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ハヤカワ文庫補完計画作品を全部読んで/レビューしてのあとがき&目次

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早川書房70週年を記念して行われた『これまで小社の歴史を彩ってきた名作・傑作70点を、新訳・復刊・新版で装いを新たに刊行してまいります。』という、「ハヤカワ文庫補完計画」に勝手に乗って全レビューしていたのだが、これが終わった。最初は1点につき1500字くらいの簡単なものを予定していたのだが、それでは到底不可能なことがわかり結局どれも3000字ぐらいかけて本格的に書いてしまった。

とはいえ普段レビューを書いていない人間が突然書き始めたわけでもないし、普段書いている記事の一部分がこの企画にとって変わっただけでもある。やり遂げたという感じでもなく、あれ、終わったのか、という呆気なさの方が強い。なんとなく「終わったらあとがきを書こう」と決めていたから今これを書いているけれども、特に何か書くことがあるわけでもなかったりする。まあ書いていれば何か出てくるでしょう。

なんでこんなことをやろうとしたのかといえば1.せっかくのお祭り企画にも関わらずただ出し直されるのではつまらないだろうと思ったこと。2.2015年からSFマガジンで海外SFレビューの連載をはじめたのだが、古典的な海外SFの名作で読んでいないものが多くゆっくりとでもいいので穴を埋めていく必要があったこと。

3.あまりにもジャンルがバラバラすぎるので何でも読んでよく知らない分野であっても恥ずかしげもなく書いてしまう自分以外にはやらないだろうな/企画が競合しなさそうだなと思ったこと、などなどである。 だいたい復刊や新訳されるのは数十年単位で過去の作品ばかりなので、それが現代においても通用するのか、おもしろいのかといった観点はどのレビューにも入れてきたつもりである。

あとはまあ、電子書籍を出したいなという気持ちが先にあって、こういう企画物の方がやりやすかったのもある。金儲けが目的ではなく(そりゃ売れたほうがいいわけだけど)、こんなふうなやり方で連載して、電子書籍を出したらどんな効果があるんだろう、そこそこ売れるのか全然売れないのか──ある種の実験みたいなものだ。

とはいえどれもざっくりとした思惑であり、こちらとしては仕事ではない以上(早川書房から金をもらっているわけではない)無理してでも完遂する気なんかサラサラない。終わったのはひとえに復刊・新訳される本がどれもおもしろかったからだ。あらためて新訳に関わった人々や企画・編集に関わった人々、新版に解説、ただの復刊であっても解説に手を加えてくれた人々に感謝したい。

僕はたくさん本を読んでいると思われることもあるが、あまりにもばらばらにまとまりなく読んでいるので特定のジャンルについては必読レベルの物を読んでいないことが多い。ミステリからSF、ノンフィクションまで含めて「あの」と表現されそうな「新しい古典」を読む機会ができ、「冬木糸一補完計画」じみた効果を発揮してくれたのは思わぬ副産物であった。だいたいなんでもそうだが、つらいつらいとおもっていたらできないので全体的に「楽しいなあ」と喜んでできたのは素晴らしい。

終わった後に、「書き手」を募集してみんなでわいわい全70点を様々な観点からやるのも良かったかなと思ったが、一人でやる気楽さ(好きなときに何の気兼ねもなくやめられる)には代えられなかった。終わったからこそそんなことを考えられるので、やっている最中は終わる確信が持てないので人を巻き込めないのである。

では以下目次になる。ジャンル別に並べようかとも思ったが、まあせっかく番号順で割り振ってあるんだから番号順に並べました。一部5巻本なのに番号が連番でないとかがあるので完全に正確ではないけどね。

目次

【01】NV『アルジャーノンに花束を〔新版〕』ダニエル・キイス/小尾芙佐訳
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【02】SF『ソラリス』スタニスワフ・レム/沼野充義訳
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【03】SF『死者の代弁者〔新訳版〕』上 オースン・スコット・カード/中原尚哉訳
【04】SF『死者の代弁者〔新訳版〕』下 オースン・スコット・カード/中原尚哉訳
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【05】HM『シャーロック・ホームズの冒険〔新版〕』上 アーサー・コナン・ドイル/大久保康雄訳
【06】HM『シャーロック・ホームズの冒険〔新版〕』下 アーサー・コナン・ドイル/大久保康雄訳
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【07】NV『ファイト・クラブ〔新版〕』チャック・パラニューク/池田真紀子訳
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【08】NF『レナードの朝〔新版〕』オリヴァー・サックス/春日井晶子訳
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【09】SF『伝道の書に捧げる薔薇』ロジャー・ゼラズニイ/浅倉久志・峯岸久訳
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【10】SF『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』フィリップ・K・ディック/浅倉久志訳
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【11】SF『クローム襲撃』ウィリアム・ギブスン/浅倉久志・他訳
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【12】SF『はだかの太陽〔新訳版〕』アイザック・アシモフ/小尾芙佐訳
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【13】HM『特別料理』スタンリイ・エリン/田中融二訳
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【14】NF『24人のビリー・ミリガン〔新版〕』上ダニエル・キイス/堀内静子訳
【15】NF『24人のビリー・ミリガン〔新版〕』下ダニエル・キイス/堀内静子訳
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【16】SF『タイム・シップ〔新版〕』スティーヴン・バクスター/中原尚哉訳
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【17】SF『歌おう、感電するほどの喜びを!〔新版〕』レイ・ブラッドベリ/伊藤典夫・他訳
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【18】HM『アデスタを吹く冷たい風』トマス・フラナガン/宇野利泰訳
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【19】HM『ママは何でも知っている』ジェイムズ・ヤッフェ/小尾芙佐訳
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【20】NF『大日本帝国の興亡〔新版〕』1 ジョン・トーランド/毎日新聞社訳
【21】NF『大日本帝国の興亡〔新版〕』2 ジョン・トーランド/毎日新聞社訳
【23】NF『大日本帝国の興亡〔新版〕』3 ジョン・トーランド/毎日新聞社訳
【24】NF『大日本帝国の興亡〔新版〕』4 ジョン・トーランド/毎日新聞社訳
【26】NF『大日本帝国の興亡〔新版〕』5 ジョン・トーランド/毎日新聞社訳
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【22】HM『来訪者〔新訳版〕』ロアルド・ダール/田口俊樹訳
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【25】SF『逆行の夏 ジョン・ヴァーリイ傑作選』ジョン・ヴァーリイ/浅倉久志・他訳
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【27】SF『海外SFハンドブック』早川書房編集部・編
【28】HM『海外ミステリ・ハンドブック』早川書房編集部・編
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【29】HM『九尾の猫〔新訳版〕』エラリイ・クイーン/越前敏弥訳
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【30】HM『ルパン対ホームズ』モーリス・ルブラン/平岡敦訳
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【31】HM『密造人の娘〔新版〕』マーガレット・マロン/高瀬素子訳
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【32】NV『トレインスポッティング』アーヴィン・ウェルシュ/池田真紀子訳
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【33】FT『双生児』上 クリストファー・プリースト/古沢嘉通訳
【34】FT『双生児』下 クリストファー・プリースト/古沢嘉通訳
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【35】NF『復讐者たち〔新版〕』マイケル・バー=ゾウハー/広瀬順弘訳
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【36】SF『ブラッド・ミュージック』グレッグ・ベア/小川隆訳
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【37】HM『野獣死すべし』ニコラス・ブレイク/永井淳訳
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【38】NV『リトル・ドラマー・ガール』上 ジョン・ル・カレ/村上博基訳
【39】NV『リトル・ドラマー・ガール』下 ジョン・ル・カレ/村上博基訳
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【40】FT『魔法がいっぱい!』ライマン・フランク・ボーム/佐藤高子訳
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【41】HM『魔術師を探せ!〔新訳版〕』ランドル・ギャレット/公手成幸訳
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【42】NF『ムハマド・ユヌス自伝』上 ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ/猪熊弘子訳
【43】NF『ムハマド・ユヌス自伝』下 ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ/猪熊弘子訳
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【44】SF『宇宙への序曲〔新訳版〕』アーサー・C・クラーク/中村融訳
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【45】SF『宇宙の戦士〔新訳版〕』ロバート・A・ハインライン/内田昌之訳
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【46】HM『黄色い部屋の秘密〔新訳版〕』ガストン・ルルー/高野優監訳・竹若理衣訳
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【47】NV『レッド・ドラゴン〔新訳版〕』上 トマス・ハリス/加賀山卓朗訳
【48】NV『レッド・ドラゴン〔新訳版〕』下 トマス・ハリス/加賀山卓朗訳
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【49】SF『世界の誕生日』アーシュラ・K・ル・グィン/小尾芙佐訳
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【50】SF『中継ステーション〔新訳版〕』クリフォード・D・シマック/山田順子訳
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【51】HM『幻の女〔新訳版〕』ウイリアム・アイリッシュ/黒原敏行訳
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【52】NF『千の顔をもつ英雄〔新訳版〕』上 ジョーゼフ・キャンベル/倉田真木・斎藤静代・関根光宏訳
【53】NF『千の顔をもつ英雄〔新訳版〕』下 ジョーゼフ・キャンベル/倉田真木・斎藤静代・関根光宏訳
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【54】NV『新・冒険スパイ小説ハンドブック』早川書房編集部・編
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【55】NV『アラスカ戦線〔新版〕』ハンス=オットー・マイスナー/松谷健二訳
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【56】NV『ナイト・マネジャー』上 ジョン・ル・カレ/村上博基訳
【57】NV『ナイト・マネジャー』下 ジョン・ル・カレ/村上博基訳
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【58】SF『デューン 砂の惑星〔新訳版〕』上 フランク・ハーバート/酒井昭伸訳
【59】SF『デューン 砂の惑星〔新訳版〕』中 フランク・ハーバート/酒井昭伸訳
【60】SF『デューン 砂の惑星〔新訳版〕』下 フランク・ハーバート/酒井昭伸訳
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【61】NF『パリは燃えているか?〔新版〕』上 コリンズ&ラピエール/志摩隆訳
【62】NF『パリは燃えているか?〔新版〕』下 コリンズ&ラピエール/志摩隆訳
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【63】SF『あまたの星、宝冠のごとく』ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/伊藤典夫・小野田和子訳
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【64】NF『マザー・テレサ語る』ルシンダ・ヴァーディ/猪熊弘子訳
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【65】NF『最初の刑事 ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』ケイト・サマースケイル/日暮雅通訳
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【66】epi『キャッチ=22[新版]』上 ジョーゼフ・ヘラー/飛田茂雄訳
【67】epi『キャッチ=22[新版]』下 ジョーゼフ・ヘラー/飛田茂雄訳
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【68】SF『カエアンの聖衣〔新訳版〕』バリントン・J・ベイリー/大森 望訳
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【69】HM『ブラウン神父の無垢なる事件簿』G・K・チェスタートン/田口俊樹訳
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【70】SF『スキャナーに生きがいはない 人類補完機構全短篇1』コードウェイナー・スミス/伊藤典夫・浅倉久志訳
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目次を作っていたら「こいつ書きすぎだろ」とちょっとひいた。

特に誰かに褒められたわけでもないから何も考えてなかったが一人でこんだけ書くのはけっこうすごいかもしれない。まあ、たいしたもんでもないか……。「この中で一押しとかないの?」とか、そういう道筋をつける部分については電子書籍版にエッセイとして収録するつもりなので興味ある人は待っていてください。

もしエッセイとして収録する内容として質問とか、こういう内容を盛り込んでくれということがあればコメントやTwitterでタグ #ハヤカワ文庫補完計画全レビュー をつけて書いてくれれば読みに行きます(採用するかどうかはまた別)。

まるで神話のように反響する傑作短篇集──『スキャナーに生きがいはない (人類補完機構全短篇1)』

スキャナーに生きがいはない (人類補完機構全短篇1)

スキャナーに生きがいはない (人類補完機構全短篇1)

コードウェイナー・スミス作品に出会ったのはSFジャンルにハマってから「SF必読書リスト100冊」的なものを順々に読んでいっている最中であったと思う。あまりにもかっこいい文章、他の誰もこんなものを考えることのできない/描けないという情景と設定の数々、短篇にて断片的にあかされていく未来史の壮大さと「いったいこの世界はどうなってしまうんだ/なんなんだ」という興奮と戸惑い……。

ティプトリーやハインラインを次々と読んでいく中現れた異色の中の異色、壮大な未来史を描く王道といえばあまりに王道なコードウェイナー・スミス作品を初めて読んだ時、「SFってのはこういうものまで許容される世界なんだ」とそれまで以上にSFが好きになったし、それ以後にもコードウェイナー・スミス的な興奮を与えてくれる作品はなかったという意味で特別/得意な作家に駆け上っていった。

というわけで本書はコードウェイナー・スミスの人類補完機構を含む"全短篇"を集めた短篇シリーズ第一冊である。(人類補完機構全短篇)とあるから人類補完機構シリーズ短篇のみの収録なのかな? と勘違いしたが、原書はスミスの全短篇を収録した1巻本であり、邦訳版ではそれを3分冊してお送りするとのことなので、"全短篇"となる。今巻に限って言えば人類補完機構短篇をおおむね時系列順に*1収録しており2篇の初訳を交えているので、旧来からの読者も当然ながらマスト・バイである。

「スキャナーに生きがいはない」の初出から60年以上の時を経てその濃度はまったく失われていない。一般的に知名度が高いわけではないと思うが、ハヤカワ文庫補完計画*2のラストを締めくくるには不足はない作品と存在感であるといえる(まあ、そもそも「補完計画」だしね……約束されていたともいえる。)。

そもそも人類補完機構って何?

さて、そもそも未読者向けに人類補完機構って何? ってところから話をはじめよう。これは滅亡寸前までいってしまった人類の生き残りが同じ悲劇を繰り返さぬよう設立されその後1万年以上にもわたる未来史において中心的な役割を果たすことになる組織の名《人類補完機構》である。スミスの短篇のほとんどと、長篇『ノーストリリア―人類補完機構』はこの人類補完機構が存在する世界を描いた作品なのだ。

ノーストリリア (ハヤカワ文庫SF)

ノーストリリア (ハヤカワ文庫SF)

  • 作者: コードウェイナー・スミス,ハヤカワ・デザイン,浅倉久志
  • 出版社/メーカー: 早川書房
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いろんな短篇

「マーク・エルフ」は人類補完機構設立以前の時代を描いた短篇だ。

第二次世界大戦末期に脱出のためロケットで打ち上げられたドイツ人三姉妹の一人が、長い眠りから覚め荒廃した地球へと降り立つとそこにはドイツ帝国に逆らうあらゆる人間を殺すロボットがいた! 彼女とドイツ人以外絶対殺すマシーンとの間で交わされる奇妙な対話は、ロボットならではの硬直性を描きながらもそれがもたらした圧倒的な悲惨さとどこか笑えてしまうユーモアも同時に描いている。

「あなたはドイツ人だ。ドイツ人がどこにもいなくなって久しい。わたしは地球を二千三百二十八周した。これまでに第六ドイツ帝国の敵を一万七千四百六十九人たしかに仕留め、ほかにおそらく四万二千と七人を殺している(……)」

これに続けて、打ち上げられていた三姉妹のうちのもう一人が地球に降下し、人類補完機構設立の瞬間が描かれる「昼下がりの女王」とまっとうに補完機構世界の発端を捉えてこれがどのような世界なのかを提示するような短篇もあれば、補完機構とはあまり関係なく圧倒的な情景と、この世界の許容度の広さを魅せてくれる短篇もある。

その筆頭といえるのは人間を空から大量にパラシュート付きで落とすことで金星乗っ取り計画を描いた「人びとが降った日」だ。『「前代未聞のことだが、どうやら人間を落としているようだな。それも、たくさんの数だ。何千万、何百万、いや、何千万かもしれん。とにかく大人口がここに降りようとしている」』金星上空には何千隻もの船が待機しており、人間がばらばらばらばらと植民のために降ってくる!!

同じく情景で魅せる短篇として、「黄金の船が──おお! おお! おお!」はラウムソッグと呼ばれる勢力との戦争を描く。人類補完機構サイドは人的な被害を最小限に抑えて戦争を制してみせる。その方法とは、補完機構の長官でさえ正確には知らない秘密兵器である全長1億5千万キロの黄金の船で敵を圧倒することだった! 

全長1億5千万キロ! 凄まじいhattari! この短篇では黄金の船の奮闘に加え、ほんの7行にすぎないが「ツキを変える超能力者」の少女が出てきて、『ほんの数瞬、惑星のありとあらゆる場所で、海面下で、海上で、地上で、空中で、ツキがわずかに落ちた。争いが始まり、事故が起こり、あらゆる災難が確率の限界すれすれのところまで増加していった』とめちゃくちゃな事態が描写されたり、ケレン味が半端ない。

多くの短篇にラブロマンスの要素が含まれているのも特徴の一つといえる。「星の海に魂の帆をかけた女」では、宇宙航行が盛況な船乗りの時代に、40年の航行をするために「主観時間の1ヶ月を40年に引き延ばす」処置を行って船乗りを送り出す状況が描かれる。若き少女はそうした主観的にはともかく身体的にはめっきり歳をとった老パイロットに恋をしてしまい、彼女自身も船乗りを志すが──シンプルながらも時を超え覚悟を要求する鮮やかな愛が描かれる。これがなんて美しいことか。

スキャナーに生きがいはない/鼠と竜のゲーム

表題作「スキャナーに生きがいはない」は、一般読者の目に触れたスミスの初短篇だが初読時は誰しも度肝を抜かれたことだろう。何しろ特に説明なく数々の用語が出てきて、何を言っているのかよくわからずに幻惑されるが──とにかく問答無用で"かっこいい"ことだけはわかり、読み進めていくうちになんとなく意味が了解されてくる──あるいは意味がわからなくても特に問題ないか! と振りきれてしまう。

「スキャナーに生きがいはない」時代は深宇宙に行くには、虚空の苦痛に耐えるため脳と肉体を切り離すヘイバーマン手術を受け、"スキャナー"になる必要がある。スキャナーは人類のもっとも名誉ある者として民衆から尊敬を受けるが、一ヶ月に数回"クランチ"することで人間に戻る以外は機械のような生活を送っている。ところがある科学者が、スキャナーにならずとも苦痛を遮断する方法を見つけてしまい、スキャナーらは唯一の生きがいすらもを奪われることになる──。スキャナーらはその科学者を抹殺することを決めるがはたして彼らの未来はどっちだ!!

深宇宙へ行くには虚無に耐えなければならない独自設定、そこから生まれた脳と肉体を切り離されたスキャナー達、それだけでも異様だが、これが後々まで大きな意味を持つ設定として引き継がれていく。「鼠と竜のゲーム」では、平面航法を用いた際に現れる虚無/死の恐怖を竜と呼び、150万キロを2ミリセコンドそこそこで移動する人間の反射神経では反応できない竜へ対抗するため、改造された猫をパートナーとして航行する文字通りの「鼠と竜のゲーム」が展開される。

この猫は見た目はただの猫だが思念によってその感情が流れ込んでくるがために、これがまたかわいいのだ。宇宙の虚無を竜と表現し、それに対抗するために猫を伴う。ほとんど冗談のような、それでも強烈なインパクトをもたらすイメージを、あくまでも大真面目に、裏付けとなる緻密な理屈/設定構築を伴って現出してみせる。

奇想という他ないアイディアがふんだんに盛り込まれ、それでいて1万年以上にわたる未来史へとしっかりと統合され「一つの壮大な絵巻」が明らかになっていくその興奮は、今を持ってしても他に耐え難い破壊的な傑作だ。

おわりに

にわかには飲み込み難い異様な設定の数々、歴史的事件や未来の行末を短篇の中で断片的/暗示的に描き、圧倒的な情景で見せていくそのスタイルは無数の解釈可能性を含んでおり、まるで神話のように反響する。この先SFというジャンルにどれだの作家が出てこようとも、燦然と輝き続ける特異な才能であり、作品だろう。

残り2冊にも新訳は含まれるのでそれがただただ楽しみだ。これにてハヤカワ文庫補完計画もラストになるが、全70冊、様々なジャンルにわたって素晴らしい作品/企画を堪能させてもらった。無謀なことにハヤカワ文庫補完計画全レビューなどということを始めてしまったがきちんと完走できたたのも作品のおもしろさあってこそである(つまらなかったらとっくにやめている)。関係各位には感謝したい。

*1:補完機構以外の短篇が入るのは第3巻から

*2:早川書房70周年を記念して全70点を復刊・新訳・文庫落ち・新編集で送る企画

理知を捨てるものこそ理知を拾う──『ブラウン神父の無垢なる事件簿』

ブラウン神父の無垢なる事件簿 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ブラウン神父の無垢なる事件簿 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

あのエラリー・クイーンは、〈これまでに創造された探偵三巨人〉として、ポーのデュパン、言わずもがなのシャーロック・ホームズにブラウン神父を入れている(と解説で明かされていて初めて知った)。普段そこまでミステリを読まないもので、ポーやホームズはそれなりに読んでいてもこのブラウン神父物は読んだことがなかったのだが、本書はブラウン神父物の5冊の短篇シリーズ、その第1冊の新訳版となる。

ブラウン神父という胡乱なキャラクタに加えそのトリックは、江戸川乱歩が評論集『続・幻影城』の中で『「ドイルには今日の意味でのトリックのある作品が案外にも極めて少なく、これに反してチェスタートンには悉くトリックがあり、そのあらゆる型を案出していると云ってもよい」*1と言っているぐらいさまざまな作品に継承され、発展されていった。いわばトリックの原型師である。

たしかに物理トリックも首の切断トリックもあって──と、僕はそのどれがここを原典、もしくは祖形とするものなのか正確にはわからないけれども相当に幅広いトリックの源泉となっているのはよくわかる。どれも後世に継承される過程でより洗練されていったものを僕もたくさん読んでいるが、1911年に原書が刊行された本書をそれでもおもしろく読めるのはその「魅せ方」が優れているからだろう。

鮮やかな解決

いくつもの謎が山のように降ってきて、それに対して「もっともらしい妥当な解釈(たとえば誰かが狂ってやったんだとか)」が示されるもブラウン神父の手にかかればあっというまに覆されて、バラバラだった事象のすべてが一つに繋がっていく。

一番最初に収録されている「青い十字架」はそのお手本のような作品だ。警察であるヴァランタンが大怪盗であるフランボーを追ってロンドンへと向かっていると、砂糖入れと塩入れの中身が入れ替えられている、窓代をあらかじめ払ってから割る、飯屋で三倍の額をわざわざ払うなど摩訶不思議な行動をする神父の二人組を発見する。いったいなぜそんな意味不明なことをするのか、フランボーに繋がるのか──と追っかけてみればその一つ一つの全てに意味のある解答が与えられる。

似たタイプだと「三つの凶器」では、誰にでも愛されていた慈善家のアームストロング卿の殺害事件が扱われる。シンプルなタイトル通り、死者の部屋には刺し殺せるナイフ、首を絞められる縄に、拳銃と三つの凶器が散らばっているが死因は窓から落ちて首の骨を折ったことだった──それらしい理由を並べ「自分がやったのだ」と自白する人間まで現れるが凶器がそこら中に散らばっている理由がわからない。演出過剰ともいえるが終わってみれば全てが鮮やかに繋がってみせるのが実に心地よい。

思い込み、先入観こそが目に見えない透明人間を生み出してしまう認知の隙をついた「透明人間」。完全に叩き潰された頭、傍らに落ちていた凶器と思われるハンマーはとても小さくて、力の弱い者にはとてもそれで頭を潰せるようには思えないが
それを可能にする方法を見事に導き出す「神の鉄槌」。木の葉を隠すなら森のなか、では森がないのであればどうしたらいいか──とまるで読者への挑戦状のように問いかけてくる「折れた剣の看板」は傑作といっていいだろう。

かつて父親を殺されたことを恨んだ若者が公爵へと決闘を申し込み、そのまま殺してしまうが実はその公爵は──と見えているものをいかに信用してはならないのかが描かれる「サラディン公の罪」などなどトリックの幅とその魅せ方は驚くほど広い。

ブラウン神父

読者に対して先入観ともいえる「オーソドックスな謎の解釈」を提示し、その後見事にそれを覆してみせる爽快な謎の解決に加えて、ブラウン神父というキャラクタもまた興味深い。最初の短篇「青い十字架」では『まさに東部のヌケ作の典型みたいな人物だったのである。まずノーフォークの茹で団子みたいに見栄えのしない丸い顔をしていた。眼は北海みたいにうつろだった。』などと語られており、よくもまあそんな悪口が出てくるよなと思う酷評ぶりである。しかしそんなヌケ作みたいな人物から、類まれなる推理が飛び出してくるのだ。

 ブラウン神父は黒服姿のままじっと動かなかった。が、その瞬間にこそ彼は理知を捨てたのだ。彼の頭脳は理知を捨てたときほどいっそう真価を発揮する。そういうとき、彼は二とニを足して四百万もにしてみせるのである。(……)しかし、そういうとき得られるものこそ真のインスピレーション──稀なる危機にはきわめて重要なインスピレーション──なのだ。誰であれ、理知を捨てる者こそ理知を救うのである。

これが、ただの才能ある人間ではなく神父の言葉から出ているというのがまた重要なところであろう。同じく「青い十字架」では、ブラウン神父ともう一人の偽神父による神学論争が事件解決のキッカケとなるのだが、偽神父が『それでも、われわれの道理をおそらくは超えるほかの世界というものがあると私は思います』と言ったことで、ブラウン神父はこいつは聖職者ではないと確信するのだ。

「あなたは道理というものを貶めようとしました」とブラウン神父は言った。「それは愚かな神学です」

と。もちろん道理を貶める=理知を捨てるとは意味が異なるわけではあるが、カソリック教会やブラウン神父自身も通常その手(理知を捨てる)を認めないのである。それでいながらも自身の最大の武器であって、ヒーロー物によくある「超越的な力を使うために内なる蛮性を制御しなければならぬ」的な二律背反が感じられるわけである。

もっとも、ブラウン神父のキャラクター性それ自体はホームズのように強烈なものではなく(見た目も悪いし)、いくつもの事件現場にたまたま居合わせ、あるいは呼び寄せられ、たちどころに問題の真髄を言い当ててみせるある種の解決装置のようにさえ見える。時々現れる神学論争や宗教的な見地は彩りとして存在するものの、むしろその装置性ゆえに、事件そのもの、トリックの鮮明さがよく際立っているともいえる。

三巨人とはよくいったもので、それぞれ原典にして見事に魅力がわかれている。解説を読む限り、第二集以後はトリックのキレとは違う方面の魅力に向かうようであるが、本書に関して言えばその冴え渡るトリックを存分に楽しむことができるだろう。

*1:これも解説より

「服は人なり」を突き詰めたらどうなるか──『カエアンの聖衣』

カエアンの聖衣〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

カエアンの聖衣〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

読みたい読みたいと願いながらも古本で手に入れるのもなあと思っていたのだが、ついにバリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』が大森望氏の新訳で復活した。ハヤカワ文庫補完計画全70点の復刊ラインナップに早くから記載されていたものだから、最後(3月下旬刊)まで待つことになるとは思わなかったが待った甲斐はある。

衣装SF

本作は衣装SFと言われる。それは一つに、『カエアンの聖衣』とついているように、カエアン人と呼ばれる人々が持っている特異な衣装哲学からきている。

カッコいい服を着ることで気分が高揚したり、自信が出てくるように、外見の変質が精神に影響を与えることは多くの人が頷くところであろう。それを発展させ、衣装を極めることで人類を外面だけでなく肉体まで含めて革新的に進化させることができるのではないかというシンプルなアイディアを本作は突き詰め、そこに緻密な理屈と背景を付け加えていくことで宇宙を巻き込むレベルで大風呂敷を広げていく。

 (……)自然のままに進化してきた人類の姿かたちは、偶発的で不格好で不完全で、内なる創造性に見合わない。眠れる内なる力を外在化するには、現実との適切なインターフェイスを獲得する必要がある。そのときはじめて、人間は真の装いで宇宙と対峙し、まともな思考力と行動力を備えた、本来そうあるべき生きものとなって、存在のあらゆる領域を開拓できる。
 しかし、人間の体が毛のない猿を超えてさらに進化するには、盲目的な自然のちからだけでは足りない。意識的な芸術の力、すなわち衣装芸術によってのみ、人類の肉体的進化は実現する。

こうした理屈を読んでバカなんじゃねえのと思ってしまう人間には、バカなことには違いない。しかしそれもいったん受け入れてしまえば、そこには誰にも踏み荒らされたことのない、めくるめく広大な衣装SFという大地が広がっているのだ。

簡単なあらすじ

異常な哲学を持っているカエアン人らには目下のところ敵対(しそうになっている)勢力がおり、それが比較的我々と価値観が近いと思われるザイオード人だ。まあそりゃ、すぐ近くに衣装で自己を変革する存在がいれば敵対もしたくなるだろう。カエアン人らの衣装それ自体の価値は広く認められており、難破したカエアン宇宙船の情報が入ったポイントへザイオード人が衣装を拾いに行くところから物語ははじまる。

巨獣と死闘を繰り広げながらも、宇宙船からカエアン人らの中でも特別な天才がつくりあげた、伝説のスーツを盗みだしたザイオード人のぺデルは、それを着ることでまるで服に操られるようにその人格が一部変質してしまい──。カエアンの衣装の素晴らしさ、その効力、哲学の意味までもが脳内に溢れかえりザイオード人でありながらもカエアン哲学をまさに自分自身の身体で体験していくことになる。

その後もこの特別なスーツをめぐって次々と事件が起きるが、基本は事件に巻き込まれながら「カエアン人の哲学を含む、この世界の背景」の探究が行われていく過程そのものがメインであってあらすじを抜き出してもたいしておもしろくはない。

圧倒的なケレン味

あらすじがおもしろくない代わりといってはなんだが、あらすじでは省かれてしまいそうな、彼らが宇宙で遭遇することになるさまざまな人種、この世界の背景設定に関する部分はかなり狂っており魅力が冴え渡っている。

たとえば、なぜカエアン人のような異常な哲学を持つ存在が生まれたのかといえば、この世界のそもそもの歴史が関係している。日本とロシアは銀河系開発時代、強固に反発し合いながら、宇宙のあちこちで戦争を起こしていた。戦線を拡大しすぎた反省か、両国とも宇宙から撤退したが、一部の人々は回収されずに放置されてしまう。

地球に帰還することはもはやかなわない。それでも強靭な精神力で生き延びた彼らは、どちらもそれぞれ違った形で極端な環境へと適応を遂げ、他所と交わらない変化を経たために異常なまでに"先鋭化"してしまったのだ!

 ロシア人の生存戦略は、すでに見たスーツ人の社会です。日本人の解答はまたべつ。彼らは当時すでに惑星ショージを掌握していた。直径わずか二千四百キロメートル、非常に寒く、生きものはなく、大気は希薄で呼吸できず、人類の居住にはまったく適さない。この恐ろしい条件下で生きるために、日本人は自身を"サイボーグ化"した。つまり、人体を設計からつくりかえ、人工的な機械臓器と融合させたのです

それだけならほえーという感じだが、サイボーグ化した日本人はなぜか野蛮人化し、その精神は日本文化から直接的に派生した「ヤクザ」や「坊主」ともはやケレン味しか感じられない要素に支配されてしまっている。『坊主は宗教的な司祭です。ヤクーサは本来、ギャングを意味していた。日本では、どうやら宗教組織とギャング組織が協力関係にあったようね』そんなわけねーだろうが!! いやそうとも言い切れないか……? このヤクザ共は宇宙版マッドマックスのように、宇宙を航行している人々へと死をも恐れず突撃攻撃してくるキチガイとして描かれている。

ロシア人は生存戦略として人類の自然な姿かたちを、人工的な概観と取り替えた──それが現在のカエアン人が有する強固な衣装哲学につながっているというのはわりとスマートに納得できる理屈でもある。直接的に描写こそされないものの、他にもアラブ人、アフロ人(なんだそりゃ)などに支配された宙域もあるようだ。そんなことを聞くとこのカエアン世界を舞台にした先鋭国家大戦が観たい!! と興奮してくるが、まあ、いってみれば枝葉であって物語の本筋には関わってこない。

プロットのスマートさを放棄したかわりに、アイディアを溢れさせてくるスタイルは、どのページをぱっと開いてもその圧倒的な与太話に酔いしれることができる特異性につながっている。後世のクリエイターに多くの影響を遺したと訳者あとがきで語られているが、このスタイルも起因しているのだろう。アイディアが無尽蔵に投入され使い捨てられていくので(他作品で回収しているのかもしれないが)ついつい使って/発展させてみたくなるのだ。

もちろん本筋は圧巻

もちろん本筋のカエアンの哲学については、「ここまで衣装SFとは突き詰めて考えられるのか」とあっけにとられるほど行けるところまで行ってしまう。「着る服によって人間の精神は変質してしまう」というのがその出発点であるならば、必然的に「では、人間の自由意志とはどこまでのものなのだろうか」という問いかけに繋がりえるし、そこからどんどん身体と精神の境界についての問いかけが連鎖していく。

原書刊行から40年以上の時間が経っているが驚くほど古びていないのは、独創的であるのに加え、この一冊で衣装SFというのをほとんどやり尽くしてしまったからというのもあるだろう。それぐらいの徹底ぶりである。とはいえそれでも見事に衣装SFを継承してみせたTVアニメーション作品『キルラキル』が現れたことで今回の新訳に繋がるなど、その血脈は途絶えていないのだ(続くとも思えないが……)。

解説

解説は『キルラキル』で脚本をつとめた中島かずき氏が書いており、『カエアンの聖衣』から受けた衝撃がいかにして『天元突破グレンラガン』や『キルラキル』に繋がったのかが語られている。特に『キルラキル』については、あり得たかもしれないラストが語られているので必読である。アニメは母娘の物語としてまとまりすぎた感もあり、かなり突き抜けた内容なのでこっちも観てみたかったなあ。

"探偵"草創期ならではの熱狂──『最初の刑事――ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』

最初の刑事――ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

最初の刑事――ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

物事にはなんであれ「最初」があるものだ。組織の設立、個人の誕生、宇宙の誕生、小説の誕生、などなど……当然、我々が普段当たり前のものとして受け入れている刑事にも「最初」があった。そんなわけで、本書は刑事という職業に最初についたウィッチャー警部と、彼が関わった中でも最大級に話題性のあった、1860年に発生した「ロード・ヒル・ハウス殺人事件」を扱った一冊になる。

事件はそのままミステリ小説の事件に採用できそうなぐらい舞台が整っているし、ウィッチャー警部は難事件を次々と解決してきた歴戦の刑事であり、キャラも十分に立っている。事実に根ざしたノンフィクションながら、いきなり真相を明かしてしまうのではなくもったいぶって情報を小出しにしていくそのスタイルはミステリそのもので、まるで小説を読むようにして楽しむことができる、かなり面白い一冊だ。

本書の事件があまりにも衝撃的だったせいか、1860年代以降の小説には「ロード・ヒル・ハウス殺人事件」の影響を受けた作品が多くみられる。中にはウィルキー・コリンズの『月長石』のようにウィッチャー警部からヒントを得てキャラクタがつくられてたりもするのだ。作中で何度もポーの作品や『月長石』からの引用がみられるのも、虚構と現実が相互に影響を与え合い、入り混じっていくようでミステリ的なノンフィクションという側面に拍車をかけている。

とはいえミステリ的な爽快なトリック、登場人物を集めての謎解き、襲撃される探偵──なんてわかりやすいサスペンスはないので、純粋にミステリーとして読むにはオススメしないのだが。わりと泥臭く証拠を集めて、地道に裁判を進めて、それでもはっきりしなかったりする(犯人は明確に示される)。その分きちんとノンフィクションとしての魅力も充実しているので、そのへんは安心してほしい。

草創期だからこその熱狂

そもそも探偵というものがいつ生まれたのかだが、小説における最初の探偵(と本書には書いてある)オーギュスト・デュパンが「モルグ街の殺人」の登場したのは1841年。英語圏における最初の探偵は、その翌年ロンドンの首都圏警察によって八人が刑事課として任命され、ジョナサン・ウィッチャー警部はこの時の一人である。

 ロード・ヒル・ハウス殺人事件は、あらゆる人たちを探偵にした。英国中の人たちがこの事件に関心をひかれ、何百人もの人々が、新聞に投稿したり、内務大臣やスコットランド・ヤードに自分の謎解きを送りつけたのだ。

1960年といえば本格的な探偵小説が始まり、現実でも刑事の運用がスタートしてまだ間もない時期であって、一般市民が日々供給される「ロード・ヒル・ハウス殺人事件」の情報に対してにわか推理を披露していた熱狂ぶりが引用部からはよく伝わってくる。他分野でもそうだが、「新たなものが生まれつつある草創期」は後の「安定・発展期」とは別種の熱気を生み出すもので、当時の「刑事」や「摩訶不思議な事件」に対する庶民の反応はまさにこの草創期特有の反応に属しているように思う。

チャールズ・ディケンズは、彼らを現代的なものの典型として取り上げている。一八四〇年代から五〇年代にかけてのさまざまな驚くべき発明、つまりカメラや電信や鉄道と同じように、神秘的であり、かつ科学的な存在だというのだ。電信や列車と同じように、刑事たちは時間と空間を跳び越えていくように見えた。

幻想すら入り混じっているが、本書はそうした、一時期にしか存在し得ない「新たなものが生まれつつある草創期」ならではの興奮を切り取っている稀有な一冊である。

事件の概要

ロード・ヒル・ハウス、59歳のサミュエル・ケントはそこで妻と子ども(7人)、3人のお手伝いと暮らしている。そんなある日、屋敷の中から3歳の男児が姿を消し、翌日には無残な惨殺死体となって発見される。地元警察らはお手伝いの女を犯人と決めつけ尋問していたがらちがあかず、凄腕の刑事を呼ぼうということになり、満を持してジョナサン・ウィッチャーが投入されることになる。

調査にあたったウィッチャーは、誘拐された当時窓の錠が外せるのは内側からだけであり、外からの侵入者が誘拐を実行するのは恐らく不可能だったことから「屋敷に同居していたものが男の子を殺した」と確信をこめて宣言する。そして、重要な動機についてだが、そのためにはまずこの一家の家族構成を明かしておかねばなるまい。子どもが7人というのはかなり多いように思うが、実際1人目の妻の子どもが4人、2人目の妻の子どもが3人と異なる親の子どもが同居している状況なのだ。

事実上複数家族が同居しているわけで、怨恨や嫉妬の線も考えられる……ウィッチャーは、1人目の妻との子どもであるコンスタンス・ケントのナイトガウンがなくなっていたことから(犯行時に着ていたもので、血まみれになったので処理したのだろうと)彼女が犯人であると確信し、審理にまで持ち込んだはいいものの、16歳の娘に殺人の汚名を着せようとする彼にたいして世論は厳しく、杜撰な説にたいする粗を世間は騒ぎ立てる。

結局、コンスタンスは保釈され、ウィッチャーも滞在を延ばしてもこれ以上の証拠は得られないと退去し、真相は暴かれることなく、調査は一旦は停滞するのだが、本当に犯人はコンスタンスだったのか、それとも別の誰かだったのか──さすがにここで明かすような野暮な真似はしないので気になるようであればぜひよんで確かめてみてもらいたい(ググると結末は出てきてしまうが)。

現実の事件でありながら、まるで探偵小説そのもののようなシチュエーションに、探偵物語と刑事ができて間もない当時の熱狂が隅々まで描きこまれている一冊だ。

祈りの働きは愛であり、愛の働きは奉仕です──『マザー・テレサ語る』

マザー・テレサ語る (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

マザー・テレサ語る (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

  • 作者: マザー・テレサ,ルシンダ・カーディ,沖守弘,猪熊弘子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 文庫
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死後に二度の奇跡を起こしたことが認められマザー・テレサが2015年の暮れに聖人認定された。ほんとに奇跡を起こしたんかいなどとツッコむのも野暮な話で、現代に依然としてそういう神話的な仕組みが残りえる(まがりなりにも多くの人間に受け入れられているのも)ことそれ自体が個人的には興味深いところではある。

本書はそんなマザー・テレサについて書かれた無数にある本の一冊で、1997年に単行本で出版されたのち今年になってから(聖人認定に合わせて?)文庫化されることにあいなった。マザー・テレサにたいする世間一般的な認知度というのがどの程度のものなのかはわからないが、簡単にまとめてしまえば、貧しい人々への支援を行うためカルカッタで〈神の愛の宣教者会・女子修道会〉を設立し、その後活動は世界中へと広がっていく。ずっと極端に貧しい人々への支援活動に従事してきた人である。

そんな経歴はともかくとして──彼女はいったい何を考え、どうしてそんな生き方をするのか、という部分について語られたのが本書である。長い時間をかけてマザー・テレサの言葉とその行動を拾い集め、同時に彼女と一緒に働いている同僚(ボランティアのシスターやブラザーら)からみた実像を描き出している。

『私たちが必要としているのは、祈ること、そして他人をもっと愛しはじめることだけである、と彼女は言った。』とマザー・テレサ自身は自分の言っていることは極端にシンプルなことなので本を書く意味などないのではと消極的な通りに、やっていることも言っていることも確かにシンプル極まりないので、難しいところは一切ない。だがその言葉の多くは、カトリック系の信仰者でなかったとしても響くものが多く、まるで詩を読むようにして楽しむことができる。

 私たちは愛のなかで成長するべきです。そのためにはひたすら愛しつづけ、与えつづけるべきなのです。──イエスがそうなさったように。普通のことを、普通でないほど大きな愛をもってしなさい。

普通のことをやるというのが実際は難しい。「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」という問いかけに対して「家に帰って家族を愛してあげてください」と答えたマザー・テレサの有名な発言があるが、これも近くにいる家族であるほど、なかなか近すぎて感謝を伝えること一つとっても見えにくい/やりづらいものだ。端的にいって気恥ずかしい。痩せたかったら運動して食べる量を減らせというのと同じである。それが簡単にできれば苦労しない。

マザー・テレサの凄さは、『普通のことを、普通でないほど大きな愛をもってしなさい。』を極端なレベルで実践し続けてきたところにあるのだろう。カルカッタで始まった活動は、純粋な支援である。そのとき求めているものを、無条件に与えようと努めること。〈孤児の家〉では栄養失調や行き場のない子どもたちの世話をし、養子縁組に努め、育ったら仕事につくために教育を受けさせてきた。

これはマザー・テレサの同僚の発言だが、絶えずされる質問の「その人に魚をあげる代わりに、魚をとる方法を教えてはどうだろうか?」に対して『貧しい人々には、釣り竿を持つ力さえないに違いない』と答えているのも興味深いところである。合理的というか、自立支援をするような組織は組織であり、それとは別に今まさに死にかけているという人たちには、(場合によってはそのまま死ぬしかない人たち)ただ横に座って手をにぎるというやり方で精神的な充足を与えることが必要なこともある。

 祈りの働きは愛であり、愛の働きは奉仕です。だれかがそのとき求めているものを、無条件に与えようと努めなさい。大切なのは何かをすることなのです(どんなに小さなことだっていいのです)。そして、あなたが相手を心配しているのだということを、あなたの時間を捧げることで示しなさい。

ただ、これは一例であり、エイズ救済活動など医療的な行動も数多く起こしている。信仰との兼ね合いもあろうから、すべてにおいて合理的であったなどといえるはずもないが、彼女らが何を目的として、それをいかにして達成しようとしてきたのかは本書を読むことでよくわかるだろう。

解説の沖守弘さんはマザー・テレサと何度も会って話をしている写真家の方で、本書のマザー・テレサ像を裏付けるような話とともに「カステラ」が好きだったこぼれ話などもあっておもしろい。マザー・テレサにたいしてはホスピスの衛生環境が悪かったとか、医療的な質が極端に悪かったという批判も一時期出ていて、すべてが間違いだとは思わないけれども(どちらにせよ僕には判断不可能である)本書のような実際に会っている人たちの話をみるとそう単純な話じゃないよなあと思うのであった。
Criticism of Mother Teresa - Wikipedia, the free encyclopedia

歴史の分岐点を丹念に切り取ったノンフィクション──『パリは燃えているか?』

パリは燃えているか?〔新版〕(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

パリは燃えているか?〔新版〕(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

パリは燃えているか?〔新版〕(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

パリは燃えているか?〔新版〕(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

めちゃくちゃ有名な『パリは燃えているか?』だが、どの媒体からこのタイトルを知ったかは人によって違うのではないだろうか。映像の世紀で使われている曲名もそうだし、本書を原作とする映画もある。この二者に比べると、ベストセラーとはいえノンフィクションで読んだ/知った人はあまりいないかもしれない。かくゆう僕も映画でしか観たことがなかったが、今回ハヤカワ文庫補完計画の一冊として、柳田邦男氏の解説+装丁が新しくなった新版として出版された。

本書は第二次世界大戦中、ドイツ軍によって占領下にあったパリにおいて、ドイツ軍が連合国軍に駆逐され解放に至るまでをおったノンフィクションである。占領自体は1940年から始まっているわけだが、話のメインとなるのは1944年の8月、まさにパリ解放をめぐる戦いが行われたその瞬間をメインに描いていく。同時期のノルマンディー上陸作戦などと比べれば戦争の行く末を左右するような重要ポイントというわけではないが、言うまでもなくパリはフランスの中心であり、道路、鉄道、運河がパリに集中している。エッフェル塔、ルーブル美術館と文化の象徴でもある。

ここはフランス全土を支配する行政の中心である。はかりしれぬ宝庫の番人たる誇りをもつ三百五十万のパリ市民は、ひしひしとその脅威を感じていた。さらに彼らの背後には、全世界の何百万もの人たちが、パリこそは自由世界がナチ・ドイツと闘って防衛する価値のあるものだ、とみなしていた。

『「もしパリが陥落したら、そのニュースは全世界にたちまちのうちにひろがり、ドイツ国防軍やドイツ国民の士気に破壊的影響をあたえるだろう」』とは本書でヒトラーの言葉として紹介されているものだが、まさにこの言葉通り「象徴として」重要な拠点でもあったのだ。だからこそヒトラーは自軍が撤退せざるをえなくなった場合でも、徹底的に産業を破壊し尽くすように命令をはなす。

「パリは、どんなことがあっても敵の手に渡してはならない。もし敵に渡すようなことがあっても、そのときはパリは廃墟になっているだろう」

コルティッツという主人公

ヒトラーはディーとリッヒ・フォン・コルティッツ将軍に対し、パリを前線基地に作り変え、パリに架かる橋をすべて爆破し、産業を破壊しろと命令し派遣する。破壊しろとはいっても、それは防衛を放棄しろということではない。設備を破壊し尽くせば市民が一斉にレジスタンスに変貌するに違いなく、同時にインフラが破壊された都市で防衛をするドイツ軍自体を追い詰めることになりかねない。

大量に集められた資料からまるで三人称視点の物語のように出来事を語っていくのが本書のスタイルだが、あえて一人主人公を挙げるとすればコルティッツになるだろう。ヒトラーは一刻も早くパリを爆破しろと急かしてくるが、彼は「"パリ市民の一斉蜂起"を招くからもう少し遅らせられないか」とか、レジスタンスとの停戦交渉、裏切りとも取れるような連合国軍へ密使を送る行為を繰り返して「命令に従いパリを破壊する」「命令に逆らってパリを破壊しない」の間で揺れ動き続ける。

 コルティッツは、長いあいだ沈黙したまま、身動き一つせず、枕に頭を埋めていたことを思いだす。こうして、四十八時間以来、夜となく、昼となく彼を悩ましつづけた恐ろしい矛盾。命令に背くかパリを破壊するかという矛盾が、いまや悲劇的な解決を迫ってきたのである。

軍人としては戦わねばならないと決意しながらも、一方でそれがどのような真意に基づくのかは誰にもわからないがパリを破壊したくないとも強烈に思い、二律背反に苛まれていくさまがたまらなくおもしろい。

命令に従うことで生まれる戦略的劣位を嫌った合理的精神か、命令にしたがってパリを破壊することで歴史に消えない汚名を残したくなかったのか、パリを守った英雄という「輝かしい名」が残ることを期待したのか──恐らくはすべての危惧と期待が渾然一体となった思考がそこにはあっただろうと、想像する楽しみがある。

コルティッツがあの手この手でパリ破壊をやり過ごしている間に、レジスタンスの動きは活性化し連合軍はパリ奪還作戦を開始する。ヒトラーからすればパリ市街を守り、もしもの時には破壊するための部隊を増援まで含めて送っているわけであって、いつまで経ってもパリが破壊されないのは理解不能であったことだろう。そこで、あのセリフが出てきてしまうわけである。「パリは燃えているのか?」と。

ヒトラーが怒号とともに「パリは燃えているのか?」と問いかける一連のシーンを引用しようかとも思ったけど、クライマックスにあたる実においしい部分だからぜひ読んで楽しんでもらいたいとぐっと我慢する。史実であるのはわかってはいるが、ついつい一緒になって「燃えているのか!?」と盛り上がってしまうのだ。

誰もが主役

パリは最終的に破壊されることなく解放されるが、その功績はコルティッツだけに帰せられるものではなくパリをめぐって死力を尽くしたすべての人々によって、微妙な均衡点を制した上で成立した事態であることが本書を読むとよくわかる。

ヒトラーが奇蹟の人とみなす、強烈な実行力を持って西部軍総司令官に着任するモーデル元帥、命がけで反旗を翻すパリのレジスタンスの面々、ドイツ軍へ一矢報いようと無残にも死んでいった無名の個人までを含めて、パリの解放を主軸としたさまざまな人間模様が生き生きと描かれているのだ。

僕が特に気に入ったのは、解説でも引用されているが、花のような赤いスカートをはいた少女が、ドイツ軍戦車に走って突撃して、キャタピラをよじのぼり、シャンペンの壜を砲塔に叩き込んで戦車を爆破するエピソードだ。少女はその名前も出てこないのだが、長篇がつくれるぐらいに鮮烈な存在感を残すんだよね。

 数フィート離れたところで彼女は雨あられとふりそそぐ機銃に撃たれて舗道に倒れた。"鞭でうたれたひなげしのように"スカートが舗道の上にひろがった。だが、あとの三台の戦車は退却した。

歴史の分岐点ゆえのおもしろさ

今現在我々は行こうと思えばエッフェル塔を観光しに行くことができるが、ほんの一歩何かの歯車が異なっていればそれができなくなっていたのかもしれない。本書を読んでいるとそんな、「ありえたかもしれない現在」についつい想像が膨らむ。こういうのは歴史を読むことの醍醐味の一つだよなあ。

スパイと悪徳商人の武器ビジネスをめぐる一騎打ち小説──『ナイト・マネジャー』

ナイト・マネジャー〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

ナイト・マネジャー〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

ナイト・マネジャー〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

ナイト・マネジャー〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

本書『ナイト・マネジャー』は1993年に原書が刊行された、武器商人と英国スパイの争いを描いた作品だ。翻訳の刊行は1998年のことだが、今回18年ぶりにハヤカワ文庫補完計画の一環*1で新版として復活していた。スパイ小説というものはその時々の世界情勢などの危機感、時代性を作品内に取り込んでいる(物が多い)だけに、十年単位で時間が経った後に読むと危機感の共有がうまくいかないことがある。

本書についていえば、題材だけみればたしかに古びたところはある。

物語の前提となっているのは、不景気に強い=恒久的に需要があると思われていた武器が、実はそうではなかった状況/時代だ。イラン・イラク戦争後、多すぎるメーカーが少なすぎる戦争を追いかけ、果てには自分たちで戦争/需要をつくりあげようとする始末。そんな状況も現代では9.11や頻発するテロの時代となって新しい局面へと移ったが、本書はあくまでも悪辣な「武器商人」を巡る事件がメインであるがゆえにその本質的な「流通」としての側面はあまり古びていないように思う。

何より緻密に組み上げられた描写とじっくりと演出されていくキャラ立てのウマさで今でもずいぶんと楽しませてくれる。とにかく今回はキャラクタがいい。

簡単なあらすじ

主人公は無数の孤児院を渡り歩き、特殊部隊で少年時代を過ごし、シェフなど職を転々としながら現在はホテルマンとして働いている男ジョナサン・パイン。そんな男が、紛争地帯で武器を売り払い対価として麻薬を受け取っている武器・麻薬商人であるローパーに愛する女を殺されたことをきっかけとして復讐を決意する……。

 バーはジョナサンの、軍のフォスター・ホーム、民間の孤児院、ドーヴァーのデューク・オブ・ヨーク兵学校を転々とした、遍歴の記録を入念に読んだ。じきにその不整合ぶりが、彼をいらいらさせた。一方に”臆病”とあるかと思えば、他方では”大胆”とされていた。”孤独癖” ”大の交際家” ”内向的” ”外交的”、”天性のリーダー” ”カリスマ性を欠く”両極端に振れ動くこと、振り子のようだった。

まるで一貫性のない経歴、性格の記述、とらえどころのなさが言ってみればジョナサンの魅力といえるかもしれないが、一言でいえば異常な人間である。

超越的な復讐者ジョナサンが魅力的なのは主人公だからある程度当然にしても、一方でその彼がスパイとして張り付くことになる武器商人ローパーは喋るたびにその特異性が明らかになってくる良さがある。たとえばかつてのイギリスが阿片を清国へ持ち込んで巨額の富を得ていたことを例にあげながら自己を派手に正当化してみせる。『いったいどこがちがう。やってやれ!──つまるところはそれだ。アメリカはそれを知ってる。だったら、われわれもやればいい。』

完全に悪なのだが、悪にも悪なりの理屈がある──言うのは簡単だがそこに魅力的をつけてやるのは難しい。ローバーについては、自己正当化としての理屈だけでなく、『金は取引ではいってくるんじゃない。時間のむだ使いではいってくるんだ』やブッシュがサダム・フセインを攻撃するに至った理由を石油でもクウェート・マネーでもなく「経験だよ」としてその理路を語らせるなど、さまざまな方面でその知見を語らせることで魅力を際立たせることに成功しているように見える。

両者ともそれぞれの意味で際立った異常者であり、その有り様は英国にて新エージェンシーを設立するレナード・バーが次のように表現するほどだ。

「神はティッキー・ローパーを造りおえたとき」金曜の晩にカレー料理を食べながら、彼はルクに断言した。「ひとつ深呼吸して、ちょっと身ぶるいして、それから生態系のバランスをとりもどすために、いそいでわれらがジョナサンをつくったんだ」

これはちとやりすぎな表現のようにも見えるが、この二人のやりあいは全編を通して実に魅力的である。スパイとしてローパーとジョナサンは長い時間を過ごしていくが、その果てとして憎しみながらも相手を深く理解してしまうという、ほとんどBLじゃねえか! みたいな境地にたどり着いてしまうのも良い。

BL的な展開だからいいと言っているわけではなくて、ようは「よくできたライバル関係って、最終的にはある種のジレンマ(相手を打ち負かしたいのだが、同時に深く相手を理解してしまっているがためにそれも簡単にはできなくなってしまう)を抱えてしまうものだよね」という、必然的に発生するおもしろさに到達しているのだ。

ロマンス小説としての側面

武器ビジネスをめぐるスパイと悪徳商人の一騎打ちスパイ小説という側面と同時に描かれるのが、ロマンス小説としての側面。何しろ物語を駆動する基点となるのが、魅力的な美女たちなのだ。ジョナサンは冷静沈着な男なのだが女性関係だけはうまくなく、愛した女はそれを自覚した時にはすでに亡くなり、復讐だおらーーとローパーの元へと潜入してみれば今度はローパーの愛人へと惚れ込んでしまう。物語が動く時、そこには常に愛がある──ゆえに、これは濃密なロマンス小説ともいえるだろう。

まあ、いったいお前は何をやっているんだ、愛し合っている場合ではないだろうがと言いたくもなるが。それにしても数ある作品の中からなぜこの作品がハヤカワ文庫補完計画の中に(新訳ではなく新版とはいえ)含まれたんだろうと思ったが本作を原作としてBBCでドラマがスタートしているみたいだ。下記はトレイラー。
www.youtube.com
洗練されたセリフ、練りこまれたキャラクタ、美女とジョナサンのロマンスとドラマ映えする要素が幾つもあるので(ル・カレ作品はほとんどそうだろといわれるとあれだが)どう設定を現代風にするのかなどは気になるが良い出来になりそう。

*1:早川書房70周年を記念して行われている大・復刊/新訳/新編祭りのこと

無数の時間線が交錯する時の劇場──『デューン 砂の惑星』

デューン 砂の惑星〔新訳版〕 (上) (ハヤカワ文庫SF)

デューン 砂の惑星〔新訳版〕 (上) (ハヤカワ文庫SF)

現在SFマガジンで海外SFブックガイドの連載を担当している身としては非常に言いづらいことに、超有名作『デューン 砂の惑星』を読んだことがなかったのだが、今回ハヤカワ文庫補完計画の一環として新訳で蘇り狂喜して読んだのであった。

読む前は作品内容について何も知らなかったが、長年「ローカス」で行われているほぼ12年ごとに行われる読者のオールタイム・ベスト投票で1位を取り続けている事(1975年〜2012年まで不動)などから時代に左右されない傑作なのだろうとの期待はあった。実際1965年刊行でありながら本作は今読んでも古びておらず、今後数十年の時の経過に余裕で耐えられるだろう奥行きと強度を感じる凄まじい作品である。

生態学SFとコピーがつけられることもあるようだが、とてもそんな枠におさまるような作品ではない。銀河帝国辺境の惑星アラキスを舞台にしながらも、そこでとり行われている政治はしきたりや名を重んじる貴族たちの世界。言葉の選択を間違えれば死にかねないような陰謀渦巻く世界で二重三重に意味をもたせた会話劇が繰り広げられ、巨大な砂虫が存在する砂の惑星の描写はその脅威までふくめてワクワクとさせる。未来を見通す力、他人の行動へと干渉する言葉など超能力じみた能力者が当然のように存在し、語られる言葉はまるですべてが詩のように美しい。

惑星や生態系をまるごと変質させんとするスケールの大きな科学事業も同時進行しながら、各章の冒頭には本作の舞台の未来において書かれる書籍からの引用が行われ、主人公自身が未来視の能力者として覚醒することも相まって、語られる現在だけでなく無数のありえたかもしれない未来までを内包した一大叙事詩となっている。以下紹介を続けるが、結論から言えば傑作なのである。

簡単にあらすじ

この世界の文明は3極に分離しており、一つは皇帝家、もう一つは皇帝家に匹敵する大領家の合議機関。最後の一つは、この両者の間にあって星間貿易を独占している航宙ギルド。身分制が復活しており、複雑な封建的公益文化が蔓延しと、先に書いたように随分古臭い世界だ。発表当時から古臭いので時を経ても古くなることがない。

物語は筋だけ追うと非常に単純というか、王道といっていい。中心人物であるポールの父親、レト・アトレイデス公爵は能力と人望を危険視され皇帝らの策によって辺境惑星アラキス(砂の惑星)へと実質的な島流しにあい、最終的にはその生命を奪われてしまう。ポールは母親であるジェシカと共に、なんとか脱出を成功させる。

脱出を成功させたタイミングで未来視の能力を覚醒したポールはその後、砂漠に棲む自由民フレメンと遭遇する。フレメンらと生活を共にし、その文化に馴染み、集団内で自分たちの影響力を高めていく過程で、惑星アラキスおよび人間社会における自分なりの道を模索していくことになる。和解か、復讐か、第三の道か──。

メタフィクション/未来視の物語

わりとプロット自体は王道、単純だが宗教、予言、砂の惑星ならではの文化、惑星環境学と多くの題材が扱われながら、全てが作品に奥行きを与えていく。特に、未来視の能力を覚醒してからのポールは自分が行動を起こした結果が何パターンも見えてしまうがゆえに、自分で自分なりの物語を紡ぐストーリーメーカーのような立ち振舞をするようになるとメタ・フィクションじみた面白さも獲得していくことになる。

 そのあいだも、ポールの精神は冷徹に、かつ正確に働いており、環境の過酷なこの惑星で行く手に延びてゆく、いくすじもの可能性の大路を見わたしていた。夢という安全弁すらもないままに、予知を司る意識に集中する。もっとも実現可能性の高い未来を絞りこむ作業は、純然たる演算のようでいて、それ以上のなにかであり、神秘的な側面をうかがわせるものだった。精神が時なき層にひたりこみ、未来からの風を試験的に味わっている──そう形容すればいいだろうか。

作中何度もポールが未来視を行う場面が描写されるが、そのどもれがまったく異なっており、同時にお見事という他ない洗練された表現になっている。『そこに見えるのは、はるか遠い過去からはるか遠い未来にかけての──もっとも実現性の高いことからもっとも低いものへといたる──可能性のスペクトルだった。ありとあらゆる形で自分が死ぬ場面を見た。おびただしい数の新しい惑星を、新しい文化を見た。』

ポールはこの能力によって事実上あらゆる未来と過去を「体験」している。だから、父の仇と和解する道もあるし、あるいはそれを選ばなかったときに暴力の荒れ狂い死者が大勢出る修羅の道もある。現実に進展する前から彼にはそうした痛みが、苦しみが経験されてしまうがために単純に選ぶことはできないし、本来であれば敵であるはずの皇帝らに対しても極度に達観した態度をみせることができるようになる。

この者たちはみな、種族的な妄執にとらわれているにすぎない。長年のあいだに散逸した遺伝的な資産を糾合し、多数の血統を混ぜあわせ、撹拌し、融合させて、新たなる巨大な遺伝子プールを醸成しようとしているにすぎない。

親を罠にハメられて殺されて、自分自身も危なく死にかけ砂漠を放浪しなければならないという時にこの境地に到れるのはすごい──と同時に、ここでぐっと物語の枠組みが広がるんだよね。普通だったら「復讐譚」となるところが本作の場合は数千年の時の流れの果てを見つめて最善の策を模索する「奥行き」を獲得するのだから。

SFと神秘的な要素の融合

僕が本作を読んでいて本当にすごい/おもしろいなと思ったのは、SFとファンタジイ──神秘的な要素がシームレスに融合していて、時に科学的な語られ方がするかと思ったらその領域を突き詰めていくと神秘的な領域に接続されていたりするところだ。それらは渾然一体となって混ざり合っていて違和感を感じさせない。

先の引用部でいえば、『もっとも実現可能性の高い未来を絞りこむ作業は、純然たる演算のようでいて、それ以上のなにかであり、神秘的な側面をうかがわせるものだった。』のあたりか。未来視は演算能力の結果のように表現され、しかし同時に神秘的なものでもあるように語られる。これは単に偶然成功したとかそういうもんでもなくて、科学的な言葉と神秘的な現象の間に存在している溝を、無尽蔵に投入されるこの世界ならではの固有名詞が埋めているのだ。

砂の惑星ならではの文化

ポールとジェシカは命からがら逃げ延びたあと、砂漠に住む自由民フレメンと生活を共にすることになるのだが、この人々の価値観もまた砂漠の惑星ならではのものでおもしろい。たとえば、水があまりに貴重であるがゆえに、たとえ親しき者の死に直面した時でさえ涙を滅多に流さないのだ。『それは──涙は──影の世界への贈り物であるにちがいない。そして、涙はまぎれもなく、聖なるものにちがいない』

このフレメン達は、組織としての地位が決闘によって決まっており、負けた方は必ず殺されなければならないなど旧時代的な風習も残っている蛮族なのだが、彼らの目的としているところは何世代にもわたってこの砂の惑星の地表それ自体を変革することである。この辺も複数の面が違和感なく融合している例といえるだろう。

「地表を変えることだ……ゆっくりと、しかし着実に……人が生きていくのに適したものに。われらの世代が変化した大地を見ることはない。われらの子らも、われらの子らの子らも、その子らの孫たちもみな……しかし、いずれきっと、そのときはくる」

おわりに

ポールはその未来視の能力によって、フレメンらはただ自分たちの子孫たちへと思いを馳せることによって*1、「いま・ここ」から遠くはなれた無数の可能性を捉え、物語に取り込んでいく。『おれは無数の時間線が交錯する時の劇場だ』とはポール自身の言葉だが、それはまるで本作そのものの在り方のようだ。

自分自身の死をみてしまうなど未来視能力者系ではお決まりのパターンも踏みながら、数ある未来の中から自分なりの幸福と社会の在り方を目指し、現実を選び取っていく彼の姿は、王道の成長/冒険譚として多くの人間が楽しむことができるだろう。

ちなみに続編があるが、本作で区切りはついている。続きも新訳されないかなあ。

デューン 砂の惑星〔新訳版〕 (中) (ハヤカワ文庫SF)

デューン 砂の惑星〔新訳版〕 (中) (ハヤカワ文庫SF)

デューン 砂の惑星〔新訳版〕 (下) (ハヤカワ文庫SF)

デューン 砂の惑星〔新訳版〕 (下) (ハヤカワ文庫SF)

*1:他にもいるがここでは伏せる

死のさなかにも生きてあり──『あまたの星、宝冠のごとく』

あまたの星、宝冠のごとく (ハヤカワ文庫SF)

あまたの星、宝冠のごとく (ハヤカワ文庫SF)

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの死後、1988年に発刊された短篇集が日本では30年近くの時を経て、ほとんど初訳として発刊された。

題材は特殊なタイム・トラベルもの、異星生物ものとさまざまだ。どうしても時代を反映しているので、題材的に古臭いところはある。それじゃあ古びて今読んだらつまらないのかといえば、これが少なくとも僕にはめっぽうおもしろい。題材が古くとも語りは新鮮で、やはりどこまでもティプトリーの作品だ。それは文体や題材だけではなく、生を描いていても常に死の気配があり、死を描いている時そこには安らぎと確かな意義を感じさせる全体の内容そのものとして。

でもそれは、ティプトリーが僕にとってはSFへとのめり込んでいくきっかけとなった作家であり、本書収録短篇の多くが晩年のティプトリーと(僕はその時期は残された物でしか知らないけど)、その死に様をどうしても彷彿とさせるからなのかもしれない。原書が刊行される前年に、84歳で寝たきりだった夫を射殺し、自分自身にも銃弾を撃ちこんで自殺しているわけだから、意識するなというほうが無理だろうが。

と思って本書を一回読んだ後時間をあけてできるかぎり客観的に、思い入れを排して読み返してみたんだけど、普通におもしろかったわ。全部で10篇もあって1篇1篇紹介を入れていくのは大変なので印象的なのを数篇ピックアップしてご紹介しよう。

アングリ降臨

わりとお気楽な調子で異星生物との接触が語られる。お約束を破壊しにかかっており、ファースト・コンタクトの場面もあるが真っ当に話は進み、地球にやってくることになるが異星生物が支配するわけでもない。一見したところ、人類にテクノロジーを与えて強制変化させるようなこともない。しかし彼らに神がいるのかと質問すると、実際に連れてきてくれることになって──と結果的には人類全体がひっくり返るような事態に繋がってしまう。この方向性は今読んでも先鋭的なように思う。

「アングリ降臨」から連想されるキリスト教の規則や聖書に書かれている文言を否定したりアップデートをかけていく内容で(それもある意味ではお約束の破壊といえるか)、最終的にはいろんな象徴がうまく噛み合うのがすごい。

悪魔、天国へいく

タイトルがすでに笑えるが最初の一文からふるっている。『神が死んだので、魔王サタンは彼よりしばらく長生きすることとなった。』である。天国への弔問にサタンが向かう途中に、処女の息子の父だとかの抽象的論議を『彼の実用主義的精神には手に余るものだった。』といってみたり、『彼はイエスという男を純粋な狂信者として尊敬している』という文言がいちいちおかしい。

宗教系の短篇ばっかりなのか? といえばそういうわけではない。「肉」は妊娠中絶が禁止された世界でレイプによって子どもを孕んでしまった女性が、養子縁組センターへ自分の子どもを預けにやってくるが──という短篇で……それでホンワカするようなオチになるのであれば「肉」なんてタイトルがついていない。

妊娠中絶なんて恐ろしい物がなくなってよかったわねと無邪気に喜ぶ人や、宿ってしまった子どもになんとしても幸せになってもらいたいと願う親の気持ち、自分では育てられないけれど離れたくない、いったい誰にもらわれていくのかせめて見届けたいと養子縁組センターの出口でずっと待っている女性など、色んな立場の人間と親の感情が綿密に描写されていて、染みる短篇だ。

もどれ、過去へもどれ

この短篇集の中でも特に好きな一篇。特殊なタイムトラベル物で、自分の人生の中だけ時間軸で移動が可能な技術があるが、移動した先でのことは一切覚えていられない。覚えていられないなら行く意味ないだろうと思うが、みんな「自分だけは覚えていられる」とか「策がある(身体の内部に刻みつける)」とか、秘策を携えて行く。

物語の中心となる女性は前途洋々、タカビーな20歳の女性で75歳の自分へとタイム・トラベルを決行する。事前の予想では、子どもが複数人、メイドがいて世話をやいてくれ上流階級の生活を満喫している優雅な老人であったが──。そこにいた自分は、冴えない中流階級の男と結婚し、安っぽい家で暮らしている老婆であった。

タイムトラベルの特殊性自体はそうおもしろいものではないが、未来は明るいと信じて疑わなかった女性が思いもよらぬ未来の現実を見せられ、その状況に適応していく過程そのものがおもしろい。自分を振り返ってみてもこれまでの人生は期待と失望の連続で、「思っていたよりも凄くなかった自分」を受け入れていく過程は、多くの人間が多かれ少なかれ経験しているものではないだろうか。

彼女は自分のこれまでの歩みを知り、隣りにいた冴えないと思っていた男の魅力を発見していくことになる……というあたりまでは普通に「おもしろい話だなー」と思っていたのだけど、その後の彼女が起こす、決然とした意志と、多大なリスクを背負った覚悟あるアクションに唖然とし、評価がさらに一段階上がることになる。

地球は蛇のごとくあらたに

これも大好きな一篇。特殊な性癖を持つ女の子が主人公で、彼女は男性を『父親とはちがうもの』と定義していた。『ああ、そうなのだ! 彼女は感じていた……巨大な硬いものと触れ合うのを感じていた。』へ、変態さんかな? と最初はビビるが、読み進めていくと彼女にとっての男性とは地球であり、恋をしてしまう事実が判明する。紛うことなき変態さんである。

〈地球〉は、彼女の〈地球〉は男性なのだ。彼女の小さな身体をかたちづくる細胞のひとつひとつが、それを知っていた。彼女は男性としての機能を持つ存在の上に住み、その存在によって星間空間を運ばれているのだ。そして彼女は、その機能がそれ自体をどう定義していようと、その名は〈愛〉だということも知っていた。
 彼女と〈彼〉つまり〈地球〉とのあいだに存在する愛はとても深いものだったので、彼女はその愛についてはひとことも口にしたことがなかった。魚が水を信頼しきっているのとおなじことだ。

いったいこの物語はどこへ向かうんだ……と恐れおののくが、最初彼女は〈彼〉と出会うためにアルプスにいったりエーゲ海の小島にいってみたりマルケサス諸島にいってみたりとようは絶景めぐりの旅みたいに出てみたりもする。地球は生命のない岩でできた球体だという説を信じている母親をみて「もしかしてお母さんのいうとおりなのでは?」と恐怖にすくんでみたりもする(どういうことだ)。

このままだとSFというか変態小説だが、そうした恐怖を乗り越えた先に少女は人間の手で環境が破壊されていることに強い怒りを覚え、地球を救うことを決意する。彼女は地質学や自然物理学、海洋学といった地球を知るためのあらゆる学問に邁進し、ついに愛する〈彼〉を太陽というしゃらくさい重力から解き放つことを計画しはじめる──。「地球を男性として愛する女の子がいたら」という仮定からとんでもない地平までたどりつき、圧倒的な情景を描き出してみせた。色んな意味で凄い作品だ。

死のさなかにも生きてあり

銃を口に突っ込んで自殺した男が死の国へとたどりついてしまう。『一向に薄れない黄金色の空、夕刻の美しいひととき』、死後の世界であってもそこには生活があってやらされることがある状況がたんたんと描かれていく。死んでもなお生きなくてはならないとは。ここにティプトリーの死生観が現れているなどというつもりはないが、雑誌に死後掲載されたもので生前にいったい何を考えてこの作品を書いたんだろうなあとつい考えてしまう。われ、死のさなかにも生きてあり。

おわりに

作家と作品は分けて考えるべきだ、たとえ作家が極悪人だったとしても、たとえ作家が壮絶な人生をおくってきた人間であったとしても、作品とは別物だ、という意見がある。理念的にはもっともな話だ。それでもやっぱり僕は作品を読む時はどうしたってそれを書いた作家の顔を浮かべてしまう。ある作品に感動している時、多かれ少なかれ「その凄い作品を生み出すことのできた創り手の凄さ」へも感動しているものなのではないだろうか。人間は、こんな作品を生み出すことができるんだと。

ティプトリーってなんぞや? って人も本書からその作品を知っても良いのではないかと思う(他が現在手に入りづらいのもあるが)。

プロフェッショナルvsプロフェッショナルなアラスカ・サバイバル──『アラスカ戦線』

アラスカ戦線〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

アラスカ戦線〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

世の中にはいろんなおもしろい物語があるわけだが、その一つに「あらすじを読んだだけでおもしろいことがわかる」タイプの作品がある。あらすじを読むと、「その設定、そのあらすじでつまらないわけがないだろ!!」と盛り上がってきてしまう作品だ。実際、つまらないことはほとんどない。『アラスカ戦線』は1964年に書かれ、日本では1970年にハヤカワ・ノヴェルズから発刊されたものだが今回解説が付いて新版として出し直され、今回はじめて読んだのだけどこれがまさにその「あらすじだけでめちゃくちゃおもしろい」し実際に中身もおもしろい作品なのだ。

何はともあれそのあらすじを

何はともあれそのあらすじを紹介させてもらおう。

時代は1944年、第二次世界大戦も佳境の年に日本軍では自身らが占領したアッツ島を軸にして展開する作戦を考えていた。決定されたのは、そこに飛行場を建設し、爆撃機を飛び立たせ米本土を攻撃する大規模な攻撃作戦だ。しかし飛行ルートにあたるアラスカ上空は非常に天候が不安定で満足な観測もままならなず、このままではせっかく飛行場をつくったところで悪天候により攻撃が不可能になる可能性がある。

そのために、日本軍はアラスカにこもって長期間にわたって天候の観測をする特殊部隊を送りこむことを決定する。無線通信を必要とすることからその存在は必ず敵にバレる。必要とされるのは極寒の地でサバイバルをしながら、敵の追撃を受けて尚任務を続行できる強靭な精神力と体力と技術を持った男共だ。特にリーダーは、若すぎても、年をとりすぎていてもいけない。ゲリラ戦ができて、慎重な行動と決断が可能で、彼のために部下が命を賭けることも辞さない鉄壁の男が求められている。

そのリーダーとして選ばれたのは、日高遠三という、かつてオリンピックの十種競技で銀メダルをさらい、スポーツマンとして世界に知られていた男である。彼はそうした栄光を捨て去って軍人生活に身を捧げ、大きな活躍を見せてきたたのであり、それは個人の名誉を断念して国に尽くすことを決めた男の証拠である。

「(……)大事なのはできるだけ長期にわたって活動することだ。アラスカのただ中で。ここと似ておるが、山はさらに高く、冬はもっと長い。北部はまったく無人境のはず。敵もありきたりの情報しか持っていない。きみはどうしても無線で位置を暴露してしまうことになる。敵は全力をあげてきみを発見し殲滅しようと図るだろう。それをできうる限り阻止するのだ。まず位置を常に変えて。交戦はいかん。敵をまくのだ。裁量の武器はいつも計略だな。」

とまあ、ここまででもう、非常に盛り上がるわけですよ。いかにアラスカという地が過酷なのか、いかに重要でかつ危険なミッションなのかが同時に描かれ、日高がすさまじい人間であることが丹念に描写されていく。日高は10人の精鋭を率いてアラスカ入りするわけだけれども、もう気分は単独潜入でこそないものの、メタルギアか何かをプレイしているかのようだ。凄いやつらが、武力だけではなく計略でもって、過酷なミッションに挑む!! いったいどうなってしまうのかぁ!!

で、この作品を傑作にしているのはそうした下準備だけではなく、この日高たちの存在に気がついた米軍側にもプロフェッショナルを配置してきたところになる。米軍はアラスカから同時刻に発される無線通信に気が付き、そこに何者かがいることを知って探索隊を組織することになる。だがアラスカはやさしい土地ではない。そのうえ追跡など……ということで呼び寄せられるのが、軍人でもなんでもない野獣監視員!

ミスタ・マックルイアはただの野獣監視員だが山と一体化するように日々を過ごし、第六感に加え思考は千の目を持つと言われる男であり、このたび軍人として登用され謎の無線発信者らを追う部隊を任されることになる。彼は軍人でこそなかったが、いわばアラスカの専門家だ。日高は日高ですさまじい男だが、このミスタ・マックルイアも同様に並外れた技量を持っていることがだんだんと明かされていく。

「匂いや足音、煙、狩りの跡などすべての痕跡を探し追い詰めていく」「痕跡を残さぬよう行動し、時にはわざと残して敵を誘導する」戦いであったり、「罠を仕掛け、損害を与える」戦いであったり、少ない痕跡を頼りにお互いの姿を狙うプロフェッショナルvsプロフェッショナルの戦いがアラスカの地を舞台に展開されていくのだ。

「義、われわれはな、幽霊になるのだ。目に見えない幽霊に。大地にも感じられず、鳥にも見えぬような。この生き方を隊員にたたきこまねばならん。足音を立てず、足跡を残さない、義、われわれには眠りと食事よりもそれが必要になるぞ。いいか。たのむ、このことを忘れんでくれ!」

僕はアラスカといえば水曜どうでしょうのユーコン川下りとかでしか知らないが、その時のガイドも「クマがいっぱいいるからマジで気をつけろよな」と言っていた。アラスカの地は追跡など受けておらずとも、それ自体が過酷なものである。

両者ともに補給など受けられないからなんとかして狩りをしながら食いつないで、時にはクマと闘いながら敵兵に見つからないように暖もとらねば──と「アラスカでどうやって生き延びるのか」のサバイバル描写も、プロフェッショナル同士の戦いにあわさってたいへんおもしろいのだ。

死力を尽くして闘う両者だが、勝利はどちらの陣営にもたらされるのか──? わりと意外というか、「そんなことになるんかい!」みたいなラストだけどこれはこれでじゅうぶん満足できる内容なので楽しみに読んでもらいたい。

おわりに

それにしても日本軍の描写が非常に濃厚で的確でもあり、怪我をおって捕虜になるよりも真っ先に名誉ある切腹を選ぼうとする日本人とか、当時の異常な精神性をよくもまあきちんと描いている。著者は日本人でもないのに(ドイツ人)凄いなと思っていたら、3年とはいえ日本のドイツ大使館で勤務していた人のようだ。

あと、かなり硬派な作品でひたすらに血と泥にまみれた作品かとおもいきや途中からアラスカ少数民族のかわいいアラトナという女の子(女性?)が出てきて、これで作品の雰囲気を残しつつも空気がやわらぐのが個人的にはよかった。少数部族出身ゆえに特殊な価値観と文化を持って、献身的に旅(というか仕えている相手)をサポートし覚悟・完了みたいな状態になっているカタコト娘でめっちゃかわいーのだ。

新・冒険スパイ小説ハンドブック (ハヤカワ文庫NV)

新・冒険スパイ小説ハンドブック (ハヤカワ文庫NV)

いま読んで面白い冒険スパイ小説とはなにか──『新・冒険スパイ小説ハンドブック』

新・冒険スパイ小説ハンドブック (ハヤカワ文庫NV)

新・冒険スパイ小説ハンドブック (ハヤカワ文庫NV)

ハヤカワ文庫補完計画の一環としてこれまでSFでは『海外SFハンドブック』が、ミステリでは『海外ミステリハンドブック』がそれぞれ出ているが、最後に立ちはだかるは冒険スパイ小説ハンドブックだ。僕は、ミステリとSFはそれなりに読んでいるほうだと思うが、冒険スパイ小説といわれると「そもそも、何を持って冒険/スパイ小説と定義するのだろう……」というところからわからないぐらい素人である。

それ故、面白いのか若干不安だったんだけれども、他二作よりも大ボリューム(500ページ超え)で、後述するが様々な視点からの紹介があり、これがなかなか良い。面白そうだ。スパイ・冒険小説の文脈とは意識せずに読んでいたものがあることに気付かされ(芝村裕吏『猟犬の國』とか、月村了衛『機龍警察』シリーズとか)、、100選企画では選んだ人々の冒険スパイ小説観やこだわりを読むのが面白く、21人分の作家論ありとたっぷり詰まったガイドブックになっている。

前回の『冒険・スパイ小説ガイドブック』は1992年のものであり、20年以上の時を経て(1992年が24年前ってのが恐ろしいなあ)アップデートをする歴史的な意義も充分である。

全体的に構成を紹介していこうと思うが、まずこの手のものとしてはお決まりの「オールタイム・ベスト・100選」系。本書にもある。選定ルールとしては、『「いま読んで面白い」という基準を設け』た上で、「架空の冒険・スパイ小説全集全二十巻をつくる」という企画である。たとえば第1巻は「死にざまをみろ」で、『女王陛下のユリシーズ号』『山猫の夏』『真夜中のデッド・リミット』が挙げられている。

これが全20巻なので、まずそれだけで61冊(最後の20巻目だけ4冊入っている)。それに別巻1:大いなる物語、別巻2:名作選で2作ずつ計4冊挙げられ、最後に推薦作35が挙げられ別巻だとか推薦作だとか何がなんだかよくわからないがとにかくこれで100冊。こういう100選系って、選考過程がよくわからなかったりすることも多いのだが、本書の場合はまず冒頭に識者が(北上次郎氏、霜月蒼氏、関口苑生氏、古山裕樹氏、吉野仁氏)決めていく座談会の様子が収録されているのがまず嬉しい。

〈本の雑誌〉2015年11月号でも「21世紀のSFベスト100」という企画で、ベスト100をあーでもないこーでもないと決めていく議論の様子が文章にして納められていたが、こんなん揉めるにきまっているのである。その時の場の空気や力関係、そっちは入れるならこっちの意見も聞いてくれという駆け引きもあるしで、ベスト100がどうというよりもそれが決まっていく過程の方が面白かったりする。

冒険・スパイ小説についていえば僕はあまり知らないので、ふむふむと頷きながら読んでいくほかないのだが、各人のジャンル観がみれるのも面白い部分。あれは僕にとっては冒険/スパイ小説だ! っていう一種のこだわりですな。

古山 スパイ小説は、個人的な物語よりも国同士の謀略が前面に出ている作品ですかね。その枠のなかで自分の意思で動く主人公もいると思うんですけど、あくまで個人が政治的なものにどう対峙するかがメインになっている気がします。(……)
霜月 しいて言えば、冒険小説は感情でなんとかなる話で、スパイ小説は理屈でなんとかする話という気がしますね。活劇か政治か、とも言えます。

あと、意外だったのは冒険小説はこの23年間をみるとそれ以前よりは素晴らしいものがたくさん出たとはいえない(ような気がする)という感覚がある程度共有されているところかな。『暴論だけど、九〇年代以降に翻訳された冒険小説って、面白いものはありましたか? と聞きたいです。』とかけっこうぶっこむなと驚いた。冒険・スパイ小説ファンの間ではうんうんと頷くところも多いのかもしれない。

もちろん、素晴らしいものはあるので、割合の話ではある。新しく素晴らしいものの筆頭が(翻訳じゃないが)月村了衛さんによる『機龍警察』シリーズだし、芝村裕吏さんの書いた『猟犬の國』であるとか、福井晴敏さんの『亡国のイージス』などなど新時代の冒険スパイ小説として当然選に入っている。『マルドゥック・スクランブル』や『ビッグデータ・コネクト』も推薦作35の中に入っていて驚いたな。この100冊については、1冊2ページを均等に割り振って翻訳家や書評家などそれぞれ(たぶん)思い入れある人間の手によってきちんと書評が書かれている。

さて、メイン企画はこれとして、サブ企画としては「私をつくった冒険・スパイ小説」の作家陣は全員僕の好きな作家ばかりなのでこれもまた嬉しい。芝村裕吏さん、谷甲州さん、広江礼威さん、藤井太洋さんなどなど。

あとはジョン・ル・カレ、ジャック・ヒギンズから大沢在昌、月村了衛までを網羅(全21人)した作家論が凄い。文庫解説は作品への解説がメインだし、雑誌の特集になるぐらいでないと作家論てなかなか書く機会(と読む機会)が与えられないから、こういう時に作家論がまとめられるのは嬉しいのだ。後から振り返れば、当時の評価を再確認する為にも使えるわけだし。

おわりに

全体をざっと見てきたが、ボリューミーで嬉しい一冊。冒険スパイ小説ファンは何も言わなくても買うんだろうが、あまりファンでないとしてもこれ一冊あると読むものには困らないだろう(それはSF・ミステリ両ハンドブックにもいえることだが)。