基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

なぜ言論の自由は前進と後退を繰り返すのか──『ソクラテスからSNS: 「言論の自由」全史』

この『ソクラテスからSNS』は、紀元前の古代アテナイの時代からはじまって、インターネット時代である21世紀の現代に至るまで、世界中の「言論の自由」をめぐる事件や動きを取り上げていく、「「言論の自由」全史」に嘘偽りない内容である。

言論の自由は昨今突然現れた概念ではない。古代アテナイの政治家、ペリクレスは紀元前431年に開かれた議論、反対意見の許容といった価値観を称揚したし、9世紀、自由思想家、イブン・アル・ラワンディはアッパース朝で預言者や聖典にたいして疑問を呈した。その後も印刷技術の誕生による出版物の大規模な増加など、各種イベントに呼応する形で、言論の自由は前進と後退を繰り返してきた。

言論の自由が抑圧されると社会では何が起こり得るのか。言論の自由が良いものだとして、ヘイトスピーチやフェイクニュースの拡散のはどこまで許容すべきなのか。なぜ言論の自由は前進と後退を繰り返すのか。著者によれば、『今、世界の言論の自由は急速に縮小している(p.9)』そうだが、それはなぜなのか──。

本書は言論の自由をめぐる約3000年の歴史を扱っている。言論の自由は現代日本でも日々議論が巻き起こるホットなトピックであり、様々な立場の人間が存在するが、言論の自由について少しでも考えたいと思うことがあるのなら、一度本書にざっと目を通しておくべきだろう。今ネット上で繰り返される議論も、状況も、すべて歴史上で何度も行われてきたものなのだから。それを知ることの価値ははかりしれない。

 しかし、ほぼいつも同じなのは、言論の自由が導入されると、その時からエントロピー増大のプロセスが始まるということだ。政治制度がどのようなものであれ、その指導者──どれほど良識のある指導者でも──はいずれ、「今の言論の自由はさすがに行き過ぎだ」と言い始める。(……)言論の自由のエントロピー増大の法則は、二五〇〇年前と同じように現代にも生きている。認めたがらない人は多いかもしれないが、注意して見てみると、二一世紀においても大昔と同じように、何かと理由をつけて言論を制限しようとする動きは非常にありふれているとわかる。(p8-9)

とにかくおもしろいし、参考になる本だった。気になる人は、「はじめに」と現代について語った最終章の「インターネットと言論の自由の未来」だけでも読むべきだ。

最初期の言論の自由

さて、ひとまず「最初の言論の自由についての議論」の事例を紹介していこう。民主主義や言論の自由の価値がはっきり認められているのは、紀元前5世紀、アテナイでのことである。アテナイは直接民主政で、市民たちが自ら提案し、議論をしていた。そうした統治体制が機能するためには、言論の自由は何よりも重要なものだった。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、アテナイが強い都市国家となったのは、市民が言論の自由を得てからだったと語る。アリストテレスやプラトンのような人物がアテナイで教育をし、文章を書き、アカデミーを設立することまでできたのは、アテナイが異なる政体の樹立を提唱することすら許す、言論の自由のある場所だったからだ。

アテナイ人は自由な思索ができたことで、科学や医学を大きく進歩させることができた。厳しい政治的、宗教的検閲があるような政体の下では同じような進歩はとても不可能だっただろう(p25)

とはいえ、アテナイでの言論の自由の黄金期はそう長く続かない。権力に飢えた政治家たちに自由、平等な言論が悪用される。野心家が民会を扇動し、シチリア遠征を開始することを議決したことで、アテナイの陸海軍がほぼ壊滅してしまう。このようなことが起こると、貧しく無知な者たちが、裕福で学のある者たちと同様の発言権を持っている状態で、どうして帝国を維持できるかと考えるエリートたちも増えてくる。

その後アテナイは寡頭体制と民主主義体制の間を行ったり戻ったりするが、共通しているのは「クーデーターなどで寡頭体制に移ると、専制と抑圧によって真っ先に言論の自由が犠牲になる」こと。そして、仮に民主政に移行できたとしても、その体制が不安定なままであれば、寡頭政と同じぐらい(言論の自由にたいして)抑圧的になることの二つだ。後者は、民主政を守るために扇動者らを取り締まろうという動きが活発になるからだ。そのため、『言論の自由を守るためには、民衆の恐怖や熱情を和らげられるような抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)が必要になる。』

グーテンベルクの革命と言論の自由

その後言論の自由は長い停滞期に入るが、(言論の自由をめぐる)状況が起きるのは15世紀〜17世紀にかけてだ。1450年にはグーテンベルクによる活版印刷技術の発明が起こって出版点数が大幅増加。それに伴ってヘイトスピーチ、宗教的・政治的扇動、プロパガンダ、猥褻な図画などありとあらゆる本が刊行されるようになり、教会や権力者たちは即座に言論の自由の規制へと動くことになる。

宗教・権力をめぐる混乱が収まりつつある17世紀に至ると、書物はイノベーションを加速させ、芸術、科学、学問などあらゆる分野を発展させたが、それに伴って言論の自由を推進する人々もぽつぽつと現れ始める。特に各地域の政体の力が強く分権的だったオランダでは書物の検閲などで足並みを揃えることが難しかったことから比較的言論の自由が保証されていた地域であり、学問が大いに栄えた。

検閲はあらゆる学問の停滞につながり、真実の拡散を止めると訴えた詩人、ジョン・ミルトン。言論の自由は、自由の偉大なる防塁である。両者は同時に栄え、同時に死ぬ。と書いたゴードン。市民的自由の命、強さは、立憲政治と書き言葉の無制限の自由の中にあると書いた哲学者のペテル・フォルスコールなど、様々な人がこの時代に言論の自由を語り、少しずつその重要性が根付いてきた。1760年代にはスウェーデンで「出版自由法」が可決し、スウェーデンの一人あたりの書物の年間消費量は18世紀後半には前半の倍以上に増えた。これは、言論の自由のパワーといえるだろう。

インターネットの時代

そこから時は流れてインターネットの時代。誰もが自由に発言できるようになったのだから、言論の自由は揺るぎないものになったのではないかと思うかもしれないが、そうとはいいきれない。それは先の事例をみれば明らかだろう。

新しい技術によって自分の意見を表明できるようになると、それは最初大いに歓迎される。しかし、すぐに誰かが「これは行き過ぎだ」といって、制限を加えはじめる。その例は現代でいくらでも見つけることができる。たとえばドイツはナチスへの恐怖があるから、独裁の復活を防ぐべく、極端な意見を封じ込めようとする傾向が強い。2017年には大規模なSNSプラットフォームに、明らかに違法なコンテンツを24時間以内に削除することを義務づける「ネットワーク執行法」が制定されている。

フェイスブックやツイッターはアルゴリズムによるコンテンツモデレーションを行っているし*1、それはグローバルサービスが避けては通れない国家権力の圧力を受けてのものだ。*2

当然、そうした規制も無根拠なものではない。人種差別、扇動にプロパガンダ、あらゆる表現が世に溢れる。2018年のMITの調査によると、虚偽のニュースは正しいニュースよりも70%もリツイートされやすいという。ソーシャルメディアにおいては、虚偽やネガティブ、誇張され、感情をかきたてられる特徴を持つコンテンツは速く、広く拡散されるが、事実に即した話、理路整然とした話は拡散されない。

では、どうすべきなのか? 著者は、SNS上でのヘイトスピーチは想像以上に少なく(全体の0.1%から0.3%)、言論の抑制はヘイトスピーチを減らすよりもむしろ増幅する効果をもたらし得るとフェイクニュースも含めいくつかの研究を引きながら書いているが、ヘイトスピーチやフェイクニュースの反乱にたいしてどのように対抗していくべきかについては、より広範な研究が求められる部分だろう。

言論の自由に負の側面があることは間違いないが、同時にそれがどれほどの発展を促し、言論以外の自由の防塁として機能してしてきたのかを思えば、言論の自由を死守する意義が、本書を読めばよくわかるはずだ。

おわりに

歴史的にみて言論の自由は何度も前進と後退を繰り返してきたし、それはこれからも変わらない。ウェブはまだ普及して30年あまり。言論の自由についての混乱はまだまだ続く。ある意味では激動の、おもしろい時代といえるのかもしれない。

現代を理解するための、重要な一冊だ。

*1:フェイスブックの2020年のデータによると、「ヘイトスピーチ」が見つかったとされたケースの約10%で処理にミスが起きているという。

*2:ツイッターは「言論の自由党の言論の自由派所属」を自称していたが、もうそんあことはいえないだろう。2017年にイギリス議会の公聴会に赴いたツイッターのマネージャーは、敵意に満ちた議員の前にたち、「ジョン・スチュアート・ミル流の哲学」を捨て去ると宣言せざるを得なかったという

入り組んだイスラエルの歴史、その問題を、解きほぐすように解説していくノンフィクション──『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』

2023年の10月7日に勃発した、イスラム組織ハマスによるイスラエルへの大規模攻撃。本件については今なお目まぐるしく状況が動いていて日々ニュースが絶えないが、その背景には複雑な歴史や思想があって素人が理解するのは容易ではない。Web記事なども多数読んだが、まとまった情報がほしい時はやはり書籍に限る。

いくつか読んだが、中でもイスラエルの民主主義を達成させるためのNGO、「新イスラエル基金」のCEOの著者ダニエル・ソカッチによる『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』は今年(2023年)の2月に刊行されたばかりのノンフィクションで、現在の事態をフラットに、かといって事実を列挙するだけではない形でイスラエルーパレスチナ間の問題を説明していて、特におすすめの一冊だったので紹介したい。

著者は本書を、ある特定の観点──歴史家のペニー・モリスが「正義の犠牲者」と名付けた者同士の闘争──から記述を進めていくと語る。パレスチナとイスラエルの両者はどちらも土地にたいする正当なつながりと権利を有していて、両者ともに外部の世界の「犠牲」になってきた二つの民族であるという前提を置いて語っていくのだ。

それは土地をめぐる紛争であり、記憶と正統性をめぐる紛争でもある。生存権をめぐる紛争であり、自己決定権をめぐる紛争でもある。生き延びることに関する紛争であり、正義に関する紛争でもある。それは、その信奉者が完全に「正しい」と見なす相容れない語りをめぐる紛争である。これらの語りは、実体験のみならず、物語や宗教的伝統、家族やメディア消費や政治的信念によって──また故意かどうかは別にして、さまざまな程度の無知によって──支えられている。イスラエル人とパレスチナ人の紛争を解決することの最大の障害は、政治的想像力の欠如ではなく、政治的意志の欠如だと思う。

本書は二部構成になっていて、第一部ではイスラエルとパレスチナが現状に至った歴史的な経緯を語り、続く第二部では「イスラエルについて話すのがこれほど難しいのはなぜか?」と題して、イスラエル周りの諸問題がなぜこんなに複雑なことになっているかの、その理由がいくつかの観点から語られる。著者はアメリカのリベラルなユダヤ人コミュニティの出身者で完全に中立の立場ではないが、その記述には(素人の僕からみてだけど)それなりに客観性があるように思う。イスラエルは正しい、あるいは間違っている、どちらの立場にも立たず、「グレーである」としてすべては進む。

何が起こったのか?──聖書や歴史的正当性についての話

イスラエルの概念上のはじまりはヘブライ語聖書にある。神はアブラハムに「わたしが示す地に行きなさい」というが、それが約束の地カナンであり、のちにイスラエルとして知られるようになる土地である。ヘブライ語聖書はユダヤ人とユダヤ教の起源を示す物語であり、ここでユダヤ人とイスラエルのつながりが生まれた。

さて、そんな聖地というなら最初からそこで国を作ればいいじゃないかと思うところだが、実際ユダヤ教を信じる者たちの王国は現在のイスラエルとヨルダン川西岸にあたる地域で盛衰を繰り返していた。だが、紀元前63年にはローマ帝国に属国とされ、紀元70年にはユダヤ人の反乱が失敗して帝国によりエルサレムが破壊される。そこからしばらく後、ローマ帝国はユダヤ人の独立意識を押しつぶそうと多くのユダヤ人をその地から追放。彼らが帰還できるのは、そこからほぼ2000年後のことになる。

後に続く論争で難しいのは聖書の記述や歴史的経緯が曖昧なことも関係している。散り散りとなったユダヤ人は移住先で差別や迫害にあい、特に19世紀頃からはイスラエルの地に戻ることを渇望しはじめるわけだが、その土地にはアラブ人、今で言うパレスチナ人が住んでいるわけだ。そして、一説によれば現代のパレスチナ人は聖書時代のカナン人やペリシテ人の直径の子孫とされ、そうなればパレスチナ人はユダヤ人より長くその地に住んでいることになり、歴史的正当性を持っていることになる。

聖書によればユダヤ人はカナン人を侵略して征服したとされているから、パレスチナ人の方が歴史的には古くなる。しかしパレスチナの信奉者側にもこの自分たちに都合の良さそうな説を否定するものもいる。それは、これを認めるとユダヤ人が聖書の時代からこの地と関わりを持っていることも認めることになるからで──と、歴史的正当性をめぐる議論ひとつとっても意見が入り乱れ決着がついていない状況である。

何が起こったのか?──イスラエル建国とアラブ人の怒り

で、その後イギリスの三枚舌外交(アラブ人にはアラブの独立を支援するといい、ユダヤ人にはユダヤ人の民族的強度を建設する目的の達成を促すべく最大の努力を払うといい、都合の良いことをいって支援を要請した)による状況の混乱があった後、第二次世界大戦とホロコーストが発生する。ヨーロッパのユダヤ人がほぼ全滅したことが明らかになると世界の同情はユダヤ人の生存者に向けられ、シオニスト(ユダヤ人の祖国を再建することを目指す人達)の計画を世界規模で支持する機運が高まった。

結果として国連の初期の仕事としてパレスチナの地をユダヤ人とアラブ人の二国に分割する決議が採択されるのだが、これはそこにもとから住んでいたアラブ人からすれば受け入れがたい話だった。イスラエルが建国される前年の1947年、パレスチナの人口は約180万人で、3分の1がユダヤ人、3分の2がアラブ人だった。アラブ人は自分たちが住んでいた土地なのに、なぜ半々で分け合わねばならぬのか? と反発する。

イスラエルの建国後すぐに周辺のアラブ諸国がイスラエルに攻め込み、国連の分割案が実行される前に、第一次中東戦争が始まることになる。当時、その不合理性(アラブ人から土地を奪う)をイスラエル側の一部の人達もちゃんと認識していた。イスラエル建国の父であるダヴィド・ベン=グリオンは、かつてこう語っている。

「たしかに、神はわれわれにその地を約束してくれたが、彼らにしてみればそれが何だというのだろう? 反ユダヤ主義、ナチス、ヒトラー、アウシュヴィッツなどが現れたが、それは彼らのせいだったのだろうか? 彼らが目にしているのはただ一つ。われわれがこの地にやってきて、彼らの国を奪ったということだ」。

何が起こったのか?──イスラエルのナショナル・アイデンティティ

第一次中東戦争が休戦しても火種は消えていないのでその後何度も戦争が起こる。

その中から一つ重大な転換点をあげるなら、1967年6月に起こった、イスラエル側の奇襲によるたった6日間でエジプトのシナイ半島、ガザ地区、ゴラン高原、ヨルダン川西岸、エルサレムなどこれまで認められてきた以上の土地を支配することになった第三次中東戦争/六日間戦争になるだろう。常に消滅の恐怖と戦ってきたイスラエル人からすればこの第三次中東戦争で危機が転じて大きな領土を得たので歓喜の瞬間、そして勝利といえるのだが、喜ばしいことばかりでもない。

戦争に勝利し新しい土地を手に入れたとして、そこを占領したままでいると、イスラエルのナショナル・アイデンティティを捨てることになると忠告したものがいたのだ。それは先にも名前をあげたベン=グリオンその人である。どういうことか。

彼によれば、まずイスラエルはユダヤ人が多数を占める国家である。次に、イスラエルは民主主義国家である。最後に、イスラエルはこの新しい占領地をすべて保有する。イスラエルはこのうち二つを選ぶことはできるが、三つ全部選ぶことはできない。なぜならイスラエルが占領地を併合したら、大量のパレスチナ人も同時に併合されるのでユダヤ人の多数派という地位は脅かされる。また、イスラエルが占領地を統合し、パレスチナ人に市民権を与えなければ、民主主義国家ではなくなってしまう。

『ベン=グリオンに言わせれば、唯一にして第三の選択肢は、民主主義国家でありユダヤ人国家であり続けることだ。そのための唯一の方法が、占領地を手放すことだった。』今読んでも卓見に思えるが、勝利に沸く1967年のイスラエルで、御老体呼ばわりされていたベン=グリオンの言葉に耳を貸すものはおらず、その数カ月後には占領したヨルダン西海岸に最初の入植地が建設されている。もちろん国際社会はそれを許さなかったが、イスラエルもそう簡単には占領地を手放さない──。

何が起こったのか?──和平

そうして、今に続く終わりなき戦争状態が継続するわけだが、一時期和平が成立しそうになったこともあった。たとえばイスラエルのラビン首相はヨルダンおよびエジプトと和平を結び、パレスチナとの和平の調整も進行中だった(1994年頃)。

しかし、和平に合意されてしまうと困る人たちも大勢いたのだ。イスラエルのリクードの保守派指導者たちは占領地のどの部分からの撤退にも反対し、パレスチナの強行派は逆にパレスチナ側の譲歩に反対した。『双方の過激主義者は、いずれもこの紛争を、解決できないだけでなく解決すべきでないゼロサムゲームと見ていた。勝負がつくまで続けるべき闘いであり、いずれの側も勝利を確信していた。』

結局、ラビン首相はパレスチナ人に対するいかなる譲歩にも反対だった右翼の過激主義者の銃撃を受け暗殺され、成立するかにみえた和平も頓挫することになる。

おわりに

これはイスラエルの短いようで長い歴史のほんの一部で、本書では他にもイスラエル内部に存在する対立(ユダヤ人同士の出自の違いによる対立もあるし、イスラエルでのアラブ人に対する苛烈な差別もある)や、アメリカのユダヤ人コミュニティがイスラエルについてどのように考えているのかについてなど、幅広く語られている。

入り組んではいるが、順々におっていけば理解するのはそう難しい話ではない。現在の状況を知ったうえで本書を読むともはや和平など無理なのではないかと思ってしまいそうだが、今なお和平を望む人々の声と活動も本書の最後では取り上げられている。たとえどんな状況になっても、ベン=グリオンやラビンのように和平への意志を示す人はいる。あとはそれをどう実現するのかだが──。

既存の「わかりやすい」人類史を現代の知識・研究でとらえなおす、『ブルシット・ジョブ』著者の遺作となった大作ノンフィクション──『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』

この『万物の黎明』は、世の中にはやってもやらなくてもいいようなクソどうでもいい仕事で溢れているのではないかと論を展開した『ブルシット・ジョブ』で知られるデヴィッド・グレーバーの最新作にして、遺作となった大作ノンフィクションである(単著ではなく、考古学の専門家デヴィッド・ウェングロウとの共著)。今回テーマになっているのは、サブタイトルに入っているように、「人類史」だ。

多くの(特に売れている)人類史本には、環境要因に注目したジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』や「虚構」をテーマにしたユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』のように「わかりやすい切り口」が存在するものだが、本書(『万物の黎明』)の特徴の一つは、数多語られてきた「わかりやすい切り口」の「ビッグ・ヒストリー」を批判し、「複雑な人類史を複雑なままに」とらえようとしている点にある。

たとえば、これまで「わかりやすい物語」として、人類はある時期を境にして狩猟採集生活から農耕を主とした定住生活へと移行し、人口が増え、国家や都市が生まれ、法律や軍隊も生まれて不自由や不平等が生まれていった──とするスケール発展の歴史があった。しかし、実際の歴史や考古学的証拠を追うと、人類の発展はそうシンプルなものではない。たとえば、いわゆる狩猟採集民は穀物や野菜の栽培や収穫の方法を理解しながらも農耕に完全にシフトせず、数千年にわたって農耕や家畜化と狩猟採集生活を共存させてきたし、社会の形態も必要に応じて様々に対応してきた。

本書は数多のビッグ・ヒストリーへの批判や、「あったこと」ではなく、「なかったこと」を中心に展開するので、どうしても記述はわかりにくくなる。どういうことかといえば、都市生活や奴隷制度や農耕が、ある時代の社会に「なかった」のはなぜなのかと問うていくのである。それはただ「(発明前だから)なかった」のではなく、「拒絶した」から存在しなかった場合もあり、そこには重要な視点がある。

ある時代や場所で都市生活や奴隷制が拒絶されたことを、別の時代や場所で都市生活や奴隷制が出現したのと同等に重要なこととして扱うとどうなるだろうか? その過程で、しばしばわたしたちは驚嘆することになった。たとえば、わたしたちのどちらも想像もしていなかったのだが、奴隷制度は歴史上複数の場所で何度も廃絶されている可能性が高い。

われわれは現代社会に「国家」や「法律」や「戦争」や「賃労働」があることを当たり前のものとして捉えているが、歴史的にみれば、人数が多くかつそれらがなくても成立している社会はたくさんあったようなのだ。時に、一万人規模の都市住民らが、大規模な集会もトップダウンの組織もなく相互扶助的に暮らす場所もあった。

かつての人類が「法律」や「戦争」や「賃労働」なしに大規模な集落生活を実現できていたのなら、今のわれわれができないのはなぜなのだろう。人類の歴史を再検討していくことで、そうした「ありえたかもしれない可能性」を考えることに繋がる。

本書の記述は先に書いたような理由も相まって、文脈が入り組んでいてわかりづらい。ページ数も引用・索引込とはいえ700ページを超えており、全部を読み通すのは骨が折れたが、読み終えてみればそれだけの価値がしっかりとある本であった。

なぜわれわれは閉塞してしまったのか?

全体を要約するのは不可能なので、特に印象的なトピックに絞って紹介していこうと思うが、そのひとつは「なぜわれわれは閉塞してしまったのか?」という問いかけだ。閉塞? どういうこと? と思うかもしれないが、われわれは基本的に特定の国家に国民として所属し、一年を通して国家の政治の支配を受け続ける。季節ごとにルールが変わったり、きまぐれで抜けたりといったことは、基本はできないわけだ。

しかし、人類史を振り返ってみると、長い期間にわたって人類社会と組織の在り方は柔軟に変化してきたことがわかっている。たとえば、レヴィ=ストロースはかつてアマゾン奥地住む狩猟採集を生業とするナンビクワラ族について書いている。これはおもしろい集団で、一年のうち雨季には数百人からなる丘の上に住み、園耕を行って過ごす。それ以外の季節では、狩猟採集の小バンドに分かれて生活するのだ。

つまり、季節ごとに形態を大きく切り替える人々なのだ。狩猟採集を行う乾季には命令をくだし、危機を解決する「首長」をたてる。乾季のあいだ首長は権威主義的態度で他人にたいしてふるまうが、雨季は何も押し付けることなく、調停者や外交官的に過ごす。人間社会は「バンド」から「部族」、「首長制」から「国家」と、規模はだんだんと大きくなる(それにつれてシステムも複雑になる)と長らく思われていたが、ナンビクワラ族はそのあいだを毎年往復しながら過ごしているのである。

それってナンビクワラが特殊なだけなんじゃないの? と思うかもしれないが、世界最古の聖地と呼ばれるギョベクリ・テペなどモニュメンタルな建造物の在る氷河期の遺跡のほとんどすべてが、ある時期は狩猟採集バンドに分散し、ある時期は集落に集う、ナンビクワラと似通った生活をしていた社会によって形成されていたことが近年わかってきている。たとえばギョベクリ・テペの神殿周辺での活動は、ガゼルの群れが降りてくる夏から秋にかけての豊作の時期に対応していて、その時期に大量の木のみや野生の雑穀を加工して食材としながら神殿の建設作業を進めていたようなのだ。

われわれがかつては柔軟に組織形態を変えて、首長の権限・立場すらも動的に変えることができていたのなら、なぜわれわれの社会はその柔軟性を失って、特定の個人や集団が何十年にもわたって他の人々を支配するような状態になってしまうのだろう──というのが、本書で問いかけられている大きな問いかけのひとつなのだ。

わたしたちは、なぜ、地位や従属を、いっときの便宜的手段とか、威風堂々たる季節的演劇としてではなく、人間の条件の不可避の要素として扱うようになったのだろうか?

都市の問題

そうはいっても数百人レベルの話だから成立するのであって、数万とかいったレベルでは定住が必要・柔軟な変化も困難になり国家が必要になるって話でしょ? と思うかもしれない。実際歴史的にみるとその流れがあるので必然に思えてしまうのだが、細かく事例・都市をみていくと、かつて存在していた多様な中身がみえてくる。

本書ではいくつも古代都市の検証が行われていく。たとえばウクライナとその周辺地域のメガサイト(古代遺跡)には紀元前4100年から前3300年頃にわたって人が住んでいた。一つのメガサイトは数千から1万の人口がいて、メガサイト同士は8-10km程度しか離れていなかった。それだけ近ければ同じエリアからの資源の調達が必要になるはずだが、周辺環境にかかっていた負荷はおどろくほど軽微であったという。

そこから導き出される仮説として、メガサイトは都市スケールに拡大した一時的な集合地で、一シーズンのみ使われていたとする説や、特定の季節に限定せず、住んだり住まなかったりする「中間滞在地」として使っていた説がある。ようはずっといたわけではないのではないか、という話だ。住民は狩猟採集に小規模な栽培と牧畜とを組み合わせ、持続可能性のある生活を営んでいた。また、8世紀にわたって、ここでは戦争や社会的エリートの台頭を示す証拠もほとんどみつかっていない。

この時代には文字記録がないから具体的に彼らがその生活をどのように運用していたのかはわからないが、考古学的な証拠などを用いて推測するに、生活・物流上の課題を、集権的な統制や管理、トップダウンからの指示や共同体の集会を必要とせず、相互扶助システムによって解決していたようだ。『このようなシステムが小規模でしか機能しないと考える理由はない。』本書ではこうした例を無数にひいて、人口のスケールに伴って支配的構造は必然的に現れるという発想を、明確に否定している。

おわりに

メガサイトの具体的な相互扶助システムの仕組みについてや、なぜそんな素晴らしい都市が捨てられたのかは、読んで確かめてもらう他ない。そして、この記事で紹介できたのは本書の膨大な情報量の2%程度に過ぎない。メガサイトの他にもいくつもの都市が検証されていくし、ことは都市で終わる話でもないのである。

本書がそうやって膨大な物量をかけて過去を点検しながら問いかけていくのは、「もっと人間は自由でいられるのではないか」というものだ。あまりに壮大な問いなので最初は面食らうのだが、読み通してみればその可能性を知ることになるだろう。

現在に至る種を広範囲にわたってまきつづけてきた悪魔的な天才──『未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン』

この『未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン』はその名の通りフォン・ノイマンの伝記である。1903年生まれの1957年没。数学からはじまって、物理学、計算機科学、ゲーム理論など幅広い分野で革新的な成果をあげ、史上最高の天才など、彼を称える言葉に際限はない。彼と同時代を生きた人物に、クルト・ゲーデルやアルベルト・アインシュタインなどそうそうたる人物が揃っているが、三人すべてを知る人物も、フォン・ノイマンが飛び抜けて鋭い知性の持ち主だと思っていたと語る。

実際、それが誇張表現ではないぐらい彼が一人で成し遂げたことは凄まじかった。その天才性は幼少期から発揮されていて、古代ギリシャ語やラテン語をマスターし、母語のハンガリー語だけでなくフランス語、ドイツ語、英語も話した。45巻の世界史全集を読んで、それから何十年も経った後でも第一章の内容をそらんじることができたという。晩年に至ってもその能力は衰えない。『フォーチュン』誌の1955年6月号に掲載された「我々はテクノロジーを生き延びられるか?」と題されたエッセイでは、遠隔通信の発展による紛争のエスカレートと共に、石炭や石油を燃やすことによる二酸化炭素の排出がこの惑星を温暖化させることへの危惧も語られている。

彼は気候変動への危惧をのべるにとどまらず、表面の塗装によって太陽光の反射量をおさえ、地球を意図的に暖めたり冷やしたりする発想──今で言うところのジオエンジニアリング──を語っている。しかも、そうした高度な気候制御は、想像だにされたことのない気候戦争の各種形態に適しているとまで指摘しているのだ。

コンピュータへの貢献、ゲーム理論やセル・オートマトン理論の想像など、何が必要なのかを把握し、未来からやってきとしかいいようがないぐらい、現代に必要な技術や概念をもたらした男なのである。それはもちろん原子爆弾のような破滅的な産物ももたらしたわけだが、それも含めてわれわれの生活の至るところに彼の痕跡が残されているからこそ、死後70年近くが経つ今でも彼のことを知る意義は大きい。

今や科学者、発明家、知識人、政治家に取り入れられてきた彼の見方や発想の影響は、人類という種は何者なのかについての私たちの考え方に、私たちの社会的および経済的な相互交流に、さらには、私たちを想像を超えた高みへと引き上げる可能性もすっかり破滅へと導く可能性もある機械にまで及んでいる。身の回りに目を向ければ、ジョニーの指紋が至るところに付いていることがわかるはずだ。

フォン・ノイマンが成し遂げてきたこと。

彼の成し遂げてきたことの要約をすると、最初の業績は量子力学の数学的な土台の構築に貢献したことだ。それが22歳の時。その後、1930年にアメリカに移住し、いずれ戦争が起こると予測していた彼はその時に備えて弾道や爆発の数学を研究。その功績もあって後に原子爆弾開発・製造のためのマンハッタン計画にもオッペンハイマーからじきじきに請われて参加し、ここでも当然目覚ましい成果をあげている。

たとえば、ロスアラモスで原子爆弾の開発に携わった科学者が大勢いるなか、「リトルボーイ」を上回る威力の「ファットマン」がプルトニウムコアの圧縮によって起爆するよう爆薬の配置を定めたのはフォン・ノイマンだった。

計画に加わったのと同年に、経済学者のモルゲンシュテルンとともにゲーム理論に関する研究も行っている。ゲーム理論は囚人のジレンマやナッシュ均衡とともに今では経済学の分野で名前をきくことが多いが、応用範囲は政治学、心理学、進化生物学(まだまだあるが)と広い。たとえば動物の利他的な行動が起こり得る理由についての研究もゲーム理論を軸に発展してきた面があるなど、今もなお「対立と協調」を数学的に考えるにあたって重要な概念である。これでも彼の業績は終わらない。

設計に携わった原爆が広島と長崎に投下された後、フォン・ノイマンは電子計算機の開発に向かうことになる。爆弾から計算機への転身は領域としてかけ離れているようにも見えるが、無関係ではない。フォン・ノイマンは30年代から計算処理に関する関心を抱いていたが、それは弾道計算や爆発のモデル化に必要となる計算量が膨らんでおり、当時の卓上計算機の力が及ばなくなるとすでに見込んでいたからだ。

フォン・ノイマンはプログラム内蔵型コンピューターの構成をはじめて記述するが、その構成には5つの「器官」が存在する。加算や乗算などの演算を行う「中央演算」装置、命令が適切な順序で実行されるように制御する「中央制御」装置、コンピューターのコードと数値を格納する「記憶」装置。残りの二つは「入力」と「出力」装置だ。彼が作ったフォン・ノイマン型アーキテクチャは今なおコンピュータ(スマホもノート/デスクトップPCも)の基本的な構成法の一つであり続けている。

また、単にコンピュータを作るにとどまらず、情報処理機械が特定の条件下で増殖、進化できることも1948年の講演で示し、こちらはオートマトン理論として結実していく。これも実はコンピュータと関連している。優れた性能を発揮する人間の脳は自分を勝手に作り上げる。だから、自己増殖する機械の仕組み、アルゴリズムを考えることは、彼にとっては脳のようなコンピュータを作ることに繋がっていた。

その後、脳とコンピューターとのあいだに見られる仕組みの類似点に関する彼の思索が、人工知能の誕生に一役買って、神経科学の発展に影響を及ぼした。

フォン・ノイマンの実績の多くはすぐに実用化や役に立てられてきたが、この分野で彼が成し遂げたことの真価が発揮されるのは、さらに未来になるだろう。たとえば、自己複製を繰り返し指数関数的にその数を増しながら宇宙を探索する探査機を考案したのも、この男なのだ。

フォン・ノイマンの最後

どんな天才であっても病には勝てない。彼は1955年に骨肉腫を発症し、そのままあれよあれよというまに転移は進む。娘のマリーナが死に向かう父にたいして、「何百万人という人を死に追いやることについては平然とじっくり考えていられる」のに、「自分が死ぬことになるとだめなのね」と問いかけたが、これにたいしてフォン・ノイマンは、「それとこれとは全然違う」とシンプルに答えている。

ノイマンは日本人の戦争意欲を完全に喪失させるためには、歴史的文化的価値が高い京都に原子爆弾を投下すべきだと主張するなど、目的を達成するための合理的思考がいきすぎた人物でもあった。本書には彼の善性についても触れられているが、悪魔か天使かといった、どちらか一側面だけの人間でないのは間違いない。

このふたつは水面下で戦っていた。フォン・ノイマンは性善説の勝利を望み、できるだけ寛大かつ高潔であろうとした。だが、経験と理性は人間の善意を信じすぎるなと彼に教えていた。

そうした、天才の複雑性が、本書にはしっかりと描き出されている。

最後にがんは脳に転移し、知力は徐々に落ち、7+4のような単純な計算問題も解くのが難しい状態だったという。誰よりも頭の回転が早かった男は、その頭が働かなくなっていった時に何を考えたのだろう。

索引の歴史は、時間と知識についての物語である──『索引 ~の歴史 書物史を変えた大発明』

主に重要な単語や人名が何ページに出てくるかを示すために巻末についている「索引」。索引はノンフィクションについていることが多いが、これに注意を払う人はあまり多くないだろう。調べ物でもなくただそのノンフィクションを頭から尻尾まで楽しみたい人にはそこまで必要なものとはいえない。実際、僕も読まない方が多い。

しかし何か具体的な目的を持ってある本を読んだり、読み返したりする人にとってはとても重要な存在である。えーとこの本のフロイトについて言及してる箇所が知りたかったんだけどどこだったっけな……という時に、電子書籍なら検索で一覧が表示されるが紙の場合は索引がなければ最初から読み返す必要があるからだ。

本書『索引 ~の歴史 書物史を変えた大発明』は、そんな索引の歴史について書かれた一冊である。僕が日頃読むノンフィクションには日常のように索引がついているので、あまりそのありがたみを感じたり存在自体を意識することもなかったが、いうまでもなく索引も書物、読書の歴史の最初から存在していたわけではない。むしろその登場は書物の歴史の後期にあたり、索引をめぐっての様々なドラマや野望も、歴史には存在していたのだ。そして索引は永久不滅の存在ではなく、その時代ごとによって立ち位置を変えてきた。紙の本から電子書籍への変化、そして今ではAIだ。

索引なんてものがついていたらみんな抽出して読みたいところだけ読んで、じっくりと本と向き合う人や自分自身で体験を求めに行く人なんていなくなってしまうのではないか、誰もが手軽に情報を手に入れられたら、本なんか読まないし書かないだろうという、今では信じられないような議論だって巻き起こった。

 索引の歴史は、じつは時間と知識についての物語であり、この両者の関係を語るものである。情報にすばやくアクセスする必要性が高まるにつれ、本の内容が分割可能で非連続、抽出可能な知識の単位で構成されることが望まれるようになってきた。これは情報科学という分野の問題であり、索引は、この分野の基礎をなす構成要素なのだ。(p10)

いってみればGoogleが検索エンジンでやっていることも「知の索引」である。Googleが検索エンジンを作るずっと前に、知の総合索引を作るぞと冒険に繰り出した人々もいて──と、地味な歴史かと思いきや意外なほどドラマに富んでいる。誰が読んでもおもしろい本ではないが、読書好き、特にノンフィクション好きにはたまらない一冊だ。これを読めばこれから先の本の索引に注意を向けずにはいられない。

索引の定義

最初に索引の定義について確認しておこう。一般的に索引とは、一冊の本を登場人物、主題、個々の単語などに細分化し、アルファベット順(日本語ならあいうえお順)に並び替えたものである。これはどこを探せばよいのかを教えてくれる時短のためのシステムとして考案された。そして、索引は中でも大きく二つに分けられる。

用語索引(フロイト、のように人名や単語の出現箇所を機械的にピックアップしたもの)と、主題索引(作品中の主題を見出し、語として抽出する)の二つだ。用語索引の方はある程度機械的に対応できるのにたいして、主題索引は対象の本の読解・解釈能力や、取捨選択において個人差が出る。主題索引の作製は人間の個性が発揮される場だ。奇遇──というよりも必然的に、この両者は1230年頃に生まれている。

索引の誕生

索引について考えたときに必須に思えるのは、アルファベット順(とかあいうえお順とか)に並んでいること、また見出しになっている単語の位置情報が付随する点にある。「どこにその単語が出てくるよ」という位置情報がなければ意味がない。

つまり石板や粘土板や巻物に文字を書き連ねていた時代には索引(の萌芽があったとしても)それ自体は生まれようがなかった。で、それが生まれる土壌が整ったのが、1200年代初頭だったいえる。12世紀ヨーロッパには多くの人が都市に流れ込んで異端宗派の影響もあって、教会は説教に力を入れていた。その過程で托鉢修道会が生まれ、彼らは人々の中に混じり、ラテン語ではなく民衆が使う言語で広く説教をした。

当時人々に効率よく情報を伝える必要性が高まったわけだが、そうなると必然的に、聖書という原典を素早く・的確に整理・参照できる能力が必要とされた。そこでいきなり索引が生まれたわけではなく、最初は章・節分けなどがなされるわけだが、その流れで索引が生まれたのだ。たとえば、主題索引はロバート・グロステストが編纂した『語義識別目録集』が最初のものとされている。これは彼がこれまでに読破した大量の本についての主題索引で、「神」や「永遠不滅」「想像力」「真実」など、主題ごとに広範な情報とそれがどこにあるのかの位置がまとめられている。

聖書や教父の著作、古代哲学、さらにはアビケンナやザーリーのようなイスラム思想家も網羅する包括的な『目録』は、一三世紀の検索エンジンにして羊皮紙上のグーグルであり、主題を取り込み、。知られているあらゆる文献に向かって光を発散させるようなレンズなのである。(p90)

もう一方の用語索引も同時期に生まれた。こちらを作ったのはヒューという修道院長で、修道会士たちを使ってその作業にあたった。そこで作られた用語索引はラテン語聖書についての単語ベースの索引で、一万語以上がアルファベット順に並んでいる。ただし、現在のものと違うのはページがないことだ。そのため、章分けされた聖書の章をさらに七等分し、索引では大まかな場所を章とその7つのうちから示している。

ページの発明

今では索引にはページがあるのが当たり前だからページがない索引が当然だった時代があると言われると驚くが、1200年代初頭は印刷術は発明されておらず、まだ人が手で書き写していた時代である。そうするとどこで・だれによって書き写されたかによってページも変わってきて、その偶発的な一冊だけにページを振っても意味がない。

しかし印刷の大量生産が可能になると、どの一冊一冊にもまったく同じ文章・同じレイアウトが適用された画一性が生まれ、誰もが共有できる”ページ番号”が割り振れるようになる。言われてみれば当然だが、大印刷時代がこないとページが普及するはずがないのだ。以降500年のあいだにこの「ページ」は本の索引において普遍的な参照単位になり、ページが普及するにつれて索引もまた広がっていく──だが、電子書籍の時代でそれもまた変質することになる。

どういうことかといえば、電子書籍では画面上の文章は余白を広げたり文字の大きさを拡大・縮小できるリフロー可能なものだから(リフロー型じゃないのもあるけどそっちは実質本なので割愛)、索引やページの概念はここでは紙とは大きく異なっているのだ。その意味や意義についても語りたいところだが、もうけっこう紹介してきたのでここらで終わりにしておこう。なかなかおもしろい議論が展開している。

おわりに

他にも、現代でめったにフィクションに索引がないのはなぜなのか(失敗の歴史があるからだが、どのように失敗してきたのか)や、最初に少し触れた知の総合索引を作るぞと冒険に繰り出した人々の話など、魅力的なエピソードが満載なので、本記事を読んでおもしろかった人は手にとって観てね。当然本書の索引は、日本語版索引、索引家による索引、コンピュータによる索引と3つもあって、力作であった。

六隻の海賊船をたばね、世界最大級の船を襲った男の逸話──『世界を変えた「海賊」の物語 海賊王ヘンリー・エヴリ―とグローバル資本主義の誕生』

歴史上の海賊と聞いて多くの人が思い浮かべるのはおそらくフランシス・ドレークとか、黒ひげの名で知られるエドワード・ティーチとかだと思うが、彼らとほぼ同時代の海賊に、知名度は劣るもののヘンリー・エヴリーという英国の大海賊がいた。

本書『世界を変えた「海賊」の物語』はこの人物が何をやったのか、そして、彼の行いがどのように世界を変えたのかをつづる海賊ノンフィクションである。海賊を扱ったノンフィクションには『海賊の経済学』や『海賊と資本主義 国家の周縁から絶えず世界を刷新してきたものたち』といっためちゃおもしろい本が揃っていて、個人的に海賊本にハズレ無し説を提唱しているのだが、本書もまたその例に漏れていない。

具体的にエヴリーが何をなしたのかといえば、シンプルに言えば歴史的な掠奪を成功させた、というあたりになる。エヴリーは、もともとチャールズ2世号という船の航海士として働いていたのだが、賃金が未払いのままスペイン洋上で放置され、仲間と共に反乱。チャールズ号を強奪し、海賊になってしまう。と、それぐらいなら普通の話だが、エヴリーはその後各地の船を襲い、仲間をどんどん増やしながら、インドから聖地メッカへと向かう、財宝を積んだ巨大な巡礼船団への襲撃を成功させる。

この巡礼船団を襲撃する時の流れも凄けりゃ、巡礼船団が積んでいた財宝と女たちも凄くて、それが故に世界的な紛争の火種をつけるきっかけになるのだが、以下でもう少し詳しく紹介してみよう。とにかく、歴史上の出来事とは思えないようなことが次々と起こるのである。

海賊になるまで

エヴリーの幼少期は記録が残されておらず、残っているのはチャールズ号に一等航海士として乗り込んで以降のことである。貿易の他、カリブ海域の沈没船を引き上げるために出港したチャールズ号だったが、スペインの港町で謎の停船を強いられ、2週間の予定が5週間も滞在し、しかも賃金が支払われていなかった。

乗員の妻たちが雇い主にたいして訴えかけても、彼らの身柄はスペインに移ったという返答が帰ってくるだけで、乗組員たちは奴隷として売られるのではないかと不安が高まり最終的にエヴリーは仲間をひきつれてチャールズ号を強奪。船の名前をファンシー号に改名して海賊船へと転身してしまう。彼についてきた船員は80名にのぼる。

海賊団が結成される。

エヴリーはその後、ポルトガル、ジブラルタル海峡、現在のモロッコなどを経由して、三隻のイギリス船を襲って補給するのだが、彼らが当面の目的に見据えたのは、インド洋方面へと出立し、メッカ巡礼に向かう宝物船を襲うことだった。

当時、インドのムガル帝国は凄まじい富を持っていて、巡礼に向かう時は宝を山のように積んだ船で大移動を行っていた。そのことは海賊たちに知れ渡っていたから、巡礼の船は船団を組み、旗艦には大量の兵士と大砲が積まれていた。皇帝の所有船であるガンズウェイ号は、兵士400人に800人の巡礼者を載せ、80門の大砲を持った世界最大級の船で、海賊が一隻、数十人で気軽に襲えるような船ではない。

それを襲おうとするからにはそれなりの準備が必要とされる。エヴリーも、各地で私掠船などとの戦いや、採用活動を繰り返して仲間を数十人単位で増やし、一年ほどの時間をかけて80人から150人超えの人員を抱えることになる。無論、ガンズウェイ号と渡り合えるような戦力ではない。それでも彼らがエヴリーらが巡礼船を襲おうとインド洋のアデン湾を訪れてみると、同じ目的の私掠船が続々と集まってきたという。

集まってきた海賊船は、その数6隻、乗組員合わせて400人。推測値だが、当時の7大洋にいた海賊の約半分が集まっていたのではないかという。争いになってもおかしくなりそうなところだが、そもそもが相手は世界最大級の船団と兵士なのである。分け前も足りないということはなく、人手は一人でも多いほうがいい、と6隻でまさかの同盟が組まれることになる。そして、エヴリーが後に海賊王と呼ばれるのは、専業海賊歴1年程度のビギナーにも関わらず、ここでリーダーに据えられたからなのである。

 驚くべきは、手を結ぶ際に六人が選んだリーダーだった。理屈から言えば、トーマス・テューが最有力候補だった。エヴリーはもっぱらアフリカ西岸沖で活動していたのだし、誰がどう見ても専業海賊としては新米だった。かたやテューは、まさに六隻が航行している海域で歴史に刻まれるほどの掠奪を成功させたばかりだった。ところがこのふたりや手下たちのあいだに何か響き合うものがあったのか、結果は別の形をとったのだ。「全員が手を組むことになって」とフィリップ・ミドルトンは証言する。「エヴリー船長が指揮をとるって話になりました」
 ここにいたる一二カ月を、ヘンリー・エヴリーは自分の部下を死なせることも、船を拿捕されることもなくしのいできた。それも高速のボートに毛が生えた程度の船と、巧みな計略だけで。
 でもいまや、彼は大艦隊を手にしている。

海賊のルール

とはいえどう考えても勝てそうにないのだが、エヴリーは果敢な戦略と決断によって見事巡礼船に勝利し、一生遊んで困らないほどの財宝を手に入れてみせる。しかも、襲われたガンズウェイ号には当時の船としては例外的なことに、巡礼に向かう何十人もの女性──中には皇帝の孫娘もいた──がおり、海賊はレイプを繰り返した。

どうやってエヴリーらがガンズウェイ号を襲い、勝利したのかは読んで確かめてもらうとして、本書のおもしろさはエヴリーの逸話だけでなく、当時の海賊がどのような生活を送りルールを持っていたのか、という描写にもある。たとえば、海賊船が手に入れた財宝はどうやって分けられるのか? といえば以外なことにかなり平等主義がとられていて、エヴリーたちの例でいえば、エヴリーの取り分は2人分、他の乗組員は1人分というごくごくシンプルなものだった。ほぼほぼ平等な組織なのである。

エヴリーらから少し後の時代の海賊が残した文書によると、海賊船の平等さはそれだけにとどまらず、たとえば重大事項の決定に際しては一人一票の権利を有し投票を行っていたし、勤務中に重症を負った場合には共同基金から保証金が支払われるなど、保険の仕組みがすでに用いられたりもしていた。海賊は、アメリカ革命やフランス革命の一世紀近く前に民主主義の原則をルールとして持っていたのだ。

おわりに

エヴリーたちは巡礼船を襲い、女性たちをレイプして満足しすべては(エヴリーたちにとっては)うまくいきました、めでたしめでたしで終わるわけもない。ムガル帝国の怒りはイギリス政府と東インド会社へと向き、イギリスはヘンリー・エヴリーに懸賞金をつけ、罰を下すべき敵と断定を下すことで関係修復をはかろうとする。

たかだか数百人の海賊が、国家間の関係や東インド会社の立ち位置を大きく揺るがすまでに至ったのである。いつの時代にも世界には変化が速く・大きく、ルールの整備が間に合っていない領域があり(今だとインターネットとか)、そうした善悪もルールも曖昧な領域を「海賊」が荒らし回ることでルールの整備が行われる。エヴリーは結局誰にも捕まることなく歴史から消えていくのだが、幼少期と晩年の人生に空白が多いことも含め、物語の主人公にぴったりな人物だよなあと思わずにはいられなかった。

ほとんどの人は本質的に善良であると、強力に性善説を推し進める一冊──『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』

この『Humankind』は、オランダで25万部以上の部数を重ね、『サピエンス全史』のハラリにも絶賛され対談をし、ピケティに次ぐ欧州の知性などと呼ばれる、オランダの若手寄りの(1988年生まれ)作家、ルトガー・ブレグマンの話題作である。

この本、書名だけだと胡散臭い宗教書にしか見えず、話題書というだけで手にとったのだけど、展開しているのはなかなか過激な主張だ。それは、『ほとんどの人は本質的にかなり善良だ』というもので、ほとんどの人とかかなりとかちょっと微妙な修飾語がついていてそこはかとなく不安にさせるが、本書はなぜそんなことが主張できるのかを、さまざまな実験・研究・歴史の事例から見ていくことになる。

それが過激な主張と思えるのは、人間が本質的に善良とは実感できないからだろう。インターネットを見れば、すぐに他者を口汚く罵っている人間が見つかる。ニュースを開けばナイフで誰かを傷つけて逃走中だとか、どこかの軍がクーデターを起こしたとか、とにかくろくなニュースが聞こえてこない。そもそも、歴史を振り返ればバカみてえに人と人が殺し合っているのだから、善良とはとてもいえないように思う。

だが、現実的には多くの人は利害関係のない人に親切にされた記憶があるだろう。現実のタイタニック号では、望みがないとわかっていながらも人々が努力をやめなかったと語られている。折りたたみ式ボートを下ろすためにロープを切断し、犬を檻から逃し、郵便を運び出し、機関士は沈没する最後の瞬間まで船の灯りを灯そうと奮闘していた──全員が、自分を救うことができないとわかっていても、何かを、誰かを救おうとしていたのだ。世界貿易センタービルでも、脱出する最後のエレベータの場所を若者に譲った老人は、「わたしはもう十分人生を生きたから」と語ったという。

こうした利他心を発揮した人々の逸話はいくらでも引っ張ってくることができる。もちろん、それは一部の例外的な人の行動だったのかもしれない──が、本書が解き明かしていくのは、それは決して例外ではないという事実である。

 人間は本質的に利己的で攻撃的で、すぐパニックを起こす、という根強い神話がある。オランダ生まれの生物学者フランス・ドゥ・ヴァールはこの神話を「ベニヤ説」と呼んで批判している。「人間の道徳性は、薄いベニヤ板のようなものであり、少々の衝撃で容易に破れる」という考え方だ。真実は、逆である。災難が降りかかった時、つまり爆弾が落ちてきたり、船が沈みそうになったりした時こそ、人は最高の自分になるのだ。

スタンフォード監獄実験の嘘

ほとんどの人間は善であるというのはいいけど、どうやってそれを証明するの? と疑問に思うかもしれないが、ひとつの方法として、これまで性悪説を肯定するような実験や研究、事例にたいする反証をあげることで成し遂げようとしている。

たとえば、否定されていく実験で有名なものの一つに、スタンフォード監獄実験がある。これは1971年に男子大学生24人を使った実験で、彼らを看守と囚人の二組にわけ、心理学部の地下室に監禁し、疑似体験を数日間にわたって行わせる。学生らは普通の学生らなので何も起こらないかと思いきや、看守は囚人に対して数字で呼ぶようになり、丸裸にしたり、シラミ退治スプレーをかけたり、睡眠を奪い、とひどい虐待を与えはじめ、予定よりも短い6日間で実験は打ち切られてしまった。

この実験は、普通の人も看守のような役割や立場を与えれば、行動に影響が出て凶悪な側面をみせることを示したとして有名になった。だが、近年この実験はまるっきりの捏造だったという検証結果が出てきている。たとえば、この実験では看守は自発的にサディズムを発揮し虐待したかのように語られてきたが、この実験の考案・実施者であるジンバルドは、事前に看守らと打ち合わせをして、囚人に恐怖心を与え欲求不満を生み出すために、あれをしろこれをしろと細かく指示を出していた。

それも、大半の看守役は指示にただ従ったわけではなくて、3分の2は参加を拒み、3分の1は明らかに囚人に対して親切であったという。結局それでも被験者の大半がやり通したのは、一日あたりの報酬が高かったからだ。ずさんで意味のない実験である。

ミルグラムの電気ショック実験、傍観者効果

もうひとつ有名どころとしては、ミルグラムの電気ショック実験がある。これは、上の立場の人間から命じられれば、絶叫を上げるような電気ショックを流すボタンであっても65%が感電死レベルまで押すことを示した実験として有名だが、そもそもそんな異常な実験を頭から信じ込んで実施する人間がどれぐらいいるのだろうか?

実験では被験者に実施後アンケートをとっていて、その中の「この状況をどれだけ信じられると思いましたか?」という質問によれば、本当に電気ショックが流れていると思っていたのは56%に過ぎなかったことがわかった(ミルグラムはそのアンケート結果を10年後に本に書くまで公表しなかった)。そのうえ、電気ショックを本物と思った人の大半は、スイッチを押すのをやめていた。『被験者のほぼ半数が、この設定を見せかけだと思っていたのなら、ミルグラムの研究のいったい何が、真実として残るのだろう。ミルグラムは表向きには、自分の発見は「人間の本性の深遠で不穏な真実」を明らかにしたと述べた。だが裏では、彼自身、納得していなかった。』*1

他にも、誰かが苦しんでいたり困っている時、自分以外にたくさんの人がいると率先して行動を起こさない「傍観者効果」も、近年のメタ分析によれば実態は異なることがわかってきた。緊急事態が命に関わるもので、傍観者が話せる状況にあれば、むしろ人が救助に行く確率はあがる。乱闘、レイプ、殺人未遂などが録画された1000件を超す監視カメラ映像の分析によると、90%のケースで人は人を助けるのだという。

そうはいっても戦争はあるじゃろがい

個別の実験をいくら否定しようが、そうはいっても戦争はあるじゃろがい!! と思いながら読んでいたのだが、そもそもいつから戦争ははじまったのか? という歴史的経緯の話や、「戦場の兵士の大部分は敵を射撃しない」という日本でも比較的な有名な説を中心に、人が本来非暴力的な存在であることを説明していく。

「戦場の兵士の大部分は敵を射撃しない」というのは、マーシャルという兵士が、仲間への聞き取りを通して「100人のうち平均15人から20人しか自分の武器を使っていなかった」とする主張からきているが、マーシャルが行ったとされるインタビューの数が講演ごとにバラバラだったり、そもそも誇張癖があったとかで、捏造だったのではという指摘が出てきており、データ的には怪しいものとされている。

なのでマーシャルの説を持論の中心部に据えて扱うのは厳しいな……と思いながら読んでいたのだが、近年はマーシャルの説を支持する後続の研究もいくつか出てきているようで、本書でも著者がこの説を正しいと信じる根拠として紹介されている。*2

おわりに──納得はしてない

と、肯定的に書いてきたが、実際には僕は「ほとんどの人は本質的にかなり善良だ」という本書の主張にも、その議論の進め方にも否定的である。もちろん人間は善良な側面が発揮される機会は多いのだろう。だが、それは「相手が目に見える範囲にいるとき」など状況が整った時の話であって、状況が異なれば容易く爆撃の指示を出したりといった残虐な行動に出れるのだから、そりゃ本質的に善良とはいえんだろ*3

あと、議論の進め方については、主張に都合のいい事例ばかりずらずらと並べたてて大量の都合の悪い事例をまるごとシカトとしているようにみえるのもイマイチである*4。主張できるとしたら、「人間は特定条件下では善良な側面が出る傾向にある」というぐらいで、結論的にも「はなから人間の本性は悪と決めつけず、善良な側面が出やすくなるようにみんなで協力していきましょう」あたりがせいぜいなのではないか。本書の末尾に記されている10の提言(疑いを抱いた時には最善を想定しようとか、ウィン・ウィンのシナリオで考えようとか)は、ノリ的にはそんな感じだけど。

とはいえ、不幸だったり恐ろしいニュースの方が注意を引きつけるから、こうした人間の本来存在している善性に注目が集まりづらく、人は悪であるという主張がまかり通ってしまうということに対する危機感自体には同意するので、本書も主張には納得できずともおもしろくはあった。ここで紹介したのは上巻の一部の内容にすぎず、下巻ではもっと広範な議論が展開しているので、気になったらどうぞ。

*1:とは著者の弁だが、実際には追試が何件も行われている実験でもあり、ミルグラムの実験が完全に嘘だった、と捉えるのは難しいんじゃないかな。

*2:たとえば、Randall Collins『Violence: A Micro-sociological Theory』とか

*3:所詮、言葉の定義次第ではあるけれども。あと、人間だけがここまでの発展を遂げることができたのは、「人類には一緒に仕事をする力、協力し合える力があったから」からだ、そして最も友好的な人が一番多くの遺伝子を残すので、人類は自己家畜化を進め友好的な人間が増えてきたのだという「ほとんどの人間は善良である」主張の土台にあたる部分の主張もあり、そこに関しては仮にそれが本当に正しいのであれば、善良かどうかはともかく「ほとんどの人は本質的にかなり友好的である」という主張ならある程度は納得できるかなと思う。

*4:たとえば、下巻にはノルウェーで、刑務所の外に普通に出ることもできる開放型の刑務所の事例を通して人の善性を紹介する章がある。ノルウェーは再犯率も20%ととても低く、これこそが本来あるべき形だ、といってみせるのだが、実際にはノルウェーでの再犯率が低いのは微罪でも拘禁されるからという前提条件の違いがあるし、ノルウェーの開放型の刑務所にも独房監禁区域は存在する。が、そんなことには本書ではまったく触れていない。

歴史の影で忘れ去られていた女性暗号解読者たちの活躍に光を当てる一冊──『コード・ガールズ――日独の暗号を解き明かした女性たち』

近年、ロケットのための計算に明け暮れていた女性たちを描き出したノンフィクション『ロケットガールの誕生』や、ディズニーの初期で制作に関わった女性たちの活躍を取り上げた『アニメーションの女王たち』など、歴史の影で見過ごされてきた女性たちの活躍を取り上げるノンフィクションが増えてきている。

今回紹介したい『コード・ガールズ』も、第二次世界大戦中に米軍に所属し暗号解読に従事した女性たちの活躍を取り上げた、流れに連なる一冊だ。第二次世界大戦時に暗号解読で女性が活躍していたという話は、本書を読むまでまったく知らなかったが、実は1945年には※陸軍の暗号解読部門1万500人のうち、約7000人、70%が女性だったし、海軍にも4000人の女性暗号解読者がいた。両者を合わせれば、女性は1万1000人で、当時アメリカの暗号解読者総数2万人のうち半数以上にのぼる。

終戦後、暗号解読者たちがどのような仕事をしていたのかが公表され、ニューヨーク州選出の下院議員ハンコックは議場で『わが国の暗号解読者たちが……日本との戦いにおいて、ほかのどのような男たちの集団と比べても劣らぬほどの、あの戦争を勝利と早期の終結に導くための貢献を行ったと信じている』と述べた。その時も、それ以降も言及されることはなかったが、その構成員の大半は女性たちであったのだ。

なぜそんなに女性が多かったのか?

そもそも、なぜ暗号解読部門に女性が多かったのかといえば、状況は複雑に絡み合っているが、まず暗号解読の重要性が、第二次世界大戦に突入するにあたって飛躍的に高まっていたことがあげられる。そして、そのわりにアメリカのインテリジェンス機関は脆弱で、日本にまんまと真珠湾攻撃を許してしまうような状況にあったので、立て直しにやっきになっていた。また、女性側の動機としては、教育を得た女性の働き口が少なく(教師ぐらいしかなかったという)、大学で高度な教育を受け、それを活かす先を求めていた女性がそれなりの数いたことなども関係している。

そうした状況が合わさって段階的に女性の登用がはじまったわけだが、特筆すべきポイントとして、1941年にアメリカの海軍少将が名門女子大の学長に暗号解析の訓練を受ける学生たちを選抜してくれないか、と手紙を送ったことがあげられる。学長は他の女子大にも働きかけ、最終的にはクラスで上位一割に入る、アメリカにおけるトップ層の女性たちが集められることになる。彼女たちは秘密裏に集められ、外では暗号解析に関わる言葉を発すことを禁じられた。

 海軍あるいは陸軍の呼びかけに応じた女性たちには、置かれた環境は異なってはいても、いくつかの共通点があった。頭がよく才覚があり、女子教育がほとんど奨励されず、その見返りもあまりなかった時代において、状況の許すかぎり学問を身につけようと努力していた。数学か科学か外国語のどれかに習熟していた。三つとも得意な者もたくさんいた。忠実で愛国心があった。冒険心があり意欲的だった。それでいて、足をふみいれようとしている極秘の職務につくことで世間からの賞賛を得ようとは望んでいなかった。

女性にたいする教育に逆風が吹いている状況でなお学ぶことを諦めなかった人々である。そんなに優秀な女性たちがいたのであれば、なぜそのことがそれほど有名になっていないのか? という次の疑問がわいてくるが、当時は引用部にあるように、女性が積極的に賞賛を得ようと望んだり、実際に評価を受けることがない時代だった。上層部にもいかず、歴史を記録したり回顧録を書いたりといったこともなかった。

最近になって立て続けに、このような失われそうだった女性たちの歴史に光をあてる本が出ているのは、今書き残さねば、もはや当時のことを語れる人物が完全にゼロになってしまう、という危機感もあるのだろう。

暗号解読という仕事

通常、暗号は元の文章や単語を別の数字や単語に置き換え、そこにいくつもの変化を加えて送信する。たとえば、一度暗号化したものをさらに別の方法で暗号化したり、暗号化した内容に乱数を加えたり、暗号化した横向きの文章を、縦向きで送信するなど。そんな複雑な工程を経たものを、単純なひらめきや才能で簡単に解読できるわけもなく、暗号解読者らは神経と時間をすり減らしながら地道に向き合っていく。

暗号解読にもっとも有用な能力のひとつが記憶力であるが、優れた記憶力をもつひとりの人間よりも唯一望ましいのは、優れた記憶力をもつ大勢の人間である。敵の通信を個々のシステムに分割すること、点在する偶然の一致に気づくこと、索引とファイルを整備すること、莫大な量の情報を管理すること、ノイズのなかから信号を拾うこと、といった暗号解読のプロセスにある個々のステップをふむことで、直感的な飛躍が可能になった。

本書では、具体的に日本が用いていたパープル暗号などが実際にどのような手法で暗号化されていて、それを女性らがどう解き明かしていったのかという技術的な内容にも踏み込んでいて、本格的な暗号ノンフィクションとしても読みごたえがある。

おわりに

暗号解読者たちは、自国の誰よりも早く戦争に関するニュースを受け取る人たちでもある。たとえば、日本の降伏を伝える通信で、暗号解読者と翻訳者は、それがスイスの日本大使館に送信された時すぐに傍受・解読し、アメリカの誰よりも先にその情報に触れた。その時の喝采や盛り上がりも、本書では丁寧に触れられている。

依然として世の中には女性は理数系に向いてないという偏見が存在しているが、このように暗号解読に主力として従事していた女性たちを知れば、そうした偏見も覆るのではないだろうか。彼女たちの活躍は、アラン・チューリングなど暗号解読において伝説的な名声を残している男性らと比較して、まったく劣るものではないのだから。

無秩序な日本中世を振り返り、現代の当たり前を見直すエンタメ歴史ノンフィクション──『室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界―』

最近日本に住んでいるフランス人や中国人YouTuberだったり海外YouTuberの動画をだらだらと見ていることが多いのだが、同時代を生きていたとしても国ごと、コミュニティごとで常識は異なっていて、なんで日本の店はきんきんに冷えた水が出てくるの?? とか、そうした違和感を聞くのがおもしろい。どちらが良い/悪いという話ではなく、どちらにもその土地の歴史や風習と絡み合ったものであって、「は〜そういう考え方があるんだなあ」と当たり前だと思ってきたものを見直すことができる。

で、そうした違和感や驚きを得られるのは、時代が離れた同じ国の中でも同じことである。本書『室町は今日もハードボイルド』は、日本の中世史を専門として『耳鼻削ぎの日本史』や高野秀行との共著『世界の辺境とハードボイルド室町時代』で知られる学者の清水克行最新作で、日本中世の事件や事例を通して当時の価値観、伝統とはどのようなものだったのかをあぶり出してみせている。その価値観の多くは現代人とは相容れないものばかりだが、当時の人々からしてみれば常識であり、彼らなりの道徳やロジックに沿ったものであった。だからこそ、おもしろいのである。

日本中世はおもしろい!

しかし日本の中世(本書では11世紀後半の平安朝時代後期から鎌倉、室町を経て戦国時代の終わり頃までをさす)は最近、ゲームの『ゴースト・オブ・ツシマ』(1274年)や『暗殺教室』の松井優征による現在の連載作『逃げ上手の若君』(1300年頃の鎌倉〜室町あたり)、ゆうきまさみの『新九郎、奔る!』など、戦国時代から時代をずらした作品が続々と出てきており、この時代の魅力が知れ渡りつつあるように思う。

そして、ノンフィクションで読んでもやっぱりこの時代はおもしろい。その魅力はやはり、この時代のアナーキー感にその一部があるのだろう。本書の著者は、この時代をアナーキーと表現する理由を次のように説明してみせる。

 東国に鎌倉幕府がある一方で、西国には天皇を戴く公家政権が存在し、地方社会は彼らが支配する荘園によって分節化されていた。また、中世の終わりには、各地に戦国大名が割拠して、それぞれの支配地域を独立国として支配していたことは、ご承知のとおりである。そのうえ、庶民たちは「村」や「町」を拠点にして、独自の活動を展開していた。そこでは、幕府法、公家法、本所法(荘園内の法)、村法など、独自の法秩序があり、幕府法が村法より優位ということは必ずしもなく、それぞれ等価に併存していた。それを考えるなら、中世は、日本の歴史のなかでも前後に類がないほど〝分権〟や〝分散〟が進行したアナーキー(無秩序)な時代だったといえるだろう。

こうした過去の価値観を知ることは、我々が現代当たり前としている価値観を絶対のものとみなす「当たり前」をゆるがすものになるだろう。

どんな時代だったのか?

本書は月刊誌の『小説新潮』での連載コラムをまとめたものなので、一話完結で、ざっくばらんにさまざまな話題が取り上げられていく。たとえば当時の無秩序感をあらわすのに良いのが、「法」についてのエピソードが語られる章である。

中世の日本社会では、幕府の定める大法とは別に社会集団ごとに別の大法があり、それらが併存していたのだという。法は併存できないだろと思うのだが、実際に真面目に主張され、時にはローカル法が公的に定められた大法よりも優越することもあった。たとえば、「自然居士」という能の作品では、人買いの商人が少女を買い、それを阻止しにきた自然居士(半僧半俗の説教師)と口論になり、「人を買い取ったら、ふたたび返さない」という大法が人買いの中にはあるのだと反論する様子が描かれる。

そんな主張がまかり通ったらなんでもありじゃねえか、と思うのだが、実際にはこの人買いの主張にも(当時の価値観からすると)理がないわけではない。当時からすでに人身売買は原則的に法律違反だったが、罪とならないケースもあった。それはたとえば大飢饉の時で、餓死が予測される状況下では、子供を売りに出すのもやむなしとされていたのである。当然、そのような状況下で売り買いされる人の金額は安くなる。

子供を売り飛ばしても、飢饉を乗り越えたら買い戻したくなるのが親の情である。当然親としては売り飛ばした時の金額で買い戻したいが、人身売買商人からしてみれば労働力にもならないような8〜9歳の子供を投資の意味もこめて買い取っていて(実際、飢饉の時に売買されていた少年少女は大半がそれぐらいの年齢)、食事や衣服を与えてきたのだから、同価格で買い戻されたら投資分の回収が困難になる。

不景気の時は身売りしておきながら景気がよくなったら現在の物価を無視して買い戻そうなんて虫がよすぎる、というのは扱われているのが人であることを見なければもっともな話であり、彼らの大法の「人を買い取ったら、ふたたび返さない」に繋がってくる。『おそらく「自然居士」の人買い商人たちが「人を買い取ったら、ふたたび返さない」というのも、購入時の相場と買い戻し時の相場の激変があることを見越して、そうしたトラブルを未然に防ぐために生み出した法慣習と見るべきだろう。』

人の命が軽い、暴力的な時代

中世は人の命が軽く暴力的な時代でもある。なんとかの変とか、なんとかの乱といった政変・戦乱が、この時代は記録されているだけでも異様に多い。

中でも、「びわ湖無差別殺傷事件」の章では、金品強奪のためびわ湖上で16人を皆殺しにした男・兵庫の顛末が語られる。凄いのが、最後に少年とその後見役の僧侶の二人が残り、僧侶が私の命はもういいので少年だけは助けてくれ……と懇願し、心得たといった次の瞬間2人とも殺してしまうのである。残虐非道だが、その時死んだふりで難を逃れた者が一人いたおかげで、幕府にまで話が通り、実行犯の住む堅田全体の責任を問う流れになる。だが、そんなことをしたとは知らなかった実行犯の父・弾正はすべての責任をとって切腹。以後、堅田全体の責任が追求されることはなかった。

え? 実行犯はどうなったの? と疑問に思ったが、彼は父の命が失われたことで衝撃を受け、遍歴の旅に出、最終的には浄土真宗に帰依して強固な信仰を獲得し、「悪に強きものは善にも強い」とは彼のための言葉だ! めでたしめでたしと後の逸話では残されている。子供含む16人も殺しておきながらショックを受けるのは父親の死で、現在の道徳観からするとなんじゃそら感を感じる。

が、当時の人間の命の価値観は、生活空間の外部の人間は低かった、ということなのだろうと締められている。ま、そりゃそうなのだろう。往来が頻繁でない時代からすれば、たまたま通り過ぎていく人間などどうせ二度と会わない人間であり、彼らがその先どうなろうが知ったことではない。

おわりに

他にも、婚姻関係にある女性が夫に浮気されたり離縁されたりした時、殺害などの嫌がらせを夫ではなく浮気相手や後妻相手に行う「うわなり打ち」について、「なぜ夫ではなく浮気相手に嫌がらせするのか?」という疑問に対する答えなど、いっけん理不尽に思えても、当時の状況を知るとそれなりの理屈が浮かび上がってくるものだ。

同じ国といえども数百年もさかのぼってしまえばもはや別文化。しかしそこにはやはりゆるやかな連関もあり、変わったもの、変わらなかったものを確認しながら現代を相対化するのも、またおもしろいものだ。軽いエンタメノンフィクションなので、気軽に手にとってもらいたい。

『繁栄』のマット・リドレーによるイノベーション論──『人類とイノベーション:世界は「自由」と「失敗」で進化する』

『繁栄──明日を切り拓くための人類10万年史』や『進化は万能である──人類・テクノロジー・宇宙の未来』で有名なマット・リドレー最新作のテーマは「イノベーション」だ。リドレーは科学ジャーナリストで、『やわらかな遺伝子』や『赤の女王―性とヒトの進化』など生物学・遺伝子関係の本をずっと書いてきているが、世界は時間が未来に進むたびにどんどん良くなっていることを論じた『繁栄』以降はそのテーマから飛躍させ、遺伝子を軸にした人類史それ自体を扱うようになってきている。

『進化は万能である』は、世界で起こっている発明や繁栄のほとんどは「進化」そのものの力のおかげで起こっているのであって、誰か天才的な一個人の発想、発明や、トップダウンの押しつけで発展したものはほとんどないという大上段の論をうってみせた。世界の所得の増加も、感染症の消滅も、70億人への食料供給も、うまくいったことは偶然で予想外の結果であり、それを意図した誰かや組織の行動の結果ではない。むしろ、意図したデザインやトップダウンからの押しつけは、ロシア革命、世界大恐慌、ナチス政権などうまくいかない事例ばかりである──というのである。

 したがって、現在のような人類史の教え方は、人を誤らせかねない。デザインや指図、企画立案を過度に重視し、進化をあまりに軽視するからだ。その結果、将軍が戦いに勝ち、政治家が国家を運営し、科学者が真理を発見し、芸術家が新しいジャンルを生み出し、発明家が画期的躍進をもたらし、教師が生徒の頭脳を形成し、哲学者が人々の思考を変え、聖職者が道徳を説き、ビジネスマンが企業を引っ張り、策謀家が危機を招き、神々が道徳を定めるように見えてしまう。『進化は万能である』

続く本書『人類とイノベーション』は、『進化は万能である』の発展型といえる。世界には様々なイノベーションがこれまで幾度も起こってきたし、今もまた起こり続けている。そうしたイノベーションはいつどこで、なぜ起こるのか、そして、イノベーションが起こるためには何が必要なのか。本書は、蒸気機関や検索エンジン、ワクチンや電子タバコやコンテナといった多種多様なイノベーションの事例を通して、そうしたイノベーションの本質的な特徴について縦横無尽に語っていく。

イノベーションは必然で個人は重要でない

『進化は万能である』の発展型なので、本書もその主張を引き継いでいる。たとえば、一人の天才的発明家やイノベーターがいなければ発明されなかったものなど存在しない、ということにここでも触れている。ワット、エジソン、スワン、ライト兄弟など、彼らはみな歴史に名を残した偉大な発明家/イノベーターだったが、実際には彼らはたまたまその場所におさまっているに過ぎず、「連続体の一部」でしかない。

ライト兄弟が仮にいなかったとしても、20世紀初頭の10年のうちに、誰かが飛行機を飛ばしたことは間違いがない。ダーウィンがいなくてもウォレスが1850年代に自然淘汰を理解していたし、アインシュタインがいなくてもヘンドリック・ローレンスが数年以内に相対性原理を導いていた。ワトスンとクリックがいなくても、ウィルキンスとゴスリングが数ヶ月以内にDNAの構造を理解していた。イノベーションにおいて、個人は重要な存在ではない。それはただ起こるべき時に起こるのだ。

じゃあアインシュタインもダーウィンももなんでもないやつだとリドレーは言っているのか? といえばそうではない。『長期的には個人はあまり重要でないが、だからなおさら短期的には並はずれている。(……)したがって、イノベーションは必然で個人は重要でないという私の指摘は、侮蔑どころかじつは賛辞である。何十億人のなかで、新しい装置、新しいメカニズム、新しいアイデアの可能性を最初に理解する人間であるのは、どれだけ素晴らしいことか。』

イノベーションは「偶然」からはじまる

本書にはいくつものイノベーションにおける法則が導き出されていくが、その一つは「偶然からはじまる」ということ。たとえば、パスツールは実験的に作られたものとしては初のワクチンを作り出した人間だが、これが生まれたいきさつは偶然だ。コレラ菌の特性を理解するための実験として、培養菌をニワトリに接種しようとしていたのだが、自分は夏休みに入り、頼んだ部下もすっかり忘れて休暇に入ってしまう。

休暇から帰ってきて、風にさらされ古くなった培養菌をニワトリに接種したところ、そのニワトリは病気にはかかるが死ななかった。おそらくそこで直感が働いたのだと思うが、次に、通常ニワトリをすぐに殺す猛毒のコレラ菌株をその生き残ったニワトリに接種したところ、病気にさえならなかった。そこではじめてパスツールは、毒性の弱い微生物が毒性の強いものに対抗する免疫反応を引き起こし、だからこそワクチン接種は効くのだと理解しはじめた。これは完全に偶然がもたらした結末である。

似たところでは、世界初の抗生物質であるペニシリンも、アレクサンダー・フレミングがブドウ球菌を培養中、偶然にも青カビの胞子がペトリ皿に落ちたが、そのときにカビの周囲のブドウ球菌が溶解していることに気づいたことが最初である。

「発見」を「イノベーション」に変える必要がある

実際には、ただそれを発見しただけで世界が変わるわけではない。ペニシリンは大量生産や保存が難しく、初期の頃の製薬会社は殺菌薬としての販売や生産は実際的とは思えないとして10年以上にわたって関心を失われていた背景がある。状況が変わったのは1940年、ドイツから亡命した二人の科学者がフレミングの研究成果を見つけて負傷兵のための新たな治療法に使えるかもしれないと実験をはじめてからだ。

「発見」が「イノベーション」に発展するには、社会の状況の変化を待つ必要もある。たとえば、重いカバンについているキャスターは1970年代まで発明されなかった。普及した転がる旅行カバンの特許が申請されたのは1972年のことだ。カバンにキャスターをつけるぐらいいつ思いついてもよさそうなものである。実際、特許の歴史をみてみると、1969年にも、1949年にも、1947年にも、1925年にも、類似の特許は申請されている。なぜそれが広まらなかったのかといえば、駅や空港の構造の問題だった。段差が多く、ポーターは大勢いる上に仕事熱心、キャスターは重くて壊れやすく、思い通りに動かない。70年代に飛行機の利用が拡大し、乗客が歩かなければいけない距離が増大し、はじめてキャスター付きケースが真価を発揮したのだ。

おわりに

イノベーションが生まれるために必要なのは、副題にも入っているが「自由」と「失敗」が可能な環境だという。交換し、実験し、想像し、投資し、何度でも失敗することができる環境でなければ革新は起こり得ない。なぜならそもそもイノベーションとは計画的に起こせるものではなく、偶発的に、状況が整った瞬間にしか起こすことができないからだ。『イノベーションは自由から生まれる。なぜなら、それは自由に表現された人間の願望を満足させようとする、自由で独創的な試みだからである。』

そうした前提から、特許と著作権はイノベーションを阻止する要因であるし、原子力発電のような何度も失敗を繰り返し設計をやり直していくようなものはイノベーションが起こりづらいなどさまざまな分野にまたがる論が展開していくことになる。相変わらず卓越した読みやすさもあるので、おすすめだ。

忘れ去られた女性たちの活躍を蘇らせる一冊──『アニメーションの女王たち ディズニーの世界を変えた女性たちの知られざる物語』

 この『アニメーションの女王たち』は、ディズニー・アニメーションの中で、アートに脚本にと活躍してきたにも関わらず、エンドクレジットにも表記されず、伝記などにも存在がほとんど残されていない、女性アーティストを焦点に当てた一冊である。

その立ち上げの時期、最初の女性の参画からはじまって、『白雪姫』から『アナと雪の女王』までを通して、ディズニーと女性アーティストの関係性は一直線に成長してきたわけではない。差別や平等の観点からいうと、今はディズニーが立ち上げの20世紀初頭からするとよくなったといえるが、その歴史の中には多くの差別があり、一度女性の活躍が増えたと思っても、第二次世界大戦やウォルトの死による女性参画の後退など、大きな波があったのだということが本書を読むとよくわかる。

 歴史家が、ウォルト・ディズニー・スタジオで活躍した初期の女性として取り上げるのは、たいてい仕上げ部門の従業員だ。仕上げ部門は女性主体の部署で、アニメーターが描いた絵を、撮影用の透明シートにインクで直に書き写し、色鮮やかに彩色するのが仕事だった。仕上げ係には芸術的センスが求められたが、ディズニー・スタジオで女性が担った役割は、それだけではなかった。私は2013年にインタビューを行うまで、これほど多くの、自分の大好きなディズニーの名作に、女性が責任ある立場で携わっていたことも、彼女たちの与えた影響がほとんど忘れ去られていることも、まったく知らなかった。

ピーターパンに101匹ワンちゃんに美女と野獣に……これまで当たり前のように見てきたディズニーのアニメーション作品の中に、存在しないかのように扱われてきた女性がどのように関わってきたのかを知れば、作品をフレッシュな目線で思い返すこともできるだろう。立ち上げ時期の女性アーティストは亡くなってしまっているので、2015年に開始された調査は難航したと著者は語るが、本書には生き生きとした筆致で1930年代〜70年代のディズニーが描き出されている。

ストーリー部門に配属された女性

最初に取り上げられる女性は、ビアンカ・マジョーリーという1900年生まれの女性だ。油絵や美術解剖学を学び、ヨーロッパ各地でファッションの仕事についていたが、1934年、映画館でディズニーの短篇アニメーションを見たことで感動し、高校時代の知人であったウォルトに自分の漫画を同封した手紙を送ることになる。

彼女たちは手紙のやりとりを続け、最終的にビアンカはディズニーに採用されることになるのだが、当時女性といえば仕上げ係にしかいなかったところに、異例のストーリーアーティストの部門での採用となった。入社当時の1936年は、初の長篇アニメーション映画である『白雪姫』に着手していた時代で、ビアンカは短篇『子ぞうのエルマー』やその後継作といえる『ダンボ』などの作品に関わっていくことになる。

差別的な状況

ビアンカがストーリー部門に入ったのは例外的な事象で、当時のスタジオでは、応募した女性全員に「カートゥーン制作にかかわるクリエイティブな作業は、若い男性社員の仕事と決まっていますので、女性社員が行うことはありません」という定型の断り状が送られていたという。それを覆してビアンカの次にストーリー部門に入社する女性は、20代前半のグレイスという女性。しかし彼女もウォルトとの面接では「優秀なストーリー部門を育てるには何年もかかる。仮にそうやって育てられたとしても、結婚してやめてしまえば、教育の成果も無駄になる」と脅しをかけられている。

女性が入ったばかりのスタジオにおける、当時の差別的な状況を伝える逸話も多数紹介されている。たとえば、大勢でシナリオの検討をする会議に、グレイスが入ろうとしたところ、女性はシナリオ会議には入れません(女性が脚本家であるはずがない)と警備員に押し返された話とか。男性スタッフが名前を呼んだり口笛を吹いたりしてからかってくるとか、生きた豚がグレイスの机のつっこまれているとか、容姿のからかいとか。とはいえ、ウォルトは当時にしては女性を採用していて、ビアンカとグレイス二人の活躍におされる形で、3人目の脚本家ドロシーが入社する──と、入社していく女性たちと、彼女たちが作品でどの部分を担当していたのかが語られていく。

50人以上在籍するストーリー部門の中でわずか3人の女性の成し遂げた功績は少ないと思うかもしれないが、ビアンカは『ピノッキオの冒険』の脚本において、原作では悪童であるピノキオをどうにかして魅力的にしようと、人形が生命を欲する理由、「生きる理由」について深堀して情緒的な奥行きを与え、さらには『子ぞうのエルマー』の脚本経験を生かして、『ダンボ』でシンプルで美しい脚本を書いた。ドロシーは『白雪姫』で無駄を削ぎ落とし大きな貢献をはたし、ピーターパンにおいてはティンカーベルの生意気で女性的な造詣に影響を与えた──と、そうした活躍をしているのに、当時女性の名が作品にクレジットされることはほとんどなかったのだ。

大きな波

その後、順調に女性が増え始め、1940年頃には、スタジオの全従業員1023人のうち308人が女性で、この数字は当時アメリカ大半の企業よりも多かった。ただ、そのまま増え続けたわけではない。スタジオの従業員は過剰労働に加え給与が少なかったことから1941年には1000人規模のストライキが発生し、賃上げを要求。

だが、スタジオにも余裕があるわけではなく、アニメのヒットに恵まれず、しかも第二次世界大戦の苦境で財政難に陥っていたことから、要求にたえきれずに1200人もの人員が一時解雇された。その中にはシナリオ・ディレクターだったシルヴィアやビアンカも含まれている。当時の労働運動はかなり大規模かつ長期的なもので、痛みも大きかった。賃上げ要求がなされるのだが、根本的にスタジオにカネがないので、賃上げの代わりに従業員が解雇されてしまう。『双方が譲らず、交渉が熾烈を極めた7月下旬、事態は大詰めを迎えた。7月29日月曜日、社員全員が昇給し、シルヴィアの週給も120ドルに跳ね上がった。この幸運はいっときのことで、数日後にはスタジオの半分近くのスタッフがレイオフされた。今回はシルヴィアが戻ることはなかった』

当時の人の感情からすると失業は悲劇的だが、これが起こらなかったとすると=金がないから金をもらえなくてもしょうがないよな、と受け入れてしまうと、低賃金で酷使され続ける日本のアニメ会社のような体制になってしまうのだろう。このへんの、ディズニーを中心としたアニメ界隈の労働問題については『ミッキーマウスのストライキ!--アメリカアニメ労働運動100年史』に詳しい。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
 財政難に伴う大規模なレイオフ、コピー機の登場による仕上げ部門の削減、ウォルトがアニメーションよりもディズニーランドなど別方面への興味を持ってしまったなど理由が重なり、一時期は4割近くにまでいた女性の割合が1975年には1割にまで落ちてしまう──。もちろん、その後ディズニーはピクサーとの統合を経て大きく躍進をしていくのだが、そのへんは本書を実際に読んで確かめてみてもらいたい。

おわりに

この記事では触れていないが、本書の主要な登場人物の一人にメアリー・ブレアという優れた女性アーティストがいる。彼女は主にスタジオではコンセプト・アーティストとして活動、『シンデレラ』『不思議の国のアリス』『ピーター・パン』『眠れる森の美女』の色彩設計など作品の根幹にあたる部分に大きな影響を与えた。

彼女をウォルトは強く買っていて、彼女がスタジオを退職した後も、自分のアニメとは関係のないプロジェクトで幾度も仕事を依頼していたぐらいだ。そして、メアリーのイメージは今なおディズニーに残っていて、現代のディズニーにもその影響を受けているものがいる。たとえば、『アナと雪の女王』もそうやってメアリーの影響を受けたアーティストの作品のひとつだ。メアリーはディズニーの女性アーティストの中でも知られている方の一人だが、たとえ作品にクレジットされておらず、世間的に名前が知られていなくても、やはり彼女たちもディズニーの歴史・文化の中に確かに息づいている。そう実感させてくれる一冊だった。おすすめ!

外科手術時の消毒の重要性を提唱し医療を一変させた偉人の生涯──『ヴィクトリア朝医療の歴史:外科医ジョゼフ・リスターと歴史を変えた治療法』

この『ヴィクトリア朝医療の歴史』はその名の通りの一冊なのだけれども、「ヴィクトリア朝」は、医療史を少しかじっていると「おっ」と思う時代である。ここで、それまでの医療と比べて、特に外科手術の際の医療のレベルが跳ね上がったからだ。

それ以前は医療現場はどのような状態だったのかといえば、麻酔がないので腕や足を切断する時はノー麻酔で患者は激痛をこらえながらだったし、医師は患者の苦痛を少しでも抑えるため一秒でも早く作業をすることが求められていた。細菌感染の概念もないから、別の患者を処置したメスや手を洗わずに次の患者の処置を行い次々と院内感染が広がっていて、化膿による敗血症から患者は次々死んでいく。足を切断するためにノコギリを入れたが途中ではさまって抜けなくなってしまったなど、当時の医療エピソードはむごいものばかりで、病院に行くと患者の死が早まるレベルであった。

本書はそうした激動のヴィクトリア朝時代の医療がどのように変わっていったのかをたどる医療史の本だが、その中心には後に院内感染が細菌によるものだとして、消毒法を編み出し世界に広げるジョゼフ・リスターの生涯がある。地味なタイトルでもあるし、期待せずに読み始めたのだけれども、読み始めてみればリスターが魅力的かつ偉大な人物で、順風満帆とは言い難い人生であることも相まって、本書の最後のページを読んだときに、伝記としては異例ながらも涙が流れてきてしまったぐらいだった。リスターの魅力もさることながら、著者の生き生きとした筆致も素晴らしいのだ。

麻酔の誕生

麻酔がない時代の手術にはスピードが必要だ。高名な医師リストンは28秒で脚を切断するなどスピードに定評があったが、速さは時に仇にもなる。リストンには、脚と一緒に睾丸を切断したとか、手術を急ぐあまり助手の指を三本切って、刃をつけかえようとして見物人の上着を切ってしまったというエピソードがある。後者のエピソードでは、助手と患者は壊疽で死亡し、不運な見物人は恐怖のあまりその場で死んで、歴史上唯一死亡率300%の手術になったとオチがついているが、怪しい話ではある。

状況が変わり始めたのは1840年代からで、エーテルを用いた麻酔効果の力が知れ渡りはじめ、苦痛の時代は終わりを告げようとしていた。ただ、医療はまだまだ不完全なものにすぎない。患者の苦痛がなく外科手術ができるようになると、医師はこれまでよりも積極的にメスをいれるようになる。そうすると、術後の感染とショックが大幅に増えた。手術が増えたので、手術室はそれまでよりも一層不衛生になり、細菌感染の存在も知られていないので、道具を使いまわし被害を拡大させていった。

手術室に運ばれる人が増えるにつれ、きわめて基本的な衛生管理さえ行われないことが多くなった。手術を受けた患者の多くが死亡し、あるいは完全には回復せず残りの人生を病人として送ることを余儀なくされた。いたるところでこうした問題が起きていた。患者たちはみな、「病院」という言葉をますます恐れるようになり、もっとも熟練した外科医でさえ、自らの腕を信用できなくなった。

こんな時代に生まれていなくてよかったと思うばかりだが、こうした状況を徐々に変えていくのが本書の主人公であるジョゼフ・リスターなのである。

ジョゼフ・リスターと細菌感染の発見

1840年頃までの感染症に対する人々の理解は浅く、大きくわけて伝染派と非伝染派で議論が対立していた。前者は人から人へと感染するといっていたが、それが何によって起こされるのかは理解されていなかった。後者は、不潔で腐った物質から瘴気が出て、感染はそれを通じて発症する、と主張していた。

この反伝染派の主張が(てんでまちがっているのだが)当時の医学界のエリートとしては主流派の意見であった。こうした医療の歴史を読むと、限られた情報で物事を判断するのがいかに難しいのかがよくわかる。たとえば、そのあたりがはっきりしないこの当時、皮膚に傷がある人間は感染症が発生するが、皮膚に傷のない閉鎖骨折では殆どの場合何事もなく治癒していた。これは、反伝染派にとっては「瘴気が傷口から入り込んでいるからだ」という考え方を補強するものだった。

救世主ジョゼフ・リスターは1827年の生まれで、ロンドン大学ユニヴァーシティカレッジ(UCL)で医学を学び、持ち前の好奇心旺盛さで顕微鏡で人体を細かく観察したり、カエルを解剖して炎症の研究をしたりと、独自の領域で知見を深めていた人物である。クエーカー教徒で、たとえ堕落した患者であっても、イギリス皇太子に対して行うであろう治療と同じ治療を施すことを自身の黄金率とし、周囲の評判をみてもそのとおりに行動していた人物だったようだ。様々な成人エピソードが残っている。

リスターは細菌による感染の実在を確信し、術前術後に消毒をする考えに至るのだが、彼だけの功績ではなく時代の状況も関係していた。1840年代の終わりには、当時大流行していたコレラの患者が、みな特定のポンプの水を使っていることに気づき、コレラは水を媒介にして伝わることが明らかになった。1858年にはロンドンで強烈な悪臭が発生し、住人は瘴気が理由で病気が広まっていくのであれば、これが原因で市内で病気が大流行するだろうと予測したが、そうはならなかった──など。こうした事例がいくつもあって、瘴気派がなりをひそめ、伝染派が主流になっていくのだが、それでもまだ何が病気を媒介にしているのかは明らかになっていなかった。

それを明らかにしたのはパスツールという男で、「なぜ一部のワインは腐るのか?」を研究しているうちに、バクテリア(細菌)や微生物がそこに関与していることを明らかにした。細菌の存在を受け入れないものも数多くいたが、リスターはこれに同調し、院内感染の原因は空気自体ではなく、空気中に含まれる細菌なのではないか。そして、そうであるならば傷口で細菌を殺すことができれば、感染を食い止めることができるのではないか(消毒の概念自体はすでに存在していた)と思い至るのである。

おわりに

やっとリスターは傷口を消毒し、手を洗うという概念にたどりつき、院内感染と死亡率を大幅に減少させることに成功するのだが、こうした革新的で明確なエビデンスを持つ発見であっても、医療界に受け入れられるのには多くの時間がかかった。

科学の世界で古い考え方や手法を不要にする新しい発見があると、古い常識を提唱し実践してきた人の中に名誉や実益が傷つけられるものが多く存在する。だから、明らかな証拠と共に提出されても、そうした人々は必死に抵抗するのだ。それでも、真実は必ず生き残る。リスターの消毒法を忠実に実行することで、リスターの弟子たちはその正しさを実地で目の当たりにして、間違いなく正しいと信じ、彼らが各地に散らばっていくことで──弟子の名は「リステリアン」と呼ばれた──その手法は徐々に広まっていった。国内外で徐々に成功事例が増えていき、それに伴ってリスターの名声は高まり、最終的には女王の腫瘍を切除する大役を任されるまでになる。

アメリカでは消毒法に対する反発が起きていたので、海を渡って説得しにいくなど、彼はその生涯をかけて消毒法を広めることに尽力していく。『リスターの消毒法が受け入れられたことは、医学界が細菌説を認めたということを何より明確に示すものであり、科学と医学が融合した画期的な出来事だった。』とあるように、リスターが行ったことは、医学の科学的な前進という意味でも重要なことだった。

リスターの学生で助手だったヘクター・キャメロンは後年、『「私たちは天才とかかわっているとわかっていた。歴史を作る過程に手を貸しているのだ、何もかもが新しくなるのだ、と感じていた」』と語っているが、本書にはまさにその、歴史が作られていく過程が書き記されている。感動的な一冊なので、ぜひおすすめしたい!