基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

戯言シリーズ、正統続篇は不安を消して、期待を超えてくるおもしろさだ!──『キドナプキディング 青色サヴァンと戯言遣いの娘』

この『キドナプキディング 青色サヴァンと戯言遣いの娘』は『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』から始まる西尾維新の代表作《戯言》シリーズの正統的な続篇、そして長篇である。主人公は表紙にばっちり描かれているように前作主人公の戯言遣いの娘で、高校一年生の15歳だ。戯言遣いや玖渚友といった旧作の面々はほとんど出てこず、過去作の流れを過剰に掘り返したりもしないので、《戯言シリーズ》は聞いたこともない、という人にも入りやすい作品になっている。

17年ぶりの《戯言》シリーズなので、もう読んだことがない人も数多いだろう。一方、読んだ人にとってはとても思い出深い作品なのではないだろうか。僕も塾に行くのが嫌で嫌で、かといって家に帰るのもバレるのでできず、本屋で足がぶるぶるになるまで立ち読みしていた迷惑な記憶が蘇ってくる。そうした思い出深いシリーズの久しぶりの続篇というのは、少し不安とともに読むことになるものだ。

続きが読めるのは嬉しいが、かといって著者も歳をとったり変化をしているのであって、かつてのようなおもしろさは発揮できないのではないか。読んだら違うわこれ、となってがっかりして前作の印象まで悪化してしまうんじゃなかろうか。当然ながらこの『キドナプキディング』にも同じ期待と不安をいだきながら読み始めたのだ。特に僕は西尾維新の近作には戯言シリーズのスピンオフ《最強》シリーズを筆頭に、つまらないわけではないが好きというほどでもない作品が多かったし。

とはいえ、本作はそうした不安を消して、期待に答えてくれる作品だ。別に昔の戯言シリーズが帰ってきた! という感じではない。ないが、相変わらず哀川潤を起点に物語がはじまり、ジョジョネタがことあるごとにさしはさまれ、戯言遣いでも青色サヴァンでもない、その要素を引き継ぎながらも新しい道を開拓する新しい15歳の少女が、ちゃんと主人公をやっている。人それぞれの戯言観があるから誰もが満足できるなどというつもりもないが、新規読者だけではなく、昔の読者も手にとっても、そう大きくはずれたものにはならないのではないか。というわけで、以下紹介。

あらすじ、世界観など。

物語の舞台はそのまま《戯言》シリーズの世界を引き継いでいる。戯言遣いと玖渚友は結婚、後に子供を産んだが、それが本作の語り手の玖渚盾(じゅん)である。

シリーズ未読者向けに軽く世界観を紹介しておくが、ミステリーとしてはじまったシリーズながらも次第に作中には人外や異能力者のような存在が増えていって、後の方の巻ではほとんど能力バトルものへと変質していった。つまり、特殊な人間が跳梁跋扈する世界である。前作ではいーちゃんこと戯言遣いが殺人事件に巻き込まれ、それを適当に推理しながら事件を解決に導く過程で、殺し名と呼ばれる異常な殺人集団やら、世界を牛耳る玖渚機関の娘やら、ヤバいやつらと出会って漫才を繰り広げる──というのがおきまりのパターンであるが、それは本作においても健在である。

本作で玖渚盾は市立澄百合学園に通う高校一年生。戯言遣いと玖渚友は特に死んでいるわけでもなく健在で、娘の玖渚盾からは反抗期らしい反発こそあるものの(『第一私は、まともな子育てなんてできっこないあの自由奔放な変人ふたりよりも、ベビーシッターからの影響を強く受けている。』)仲は悪くなさそうである。というのも、パパとママからの言いつけを、それなりにがんばって守っているからだ。

玖渚盾は、パパから100の戯言シリーズを与えられ(戯言シリーズその1は、『まず名乗れ。誰が相手でも。そして名乗らせろ。誰が相手でも。』)、一方のママの方は相当に厳しい言いつけだが、かわりにたった1つしか無い。

 ところで、パパの戯言シリーズは100まであるが、それに比べるとママのほうは実にシンプルだ。あーだこーだと口うるさいパパの教えを、忠実な娘ははっきり言って半分も守れていないけれど、しかしながら、そのシンプルさゆえに、ママの教えはこれまでのところ遵守してきた。ルール違反をした場合、誤魔化しがきかないからだ。実際のところ、その内容は現代社会において許容しかねる制限であり、まさしく児童虐待の最たる不都合ではあり、私の人格形成に影響ならぬ悪影響をとめどなく与えているのだが、その他はなんでも自由にしていいと言われているネグレクトと紙一重の放任主義が前提なのだから、仕方がない。それに、その『たったひとつの冴えないルール』を守らなかったら殺すからねともにっこり言われている。
 名付けてママの絶対法則。
 機械に触るな。

現代社会において機械に触らずに生きていくことは可能なのだろうか? 学校の授業でパッドを当たり前のように使う時代に?(仮に大学にいっても単位が取得できなさそうである)はともかく、そうした極端な人生縛りプレイをしている玖渚盾は、人類最強の請負人にして、両親の恩人にして、自分の名前の元となった哀川潤に車で跳ね飛ばされ、殺されかけてしまう。そして、そのまま絶縁状態の「玖渚機関」のもと(玖渚城と呼ばれる兵庫県にある世界遺産の城)へと連れて行かれることになる。

《戯言》の続篇なので当然そこでは凄惨な殺人事件──それも第一作『クビキリサイクル』を彷彿とさせる、クビキリ死体で──が発生し、自称普通の女子高生である玖渚盾は警察の介入もないままに事件を解決する義務に追われることになる。そもそもなぜ玖渚機関は一度も会ったこともなければ絶縁状態にある玖渚盾を誘拐してまで呼び寄せることになったのかといえば、玖渚友の娘であることを見込んだ「ある依頼のため」なのだが、玖渚盾はあくまでも自分は凡人なので、不可能だと否定する。

それにしても、なぜ、玖渚盾は母親から「機械に触るな」などという過酷なルールを付されているのか? そして、玖渚盾は本当に自分が言うように「普通の女子高生」なのか?──といった謎が、推理の過程で次々と明らかになっていく。

おわりに

玖渚盾というキャラクタの造形が個人的には一番のポイント。あくまでも偉大で変人な両親を偶然持ってしまった「普通の女子高生」(型月的な「普通」でもなく)として描き、それをきちんと展開でも示しながら、最終的には戯言遣いと青色サヴァンの娘であることもはっきりと示す、そうした「普通」と「変人(あるいは天才か)」の中間のようなキャラクタを、きっちりと描ききっている。

個人的には大満足の正統続篇であった。このあともシリーズとして続いていくのか知らないのだが(どっかに情報が出ているのかもしれないが)続いたらしばらくおっていきたいね。

メキシコの麻薬カルテルのボスが日本で新たな暴力の集団、闇臓器売買のシステムを作り上げる、ノワール小説の傑作──『テスカトリポカ』

テスカトリポカ (角川書店単行本)

テスカトリポカ (角川書店単行本)

  • 作者:佐藤 究
  • 発売日: 2021/02/19
  • メディア: Kindle版
この『テスカトリポカ』は作家・佐藤究の『Ank:a mirroring ape』以来約3年半ぶりの長篇作品。著者がデビュー作『QJKJQ』、『Ank』で打ち立てた高い評判は知っていたんだけれども読み逃していて、著者の長篇を読むのはこれがはじめて。

それが読んでみたら、ここまで凄まじい作家だったのか、と心底驚いてしまった。いや、NOVAに収録された短篇は読んでて、すごい作家なのは知っていたんだけど。どんな話かをざっくりいえば、メキシコの麻薬カルテルに君臨していた男が、対立組織に組織も一族も皆殺しにされ、メキシコを脱出。各地を転々としながら日本にたどり着き、そこで新たな臓器売買のシステムと、対立組織への復讐のため”暴力の集団”を作り上げる物語である。カルテル周りの描写は、ドン・ウィンズロウ作品を読んでいるかのような圧巻の筆致で、日本語で書かれた小説とは思えないほどである。

一方で、麻薬カルテルのボスが日本にやってきて──なんて話は日本の作家でないとやらない展開で、日本を舞台に、まるで日本ではないような事態──ショットガンなどの銃器や潜水艦をかき集めていく──が進行していく恐怖と興奮、違和感によるおもしろさもある。それに加えて、麻薬密売人はアステカの神を信仰していて(テスカトリポカはアステカ神話の神で、煙を吐く鏡を意味する)、メキシコ、アステカ神話、麻薬密売人、日本の裏社会の要素が混在し、特異な読み心地に繋がっている。

あらすじとか

メキシコの麻薬密売人が主人公のように書いてしまったが(中心人物ではあるのだけど)、実際には幾人もの視点から描き出していく群像劇である。たとえば、最初に語られるのは、メキシコから麻薬カルテルの被害から逃れるため、日本に出稼ぎにきて結婚した母親と、暴力団幹部の父親の間に生まれた、コシモ少年の物語である。

少年は暴力的で金のない父親と、ドラッグに溺れる母親という最悪の家庭環境下で、読み書きもできぬまま成長し、11歳で170センチ超えの恵まれた体躯を得た。だが、最終的に理性を失い襲いかかってきた父親の首の骨を折り、それを見て過去の記憶がぶり返し錯乱した母親を殴りつけ殺害。そのまま少年院に収監されてしまう。

そこで物語は別視点にうつり、次に語られるのは、麻薬密売人の物語だ。時は2015年、メキシコではロス・カサソラスとドゴ・カルテル、麻薬組織の抗争が起こっていた。ロス・カサソラスはアステカの神話を信奉する4人の兄弟が頭をはっていたが、ドゴ・カルテルによる大型ドローンの爆撃により壊滅状態へ。兄弟も3人が殺され、唯一生き残った一人であるバルミロは、南アフリカ共和国のケープタウン、オーストラリア、ジャカルタへと足跡を消すように転々としながら、再起をうかがっていく。

血の資本主義の物語

 資本主義こそは、現代に描かれる魔法陣だった。その魔術のもとで、暗い冥府に眠っていたあらゆる欲望が、現実の明るみへと呼びだされる。本来、呼びだされてはならないようなものまで。
 さまざまな形を取る資本主義の魔法陣のうちで、おそらくもっとも強力な魔術の図形である麻薬資本主義、その中心にずっと身を置いてきたバルミロにとっては、潜伏先に選んだインドネシアという国、ジャカルタという都市の闇を理解することはたやすかった。

すべてを失ったバルミロは再起のためにも、ジャカルタで表向きは移動式の屋台をやりながらクラックを売る生活を始めるのだが、そんなとき、バルミロは日本人の臓器売買を仲介する臓器ブローカーにして元心臓外科医の末永と出会うことになる。

末永は日本で心臓血管外科に勤務する凄腕の外科医だったが、コカインをやりながら運転をしている最中に少年を跳ね飛ばし、そのまま逃亡、裏社会の医師となった男だった。『徹夜の心臓移植で一人救ったのだから、一人殺しても帳消しだ──なんてことには、ならないだろうな。危険運転致死罪か? 医師免許剝奪は確実だ。手術はおれのすべてなのに、二度と医師には戻れない。だったら──おれは何を償う必要があるんだ?』 末永の望みは心臓血管外科医に戻ることだった。正規の医師に戻ることは不可能だが、かといって場末の落ちぶれた闇医師になりたいわけでもない。

末永が望むのは、最高の環境で心臓にメスを入れることだ。そうした野望を持つ男末永と闇市場に造詣の深いバルミロが出会ったことで化学反応を起こし、新しい臓器移植売買のモデルの実現至らせた。通常、臓器移植はすぐに実施できるものではない。長い順番待ちや相性の問題があって、並んで順番が間に合うのを待つしかない。2つある腎臓とは違って、1つしか無い心臓ではなおのことだ。

だが、世の中には唸るほどの金を持つ連中がいて、そうした人間は待つことを拒む。金の力でショートカットできるのであれば、何でもショートカットしようとする。それが、自分の息子や娘の命に関わるものだとすればなおのことだ。そこで臓器ブローカーに心臓を買いたい、と依頼するわけだが、すぐに用意できる心臓とはたまたま死んだ人間でもなんでもなく、命の安い国の中でも最底辺の人間のものであることがほとんどだ。麻薬もやれば酒も飲み、殺人まで犯したような人間のものだ。

さらに、大気汚染の問題もある。たとえ実質的な問題が何もなくとも、人間というのは精神的に、魔術的にケガレを感じ取るものだ。だから、富裕層は高い金を払ったとしても”健康な”心臓を求めようとする。空気が汚染されておらず、麻薬や健康不良、アルコール依存などの物理的・精神的な汚染を免れた、健康な心臓を。そして、アジアで大気汚染度が低く、麻薬に汚染されていない健康な心臓を保有しているのは間違いなく日本なのだ──といって、金と人材を集めて復讐を誓うバルミロと、もう一度最高の環境で心臓手術を行うことを夢見る末永、まったく異なる思惑を持った二人が日本を拠点に新しい犯罪組織を作り上げることになるのである。

暴力・拷問・支配

身一つでやってきたバルミロと末永がいかにして日本で組織の人員を増やしていくのか──、体制を作り上げていくのか、というのも本作の大きな読みどころの一つ。何しろメキシコの麻薬カルテルという、日本とはあらゆる常識が異なる世界からやってきた男なので、やることなすこと規格外だ。犬を育てさせ、最後に殺すことで忠誠を誓わせたり、恵まれた体躯を持ち殺人を一切ためらわない男たちを次から次へとスカウトしてきて集めたショットガンを使って自動車解体場で射撃訓練をさせたり。

僕は、『インセプション』やオーシャンズシリーズでよくある、「大きなミッションを達成するために、凄腕の仲間を各地から集めてくる」展開が大好きだから、この仲間集めパートがめちゃくちゃすきだ。そして、日本の暴力団との抗争、裏切り者の始末など、訓練だけではなく全編通して暴力が満ちているのだが、拷問のシーンは特にえぐい。黒曜石のナイフで胸骨をゴリゴリ切断していく、苦しみを目的とした殺害方法、心臓をえぐり出す執拗な描写、生きたまま液体窒素で手足を凍らせて、鋼鉄のハンマーで打ち砕き、まだ生きている犠牲者にそれをみせる──などなど。

もちろんこうしたバルミロと末永の試みに途中から少年院から出て圧倒的な体躯とパワーを手に入れたコシモも関わってきて──と事態は凄まじい方向へと走り出していく。パワーに満ち溢れたノワール小説の傑作だ。素晴らしい。

宮内悠介最新作にしてカジノでの勝敗がすべてを支配する特殊国家を舞台にした国盗り賭博小説!──『黄色い夜』

黄色い夜 (集英社文芸単行本)

黄色い夜 (集英社文芸単行本)

  • 作者:宮内悠介
  • 発売日: 2020/07/03
  • メディア: Kindle版
『黄色い夜』は宮内悠介によるギャンブルものの長篇(というほど長くない)小説である。舞台となっているのは東アフリカのエチオピアと国境を接するEという国家。そこは産業がカジノのみという特殊な国で、バベルの塔のような巨大な螺旋状の塔の中には上に行けば行くほど賭け金が上がるゲームみたいなカジノが巣食っている。最上階での勝負に勝つことさえできれば、「国さえも手に入る」と言われている。

 下層階のカジノにはE国の庶民が集まり、酒を飲みながらゲームを楽しむ。が、階が上がるにつれて、賭けの金額は上がっていく。刺激に飢えたヨーロッパのハイローラーたちは、六十階のヘリポートに直接乗りこんでくる。そのさらに上、最上階では賭け金の上限がないという。仮に世界ランクの富豪が最上階に乗りこみ、全財産をルーレットの赤に賭け、それで赤が出たとする。そうすれば、この国はもう彼のもの。これがE国の原則だ。
 侵略を容認したシステムの上に立つ国家。それが、E国の表向きの顔だ。

当然そこには腕利きのギャンブラーが大勢揃っていて──と、非常にバトル漫画的な枠組みを持った作品である。144ページと、長めの中篇ぐらいの分量の本なのだけれども、このワクワクするような舞台仕掛けは宮内悠介の初期短篇集『盤上の夜』を思い起こさせるし、途中から絡んでくる精神病理にまつわる話題や全体の雰囲気については『エクソダス症候群』や『ヨハネスブルグの天使たち』を思い起こさせ──と、短いながらもこれまでの宮内悠介作品のいろんな要素を彷彿とさせながら生涯を賭けたギャンブル勝負の高揚にひたらせてくれる密度の濃い絶品だ。

語り手である龍一(日本語話者以外には発音しづらいのでルイを名乗る)はこのE国に乗り込んでいくのだけれども、その目的は娯楽としてのギャンブルにとどまらない。目的は先程の引用部にもあったシステムの利用──「国盗り」を行うためだ。もちろん国家の乗っ取りというのは「システム上可能」とうたわれているだけであって、実際にどうなのかはわからない。最上階では国王自らがディーラーに扮することもあり、これまで何人かが挑戦したらしいが、ことごとく敗北している。つまり、最上階での勝負は挑戦者が敗北する「何らかの仕掛け」があることも考えられる。

「貯めた金を持って勝負を挑みにきながら、どこかあとあと虚しさが残ることも、カジノに足を踏み入れてすらいない現時点で、すでにぼくらは知っているだろう?ぼくはねピアッサ、訪れた人を蘇らせる国をこそ作りたいんだ」

はたして、ルイは乗っ取りをかけた勝負に勝つことができるのか、というのが本書の中心的なモチベーションとなっている。そして、彼は国を乗っ取って何を目指すのだろうか。「訪れた人を蘇らせる国」とはどのような国なのか。そうした、「国を乗っ取る」などという、妄執にとらわれていなければ不可能な大望を抱いているだけあって、ルイのギャンブルの能力は最初から高い。つまり、『アカギ』か『カイジ』かといえば、『アカギ』系(あと『『麻雀放浪記』』とか)の物語であるといえる。

カジノが舞台なのでここ一番! という勝負ではポーカーやルーレットが用いられるが、その合間合間の勝負には「上層に行くためのカード」を賭けた、聖書のページ当てゲーム(聖書にペーパーナイフを差し込み、相手にも同様の聖書を渡しナイフがどこに差し込まれたのかを当てる)や、お互いにわからないようにアルコールを入れた水がいつ沸騰するかをあてるゲームなど特殊ルール・ギャンブルが挟み込まれていて、そのへんに関しては『嘘喰い』『賭ケグルイ』的なおもしろさがある(どっちもプロフェッショナルなギャンブラーという、ひりつくような緊張感も合わせて)。

ページに比して密度濃く感じられるのは、登場人物一人一人の背景やギャンブルに、常にこの東アフリカ周辺の過酷な紛争状況であったり、貧困事情、宗教事情であったりといった複雑な文脈と情景が密接に関わってくることもある。先に書いた聖書へペーパーナイフを差し込むギャンブルにしても、終盤にプレイされる「通りすがった人物の母語当て」にしても、その勝敗に関しては密接にこのE国の特異な立ち位置や宗教が関わってきて、ギャンブルを通して混沌とした「現実」の様相に触れていく。

おわりに

ルイが夢みた「国家」とはどのような形なのだろう。終盤は、勝負の行方よりも、そうした「あたらしい国家」の思想・理想を巡る問答のほうに興味がうつっていく。カジノのセキュリティをハックする描写であったりも現代カジノ小説としておもしろく、無数の読みどころがある作品なので、てにとってもらいたいところだ。

暴力が支配するカンフー・ハイスクールに公式記録で2400戦以上無敗のカラテNINJAがやってくる──『血まみれ鉄拳ハイスクール』

血まみれ鉄拳ハイスクール

血まみれ鉄拳ハイスクール

本書はライアン・ギャディスによる二作目の作品にして本邦初紹介作である。『血まみれ鉄拳ハイスクール』という書名からもわかる通りに(原題はKUNGFU HIGHSCHOOL)、血で血を争うカンフー学園ものとしかいいようがない作品だ。

舞台となっている高校(通称カンフー・ハイスクール)では、9割9分5厘の確率で、生徒はなんらかのマーシャル・アーツの心得がある。空手、相撲、柔道、合気道、柔術、忍法/忍術といった日本武道から、洪家、蔡家、李家といった中国武術。挑戦武術、ムエタイ、インドネシアのクンタオとシラット、フィリプンのエスクリマ、ブラジルのカポエイラ、イスラエルの護身術クラヴマガまであり、複数の種類が混合した使い手も数多く存在する。じゃあなぜそんなことになっているのかといえば、意図的に選別しているわけではなく、「ここでは強くなければ生き残れない」からだ。

武術を身に着けていない人間はこの学校から逃れ出るしかない。なにしろ、入学した瞬間から新入生は監視を受け、まずボコボコにされる、「ヤキを入れられる」のがこの学校の風習なのだ。その後もことあるごとに喧嘩をうられ、逃げるような真似はこの学校内においては許されることではない。この学校にしか居場所のない、腕におぼえのある極悪な不良しかもうこの学校には残っていないのである。

この暴力は学外の人間にまで及んでいて、ある時スポーツのために外部からやってきた集団は、大差をつけてカンフー・スクールに勝利したが選手たちはもちろん駆けつけた応援団も含めて体中を蹴り回された。明らかに警察案件だが、この学校には圧倒的な金と権力を持つリドリー家の息子が存在していて、警察も報道機関も手出しができない。人にどれだけの重症を負わせようが殺そうが暗闇に葬ることができる。

ファミリーと言う概念

少しでも油断すればぶん殴られて生死の境をさまよう羽目になる地獄みたいな高校なのだけれども、そうした地獄を加速させているのが「ファミリー」概念だ。この学校には全部で6つのファミリーが存在していて、それぞれに〈パパ〉と〈ママ〉。他に数人ずつの〈叔父〉と〈叔母〉という幹部が存在する。まあほとんどマフィアとかギャングのような仕組みがあるのである。学校の支配者であるリドリーの傘下にある4つのファミリーとは別に、〈狼〉と〈波〉の二つの独立勢力が存在する。

それぞれの流派には主要流派が存在し、体力、持久力、胆力、速力、創傷率(傷を負う確率および追わせる確率)、得意技などが設定されている。たとえば〈波〉は、メンバー数601人、最強ファイターはキューゾー・B(語り手の女性の実の兄)。主要流はは護身術、合気道、古式中国武術数種。パラメータは、体力5、耐久力5、胆力8、速力5だ。拳を使う流派しかいない〈拳〉とか、けっこう格闘スタイルが特徴として出ていて、今だとHiGH&LOWをみているときみたいな感覚がある。

カラテNINJA

そんな地獄みたいな状況にやってくるのが、同じくこの高校に属し最強の一角と目されるキューゾー・Bと拮抗するほどの力を持つジェニーのいとこ、ジミー、またの名をカラテNINJAだ。ジミーはこの学校にやってきた当初から誰しもにその存在を知られていた。強すぎたからだ。

 十四歳になるまでに全米規模の大会を五つ連続で制し、さらには三つの別種目それぞれの世界大会をすべて五度連続で制した──空手と柔道と中国武術の三種において、そのあと香港の高名なマーシャル・アーツ訓練校焔山高等武術学院の奨学生に選抜された。戦績の書類のみでの選考だった。(……)
 一六歳の誕生日を迎える直前に、武術をやめた。戦績は二四一二勝〇敗〇引き分け。まるで幽霊だった。怪我はまったくせず、投げられたことさえ一度もなかった。打撃を受けたためしもない。攻めをかわす心得が完璧だった。対戦相手だれ一人として手も足も触れられないのだから。

そんな凄まじい存在だったので学校中に知れ渡っていたわけだけれども、彼は武術をやめた結果としてこの学校にきていたのだった。父を肺癌で失い、人が違ったように暴れるようになって母親と口論して二度と人と闘わないと誓わせられたのである。

誓いは重く、ジミーはこの暴力が渦巻くカンフー・スクールにやってきてからもしばらくは自分からは絶対に手を出さずに殴られても殴られるままにしていたのだけれども、ジミーやジェニーにとっての大切な人間が傷つけられ、殺される事態にまで物事が発展。ファミリー同士の抗争が過激化していくに従ってそうもいっていられなくなってくる。決して喧嘩をしないと誓った男が、復習のためにその拳をふるう!

話の発端となったのは

と、シンプルなストーリーなのでそこまで説明すれば読みたい人は読むでしょう、っていう感じなんだけれどもここからはいくつか関連した情報を紹介してみよう。

たとえば、一見アホとしか言いようがない設定・世界観なのだけれども、実際に読んでみるとどこまでも真剣に、重い話を扱っている。学校が暴力に溢れている描写はリアルで最悪だなって感じだし、そうした状況に追い詰められていく人間の精神、大切な人を暴力の暴発によって失う悲しみやそれを乗り越えていく心理的な過程もしっかり描かれていく。バカバカしい設定ではあるもののそれを支える心理的な面の描写は綿密なのだ。これは、「はじめに」で語られている著者の執筆経緯も関係している。

その発端となっているのはコロンバイン・ハイスクール乱射事件(高校で銃を乱射する人間が現れて多くの死者が出た事件)なのだ。実際にこの事件に巻き込まれて生き残った友人に、この事件について書こうと思うのだがどうだろうかと伺ったところ、「芸術として書けばいい」というアドバイスをもらって、銃を拳に置き換え、リアルな痛みを実感させるもの描こうとしたのである。荒唐無稽な話にならないように医師に連絡をとって、作中の暴力や治療の描写もできるかぎり正確になるように注意を払っている。ようは、この世界では殴られればリアルにダメージを喰らう。

枠組みとしてマーシャル・アーツを中心におくことにし、彼が大好きなブルース・リーの『ドラゴン危機一発』を参考にして構成を練り──と繋がって、本作が生まれることになったようだ。実際、お話の大筋は『ドラゴン危機一発』からとられている。

おわりに

とはいえこれは小説であって、格闘描写をそのまんまやられてもなんもおもしろくないぞ──と思って読み始めたのだけれども、様々な格闘スタイルの違いが文章だからこその表現で書き分けられていて、加えて学内の敵が全員格闘技においてそれなりの腕があることから非常によく考えて作戦を練らないとすぐに対処されてしまうことから戦略性も生み出されていて──と、小説ならではの格闘描写のおもしろさが出ている。「マーシャル・アーツ小説」として完成された純度の作品といえるだろう。

描写の大半は格闘によっていてサクサク読めるので、気が向いたら手にとてみてね。

全篇詩のように短い文体で綴られた、復讐と暴力の連鎖──『エレベーター』

エレベーター

エレベーター

全篇詩のような短い文体で綴られていく、復讐と暴力の連鎖を描く物語だ。一ページに十数行、場合によっては一行や二行、常に最大限の効果を発揮するように文字が配置されており、文章のビートにのって途切れずに読み進めると、復讐心と悲しみの詰まったカオス的な感情へと深くシンクロしていくことになる。全篇詩のような文体と書いたが、実際には極限まで切り詰められた詩の入り口に立っているような小説の文体であり、すべてが象徴的に機能するように綿密に設計されているのが素晴らしい。

あらすじとか紹介する

主人公は、銃撃で兄を突然殺された黒人の少年ウィル。彼の属するコミュニティには3つの掟があった。ひとつ、『泣くな。何があろうと、けっして泣いてはならない。』ふたつ、『密告はするな。何があろうと、けっして密告してはならない。』みっつ、『愛する誰かが殺されたなら、殺したやつを見つけだし、かならずそいつを殺さなければならない。』ウィル少年は自身が深く兄を愛していたことに合わせて、この鉄の掟(と彼が思い込んでいる)に従って、殺人犯を自ら殺すことを決意する。

武器は? 兄であるショーンは中段の引き出しに誰にも見つからないように、どこかから手に入れてきた銃を隠していた。ウィル少年はそれを引き出しから取り出して、兄を殺す心当たりのある相手に復讐を遂げるため、7階にある自宅からエレベーターへと足を踏み入れる。で、ここからがこの物語の特異なところだが、少年が階を降りるごとに、彼とかつて関わりがあった──しかし今は暴力の犠牲となって死んでいった──幽霊たちが一人、また一人とこのエレベーターに乗り合わせてくるのだ。

で、物語はこのままエレベーターの中でL(obby)に辿り着くまでの時間がひたすら引き伸ばされて展開するのだが、この舞台設定はとても象徴的だ(原題は『LONG WAY DOWN』でこれもいいが、邦題も素晴らしい)。圧迫感があり、誰かが入ってきても逃げ場が一切なく、階から階、それぞれの目的地につくまでは嫌でも同じ場所にい続けなければならない特異な場所。エレベーターがもたらすそうした抑圧的な状態が、物語が進み階がひとつ下がり新たなゴーストが登場し、その人物がなぜ亡くなってしまったのかという、暴力の歴史が開陳されることで、より差し迫ってくるのだ。

最初に入ってくるのは、ショーンの兄貴分だったバックという男で、彼がもともとの銃の所持者だという。弾が何発入っているのか確認しろとと少年に向かって助言し、これから復讐に向かうのだと告げられても特に止めるわけでもない。続いて入ってくるのは(6階)、また別の銃撃戦に巻き込まれて亡くなってしまった、幼馴染の少女ダニだ。彼女は、何のためにその銃は必要なのかと静かに問いかけてくる。

おわりに

ひとつ階を降りるごとに、少年にとってより関係性の深い人間がエレベーターに乗り込んでくるが、それによって少年が住まう一画の、終わりなき暴力と犯罪の在り方が多層的に浮かび上がってくる。これは明らかに日本に住む大多数の人にとっての物語ではない──銃は身近にはないし、殺し殺されの暴力の連鎖も存在しない。

でも、この物語を最後まで読み終え、そこでひとつの決定的な問いかけをなされたとき、読者はきっと作中のウィル少年と同じ立場まで降りていて、これは自分のための物語だったのだと気づかずにはいられない。

男女の垣根が溶けてなくなっていく──『森があふれる』

森があふれる

森があふれる

彩瀬まるさん最新作。男の社会的規範、女の社会的規範、夫婦のディスコミュニケーション、踏み込まず、どこにもいけない関係性の鬱屈した感じを「突如として、人が森になる」という幻想的事象と共に描き出していく小説で、シンプルにおもしろい。

中心となるのは埜渡徹也(のわたり・てつや)という男性作家と、その妻の流生きの二人である。彼は妻の流生(るい)とのことをフィクションとして描いた『涙』でヒットを飛ばして一躍有名になったのだが、ある時、その流生が草木の種を食べてしまったことをきっかけに、体から発芽してしまう。最初、物語は埜渡の担当編集瀬木口の視点から展開していくので、実際に発芽している流生を見て「なんじゃこりゃあ!」と死ぬほど驚くのだが(当たり前だ)、流生は病院には行きたくない、救急車を呼ばれたら舌を噛み切ると言うし、埜渡自身もそんなこと言われたらしょうがない、という感じなので、次第にまあ、異常だけど夫婦の問題だしな……を手をひくことになる。

とはいえ、さすがに人間からどんどん発芽し、森になっていくのをただ見ているのは非人道的である──のはもっともなのだが、埜渡から送られてきたあらたな小説はまさにその森に変化していく流生のことを雄弁に語った小説で、その出来がまた最高傑作だったことから、積極的に見てみぬふりへと加担することになってしまう。「夫婦の問題だから」という完全不干渉から、「原稿をもらうために」の不干渉、それも知っているうえで隠しているのだからほとんど犯罪に加担しているようなものだ。

森があふれる

一個人がただ木になるんじゃなくて、それがどんどん世界を侵食し、「森があふれていく」のがぐっとくる。絵面としてだけではなく象徴的にもおもしろくて、流生は埜渡とのかかわり合いにおいて圧倒的に「語り」の能力で負けているんだよね。自分の意見がうまくいえないし、その間に埜渡が「こういうことだろう」みたいに要約すると、少しズレててもそれを訂正するのにも面倒で、それを通してしまうとちょっとずつコミュニケーションの不全感が高まっていってしまう。で、その不全感が最高潮に高まったある時、流生は森になってしまうが、それは「うまく語れないだけで、彼女の内面の世界はこんなにも豊かに広がっている」というようにも読める。

物語はどんどん視点の主を変えながら展開していくのだけれども、視点人物は誰しも妻や夫とのコミュニケーションのうまくいかなさと偏見を抱えている。たとえば瀬木口の後任としてやってきた女性編集は、「涙」の作中で笑って体を差し出す涙を現実の流生と混同して、自分が小説に赤裸々に書かれることを許したのだと思っている。

だけど実際にはそうであるとは限らない。いやでいやでしょうがないかもしれないし、そもそも同一視するのは根本的におかしいかもしれない。なぜそう思い込んでしまったのかと言えば、男性をサポートするためにその身を犠牲にすることが「女らしく」感じられたからだ、と女性編集は語るのである。本書では視点を次々と変えながらこうした男らしさ、女らしさの各人に存在する規範・偏見をあぶり出していく。

おわりに

森になってしまった流生を、埜渡はかたくなに見ようとせず、森にも入らない。彼はずっと、他者の内面に踏み込まない冷静な観察者であったわけだが、それでは見えてこないものがある。ついに自分の視点が回ってきたとき、彼はスランプに陥っていて、小説を書くためにも森へと立ち入ることを決意するわけだが──、森の中で行われる自分自身、そして流生とのやりとりはやっぱり噛み合っていないのだけれども、そこからはたしかに「対話」が始まりかけている。

都知事狙撃事件の〝真犯人〟を追うド真ん中のクライム・サスペンス──『泥の銃弾』

泥の銃弾(上) (新潮文庫)

泥の銃弾(上) (新潮文庫)

この『泥の銃弾』は『PSYCHO-PASS』関連のスピンオフノベライズや劇場版脚本で縦横無尽の活躍をする吉上亮の久しぶりのオリジナル長篇となる(2016年に出た『磁極告解録 殺戮の帝都』以来だから約3年ぶり?)。これまでの作品傾向的にはSF・ファンタジィが多かったわけだけれども、今作は舞台を2020年の至近未来におき、2019年に発生した都知事狙撃事件の真相を追ううちに、より大きな日本の暗部が明らかになっていく──というド真ん中のクライム・サスペンスである。

ざっくりとしたあらすじ

都知事狙撃事件の犯人はクルド人難民と発表され、国策として難民を大量に受け入れるようになっていた日本では〝わかりやすいストーリー〟として誰もが納得し、決着がついていた。だが、今どき珍しいぐらいに真実の探求に人生を賭ける記者・天宮理宇はなぜか彼に情報提供をする謎の人物アル・ブラクの手助けを借りてその結論を覆す証拠を次々と見つけ──という、最初の「都知事狙撃事件の真犯人は誰なのか」という巨大なフックから次々と背後に控えているより大きな謎が明かされていき、おいおい、どうなってんだよとフックに引かれてあっというまに読み終わってしまった。

いくつもの読みどころがあるが、まず推しておきたいのは天宮理宇と、決して姿をみせない情報提供者アル・ブラクとの顔を合わせない男同士の信頼関係が築き上げられていく、バディ物としての側面だ。アル・ブラクが寄せる情報はどれも的確で、明らかに事件の背景に深く関わっている超不審人物であり、とても信頼関係なんて構築できそうに見えないが、話が進むにつれ彼が事件の真相追求に賭ける過去が明らかになっていき、お互いがお互いの行動と信念を通してその結びつきを強めていくのだ。

そのアル・ブラクは〈シリア、トウキョウ〉なる難民が難民を守るための組織に所属している凄腕の傭兵で、血と硝煙にまみれた彼を中心としたパートや、彼の過去にからんでくるシリアでの惨劇や難民を取り巻く物語は、『極大射程』(スティーヴン・ハンター)さながらの狙撃戦も盛り込まれ──と、彼の人生がより鮮明に明らかとなる後半に伴い、どんどん物語のボルテージが上がっていくことになる。特に僕はアニメ攻殻機動隊(のS.S.Sだったかな)のスナイパー同士の戦いとか、冲方丁のシュピーゲルシリーズの狙撃戦が大好きだから、まあ大満足なわけですよ。

シリアとトウキョウが難民によって接続され、〝都知事狙撃事件の真犯人〟が次第に確固たるものとなるにつれ、今度はさらにその背後にある謎──〝なぜ日本は突然難民の受け入れを政策として推し進め始めたのか?〟に切り込んで、難民問題における日本の国際的な立ち位置を問い、シリアとトウキョウの枠を超えて広がっていく。

おわりに

『PSYCHO-PASS』で鍛えたのかどうかはわからないが迫真の警察・公安描写はどれも素晴らしいし(カフカめいた理不尽な情報操作も良い)、〝真実〟とはいったいなんなのか、対立する真実があった時、どちらを優先すべきなのか──というジャーナリズムにおける葛藤など、取り上げておきたいよみどころもまだいろいろあるのだけれども、あまり情報を開示したくないので短めだけどこんなところでやめておこう。

泥の銃弾(下) (新潮文庫)

泥の銃弾(下) (新潮文庫)

異常な傑作──『雛口依子の最低な落下とやけくそキャノンボール 』

雛口依子(ひなぐちよりこ)の最低な落下とやけくそキャノンボール

雛口依子(ひなぐちよりこ)の最低な落下とやけくそキャノンボール

呉勝浩さんの作品はこれが初読だが、異常な傑作であった。最近僕はKindleの読み上げで本を読むのを試しており、順調に20冊ぐらい読んでいたのだが、はじめて「先が気になって気になってしょうがなくなって聞いているだけじゃ遅いので実際に読み始めてしまった」本である。それはいったい、どのような本なのか?

簡単に説明してしまえば、主に2017年を舞台にした現代物で、とある連続殺人事件に巻き込まれた女子二人が、謎まみれの事件の背後に何があったのかを追っていく過程で、女子二人のうちの一人である雛口依子のおぞましい人生、そしてやけくそなキャノンボールが描かれていく──と、タイトルを絡ませながら紹介するとそんな感じになるけれども、この作品のおもしろさ、異常さは簡単に説明できるものではない。

2012年、兄の話

そもそものことの発端からすると、まず重要な起点となったのは2012年のこと。

父、母、兄、そして自分の4人家族で暮らしている雛口依子だが、家庭環境は最悪。父は働いているんだか働いていないんだかわからず、借金まみれで、母もぱっと見まともだが言動も行動もどこかイかれてる。とはいえ、とりわけイカれているのは25歳の兄である。全人類おれの手下って感じで、偉そうで、わがままで、それだけじゃなくとにかく手当たり次第誰でも暴力をふるう悪夢のような人間であった。

「誰でも良かった」と殺人犯が告白するも、実際には女子供など腕力で屈服させられる相手しか狙わないケースが多いというが、この兄もそんなケースなのかといえば、そうではない。徹底的な平等主義に貫かれ、誰であろうとも見境がなかったという。

 兄が特化していたのはただ一つ、暴力だ。
 教師、生徒、子ども、年金受給者、見知らぬ通行人からボクサーに空手家、はてはヤクザに景観まで、兄の暴力は徹底した平等主義に貫かれ、見境がなかった。その上、完璧主義だった。一度はじめた暴力は、完膚なきまでに相手を痛めつけるか、自分がやられて動けなくなるまで止まらない。そんなポリシーは、金をもらったって要らないと、わたしは思う。
 当然、家族にも拳は飛んできた。平等に、完璧に、容赦なく。

やべーやつじゃん! 病院にいれなよ! と思うが実際に幾度も病院にいれ、カウンセリングも受けさせているがカウンセラーをボコボコにするのであっけなく少年院にいれられ、そこで殺すか殺されればいいと家族が祈るのも虚しく一年経って普通に戻ってきてしまう。家族は暗澹たる気持ちになるが、なぜか(おそらく自殺だろうと判断された)兄が突然高い部屋から飛び降りるという事件が起き、その後奇跡的に一命をとりとめるも植物状態になり、一家に平穏が訪れる。だが、兄は突如として目を覚まし、同時に完全に過去の記憶と暴力衝動を失ったのがこの2012年なのである。

2016年、とある金髪の女子と出会う。

物語はそこで時間が飛んで続くは2016年3月。雛口依子はボーリング場に通っている。そこで出会ったのが、浦部葵という、雛口依子が巻き込まれたとされる凄惨な殺人事件の加害者とされる男の妹である。その事件の概要を説明すると、現場となったのは千葉県印西市の住宅。そこで猟銃の乱射事件があり、未成年者を含む3名が顔や胸を撃たれ死亡、2名が重軽傷を負い、犯人と思われる男(浦部葵の兄)はその場で猟銃を使い自殺したとみられ、雛口依子はその事件に巻き込まれ、生還したのだ。

浦部葵は雛口依子を誘ってメシを食いながら、本を書きたいのだと語る。何しろ凄惨な事件の加害者の妹であり、家族全体が意気消沈しそれどころか世間的な汚名も最悪であり、賠償金も半端ない額でとにかく金がない。だから、被害者遺族という特権的な立ち位置を利用して、金ががっぽがっぽ儲かるであろうバカ売れのルポタージュを書きたいのだというのである『「加害者の家族と、被害者の姐さん。二人でこの事件を掘り下げるルポを書きましょうや」』。いやいや、という感じだが、この浦部葵、被害者家族のもとに凸撃取材を繰り返し弁護士に激怒され、それでまるで悪びれることがないなど、イカれた人間ばかりのこの物語の中でも、屈指の狂人の一人である。

とはいえ──狂人で、利己的な目的ばかりをまるでカモフラージュのようにして口にする彼女だが、その心の中では兄がそんなことをするはずがないという強い確信があり、真実を探求しようという強烈な意思に基づいて調査を進めていく。『「コンプレックスの塊みてえな人間だったんです。ガキのころ、女みてえな野郎だといじめられてたらしくてね、それを両親のせいだと恨んでね。無駄に男らしさにこだわりだして、そのくせ料理と裁縫が得意だってんだから笑えます」』『まあ、でも──と、葵ちゃんはいう。「悪い奴じゃなかったっすよ」』

徐々に不穏さが増していく。

ふーん、女子二人で事件を解決するんだろうな〜〜、でも交互に語られていく兄の方の話はいったいどんな関係があるんだろう、と疑問に思いながら読んでいくと、序盤に浮かんでいたいくつかの「違和感」が明確な実態を伴って読者にたいして襲いかかってくることになる。たとえば、依子とその家族が繰り返しいう「あの人は駄目になった」という言葉。兄の復活をきっかけとして、お前たちはこの先、大変な目に遭う、それは決してふつうのことじゃなく異常なことなんだと意味深なことと、全て裏側の模様が異なる自作のトランプとかいう意味不明なものを残して失踪した父親。

話は戻って2013年、兄が突然の蘇りを果たし、父親が失踪を果たした直後に雛口一家は色川さんという叔父さんの家に居候させてもらうことになる。ふーん、そういうこともあるんだな、と思いながら読んでいくし、最初は特に違和感もないのだが、だんだんその異常さが際立っていく。たとえば、叔父さんの家の子どもである時郎くんは19歳なのだが、叔父さんに言われてなぜか依子と一緒に風呂に入り、それを依子も特段不思議にも思っていない。はよ結婚しうようやあ、と時郎くんに言われても「決めるのは叔父さんだからねえ」と返すばかり。要は自分の意思などはなから考慮にいれず、ただただ叔父さんの言うなりになって、19歳の親戚の息子との結婚も、その他もろもろの生活上の奉仕も、そういうものだと受け入れてしまっているのだ。

 色川の伯父さんは、困っている人を見捨てておけない性格で、いろいろ問題のある人たちを住まわせてはご飯を食べさせ、おつとめを与えてくれる。父も母も、「色川さんは素晴らしい人だ、あの人のおかげで救われた」と繰り返していた。厳しい人だし、ちょっと疲れるところもあるけれど、わたしだって伯父さんに感謝していた。三角屋根の家の生活は、おおむね幸福だった。
 兄が台無しにするまでは。

読者からすれば(記憶を失って常識人になった兄も)何もかもがおかしい状況だが、この物語は雛口依子の一人称であり、まっとうな判断力を持っていて、知識も持っていて、ネットにも触れているはずなのに、自分のおかれた状況を「異常」と判断できない、そのズレた描写の数々に、こちらの背筋が凍りついていく。いったい、この色川の家族はなんなのだ? そして、雛口依子はこの異常を異常と認識していないまま、どこまで落下してしまうのか? 一人称の主体がこちらとあまりにも異質な価値観を持っていると、ただただ恐怖を感じるのだということをはじめて知った。

おわりに

幸いなのは、浦部葵と出会った2016年の依子は過去の自分を異常だと認識していることである。浦部葵との茶番じみたルポタージュの調査を続けるうちに、同時にそうした依子の過去も明らかになっていかざるをえず、彼女が自分を異常だと認識した転換点、そしてあの事件の場所で本当は何が起こったのか、そして落ちるところまで落ちた彼女のやけくそなキャノンボールがはじまるのだ。運命に立ち向かうために。

「ちくしょうって、思ったんです。ちくしょうって」

どこまでも重い話を軽やかに、されど威力は重さのままに筆致していく依子の語り、絶望的状況下で依子が(そして彼女と大差のない境遇にいる、名脇役リツカが)生きるよすがとするのが、三流のオヤジ雑誌に載っている低俗な連載小説「毒母VSメンヘラ娘」であることの尊さとか、とにかく素晴らしいところはいくらでも挙げられるのだが、いったんここでやめておこう。

マジのアメリカ合衆国元大統領が書いたサイバー・サスペンス──『大統領失踪』

大統領失踪 上巻

大統領失踪 上巻

  • 作者: ビルクリントン,ジェイムズパタースン,越前敏弥,久野郁子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/12/05
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
大統領失踪 下巻

大統領失踪 下巻

  • 作者: ビルクリントン,ジェイムズパタースン,越前敏弥,久野郁子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/12/05
  • メディア: 単行本
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ビル・クリントンといえばアメリカ合衆国元大統領だが、そんな彼がベストセラー作家のジェイムズ・パタースンと組んで、エンタメ、それもガチのアメリカ合衆国大統領を主人公に書いたエンタメ小説がこの『大統領失踪』だ。その書名の通りに(原題:the president is missing)大統領が失踪しちゃう話なのだが、それは米国を悪夢的なサイバー攻撃から守ることと関連していて──と、側近の部下すらも信用できない状況下で英雄的な活動をするというあらすじの、大統領の願望充足的な話である。

正直言って、金も地位も名誉もアホほど手に入れた人間がなんで小説を書くのか理解できないので、話題先行のための名義貸しみたいなもんじゃないのぐらいに思っていたのだけれども、意外なことに(意外じゃないかもしれないが)情報が出揃わず未来が不確定な中で、政争をやりながら厳しい決断、議論が連続していく、「高度な政治判断をする場面」が主体のスリリングな内容で『シン・ゴジラ』を思い出すような読み心地であった。リアリティという言葉は好きではないから、”説得力”という言葉を使うが、大統領が決断をくださなければいけないひとつひとつの出来事、ロシアやドイツなど他国の重鎮との緊張感ある会話など、すべての面において説得力が凄い。

あと、主人公が明らかにビル・クリントンを模して、さらには恐らくは自身の理想を体現する人物に仕立て上げているところとか、これから先アメリカがどういう問題に対処していかなければいけないのかという本筋とあまり関係なく突然挟まれる長ったらしい演説とか、野暮ったい部分もけっこうあって、「あ、これちゃんと本人がかなり突っ込んで関与してるんだな(してなかったらそれはそれで凄いな)」と思わせる内容なのも”ビル・クリントンがマジで書いている”という説得力があってよかった。

と、全体としてはそんな感じなので、以下ではもう少し具体的に紹介してみよう。

ざっと紹介する。

主人公となるのは先に書いたようにアメリカ大統領の、ジョナサン・リンカーン・ダンカンという名の人物。物語は、そのダンカンが、下院特別調査委員会によってキツく問い詰められている場面からはじまる。なんでも、〈ジハードの息子たち〉と呼ばれるテロリスト組織のリーダを救うために彼が電話をかけたという疑惑が──事実なのだが──かけられており、それを問いただされているのだ。彼はなぜ、国際的なテロリストのリーダをかばうような真似をしたのか? 国を売るつもりなのか?

だが、その問いに対して、ダンカンは国家の安全に対する危機に直結するとして、決して答えようとしない。無論、通常時であればテロリストのリーダをかばう、それもそれを問い詰められて、大統領特権を出してまで黙秘するなど、そんなことはなされるはずはない。が、大統領にはそれをしなければならぬ理由があった。アメリカ合衆国に対する大規模なサイバー・テロ──米国の全プロバイダー宛に仕掛けられたウィルスによってあらゆるデータが消去されることで、インターネットの基盤の上に築き上げられたすべての仕組みが破綻する──の実施日が間近に迫っており、〈ジハードの息子たち〉のリーダはその攻撃を止めるために必要不可欠な人物だったからだ。

わたしはこのところ、国の安全を守るためにほぼすべての時間を費やしてきた。きびしい決断の連続だ。未知数の問題を数多く残したまま、決断しなくてはならないこともある。あるいは、選択肢のすべてが掛け値なしのクソということもある。それでも、いちばんマシなクソを選ばざるをえない。もちろん、自分が正しい決断をくだしたのかどうか、それがいい結果をもたらすのかどうかはわからない。だから、つねに最善を尽くすのみだ。そして、それを背負って生きていく

大統領は聴聞会で不毛なやりとりを続けた後、今回の危機への情報提供者のひとり+ウィルスの仕掛け人でもある凄腕のハッカーと面会しているところを何者かに襲撃され、側近の8人にしか伝えていない情報が漏れていることから周囲の人間を信用することも出来ずに居場所を秘すことで、「大統領失踪」することになる。その間も、ウィルスに対する対策を練りつつ、自身を蹴落とそうとする対立政党や副大統領との政争、ロシアへの牽制、ドイツなどNATO加盟国への「米国にもしものことがあった時のための協力要請」など、タフさが必要とされる交渉・議論が続々描写されていく。

おわりに

誰が本当の敵で、どんな事態がありえるのか、常に変動している世界情勢を読み切ることなど誰も出来ず、推測を重ねることしかできない中で、一番マシな決断をくださなければならない緊張感──失敗すれば、米国のみならず世界が一瞬で大混乱に陥って、さらにまかり間違えば核の応酬が始まりかねない──が、全編を通してみなぎっているのは純粋におもしろい。サイバー・テロ周りの具体的な描写、説明に関しては、正直いっておマヌケ感もあるのだけれども、一般向けのエンタメ小説なら多少馬鹿っぽくてもちゃんと説明しないといけないだろうし、まあこんなもんだろう。

怪異によって人間のおぞましい本性が浮き彫りになる──『人喰観音』

人喰観音

人喰観音

早川書房から珍しく純ホラーが出た(『裏世界ピクニック』とかあるけど)と思い興味深く読んでみたけれども、これは大変怖い。『やみ窓』にて「幽」文学賞短篇部門大賞を受賞した著者による受賞後第一作であり、心霊、怪奇現象に対する怖さというよりかは、狂っていく”人間”そのものへの恐怖が克明に描かれた連作短篇集である。・

舞台となっているのは恐らくは明治時代初期頃。とある村に水辺の観音様と呼ばれる女性がおり、なんでも昔人魚を食べたとかで決して歳をとらず、常に美しくたおやかな肉体を保っており、知能は高くはないが穏やかで、多くの人に好かれ平穏に暮らしていたという。それだけではなく、ある種の予知・予感能力のようなものがあり、ある行動や人間が将来的にどのような利益や不利益をもたらすのかを見通し、人々からは重宝されていた。ところが、ある時、その能力によって不興を勝った川向うの長者によって、彼女を貶めるために偽りの噂を流され、川に流されてしまう……。

そうして川から流されてきた水辺の観音様、名前としてはスイを名乗る女は、流れていった先でたまたま彼女を拾った蒼一郎の嫁として、穏便な生活を取り戻すのであった。めでたしめでたし──と、そうはいかない。第一章「隠居屋敷」では蒼一郎とスイの生活が語られていくのだが、周囲の人間を人の道から踏み外させていく、魔力のようなものがあるのだった……。なんでも、なぜか彼女の性質をよく知り、時折彼女の周りに現れ必要なものを届けにくる東方と呼ばれる人物によれば、彼女は同時に複数の人間には憑かないという。男であれ女であれ、憑くのは必ずひとりきり。

歳をまったくとらないので、その存在は何年も過ごしていれば目立つが、時代のせいもあるのか、噂こそ流れ続けどそこまで問題になって研究機関が踏み込んでくる事態もない。では、いったい何が彼女の問題なのかといえば、『生き神様と崇められる女は、いつも鷹揚な口調で語り、しなだれかかって生の肉を喰いたがる。』というように、生で艶かしく肉を喰らうことである。馬や牛などの肉を食っている間は良いが、過去に一度、やむおえぬ事情から人肉を食べてしまった経験から、スイは人の肉を欲し始める。とはいえ、恐ろしいのは、人肉を欲し、食べることそれ自体ではない。

彼女に憑かれた人間は、憑かれたからなのか彼女の魅力に惹きつけられたのか、彼女のために多くをしてやりたいと願う。人肉を食べたいと願い、それを周囲の人間が仕方がないもの、なんとかして叶えてやりたい希望として受け入れてしまい、だんだんとそれが当たり前のものになっていく過程──人の道を、覚悟を決めて明確に踏み外していく彼女の周囲の人間が怖いのだ。それも無条件に狂わされるのであれば「そういう怪異なのね」で終わる話ではあるが、その狂っていく人間にもそれぞれの”踏み外す理由”があり、一概にスイのせいにできる狂気ばかりではないのである。それがまた時代背景を含んだ人間の怖さに繋がっている。スイという怪異にゾッとするのではなく、スイによって引き出された人間たちの心理模様にゾッとするのだ。

たとえば第一章で一番ビビったのはスイ自身ではなく、嫁ぎ先で終わりなき暴力を受け蒼一郎のもとに再度使えることになった世話役の律の”異常な執着”だし、蒼一郎が死を迎える直前からはじまって、商家の男とスイの生活が語られる第二章「飴色聖母」でいちばん恐ろしいのは、二人に使えるまた別の世話役が、二人にすべてを尽くして使えるその理由と覚悟のシーンである。そして、また大きく時が経ち第三章「白濁病棟」と第四章「藍色御殿」では二人の姉妹とスイの関わりが語られていく。

タイムスパンとしては50年以上に渡ると思うが、その間一切歳をとらずに、定期的に人の肉を喰らいながら、周囲の人々をさまざまな形でどこまでも理性的な狂気へと陥れていく。恐ろしくも悲しいのは、スイが直接的に人に害をなす怪物ではなく、その予見の能力も、歳をとらない外見も、時代が進むごとに不要なもの、彼女にとって害をなすものとなっていくところにある。人肉を欲するが、自分から誰かを殺すことはない。とはいえ、人肉を人知れず入手するのは、年々困難になってゆく。しかも、人肉を欲するようになったのも、元をたどれば彼女のせいではないのである。

ひとつひとつの描写がまた背筋が凍るようで、人の狂気に踏み込んでく時の斬りこみの速さなど、受賞後第一作にもかかわらずベテランのような精度の高さだ。全部で4篇、300ページほどの作品なので、サクッと読めるのでたいへんおすすめです。

幻のように揺らめき続ける、汚らしくも美しい街──『黄泥街』

黄泥街 (白水Uブックス)

黄泥街 (白水Uブックス)

中国の作家、残雪の第一長篇の復刊版である。最近、SFファン交流会というイベントの、文学を語ろうの回で、牧眞司さんが『黄泥街』を特に話題にしたい本の中の一冊として取り上げていたのだが、その時から読んでみたいと思っていたのであった。まず、この黄泥街──こうでいがいという書名の時点でそそられるものがあるしね。

で、読んでみたわけだけれども、これはわかっていたこととはいえ大変に素晴らしい逸品である。黄泥街とは長く一本の通りで、いつも空から真っ黒な灰が降ってくる、薄汚い街のことであり、本書はそこで暮らす気が狂った人々の物語なのだが、そうした単純な総括を明確に拒む作品である。この作品が何なのか、黄泥街とは実際何なのか、という説明をしようと思ったらこの本をそのまま手渡す他ない──優れた文学作品とはだいたいそのようなものなのだけれども、本作もそうした流れに連なる。

黄泥街

黄泥街とはなんなのか、そこで暮らす人々はどのように気が狂っているのか。それは常に移ろい続けてゆく幻のようなもので、一つの形にとどまるということがないのだが、描写されていく事態はいくつかある。たとえば、黄泥街では常に灰が降っているので道行く者はみな何かを探して灰よけにしなければならないし、たいていただれた赤い眼をして、咳をしている。さらには、動物たちの気もみな狂っているという。

 黄泥街の動物はやたらに気が狂う。猫も犬も飼っているうちに狂ってしまい、めったやたらに走り回って手あたりしだい人に噛みつく。だから猫や犬が狂うたびに、人々は戸を閉めきって家にたてこもり、通りに出ようとしない。ところがあの畜生ときたら、思いもよらない場所から跳びだしてきて凶行に及ぶのだ。一度など、一匹の狂犬が一度にふたりをかみ殺したものだ。そのふたりはちょうど脚をくっつけて並んで立っていたのだ。

常に灰が降り注ぎやたらと動物の気が狂う汚らしい街になぜ住んでいるんだこいつらは。とっとと出ていけばいいのにとさっそく疑問が湧いてくるが、黄泥街の住民のほとんどはみなそこで生まれ育った者たちであり、どうも出ていくという発想がとんと湧いてこないらしい。それ以前の問題として、黄泥街住民の気が触れたとしか思えない行動がこのあと連続していくのでとんと気にならなくなってしまう。

黄泥街の住民はしかしてどのように暮らしているのか? なんでも黄泥街のつきあたりにはS機械工場が立っているという。S機械工場は5、600の従業員がおり、その大半が黄泥街の住民である。S機械工場が何を作っているのかといえば「鉄の玉」だという。半月ごとに数十箱の黒々した物が運び出されていく。それはなんなのか。S機械工場はどのような経緯で出来たのか。その沿革は誰にも説明できないという。

王子光

全てが曖昧模糊としているこの黄泥街だが、中でも状況を一変させるのは「王子光(ワンツーコアン)」と呼ばれる「何か」である。何かというのは、それがいったい何なのか、誰にもわからないからである。「人間である」と人々が認識していることが多いようだが、結局それを観たものはいないとされ、なんなのかはわからない。それは街の住人が突如「王子光!?」と叫んだときに生まれたのは確かであり、その後またある者が『「王子光のイメージはわれら黄泥街住人の理想なのだ。今後、生活は大いに様変わりする」』と予言したことで、状況が大きく変わっていくのである。

ある噂によれば、王子光は王四麻の弟だという。ある者は王子光は実際にいるのか、「上部」から派遣されて黄泥街にきたことがあるというが実際にはそれはただの乞食だったのではないか。懐疑的な人間もこのようにいるにはいるが、王子光は黄泥街に来たとき黒いかばんを持っていた、王子光は上部の人間ではなく、廃品回収所の屑屋だったなど、噂は噂を呼びその存在感は街の中で少しずつ確かさを増していく。

 もしも王子光のこうした事件がなかったならば、われらが黄泥街は永遠に光なき薄暗い通り、永遠に命なき死の通りでありつづけたかもしれず、永遠に暗く黄色い小さな太陽にひっそりと照らされたまま、記憶にとどめられるようなささやかな出来事も起こらず、世を驚かす一、二の大英雄など出ようがなかったのかもしれない。ところが斉婆が便所のかたすみで、かの太陽と冬の茅の境地に入った一瞬以来、黄泥街のすべては変わったのである。ちっぽけなぼろ家はうごめきだし、陽光の下で一種異様な勃々たる生気を放った。いまわの際のつかの間の照り返しのごとく。屋根の枯草は道ゆく者にしきりにうなずいてみせ、まるで内部に生命のエキスでも注ぎこまれたようだった。黄泥街は生まれかわった。

終末のヴィジョン

僕が読んでいて強く惹きつけられたのは黄泥街にまつわる、混沌とした終末のヴィジョン、汚らしく破滅的でありながらも美しさを感じさせる描写、行動の数々である。

彗星が地球に衝突しようとしている、世界最後の日が来るのだという”うわさ”が流れれば、住民は屋根裏でうまいものを食い荒らし、一日でも生き永らえようと行動を開始する。『通りを隔て、黄色い水を隔てて、糞を垂れながら足踏み鳴らして罵り、罵りながらズボンをひっぱりあげる。悪態ついて興に乗れば、おまるいっぱいの糞をむかいの屋根裏めがけてぴしゃりと浴びせかけ、むかいの者ももちろんおまつひとつでお返しをする。糞は相手にとどきはしないが、まあ、単なる景気づけなのだ。』

ある時は、真っ黒な墨汁のような雨が振り続け、百足は際限なく湧き、逆に太陽が出るとあらゆるものが鎖腐乱死体が吸い上げポンプにつまりある人物は耳が夜の間に腐ったという。またある時は街じゅうが疫病になりニワトリが死に絶え床には水がたまり壁一面にナメクジがはい毒蛇の卵が産み付けられ、街には大蝙蝠と毒が蔓延していく──話が進行していくうちに、そのどこまでが真実で、どれが住民によって流されたうわさなのかの区別もつかなくなっていき、すべては夢の中の出来事であるように圧倒的な混沌へと向かっていく──『黄泥街は果てしない夢からぬけだせない。』

おわりに

さっきまで生きていた人間がころっと死んでしまう。さっきまで描写されていた人物の実在が危ぶまれる。すべては虚構だが、虚構のレベルが揺らぎ続ける。誰かがつぶやいた何気ない一言が別の誰かによって増幅、真相として扱われ、あれよあれよというまに恐慌が街全体を覆っていく。登場人物の会話はいかにも噛み合っているように進行するが、まったく噛み合っていないどころか最初と最後でまるで別のことについて語っていたりする。幻惑、幻想的な作品であるといえばそうだが、ある意味これこそが──きっちりとはしていない状態であることこそが、現実ともいえるのだろう。

まあ、なにはともあれおもしろい、美しい街である。本を一冊買うだけで、街をまるごと手のなかに収められるのだから、小説というのはおもしろい。

男と女、虚構と事実、過去と未来、微妙でありながら大胆──『両方になる』

両方になる (Shinchosha CREST BOOKS)

両方になる (Shinchosha CREST BOOKS)

『両方になる』はスコットランド生まれのアリ・スミスによる長編七作目になる。邦訳としては2003年に『ホテルワールド』が出た他、岸本佐知子編の『変愛小説集』などいくつかの短編が訳されているばかりで、あまり日本で知られている作家ではないだろう。僕も今回はじめて読んだのだけれども、これがまあおもしろい。

じっと見つめて細部を観れば観るほど複雑なストーリーが脳内に練り上がってくる一つの絵画を鑑賞しているようなおもしろさがあり、どちらも同じく「第一部」からなる物語はどちらから読むかで物語に対する印象を大きく変えるだろう。実際、この『両方になる』は原書の販売方法も特殊で、同じ書名ながらもバージョン違いの本が二冊売られており、買ってみなければどちらを読むことになるのかわからない(わからなかったかどうか、実はよく覚えていないのだが……訳者による『実験する小説たち』ではその詳しいギミックが書かれていた)。とにかく二バージョンあるのだ。

日本でも16年に『僕が愛したすべての君へ』と『君を愛したひとりの僕へ』という、「どちらから読んでもいいが、読む順番によって印象が異なる」二冊の作品が出ていたりもするが、本の中身に二バージョンあるというのは僕は聞いたことがない。仕掛けとしてけったいなことをやっているわけではあるが、中身が難しいなのかといえばそんなことはない。母を亡くしたばかりの21世紀を生きる少女にたいして背後霊のように付き従う15世紀イタリアの画家と、少女自身を中心として描かれる再生と芸術の物語であり、男や女、破壊と創造、虚構と事実など無数の”二項対立”をごたまぜの”両方に”して複雑さを取り戻そうとするような、とても美しい傑作だ。

ざっと内容を紹介する

物語は二つの「第一部」、それぞれ最初に載せられた絵にちなんで〈目〉パートと〈監視カメラ〉パートから成り立っている。邦訳版が二バージョン存在しているのか一冊しか読んでない僕にはわからないのだが、実際に存在していたら粋だなと思う。

少なくとも僕が読んだのは、15世紀イタリアの画家背後霊パートである〈目〉の方が最初だったので、その紹介から入ろう。こちらはいきなり15世紀の画家が幽霊的存在として少女の後ろに現れて混乱する場面から物語がはじまるのでこっちとしては最初わけがわからないのだが、わけがわからんと思いながらじっくり読んでいくうちにだんだんと状況が理解されていく。彼は何らかの理由でそこにおり、少年は恐らく大切な人を失って悲しんでおり、見た目から少年だと思っていたが、よくみたら少女であることが判明し、それらと同時に画家自身の過去を思い返していくことになる。

この画家の人生がまたおもしろい。彼は実在するフランチェスコ・デル・コッサという男性の画家で、本書の世界でもそうなのだが、作中では実は女性だったということになっている(アーサー王かよ)。幼少期の頃のこと。母親の死後、彼女が母の服を着続けて生活していたのを父が見かねて、彼女を兄たちと同じく男の子として育てることで、(彼女が)大好きだった絵を描く人生を歩ませてやろうとしたのだ。

 わしらの世界は間違いない、と彼は言った。いつだって仕事はある。しかし、女の格好をしていては、修行はさせてもらえない。女の格好では、わしがおまえを弟子にすることさえできない。早速来週にでも、鐘塔の仕事に取り掛かってもらいたい。だからといって、鐘や塔を作る作業ではないぞ。壁画を描く作業をさせてやる。道具はわしが用意する。そうして、わしやお兄ちゃんたちと仕事をしている姿を周りのみんなに見せて、おまえの存在が認められて、おまえがそういう存在になったんだってことが誰の目にも明らかになったら──

画家となるために、女性でありながらも男性としての人生を歩む。その後、親友であるバルトと出会い、彼に連れられて風俗へと行くのだが、ことをいたすわけにもいかない。だが彼女(彼)は絵描きである。女性たちに手を出さずに、特別な絵を描いてやり、一緒に睡眠をとることで、その評判はたちまち風俗界に広まってゆく──。

監視カメラパート

(僕の場合は)続く監視カメラパートでは画家に取り憑かれていた少女の物語が展開する。彼女の母親はどのような存在だったのか。どのようなやりとりをしながら日々を過ごしていたのか。彼女の母親の台詞はひとつひとつがヒーローのように格好良く、少女に大人として相対する態度を崩さない。『そうかもね。と母が言う。でも、私がどう思うかはどうでもいい。私が知りたいのは、あなたがどう思うか。』

少女は女性だがジョージという(一般的には)男の子の名前で呼ばれ続け、嘘をついているかどうかわからない人間、こちらをスパイしている人間を逆に尾行する、忘却と想起、破壊と創造、虚構と現実、過去と現在といった二つで1セットのモチーフが一枚の絵に同居するかのようにして存在しており、それらはどちらかだけではなく”両方になる”ことができるのだと繰り返し、無数の形で表現されていくことになる。

 本当のことだもの、と母が言う。私はいちばん最高。でも、いちばん最高の何なのかしら?
 過去か現在か?とジョージが言う。男か女か? 両方というのはありえない。必ずどちらかのはず。
 誰がそう決めたの? どうしてそうでなくちゃいけないの?と母が言う。

おわりに

にわかには受け入れられない死を受け入れること、複雑なことを理解するときなど、どうしても時間がかかることが世の中にはあるし、探偵小説の真犯人のようにすっと割り切れる回答が出てこないこともある。『両方になる』は、そうしたスパッと割り切れない、時間をかけて丁寧に扱うべき問題を丁寧にすくい上げていく。

〈監視カメラ〉パートと〈目〉パートが交錯していく時の興奮など、歴史が反響し響き渡っていくようで、ギミックだけではなく小説としてのおもしろさも保証しよう。