝法はデビュー作の連作短篇集『皆勤の徒』と第一長篇『宿借りの星』が共に日本SF大賞を獲得と、寡作ながらもその作品は常に高い評価を受けてきた。

そんな酉島伝法による最新作『奏で手のヌフレツン』は2014年にSFアンソロジー『NOVA』に載った同名短篇の長篇版で、これが著者の現時点での最高傑作といっても過言ではないほど素晴らしい出来だ。酉島伝法の作風は造語を駆使しながら人ならざるものたちの世界、視点、文化を細かく描き出していく、一言でいえば「唯一無二」という他ないものだ。本作でもその特徴は引き継ぎながらも、ストーリー、世界観はともに既作よりも壮大さを増し、読みながら「今までこんな感覚、文章を読んで味わったことがないな……」と思うほど特殊な感覚と興奮が呼び起こされた。

たとえば下記は本作の一ページ目の文章で、奏で手と呼ばれる人たちが太陽と月が混合した臨環蝕の膨張を必死に演奏をして食い止めている最中の描写だが、意味が分からずとも(この時点では意味がわからなくても何の問題もない。後に意味がわかる)本作が特異的な文体と世界観を持っていることは一瞬で伝わることだろう。

 大風を縫うように奏でられている鳴り物の数々──骨に響くほどの厚い音で圧する千詠轤ちえいろに荒削りな優雅さを持つ靡音喇びおんら彼方かなたから聞こえるような柔らかい咆流ほおるに軽やかに跳ねまわる往咆詠おうほうえい、表情豊かな人の声を思わせる焙音璃ばいおんり──万洞輪まんどうりん浮流筒ふるとう喇柄筒らへいとう波轟筒はごうとう摩鈴盤まりんばん渾騰盤こうとうばん嘆舞鈴たんぶりん──それらが臨環蝕りんかんしょくの前に立つ響主きょうしゅの指揮により、ひとまとまりの大波となって響かせているのは、阜易学ふいがくの由来でありながら、これまでそう聚落じゅらくでは一度も奏でられたことのなかった〈阜易ふい〉の譜典だった。(p.6)

特に第一部終盤(本作は主人公の異なる二部構成)から第二部の終盤にかけては物語的な盛り上がりが最高潮でページをめくる手が止まらず、今年一番のめり込んで読んだ作品なのは間違いない。先に書いたように「唯一無二」の作家、作品ゆえ合う合わないはどうしてもあるだろうが、以下のより詳細な紹介を読んで気になった人には、ぜひ読んでもらいたい。文字でしか味わえない快楽に溢れた傑作だ。

過酷な世界

かなりな特殊な世界観で、その世界観を少しずつ把握していくのも本作の醍醐味といえるが、それだと何も紹介できないので軽く全体について触れていこう。

まず、物語の舞台になっているのは「落人(おちうど)」という生物が暮らす凹面状の「球地(たまつち)」と呼ばれる世界。この世界には太陽や月などわれわれの社会のよく知るものも存在するが、その実態は大きく異なっている。たとえばこの世界に太陽は4つ存在し、それもなにもないと地面に落ちてしまう。それを聖(ひじり)と呼ばれる選ばれる落人たちが担いで道に沿って日夜移動させており、太陽の後を月が追ってくる──というように、太陽と月の在り方がぜんぜん違うのだ。

この球地は一言でいえば過酷な世界である。太陽は4つしかないがわれわれのよく知る太陽と同じように時が経つといずれ出力が落ちてくる。しかも、太陽を追う月は太陽にぶつかると蝕(しょく)を巻き起こし、太陽は変質してエネルギー源として使えなくなるので、周辺の人々は移住する必要が出てくる。太陽は海から新しく生まれることもあるがその条件はわからず、太陽の数が減ると球地全体の気温が下がるなど大きな影響があるので、いずれ球地は崩壊に向かうのではないかという人もいる。

実際、物語はひとつの集落(本作では聚落(じゅらく)と呼ばれる)が蝕によって崩壊する場面から幕をあける。他にも太陽はあるのでその聚落に住んでいた落人たちはみな別の聚落に散らばっていくのだが、移住した先で彼らは縁起が悪いとか蝕を防げなかったバカどもみたいな感じで激しい差別にあう。資源が乏しくやせ細っていく途上にあるので、足手まといに厳しい世界なのだが、そもそもひとびとは痛みに耐えて苦徳(くどく)を積むほど裁定主と呼ばれる神的な存在に認められ、太陽の衰えも食い止められるという宗教観を持っていて、積極的に苦しみを受けようとする文化的背景がある。そのため、鎮痛薬などを使うとバカにされたり批判されるのだ。

ただでさえ過酷なのに、文化がそれに拍車をかけている世界なのである(最初は苦痛を和らげる薬などなかったのでそれを受け入れるために産まれた宗教観なのではないかという可能性も示唆されるが)。

お仕事小説としての側面

太陽は時折痙攣するように揺れて光の塊をはじきだし、落人たちのエネルギー源となる「陽だまり」を飛ばすが、それを落人たちの中でも「陽採り手」と呼ばれる人たちが回収しエネルギー源にする──というように、落人たちはみな何らかの仕事についていて、それが各落人のアイデンティティと深く結びついている。月が太陽によってこないようにするなど様々な効果を持つ音楽を奏でる「奏で手」。落人たちの重要な食糧&資材である煩悩蟹を解体する「解き手」、薬を調合する「薬手」など──。

で、本作は二部構成で第一部は「解き手」のジラァンゼ、第二部は「奏で手」のヌフレツンが主人公になっているわけだが、どちらも職業的な探求、成長が一つのテーマになっている。たとえばジラァンゼがつく解き手は蟹を解体する職業と紹介したが、これは職人の世界だ。煩悩蟹は惨斬(ざんぎり)と呼ばれる鋭利な部分がついていたりと解き手の作業には危険が伴い、多くの作業者が指を落とす。煩悩蟹の構造も一匹ずつ異なり、機械的に解体することもできない。しかも、茹で上がったものを解体するので最初は熱くて触ることもできなくて──と、何もかも難しいところから少しずつうまくなっていく過程、職場での人間関係などが事細かく描きこまれていくのだ。

たとえば下記は、ジラァンゼが解体に挑むシーンであるが、描写の密度が高い。

 焦っちゃだめだ、と自分に言い聞かせながら、曖昧な窪みの感触を頼りに解虫串を滑らせる。ここだ、という直感に歯を噛み締めて解虫串を突き刺したが、あっさり狙いから逸れてしまう。まだ歯の生え方が不揃いで力が入りにくいのだ。いちからやり直してまた試すが、滑ってしまう。くそっ、とやけになって狙わずに突いたら手応えがあった。えっ? と疑いつつも、そのまま大きく三角を描くと、快活な音がして咬ませが外れたのがわかった。ほっと息を吐く。次の尾部でも、さっきの解虫串の動きを再現してみる。何度かすべったものの煩悩窪を捉え、咬ませを外すことができた。続けて左右の側面の咬ませも外すと、甲殻が上下に分かれる明確な感触が手に伝わった。p.123

ジラァンゼが自分より少し先輩とどちらが先に一人前になれるのかを競って争う過程。出産や子育てなどの変遷の中で、仕事にたいする距離感が変わっていくシーンなど、お仕事小説としてぐっとくるシーンがいくつもある。もちろん奏で手には奏で手の苦労と技術がある。この世界の奏で手は太陽や月の動きをコントロールする役割を担っていて、球地の危機に対抗しうる、重要な存在だ。だからこそ第二部「奏で手のヌフレツン」では凄まじい情景が展開するのだが──、そこの紹介はやめておこう。

人生と世界の探求

ここまで特に触れてこなかったが、落人たちの体とその性質は人間とは大きく異なっている。たとえばそもそもが単性生殖でひとりで妊娠し子どもを産むし、幼少期のうちは凄まじい再生力があり首が落ちなければ再生可能で、歯も何度も生え変わる(激痛が走る)。太陽を背負う聖人に選ばれたら(勝手に選ばれる)体はまるで太陽を支えるためかのように巨大化しものを喋ることも次第にできなくなる──と。

その身体の性質上、仕事に邁進するパートがあったかと思えば、ロマンスなど何もなく突然出産パートや子育てパートが始まる。再生力が高いとはいえ子どもは危険なことをするもので、命の危険にハラハラする日々。ジラァンゼは子どもには解き手についてもらいたいと願うが(ジラァンゼの一族は今の聚落に移民してきた落人の子孫なのでまだ差別が残っているが、解き手はその差別が少ない)、子どもは別の仕事を切望し──、と親子の葛藤が、この世界ならではの情感と筆致で描きこまれていく。

そうしたジラァンゼとヌフレツンの仕事、出産を伴う人生とともに描かれていくのが、この世界それ自体への探求だ。そもそも「太陽」と「月」とは何なのか? なぜ落人らは今のような存在となったのか? 世界が始まる前には何があったのか? この世界の歴史を語るを語るものも現れる──彼らの住む球地は無間地獄であり、彼らの現状がこれほど苦しいのは、何らかの刑罰に課されているからだなど──が、日々を生きるのに精一杯の世界であり、それが正しいのかどうか判断するのは難しい。

本作は最初はお仕事ものや子育てものとして牽引していくのだが、途中からは太陽が衰え、蝕が迫り、世界の崩壊が近づいていき、どうすれば球地を救えるのか? という大きなテーマが浮かび上がって物語は加速していく。煩悩蟹解体の空想的な描写には、異質な世界が立ち上がっていく感覚がしてゾクゾクさせられたものだが、その後にやってくる太陽と月がもたらす破壊とそれに抗う者たちの物語、その興奮と見たこともない情景と音楽はそれを遥かに超えるもので、読んでもらわねばわからない。

最初は造語だらけで読むのが大変なんだけど、途中から最初からその言葉を生まれた解きから全部知っていたかのようにスラスラと読めるようになるんだよね。

おわりに

こうした設定や紹介を読むとこれはほぼファンタジイなのでは? と思うかもしれないが、そのへんにもいろいろ仕掛けがあることが背景を読むことでわかってくるところもあるので(ぺらぺらぺらとその背景設定がすべてわかりやすい形で開示される作品ではないが)そのへんも含めて楽しんでもらいたいところだ。今年ベスト1といっていい長篇、年の瀬に読むのにぴったりである。

全世界の誰もがこの人間の影響を受ける、お騒がせ男初の公式伝記にしてアイザックソンの最高傑作──『イーロン・マスク』

この『イーロン・マスク』は、その名の通りイーロン・マスク初の公式伝記である。マスクの伝記自体はこれまでにも出て、翻訳もされている(読んだけどおもしろい)が、その中にあって本作の特徴は刊行された直後だから、つい最近のツイッターの買収など”最新の情報・エピソード”まで網羅されているところにある。

そしてもう一つの特徴は、スティーブ・ジョブズをはじめとした無数の偉人たちの伝記を書いてきた、伝記の名手であるウォルター・アイザックソンがその私生活にまで密着して描き出している点にある。僕もアイザックソンの本は昔からファンでほとんどすべてを読んでいると思うが、これまで彼が手掛けてきた伝記の中でも本書の書きぶりには熱が入っていて、しかもこれまで書いてきた天才・偉人たちとの比較という評価軸もうまく機能しており、最高傑作といえる内容だと思う。

全世界の誰もが、このお騒がせ人間の行動の影響を受ける

ブルドーザーのような性質上マスクに否定的な人間は多いが、肯定的か否定的かはともかく、このトンデモお騒がせ人間の行動の影響は全世界の人間に及ぶのだから──電気自動車、自動運転車、インターネット、ロケット開発、人型ロボット開発、ブレイン・マシン・インタフェースにAIなど──、人類の未来について考えるにあたって、我々はマスクの思考・形成プロセスを知っておく必要がある。

マスクの周囲の人間は多かれ少なかれその行動や言動の被害を受ける。彼こそが世界を変える人間だと付き従う人間もいるが、離れていく人間の方が圧倒的に多い。アイザックソンは周囲の人間にも膨大なインタビューを行っているが、多くの人が「彼はすさまじい人間だが、彼のすさまじい成果とあの性格はセットでなければならないのか? 性格を矯正したら成果も出なくなってしまうのか」と疑問に思っている。

本作では、マスクの善性も悪性も含めて全面的にその人物像を描き出している。ルーツから、プライベートから、会社の中から。初の公式伝記とはいえ、アイザックソンはマスクを持ち上げるばかりではなく、時に強烈にディスってもいる。

マスクは心のありようから陰謀論に傾きがちで、自分に対するネガティブな報道は、基本的に、報道機関の人間がなにがしかの意図でわざと流していたり、あるいは、よからぬ目的があって流していると信じている。*1

マスクの人物としての是非はともかく──本書にはいくつものテーマが流れているが、その一つに「性格や行動が最悪な人物が凄い成果を残している時、その性格と成果は不可分なのか?」というテーマもある。許されるか許されないかはそれとはまた別の問題なのは無論だが──彼が無類におもしろい人間なのは間違いない。

上巻と下巻の内容について

本作は上下巻に分かれている。ざっくりとした区分けとしては、上巻では幼少期の話からはじまってどんな家庭で育ち草創期にどんなことが起こったか、また数々の事業の創業を経て苦難をいかに乗り越えていったのか(たとえばロケット打ち上げの民間企業スペースXも、電気自動車のテスラも、どちらも資金ショートの間際の局面を乗り越えている)がメインとなっている。上巻はだいたい2019年頃までの話だ。

そして下巻では、主に2020年代の話が語られる。スターリンクがウクライナに通信を開放していたがロシア軍への攻撃に用いられそうになったので(ひいてはそれが核戦争に繋がりかねないことを危惧して)突如として遮断した話や、ツイッターの買収、そして「有能なエンジニアだけ残して後は全部切り捨てる」決断をした舞台裏など、そのあたりは下巻でみっちり触れられている。この二つは特にニュースバリューや興味関心が集まるだろうが、そのへんの裏話が知りたい人は下巻だけ読めばいい。

幼少期の話──スペースX・テスラの安定まで

上巻は幼少期の話から始まるが、これがまあとんでもないエピソードの連続だ。たとえばマスクは南アフリカで育ったのは有名な話だが、12歳の時にベルドスクールなる荒野のサバイバルキャンプに放り込まれたという。配給される水も食料も少なく、人の分を奪うのは自由でむしろそれが推奨される、蝿の王の実験版みたいなキャンプで、殴る蹴るのが当たり前の環境だったという(何年かにひとり死者も出るとか)。

マスクは幼少期のエピソードも50代のエピソードも対して印象は変わらない。SFが好きで(よく名前があがるのは『銀河ヒッチハイク・ガイド』だ)ゲームが好きで(超多忙なはずなのに隙間をみつけて対戦ゲームもやるしエルデンリングもやっている様子が本作では描き出されている。しかも対戦系ゲームはめちゃくちゃ強かったらしい)、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』もやり──と、ゲームやSFに熱中しながら、それを”フィクション”で終わらせずに現実のものにするために活動力を費やしている。

上巻の盛り上がりどころの一つは、テスラもスペースXも資金がショートしかかり絶望的だった2008年、スペースXの3連続で失敗したロケット打ち上げが、最後ぎりぎりの部品をかき集めて臨んだ4回目で成功し、NASAからの受注も入りテスラの工場も正常に稼働し始めた2008~2009年あたりだが、このあたりは胸が熱くなる展開だ。下記は3回失敗してもうキャッシュに後がない状態で、再起をはかるシーンである。

 だがマスクは、ロサンゼルス工場に4台目の部品がある、それを組み立て、なるべく早くクワジュに運ぼう──そう提案した。期限は、ぎりぎりなんとかなりそうな6週間だ。
「あの状況で『がんばろうぜ』ですよ。感動しました」とケーニヒスマンは言う。*2

その根本的な行動原理

マスクという人間はこうして本で読んでみると行動原理は単純で、とにかく幼少期から思い描いてきた壮大なヴィジョンの実現のために、できることは何でもやる。その夢はたとえば人類を複数惑星に入植させるみたいに普通にやってたら数百年かかってもおかしくない事業なので、それをなんとか自分が生きている間に間に合わせるために一日中働くし自分の部下にもみな同じような水準の労働を求める。

その過程で他人と喧嘩しまわりを不幸にするが、実現のためにありとあらゆることをやるせいで既存の因習だったり思い込みを打破して結果的に多くの人に利益をもたらすこともある。テスラで内製にこだわって徹底的にコストカットしたのも、スペースXで実費精算(かかった金額分だけ請求できるので、できる限り作業を引き伸ばすのが儲かる)でぬるま湯に浸かっていた宇宙産業に乗り込んで徹底的にコストにこだわって実費精算以外の民間ロケットの道を示したのも、そうした特性からきている。

ジョブズとマスク

著者のアイザックソンがスティーブ・ジョブズの伝記も書いているのも関係しているだろうが、本書にはジョブズとマスクを比較する描写も多い。たとえばどちらも強迫性障害のような特性があり、問題に気づくとなにがなんでも解決してしまう。

そうせずにはいられない性格だからだ。しかし、どこまで解決しようとするかの範囲が二人は異なっている。ジョブズは概念とソフトウェアを押さえてデザインにこだわったが、生産は委託していた。ジョブズが中国の工場を訪れたことはない。だが、マスクはデザインスタジオより組立ラインを見て歩くことを好む男だ。

『マスクがジョブズと違うのは、製品のデザインに加え、それを支える科学や工学、生産にまで強迫的な接し方をする点』だという。マスクは生産や材料、巨大な工場を脅迫的なまでに効率的にしようとする。工場好きが講じて、カリフォルニア州の工場をトヨタが売りに出していたのを知ってトヨタの豊田章男社長を自宅に招いて資産価値10億ドルと言われたこともある工場を4200万ドルで買うことに成功している。

工場改善男

僕が本作を読んでいて特に印象に残ったエピソードも工場絡みのものだ。マスクは生産工程においては5つの戒律があり、たとえば第一の戒律は「要件はすべて疑え」だ。

ネジがその本数である理由、ネジカバーを使わないといけない理由、そのすべてに「理由があるのか?」ときいて回る。当然「安全のためです」などと返答があるわけだが、本当に耐荷重の計算を行って数値的に必要なのか? としぶとく問い詰め、結果必要なければ全部とっぱらってしまう。その工程を部下に強いるだけでなく、マスク本人が実際に工場に何日も寝泊まりしてでもやりとげるのがすごいところだ。

たとえばテスラの工場では、車のボディのボルトの本数が6本なのはなぜなのか? もっと減らせるんじゃないか? と問う。ボルトが6本なのは事故のときに外れないようにですと返答されるが、事故の力は基本的にこのレールを伝わってくるはずだ、と力が加わるはずの箇所すべてを頭に思い描きそれぞれの許容値を挙げ、もっと減らすことができるだろう──と設計の見直しと試験を技術者に伝えたりする。

彼の指示はとんでもなく間違っているものもあるが、とはいえあっているものも多く、あっていた場合はボルト一本、ネジ一本、ネジカバー一本単位で工程から削減されていく。この徹底した要件定義の見直しによる工場の効率化によって、最終的に破壊的な製品を産んだり、無茶な生産期日がまかり通ってしまったりする。

工場を歩きながら、1日に100回は指揮官決定を下しただろうとマスクは言う。
「2割はあとでまちがいだとわかり、直さなければならなくなるでしょう。でも、ああして私が決断を下して歩かなければ、我々は死んでしまうわけです」*3

とは本人の弁。「2割はあとでまちがいだとわかり」の比率はもっと高いと思われるが、仮に6割が間違いだったとしても、物事を前に進めるためにはプラスになるのかもしれない、と本書と彼が成し遂げてきたことをみると思う。

それを特に実感したのは、2010年に無人宇宙船を軌道に打ち上げ、戻ってくるのを目的とした試験のエピソードだ。高難度なので民間ではもちろん国レベルでも成功例は少ない(米国、ロシア、中国)。その打ち上げの前日に、2段階目エンジンのスカート部に小さな亀裂が二つはいっているのが見つかった。宇宙では少しのことが命取りになるので、通常万全を期す。NASAの関係者は、みんな何週間か延期になると思ったそうだが、マスクは「亀裂が入っているスカートを切ったらどうだろう」という。

スカートを切ったら推力が少し落ちる。しかしミッションに必要な推力は得られるはずだと計算が出て、翌日の打ち上げは無事行われ、そして成功したのである。

おわりに

通常の書評の文字数を超えて紹介しすぎた感もあるが、これでも全体からするとほんのわずかなエピソードに過ぎない。普通の人間ならテスラかスペースX、どちらも軌道に乗った時点で満足するだろうに、リスク大好き人間のマスクは歳をとっても何も変わらずに新しい対象にキャッシュをベットし続けている。そもそも彼の目標は金持ちになることではなく人類を複数惑星に住まわせることなわけだから。

最終的に彼の旅がどこまで届くのかはわからないが、本書はその旅の現時点で最新で最良の記録書である。

*1:ウォルター・アイザックソン. イーロン・マスク 下 (文春e-book) (p.64). Kindle 版.

*2:上 (文春e-book) (p.264). Kindle 版.

*3:ウォルター・アイザックソン. イーロン・マスク 上 (文春e-book) (pp.408-409). Kindle 版.

オールドスタイルなスペースオペラの土台に宇宙のすべてが乗っかった、圧巻のオープンワールドRPG──『Starfield』

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ベセスダの新作ゲーム『Starfield』、XboxGamePassに加入してプレミアム・エディションを追加購入した人は9月1日からプレイできた。現時点で35時間ほどプレイし、各勢力のミッションもいくつかたしなみながらメインミッションも一応クリアしたので、いったんファーストインプレッションとして感想を残しておきたい。

最初にざっとした総評

結論からいうと間違いなくベセスダのオープンワールドRPGであり、他スタジオが作ったオープンワールドRPGからは摂取できない栄養がここにはある。『Skyrim』と『Fallour4』をあわせたよりも多いセリフ量があり、8年の月日がかけられた。数多くの勢力が入り乱れるさなかに次々と道徳的に曖昧な選択を迫られ、それが世界に不可逆の変化をもたらす──そうしたSkyrimやらFalloutシリーズやらでこれまで散々味わってきたあの喜びとおもしろさがここにはあり、ここまで熱中してプレイした。

「宇宙を舞台にした冒険RPG」と説明されて、こんなことやりたいな、あんなことやりたいな、と想像することはだいたいなんでも可能にしたゲームだ。宇宙船を自分好みにクラフトし、宇宙船戦闘を繰り広げる。氷の惑星から砂漠の惑星まで数多の惑星に足を広げ、廃墟などを探索する。奇妙なエイリアンどもとやりあう。

宇宙海賊になって人から金を巻き上げる、財宝を追い求める。あるいは宇宙をめぐるパトロールになって悪いやつらをこらしめ、宗教までもが絡んだ大きなテーマに接続し──と、1960年代〜70年代ぐらいを彷彿とさせるオールドスタイルなスペースオペラのシンプルな土台に、あらゆる素材が載っている、本作はそんなゲームだ。

下記は開発者へのインタビュー記事の日本語訳(僕が適当に訳した)

Starfieldは最もロマンチックなサイエンスフィクションだ。1960年代の黄金時代の宇宙への夢が心に、そしてベセスダの親しみやすい感触が血管に流れてる。アートディレクターのIstvan Pelyは、本作のヴィジュアルを”NASA Punk”という造語で表現した。「ホログラムがいたるところにあるわけじゃない。ボタンがあって、触感がある。彼は親指で空気をつぶしながら言う。「未来的だと思わないで。時代劇だと思えばいい。これは実際にあったことなんだ。ゲームを300年後の未来に設定されているけど、人間性が変わったようにはしたくなかったという。「人は人のままだ。彼らは完璧じゃない」*1

これまでベセスダゲーを楽しんできた人はもちろん、FalloutもSkyrimもやったことないけど一回ぐらいやってみたいな、と思う人も手を出しやすい作品になっている。この手のゲームはボリュームが多いことが宣伝されるし、数十時間、100時間溶けたわ〜という人も多い(し隅々までやったらそれぐらいかかる)が、寄り道しつつもメインミッション中心でプレイすれば30時間もかからないはずなので(難易度もベリーイージーまであるし)、時間が心配な人も手を出してみるのも良いだろう。

一方で難点がないわけでもない。これまでの遊びの延長線上の作品であるのもまた間違いなく、新鮮味は多くない。また、宇宙を舞台にして「なんでも可能にした」と先に書いたが、その全部が全部素晴らしい体験になっているとはいい難い。宇宙船戦闘も最初は楽しいがすぐに飽きてしまう程度のものだし、移動の基本は惑星から惑星へのファストトラベルなので、物量は感じても宇宙の圧倒的な広さといったゲーム体験的なおもしろさに繋がっているかというと微妙な面もある。

宇宙を旅する

じゃあStarfieldは実質宇宙のガワをかぶせただけのSkyrimってこと? といえば、広大な宇宙を舞台にしたからこそのスケール感と魅力もきちんと存在する。

各勢力クエストのおもしろさやメインミッション後半の怒涛の展開は本作が宇宙ものであることの意義が発揮されている。いろいろな宇宙・都市は、サイバーパンク風だったり荒野だったりと多様な世界観を内包し、視覚的に楽しませてくれる。

各惑星はどれも美しい

総評としては、欠点がないわけではないが、そのゲーム体験は唯一無二のもので素晴らしい作品であることにかわりはない。本作をめぐっては10点満点中の7点が高評価か否かみたいな議論も発生しているが、僕がつけるなら8か9かな。以下、極力ネタバレを廃してストーリー部分を中心に、もう少し詳しい紹介をしていきたい。

ストーリー、世界観など

物語の舞台は2330年。人類は太陽系を離れ、数々の惑星に入植し独自の文化を発展させている。このゲームでは一般的なオープンワールドRPGのように数々のミッションが存在しクリアすることで物語が進行していくが、重要なのは「勢力」の概念だ。

この世界にはいくつもの勢力があって、基本的にはこれがミッションの柱になっていく。たとえば主人公が通常は最初に所属する「コンステレーション」は、アーティファクトと呼ばれる(おそらく)異星人が残した不可思議な物質を集める宇宙の探検家の集まりであり、このミッションを通してアーティファクトの収集、力の秘密を追うことになる。これがメインミッションになるが、他にも数多くの勢力が存在する。

コンステレーションの本拠地がある惑星ジェミソンのニューアトランティスでは、Starfield世界屈指の軍事力と影響力を持つコロニー連合に入ることもできる。コロニー連合に入ると下っ端で簡単な仕事から……と思いきや、紅の艦隊という無法者集団への潜入捜査を命じられ、いきなりハードなミッションをこなすことになる。海賊に信用されるために無法な行為にも手を染めねばならないが、やりすぎればコロニー連合の怒りを買い──と、ぎりぎりの綱渡りがこのミッションでは展開していく。

ある特殊な技術を開発する超大企業であるリュウジン・インダストリーズに所属することになればライバル企業の情報を盗んだりよからぬウイルスを紛れ込ませたり、社内政治に巻き込まれていく企業スパイもののストーリーが展開し──と、勢力ごとにテーマも題材も異なった物語が堪能できる。長篇をつぎつぎと読んでいくようなもので、”どちらの勢力を壊滅させるか”、”勢力内で誰の味方をするか”など、自分自身で不可逆に世界を変化させていく喜びがある。そこで得た力や情報はどれも攻略を楽にするもので、この辺の構築力はさすがのベゼスタゲーといったところだ。

メインミッションの味付けは薄い

僕のプレイ体験としてはコロニー連合ミッション⇛リュウジン・インダストリーズ⇛自由恒星同盟の順に勢力ミッションをクリアし、その後にメインミッションに着手した。メインミッションは基本的にはいろんな惑星をめぐってアーティファクトを集めるだけでそれぞれの色のある勢力クエストと見比べると単調でつまらない。

広大な宇宙を堪能してもらうために、宇宙の冒険・探検をテーマにしたオールドスタイルなスペースオペラの物語を中心軸に置くのは理解できるが、その中身がファストトラベル⇛惑星に降り立って数分で目的のものをゲット⇛帰宅の連続だと話が変わってくる。ドラマティックな展開もあるし味付けの薄い探索の連続の理由も推測できるのだけど、退屈なものは退屈だ。僕の場合この点が本作の評価を大きく下げている。

プロット的には本作の(というかベゼスタ製オープンワールドRPGとのだけど)ゲーム性ともよくあっていて、終盤の演出にぐっとくるポイントも多々あるんだけどね。

クラフトなどについても長々と書こうと思ったがもうけっこう長くなったしやめておこう。数多の惑星に降り立ち(たとえば月にもいける)そこに拠点を作ることができるのは思いのほか楽しい体験だ。ゲーム中では乗組員(クルー)をスカウトすることもできるのだが、彼らは自分の宇宙船だけでなく拠点にも配置できるので、彼らが居心地の良い空間を作ろうと思うと、けっこうやりがいはある。

おわりに

ディレクターを勤めたトッド・ハワードは現時点で52歳。これだけの作品を作り上げるには相当な困難があったことは間違いないが、次は『Skyrim』の続篇にあたる『The Elder Scrolls 6』に着手するというので、タフな仕事が続くわけだ。6にも『Starfield』と同じだけの時間がかかるなら60歳になってしまう。

そうするとそろそろ後継者育成に手を出すタイミングだろうが、先に引用したインタビューの中で彼は『「ずっとやっていきたい。私の仕事のやり方はおそらく進化していくと思いますが、宮本を見てください。任天堂の象徴は今年71歳になった。彼はまだやっています。』*2と語っている。トップクリエイター同士のリスペクトが感じられてかなりぐっときちゃったな。*3

いったんレビューを書いたがまだまだ僕も未プレイの膨大なクエストが残っているから、もっと遊ぼうと思う。本作は余白(広大な宇宙に散らばる惑星だったり)が大きいのも特徴で、DLCやMODにもいつも以上に期待がかかる。時間が経つことでもっともっとおもしろくなるのは間違いないゲームだ。今年はアーマードコア6も最高だったし、SFゲーム豊作の年として記憶されることになるだろう。

*1:https://www.gq-magazine.co.uk/article/starfield-todd-howard-interview

*2:“I want to do it forever,” he continues. “I think the way I work will probably evolve, but… look at Miyamoto.” The Nintendo icon turned 71 this year. “He’s still doing it.”

*3:宮本さんは後継者(というか自分がいなくても回る仕組みを)を作ってるんだけど

〝唯一真実の治療法〟に覚醒してしまった人たちが、反ワクチンの旗のもとに結集する、トンデモ医療アベンジャーズとでもいうべき傑作ノンフィクション──『リバタリアンとトンデモ医療が反ワクチンで手を結ぶ話』

この『リバタリアンとトンデモ医療が反ワクチンで手を結ぶ話:コロナ禍に向かうアメリカ、医療の自由の最果ての旅』は、リバタリアンが集まる自由な町を作ったら、そこは整備も何も行き届かなくなり、自由を目当てにやばい奴らが集まってきたという実話を描き出す『リバタリアンが社会実験してみた町の話:自由至上主義者のユートピアは実現できたのか』の著者マシュー・ホンゴルツ・ヘトリングの最新作である。

タイトルが前作と似ているが、同じ町が舞台など、内容に直接的な繋がりがあるわけではない。ただ、自由を求める人達、自由の旗印のもとに自分たちの意見を強引に押し通そうとする人たちが社会を歪めていった過程を描くという意味では、テーマが連続している。本作は、ヒーリング、祈りなど、普通に考えたらそれで治るはずがない手法が「病気を治すための唯一真実の治療法」であると売り込み、実際にある程度成功した人々を描き出す、トンデモ医療についての一冊だ。そして、著者によればそうしたトンデモ医療が受け入れられてしまう土壌がアメリカにあったことで、新型コロナウイルスで他国と比べてもたくさんの犠牲者を出すことに繋がったという。

本書はトンデモ医療に目覚めた人たちの〝覚醒〟の瞬間を描き出す章から始まり、筆致も相まってその部分は笑えてしまうのだが(現実に被害者が生まれるわけなので笑い事ではないのだけど)、次第にそれがいかにアメリカを蝕んでいったのかが明らかになるにつれ真顔に引き戻される。アメリカで何が起こっていた/いるのか? を知ることができる一冊であり、ここで描かれている事態は日本で進行してもおかしくない(というか、部分的には進行している)ので、備えにもなるはずである。

〝覚醒〟の瞬間

さて、先に書いたように本書の第一部は各トンデモ医療界の著名な人々の〝覚醒〟の瞬間から始まる。第一章で取り上げられていくのは、サウスダコタ州に住むラリー・ライトルという歯科医の男性だ。彼はある種のヒーリングに目覚めてしまった男性なのだが、その最初の兆候に気づいたのは農園で育った少年時代だったと語る。

彼は父のナイフを持ち出して木を削っていたが、手がすべって脚に深い傷を作ってしまう。彼は両親に黙って塩の含まれた井戸水で傷の手当をしたが、その傷は一晩で治ったのだという。そして、次のように考えた。『「どうしてあの傷は一晩で治ったのかと、よく不思議に思ったものだ。今ならわかる」何年ものちに彼は書いた。「エネルギーのおかげだ」』(p22)。ライトルは歯学部を出て歯科治療を行いながらも、普遍的なヒーリングの光があらゆる生き物を満たすと〝覚醒〟した。

 この普遍的エネルギーは自然治癒からダウジングに至るあらゆるものの原動力となりうる、とライトルは信じるようになった。彼は、この古代の力を操って、すべての人間により良い健康を享受させるようにその力を集束させる医療機器の開発に取り組みはじめた。
 ラリー・ライトル──コーチ転じて歯科医転じて市民リーダー──にとって、ヒーリングの光こそが〝唯一真実の治療法〟だった。(p23)

といってライトルの第一章は幕を閉じる。そして第二章では自作のハーブ薬こそががんでもあらゆる病を治すと信じるトビー・マッカダムの覚醒エピソードが語られていく。トビーは近代医学は人間の体にとって害をもたらすとして自分の母親に自作のハーブを渡し、母もそれを受け取ってあなたには人を癒せる力があるのよ、絶対やめないと約束して、と優しいことを言っていたが、結局母はそのハーブを飲まずに脳卒中で亡くなってしまう。トビーは、ハーブを服用してくれていたら母はその後何年も生きていたはずだと考えるようになり、ハーブ薬信奉に〝覚醒〟する。

いまわの際に、フランシスはトビーに新たな生きる目的を与えていた。彼、トビー・マッカダムは、自分のハーブ薬こそが、〝唯一真実の治療法〟であることを悟ったのである。

飲まなかったのに悟るなよ! と思うのだが、このレベルのトンデモ代替医療覚醒エピソードが連続していく。ヒルが唯一真実の治療法だと信じた女、神が病気を治してくれるのだから、祈りこそが医学に勝ると信じ布教に走った夫妻、果てには自分がアンドロメダ星雲から来た古代のエイリアンの神なのだと語るトンデモ白人男性ジム・ハンブルまで現れる。彼はミラクル・ミネラル・ソルーション(MMS)と呼ばれる自作のドリンクこそが〝唯一真実の治療法〟だとして世に打って出る。

まさに世は大トンデモ医療時代! とでもいうべき状況である。

トンデモ医療アベンジャーズvs国家機関

そうしたトンデモ医療に目覚めた人たちはそれを他者にまで布教しはじめる。トンデモ医療を広める人は昔から多くいたが、現代は治療師たちがインターネット経由で直接大衆と繋がるようになったことで、より広まりやすくなってしまっている。もちろん、トンデモ医療の布教に対抗するための手段もある。資金力のある機関の一群がそれで、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)や、FDAなどである。

実際、FDAはトンデモ医療の提唱者を追い詰めてきた歴史と実績がある。だが──そう簡単にうまくいくわけではない。先に述べてきたトンデモ医療アベンジャーズはみな何らかの形でFDAや警察の調査を受けるのだが、反省しますとかもうしませんと何度も繰り返して業務をし続け、マンパワーに限界のあるFDAやCDCなど専門家たちも目立つ形で叩き潰して抑止するしかないと奔走する。その結果何が起こるのか?

 そしてFDAと〝唯一真実の治療法〟側との戦いは、まったく別種の人々に思わぬ影響を与えることになる。反ワクチン運動家である。(p133)

と、ここで驚くべきことに反ワクチン運動家をはじめとした〝医療の自由〟思想の信奉者たちに話が繋がるのだ。反ワクチン運動家らは2000年代初頭、資金不足やその影響力不足に悩んでいた。一方、〝唯一真実の治療法〟勢力はインターネットを背景にその力を増し、両勢力は互いの保護と利益を目的に手を組めるのではないか──と考えるようになった。代替医療博覧会など数々のイベントを通して両勢力は接近し、〝唯一真実の治療法〟を売るバラバラの勢力だった人々は、声を一つにし始めた。

 〝唯一真実の治療法〟の販売者が医療の自由推進派に変貌するにつれて、反ワクチン運動の中に残っていた過激派を歓迎する政治空間が生まれるという副作用が起きた。代替医療治療師たちと同様、彼らも議論の焦点を科学からアメリカ人の選択の自由へと移すことを熱望していた。そして、ワクチンが予防する伝染性疾患への対策として、〝唯一真実の治療法〟を積極的に取り上げた。(p136)

医療の自由が推進されれば、〝唯一真実の治療法〟にとっても反ワクチン運動家にとっても渡りに船だ。自分たちの意見を自由に布教することができる。反ワクチン運動家は、そのうえ、ワクチンを打たない場合の医療手段として〝唯一真実の治療法〟を利用するようになり、両者は最悪の形で手を組んでしまう。

おわりに

どんな状況やねん、という感じだが、話はこれで終わらない。リバタリアンが代替医療産業の政治力を吸収し、医療の自由を求める声が共和党主流派にも影響するようになった。選挙で選ばれた政治家たちが怪しげな医療運動を支持しはじめたのだ。

これがだいたい2000年代の話だが、ではそこから20年をかけてアメリカと代替医療界隈の状況はどのように変わっていったのか? なぜアメリカではこんなことが起こってしまったのか? ラリー・ライトルをはじめとした〝唯一真実の治療法〟勢力は逮捕されなかったのか?──といった問いかけへの答えは、実際に本書を読んで確かめてもらいたい。これは現実の話なのか? と疑りたくなる話の連続である。

下記は前作のレビュー。こっちも傑作。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

なぜ、アルツハイマー病の研究が遅々として進まなかったのか?──『アルツハイマー病研究、失敗の構造』

認知症の一種であるアルツハイマー病は、誰もが老化と共におちいる可能性のある病気だ。記憶力が衰え、言語・思考などあらゆる知的能力がだんだん衰退し最終的には死に至る。体はそのままで人格が壊れていくことから本人の恐怖はもちろん、日常生活を単独で行うことが難しくなっていくので、介護負担・費用の問題も大きい。

がん治療が進歩し人々が長く生きるようになると、必然的にアルツハイマー病の患者は多くなる。厚生労働省が2022年6月に公表した患者調査(2020)では継続的に治療を受けているアルツハイマー病の患者数は79万人にものぼる。1996年には2万人であったことを考えると、増えているのは間違いない。それなのに、わずかに進行を遅らせる薬こそ存在するものの、症状を劇的に改善させる薬は作られていない。

最近も、米食品医薬品局(FDA)がアルツハイマー病治療薬「アデュカヌマブ」と「レカネマブ」の二種類を承認したが、21年に承認された前者は治験での効果が限定的(認知機能の低下を遅らせる効果はわずかだった)であり、承認されたことに疑問を呈す学者さえいる薬だ。2023年の1月に承認されたレカネマブの方は認知機能の低下を遅らせることが治験で示された薬だが、データは間違ってはないが恣意的で、その効果は統計的には有意でも生物学的にはほとんど無意味であると語る学者もいる(本書の著者や、米バンダービルト大学医療センターの神経科医マシュー・シュラグなど)。

完成が待ち望まれる薬だが、新薬はなかなか承認されず、その効果も目下のところ目覚ましいとはいえない、というのが現状のようだ。では、なぜそんな状況になっているのか。何が研究のネックになっていて、今後の展望は開けているのか。その謎を解き明かしていくのが本書『アルツハイマー病研究、失敗の構造』である。

著者のカール・へラップはアルツハイマー病の基礎研究分野で確かな実績のある研究者で、この病気の病理診断基準を決めるプロセスなど、その中核を知る人物だ。しかし、彼の研究は決して順風満帆ではなかった。それには、この病気が不可解なだけでなく、この研究界隈の妨害や思い込みも関係している。その失敗の歴史と構造は、アルツハイマー病研究にとどまらず広く普遍的に起こり得るものだ。

著者自身がその構造の被害者の一人であり、本書の記述にも熱がこもっている。現代を生きる誰もが無関係ではいられない、非常に重要な一冊なのだ。

アミロイドカスケード仮説

本書ではまずアルツハイマー病の定義が試みられ(そもそも簡単に定義ができないのがアルツハイマー病の研究が失敗する理由のひとつなのだが)、その後アルツハイマー病の歴史が簡単に語られていく。どちらも重要なのは、一体何がアルツハイマー病をもたらすのか? という問いかけだ。特定部位の損傷なのか変異なのか?

数々の仮説が提唱されてきたが、その中で最も支持を得たのが「アミロイドカスケード仮説」だった。これは概略だけなら難しい話ではない。脳内の神経細胞外にゴミ(アミロイドというねばねばした凝集たんぱく質)がたまり、結果その堆積物である「アミロイドプラーク」(いわゆる老人斑)が発生し、それが増え、アルツハイマー病を発症するということである。アミロイドカスケード仮説の代表的な論文では、『アミロイドβタンパク質の蓄積が……アルツハイマー病の病理をもたらす原因であり……』とはっきり書かれている。それならアミロイドを除去すればよさそうだ。

実際この仮説が支持されてきた(そして、今なお支持されている。前述の「アデュカヌマブ」と「レカネマブ」はどちらもアミロイドプラークを除去することに集中している)のには理由がある。遺伝的な側面からの検証が関係を示唆していたこともあるが、中でも注目に値するのが、マウスを対象とした実験で目覚ましい効果があったことだ。なぜか人間以外の動物はアルツハイマー病を発症しないので、この実験では遺伝子操作で多数のプラークが脳に散らばり記憶力に不具合が出たマウスを対象とした。

そしてある時、製薬会社のある研究チームがマウスの脳内のプラークを除去するワクチンを開発し、効果をあげた。それどころか、プラークができはじめてからワクチンを打ってもプラークは減って、それに伴い減じていた記憶力ももとに戻った。それなら、あとはそれを人間に適用して、同じような作用を目指せばいいだけだ!

うまくいかない治験

だが、ことはそう単純な話ではなかった。マウスではうまくいったが、人間ではうまくいかないのだ。治験でプラークはちゃんとヒトの脳からも消えるのだが、それでもアルツハイマー病は治らないのである。それでもアミロイドカスケード仮説はそれまでの発見があまりに劇的で、多くのヒトにとってそれ以外の原因が考えられなかったので、たいした結果が得られなくとも仮説が捨てられることはなかった。

1992年、著者らもアルツハイマー病に関わる研究──ただし、アミロイドとあまり関係のない、ニューロンの死滅についての研究──を行っていたのだが、自身らの仮説を諮問委員会にはかったところ、『「きみね、アミロイドの研究でなければアルツハイマー病の研究じゃないんだよ」』と警告を受けたという。それぐらい当時は、アルツハイマー病=アミロイドが原因であるという考えがまかり通っていて、それ以外の仮説を検証したり提示しようとしてもはねつけられる時代だったのである。

批判をただ却下するのは(アミロイド仮説の擁護派はおうおうにしてそうしようとしていたが)、科学にのっとった議論というよりディベートの戦術である。アミロイドカスケード仮説を信奉するからには、その仮説の生物学的な機序を可能な限り詳しく掘り下げる義務があった。なのにその道を選ばず、いつのまにか仮説を守ること自体が使命となった。それがアルツハイマー病研究の当時の状況である。

注記しておきたいのは、著者は別にアミロイドカスケード仮説が「完全に間違っている」と言っているわけではないのだ。アルツハイマー病は複雑なピースからなる病気であり、その一つとしてアミロイドが存在しているのであって、それ以外も研究しなければ解決できないと言っているのである。

実際、当時アミロイドに関係しないからといって批判された仮説の多くは、アミロイドカスケード仮説と相補的で、否定するものではなかった。『私たちはアミロイドのみのルートを通ってアルツハイマー病の治療薬を追い求めてきたために、多くの時間を失った。たぶん10~15年は無駄にしてきただろう。』と著者は語る。

なぜマウスではうまくいったのにヒトではだめだったのか?

なぜマウスではうまくいったのにヒトではダメだったのかといえば、そもそも当時作製されたマウスはアルツハイマー病とはいえなかった、と本書では述べられている。当時はアミロイドカスケード仮説が今以上に信奉されており、マウスはプラークさえあって記憶に不具合が多少あれば実験対象として問題なしにされた。

しかし実際には当時の遺伝子操作で作製したモデルマウスには実行機能障害や抑うつなどアルツハイマー病の諸要素がなく、それどころか「機能が次第に失われていく」最大の特徴さえなかった。つまり、アルツハイマー病を治したと思いこんでいただけで、そもそもアルツハイマー病とはいえないマウスだったのだ。また、プラークを人間の脳内から除去してもよくならないということは、プラークが人間の脳内にあっても知的能力に問題が現れるとは限らないことも意味している。

おわりに

では、何が原因なのか? その答えは出ていないが、アミロイドの除去だけを探求しても難しそうだ、と本書を読んでいると思わせられる*1。そもそも治したりモデルマウスを作製するにもアルツハイマー病の具体的な定義が必要で──と、本書では200pに至って「アルツハイマー病とは何だろうか?」とあらためて問いかけて見せる。

基礎からしっかりと教えてくれる、じっくり時間をかけて読む価値のある一冊だ。

*1:ただ、もちろん続々とアミロイド除去を目的とした薬が出ているように、こちらの方面もまだまだ探求はされている。たとえば、アミロイド除去薬がたいして認知機能の改善をもたらさないのは、投与するのがアルツハイマー病が判明してからでは遅すぎるので、症状が出るずっと前からの予防的介入が必要なのではないか──など、「アミロイドは原因なのは前提として、アミロイド除去薬が効かない理由がなにかあるのではないか」という模索も続けられている。著者の立場はこれまでのアルツハイマー病研究に対して否定的なので、その点については注意が必要だろう。