基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

日本を舞台にした妖怪大戦争アメコミ『Wayward 1: String Theory』

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↑ここで紹介されていたのを読んでなんとなく注文してみたのだけど、面白い。上記の記事は海外の反応、つまり英語で読んだ人らの反応なのだが、日本人から見ると読むとわりとおかしなところが多くて、ただ頑張って日本的な要素を取り込んでいるのも確かで、その違和感の混在が面白い。

Wayward 1: String Theory

Wayward 1: String Theory

主人公の女子高生であるローリーレーンはアイルランド人の父と日本人の母の間に生まれ、日本で母親と暮らすために飛行機にのってアイルランドからやってくる。満員電車に不可思議な街並み、飛び交う日本語と文化的な差異に驚きつつも母親と見事対面を果たし、一緒に暮らし始めたと思った矢先、突然モンスターに変化し剣を持って襲い掛かってくる不可思議な男三人組に遭遇し、同時にそれを阻止し撃退してくれた謎のウォーリアーガールが──とローリーの人生は日本に来たことで一変してしまうことになる。

面白いところとして、風景がところどころ日本っぽい(看板が日本語だったり、自販機があったり)のだが、どれも微妙にズレているところだ。たとえば彼女の母親が暮らす家には畳ゾーンと普通の床のゾーンが何の段差もなければフスマもなく存在していて、何の区切りもなく床と畳がシームレスに繋がっている。畳は日本の象徴の一つだがその描き方はちょっと違うんじゃないか! 都会のど真ん中付近になぜか誰も寄り付かないような廃墟があったりと風景とか何もかも「たしかに、なんか日本っぽいけど、凄く違和感がある……」風に仕上がっている。

意図的なのか無自覚なのかはわからないが、もともとローリーの出自がアイルランド人と日本人の混合したカルチャーを体現しており、街並みやそれぞれの風景などの違和感はその混合を示しているところはあるのかもしれない。

ローリーの異常性

突然化け物に襲われて混乱しながらも、母親はジャパニーズ社畜であり自分の問題を話して心労をかけたくない……。何も言わずにローリーが学校にいってみればそこはちょっと雰囲気が悪くて、彼女は異分子だから速攻で孤立してしまう。なれない異国の地にやってきて、化け物共に襲われ、謎のウォーリアーガールに救われ、自分もなんだかよくわからない行動予測能力を発現し、学校では一人ぼっち。

なんというか、そこまで読むと「かわいそうだなあ」で終わる話なのだが、彼女はそんな状況下で突然トイレに駆け込んだかと思うと、ナイフを取り出して──リストカットでもするのかと思ったら自分の左腕に「一人(TRANSLATION:"ALONE")」と刻み始める!『…FOCUS ON SOMETHING REAL.』つって。いやいやいやいや、それはちょっと覚悟キメすぎじゃないですかね? 確かに恐ろしいことばっかりだし、一人ぼっちだしで精神的にやばいのはわかるけど、いきなり「覚悟完了」みたいにして腕に消えない傷を刻み込まなくてもいいんじゃないですかね? このシーンは本当にびっくりした。ここまでやる必要あったのか……。

日本的キャラクタたち

第二話では両腕に包帯を巻いた昔のヤンキー漫画でもあんまり出てこなそうな典型的な不良が出てきて、突然神社で妖怪みたいなもんに「力がほしいか……」とかいって身体を乗っ取られているのだがローリーが額に「弱」の文字を書き入れると正気に戻る。二人はトラブルメーカー同士、また謎の妖怪みたいなもんに遭遇してしまった者同士として仲間になるのであった。

その後はでかい骸骨に襲われているオタク少年(特殊能力持ち)を助けて仲間にしたりと、仲間を増やしながらなぜこの世界でも安全な都市である東京に妖怪が跳梁跋扈しているのかを調べていくことになる……。またこの妖怪の出し方が一匹一匹出してくるわけじゃなく、もうしょっぱなから「妖怪大戦争スタート」みたいな感じでぶっこんでくるから凄い。しかも妖怪だけじゃなく超パワーで浮いてる僧とかもいるし。なんだそりゃ。
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↑このページを開いた時めちゃくちゃ混乱した。妖怪に混じって僧がいるじゃねーか!

対向する味方は両腕にオーラをまぶして超防御力と攻撃力でぶん殴れるファイターに、なんだかよくわからないがとにかく強い女ウォーリアーに、なんだかよくわからないけれど精神干渉系・テレキネス系の能力を持っているオタクに、正しい道を予測する能力や言霊能力を持つローリーと色物揃いで妖怪大戦争に流れ込んでいくのはなかなかに燃える。前半二人キャラかぶってね? 

最後にはおまけページにはキャラクタラフやが載せられている。垢嘗、狐、狂骨、ぬらりひょんと1巻に登場する妖怪の解説がずらずらと並ぶのは──日本人のこっちからすれば知識があるからそんなに嬉しくはないが、まあ英語で書かれたぬらりひょんの解説とかなかなかおもしろい。

In the late Showa period(1926-1989),Nurarihyon got a promotion .He gained the reputation as a commander of yokai, leader of the Hyakki Yagyo.His elevated rank can be traced back to Shigeru Mizuki's seminal yokai comic Kitaro, where Nurarihyon showed up and announced himself as the Yokai Sodaisho.

Yokai Sodaisho.妖怪を扱う上できちんと水木しげるにまで言及し、参照しているあたり好感が持てますな。あ、日本語訳版はないと思うけど英語は簡単なので普通に読めると思います。

Uncreative Writing: Managing Language in the Digital Age by Kenneth Goldsmith

Uncreative Writingと書名がついているように、一般的にはクリエイティブじゃないよね、クールじゃないよねみたいなやり方で生まれてくるcreativeな側面もあるんじゃない? むしろuncreativeだと思われて手をつけられていないところにこそ、今後重要になるんじゃないの? と問題提起し、実践として著者のKenneth Goldsmithさんが自身が受け持っているclassで行っているuncreativeな授業内容の解説も行っていく一冊。現代における文章表現論として、またuncreativeな方法でこそ出てくるcreativeな側面もあるんじゃないのという実践編として面白い一冊なので、翻訳の出ていない洋書だが紹介しておきたい。何しろしょっぱなの文章からとばしている。ちょっと翻訳してみよう。

 ”この世界は文章であふれている。多かれ少なかれ興味深いものたちだ。私はそこに新しい何かを付け加えようとは思わない。”これは今日の書くことを取り巻く環境に適した返答にみえる。利用できる文章は空前の量存在しており、課題はもっとたくさんの文章を書くことではない。我々は既に大量に存在している文章との付き合い方を学ばなければならない。いかにして情報の雑木林を抜ける道をつくるのか、いかにしてそれを制御するのか、いかにして分析するのか、いかにして組織し、分配し自分が書いたものを誰かが書いたものと識別するのか。*1

Uncreative Writing: Managing Language in the Digital Age

Uncreative Writing: Managing Language in the Digital Age

たとえばWeb文化がここまで一般化した今、コピー&ペーストは手でちまちま書いていた時代より簡単にできる。今日では言葉は安価かつ無限に生成される為、破片のように散らばり、意味は少なくなっていると彼は本書で語っている。*2そんな時代に沿った、これまでにあまりとられたことのないアプローチ、コピー&ペースト、リミックスを駆使した書き方があってもいいはずだし、新しい表現の方法を考えるべきだ。たとえば単純にコピー&ペーストといっても、そのつなぎ方にはその人独自の「編集力」が発揮される。今だとWeb Servicesでトゥギャッターなどもあるが、アレなんかも編集する人によって随分とその内実が変わってきたりする。

で、実際にはuncreativeな書き方だけに焦点を絞った本というだけではなくて、プログラムの話から現代詩まで幅広く話題の射程がとられている。いったい何者なんだと思うところだが、編集者であり詩人でありwritingの教授をペニーシルバニア大学でやっている多彩な人間らしい。たとえば最初の章Revenge of the Textでは我々が全く気づかないうちにゴミクズのような文章に晒され続けていることを提示する。jpgなどの画像ファイルをテキストツールに放り込んでみれば、その中に含まれている文字情報が見れるはずで、それは人間が読んで意味が通る文字列情報じゃないけれども確かにれっきとして日々生成され続けている文章のほんの一部である。それは音楽だってアプリだって同じだ。

あるいは我々プログラマはシステム開発や普通にインターネットをするときでもLinuxなりWindowsのコマンドプロンプトなりで様々なコマンドを打ち込む。lsだったりcdだったり、こうした情報を打ち込むことでOSは配下のフォルダ情報を一気に表示したり、プロパティ情報を展開したりする。これも人間が生みだしたものではないが、自動生成され続けている文章の一部であるといえるだろう。この他にも文字の内容と、文字の並び自体がイメージとして意味を共通させているvisual art としての詩の表現(たとえば鳥が飛び立つことを意味する詩で、文字の並びが実際に鳥が飛び立っているイメージのようにも見えるなど)についての章など、現代における文章表現上の多様さが一通り網羅されているのが面白いところだ。

ぜんぜんuncreative writing関係ないじゃねえかと思うかもしれないが、大きく関係していくのは後半部分。たとえばジャック・ケルアックの傑作『路上』をretyping してブログに書き写していくプロジェクトが紹介される。最終的にこのプロジェクトは『GETTING INSIDE JACK KEROUAC’S HEAD』という書名で、路上と殆ど同じデザインで本として出すという詐欺みたいなことをやるのだが、書名からもわかる通りひたすら路上を書きなおしていくことでジャック・ケルアックの脳の中に入り込んでいかんとする試みだ。『既に書かれ終わっている偉大な物語を再度書き直すというuncreativeな試みの中で、私は何かを失ったのだろうか? 確かに言えることは、これ程までに一つの本に時間を使ったことも考えたこともなかったということだ。本を読む時、あなたはしばしば文章を外と中から読むことになる。しかしこの場合、普段テキストから読み取る以上のことを本から得ることになった。』と著者は語っているが、それはまあ、そうだろうなあ。

Getting Inside Jack Kerouac's Head: Simon Morris

Getting Inside Jack Kerouac's Head: Simon Morris

授業での実践編

こうした幾つかの「uncreativeな書き方がもたらす効用」の事例を経て、最後の方の章でGoldsmithが実際に授業で実施した内容の解説が入る。これがなかなかおもしろい・参考に出来る部分もあるかもしれないので、簡単にだがまとめておこう。1つは、ジャック・ケルアックの例と同じく「5ページ分retypeしてきなさい」という課題。書き写すという行為にはまったく創造的なところがない。しかし単純に書き写ことで必然的に深く考えることにもなるし、「この表現はおかしいんじゃないの?」とか「もっと良い表現を思いついた!」とか、「これはもっとよくなるんじゃないの!」と自分の方が詳しい・よく知っている部分についてcreativeな側面が発揮されることもある。

2つめが、音声の聞き書きだ。これもまた聞いたことを書くだけだから一切創造的な部分はない。ニュース番組などを聞き取って書くが、十人に同じ音源から書かせても一人として同じ物を書いてくる人間はいないという。もちろん聞き取りが間違っているなどもあるのだろうが、間のとり方、コンマの置き方、聞き取って、書くというだけで出てくるものは人それぞれのリズムが内在した文章になっているのだという。3つめが「transcribing project runway」で、なんのことかといえばチャットの記録になる。ただし、ただチャットで意見交換するのではなくテレビから聞こえてくる音を忠実に書く。主観的な考えやテレビ番組に対するコメンドなどは禁止されている。

実際に課題の実行例があげられている。生徒が一斉に自分の聞いた音を書き込んでいくから、同じテレビ番組をみている人は当然内容がかぶるんだけど、書き込んでいる内容が微妙にズレたものが並んでいたりしてちょっとおもしろい。ただ……パワフルエコーとミニマリスティックがあるなどと書いてあるが……あるか?? 意味がわからないが。4つめにあげられるのが脚本を、映像を見ながら書き上げること。ノベライズという意味ではなくて、実際の脚本形式に書き上げるのだ。fade in から書き始めてそれがどこでいつなのか、たとえばhouse - day 男が一人いて──のように。もちろん元となった脚本を見ることは許されないから、これも全く同じ映像を元にしても人によって驚くほど違った脚本を上げてくるのが面白い。

こうしたuncreativeな試みの肝は従来の文章修行では前提とされていた「何を書くか」の部分について悩まなくてもOKなところだろうなと読んでいて思った。ただ書き写す、聞き書きする、全員で同時に聞き書きする、映像をみて脚本を書き起こす、「何を書くか」で一切悩まず、ただ書くだけだが、必然的にその「ただ書くだけ」の部分で差が生まれてくる。「何を書くか」の部分が一般的には「創造性」の部分といわれるところなのだろうが、あえてそこをすっ飛ばすことでただ書くべきものを書かせるだけでその人独特の「個性」みたいなものが出てきたり、「何を書きたいのか」が表出してきたりする。

「何を書くべきか」で悩み、葛藤している人も多そうだが、本書で語られているようなuncreativeなcreativeさという考え方はひとつのヒントになるのではなかろうか。TwitterやFacebookの登場、ブログやtypingの容易さから我々と文章の取り巻く環境は一気に激変してしまった。Twitterが必然的に140文字制限を強いるように、環境が我々を強制的に変更する部分もあるが、強制されない部分についても我々はこの時代にマッチした、この時代だからこそできる情報との付き合い方、利用法を学んでいく必要があるのだろう。網羅的で絶対的な本というわけではないが、文章表現について一冊でずいぶんと広い領域の話題をカバーしている良書だ。

*1:p1

*2:“Because words today are cheap and infinitely produced, they are detritus, signifying little, meaning less” (218).

Alone Together: Why We Expect More from Technology and Less from Each Other by Sherry Turkle

本書『Alone Together: Why We Expect More from Technology and Less from Each Other』は2011年発刊の物。出版された本国ではどの程度の評判でもって受け入れられたのかは知らないが日本じゃまだ未訳なんだよね。『衝動に支配される世界』という本で引用されていて読んでみたのだが。15年がかりで主に20代前半までぐらいの若者を対象に「デジタルとの関係性の影響」調査で実施したinterview等を元にした一冊。

全体的にまとまっていて良い本ではあるが、正直interviewや話を聞いて構築した本なんでこれを元に何がどうとか、社会を論じることができると思い込むと危険な物でもある。が、ロボットやAI、VRといった今後伸びてくるであろう分野と人間の関係性がどうなっていくのかと考察する部分はなかなか読み応えがあり、僕が常日頃から考えている事も含めて重なる部分が多いので軽く紹介しようかと思う。自分のバイアスを強化しているだけにも思えるが、割と未来まで含めて各種デバイスと人間の関係性を考察する本は貴重だからね。

主に二部構成になっていて、第一部が今書いたところのroboticsやai、vrといった物と人間の関係性はどう移り変わっていくのかをかなり射程広く扱った部分。第二部がNetworkedと題された章で、常にFacebookやTwitterの反応に追われて我々の集中力が細切れになっている──とか、プライバシーの問題などに触れていく。こっちはまあ、より専門的に扱った類書もばんばん出ているので特に触れなくてもよいかな。この本の中でもよくまとまっているとは思うけど。

翻訳されるのかどうかもわからないから多少まとめる気概をみせよう。基本的に第一部に的を絞っていくけどここで面白いのは──というよりアメリカのポピュラーサイエンスノンフィクションのかったるいところでもあるんだけど異常に具体例が多いところ。とにかくこんな例があってね、こんな例があってね、こんなことを専門家が言っていてね、と具体例で説得力を増そうとする。確かに具体例はわかりやすいんだけど所詮サンプル数1でしかないからあんまり当てにならないし専門家の発言もいくらでも恣意的に引用して意図を変えられるので安易に信じるのは危険である。

でもこの本の場合はいろんな人にロボットとの関わり方の話を聴いたり、そもそもロボの数も日本のジェミノイドの開発者石黒さんとかparoと開発者の柴田さんとか幅広くとっていることで徹底しているのがよい。石黒さんは日本では有名だけどparoの柴田さんは(外国での評価は高いけど)日本での知名度は低いよね。ロボット以外でもたまごっちやAIBO、ファービーのようなdigital petとの関わり合いまで事例に取り入れてとにかく徹底的に、technologyと人間にどのような関係性がありえるのかを考察していく。ただ、持っていきたがっている結論は明らかで、「人間はロボットと肯定的な関係を構築できる」というもの。

たとえば実際にAIBOに癒された、たまごっちが死んだのが悲しかったという人もいるわけで、現在の(というより過去の)出来の悪いロボット&デジタルペットであったとしても人はそこに感情移入することができる。将来的にはたとえば介護ロボは必須だろうし、一日中手間がかかるベビーシットもある程度は任せられるロボが出てくるだろう。そうなったときに幼い頃からある程度相手をしてくれるロボ、それも自分の思い通りになる存在がいたら今後のデジタルネイティブはたぶん僕の世代(平成元年生まれあたり)以上にロボットと人間の間に関係性を結ぶことに抵抗感を感じなくなるし、そこにはまったく新しい関係性が構築されているに違いない。

その世代の子供達は"relationships with less" that robots provide状態へと移行していくだろうと暫定的に結論する。こういう考えはかなりもっともなロジックだと思う。ロボットの進化の方向性についても面白くて、既に考案されているaffective conputingという概念も紹介されている。人間はたとえそれがロボットであっても苦悩して見えるlikeableなものには苦悩を実際に見出してしまうものだから、感情を前提とした設計をしようというもの。もしロボットをより身近な物にしようと思ったら感情表現をするロボットの方が(たとえそれがプログラムされた動作だとわかっていても)受け入れられやすいだろう。

I have come to the conclusion that if we want computers to be genuinely intelligentm to adapt to us, and to interact naturally with us, then they will need the ability to recognize and express emotions, and to have what has come to be called 'emotional intelligence'

ロボに的を絞って話をしてしまったが、話を多少広げよう。本書で何度も繰り返されるのは「デジタルネイティブはテキストメッセージを重視し、電話を嫌う」というもの。2011年に出た本だからinterview対象には僕もぎりぎり含まれているぐらいだけど(2011年当時22歳)、確かに電話は大嫌いだ。発言した内容がログに残らないし、テキストなら自分の好きなときに返信できるのになぜわざわざ電話をかけてくるのか理解できない。発話だと瞬時に考えて裏も取れないけど、テキストなら考えて調べる時間も与えられる。

こうしたある意味ではわがままな性質は増すことはあれ減ることはないだろうというのが本書のロボという支流を統合する大きな流れの一つ。たとえば「好きなときに返信できる」というのがテキストでやり取りすることの大きなメリットだ。そしてそれはインターネットそのものの機能でもある。好きなときに調べ、好きなときに動画を見て好きなときに返信する。テレビのように時間を指定されるのは我慢ならないしみんなが同じ時間に集まらないといけない学校も気に食わない。実際別々の人間を同時に何かやらせるというのは非効率だ。誰しも自分のやりたいこと・やっていることがあるんだから。

いまだに小学校、中学校、高校などはリアルタイム同期性にこだわっているがあんだけ広大な場所を容易し維持し続けていくのは完全に非効率だし、移動は危険でさえある。たまに行事などで集まるときは広い場所を借りればいいだろう。正式な義務教育も順次オンライン受講に切り替わっていくことになると思う。もちろん学校はコミュニケーションを学ぶ場でもあるとする考えもある。だが、オンライン受講が当たり前になった世代が仕事をし始める時代になったら当然会社に集まるなんて事を当たり前に受け入れるはずがないから、分散性はより高まるはずだ。

技術の発展に伴って人はみな自分なりに生活をカスタマイズできるようになっていったともいえる。靴のサイズが異なる人間に無理やり同じサイズの靴を履かせてきたのがこれまでだったとすれば、一人一人の人間に存在するズレを強制的に合わせる必要がなく適正なサイズの靴を履けるようになってきている時代とも言えるだろう。今はまだテキストのメッセージだろうがオンラインゲームだろうが交流する相手は同じ人間であることが多い。でもこれも今後は変わっていくだろう、というのが本書の中核の部分。AIが発展しRoboticsが発展しVRが発展したら人間が人間と交流をする必要は今よりもっと減るだろう。

一緒に将棋をやろうと思っても良い対戦をしてくれる相手が人間であれば最低でも時間だけは同期しなければならない。おしゃべりがしたくても同じで、アニメの話で盛り上がりたくても今じゃあAIじゃ話にならない。でもAIが発展しロボットが発展しまるで人間と触れ合うかのように関係性を結べるようになるとしたら、その時人間は場所的な同期だけでなく時間的な同期からも解放される。

このように考えていくと個が独立し、分散する社会にどんどんと近づいているのかもしれない。この結論は僕の実感とも一致するところではある。本書は第二部でnetworkで繋がる若者世代の注意力が削がれていることや、関係性それ自体を考え直さなければならないということもいうが最初に書いたようにこちら自体は(事例集としての幅の広さとある程度の面白さは担保されているにせよ)そこまででもない。

もう4年も経ってると翻訳されるかどうかも怪しいのである程度包括的に書いてみた。もっとも記事の特に後半部の喩え話とかは本書の要約から少し離れて僕自身の考えをできる限り本書の意向に沿った上で述べたものであることには注意されたし。

Alone Together: Why We Expect More from Technology and Less from Each Other

Alone Together: Why We Expect More from Technology and Less from Each Other

You Are Here: Around the World in 92 Minutes by Chris Hadfield

Chris Hadfieldといえば100万人を超えるTwitterフォロワーを抱えるカナダの宇宙飛行士で、宇宙ステーションに滞在中日々Twitterに映像を投稿していた元気なオヤジだ。日本でも若田光一氏など、最近はSNSで宇宙からの写真、生活をアップしてくれる人が増えている。僕はそういう写真を見るのが好きなので、それなりにフォローしていたのだが今回はそのものずばりな、Chris Hadfieldさんが宇宙ステーションの中から地球を92分でぐるぐると回りながらとった写真集が出ていた。45000枚も撮った中からの厳選されたものなのだ。写真一枚一枚に多少の説明だったり解説が文章で入っているが、英語が読めなくてもぱらぱらとめくっているだけで、ぎょっと驚くような写真だったり見惚れるような写真ばかりなので楽しい。写真集なんだから本で欲しいところだが、Kindle版だと1000円足らずで買えてしまうのでKindleで。

Looking down at our largest and most densely populated continent, I was struck by the endless variety of sharp contrasts, and by the fact that some of the most ravaged and forbidding landscapes on Earth are so incredibly beautiful from space.

場所的にはアフリカから始まってヨーロッパ、アジア、オセアニア、アメリカと世界中を巡っていく。合間合間にすげー川、すげー雲、すげー山だったり地形だったりの写真が挿入されるので、まあ飽きない。世界は広いというか変な場所がいっぱいあるなあ。雲がてんてんとしているのを一望するだけでもスゴイし、夜と昼、灯の点灯具合によって街の景色が一変するのもみていて楽しい。街の灯で狼のように見える場所があったり、亀のように見える場所があったりする。Chris Hadfieldは2012年の12月から2013年の5月までの間滞在していたようで、そんだけいて45000回も写真とったらさすがに飽きるんでねーのと思ったりするのだが、どうやらそういうこともなく毎回毎回新鮮な驚きがあるようだ。

Those wonders are endless. My final space mission lasted five months, from December 2012 to May 2013, yet I never tired of looking out the window. I don't think any astronaut ever has , or will. Every chance we have, we float over to see what's changed since we last went around the Earth. There's something new to see because the planet itself is rotating, so each orbit takes us over different parts of it.

なぜなら地球は自転しており、巡る度に違う部分を見せてくれるからだと。

宇宙飛行士の書いた本も好きでいろいろと読んでいるが、みな一度でも宇宙にいって地球を外から眺めるとポエミーな気分になってくるのかノリにのった文章を書いてくれるものだ。もちろん本書は写真集であって文章の本ではないけれど、ところどころに挿入されるポエミーな文章も読み応えがあって良い(最初に引用した部分とか)。しかし写真を眺めていると、こんな風景を写真としてではなく全身で感じ取れたら、そりゃあポエミーな気分になるだろうし、人生観もガラッと変わってしまっておかしくないよなあと思う。一気に博愛主義者になるとはいわないが、宇宙からは目に見えない国境線などの問題について、いろいろな悩みがちっぽけに見えてくるものなのかもしれない。

わずか200ページ足らずの本だし、ぺらぺらとめくっていれば1時間程度で読み終えてしまう。それでもそのうちのいくつかが心に残れば、自分がいまいる周囲の世界を飛び越えて、外へと目が向かっていくきっかけになるだろう。写真を見ただけで、別に人生観が変わったりはしないだろうが、意識されない部分で残るものも多い。文章よりも、写真の方が情報量としては大きいのだ。

最後に何か一枚ぐらい写真でも載せておきたいと思ったが写真集で写真を載せるのは完全に引用の範疇を逸脱しているような気もするし、著者のTwitterからよさ気なものをピックアップしてみた。いやあしかしこんなものが普通にネットでただで見れて国際宇宙ステーション滞在中の人たちの体験記が日々みれるんだからほんとにイイ時代だなあと思うのである。


You Are Here: Around the World in 92 Minutes (English Edition)

You Are Here: Around the World in 92 Minutes (English Edition)

Invisible Beasts by Sharona Muir

いんびじぶるびーすつ。目に見えない獣が人類を襲う──! 的なパニックサスペンスSFかとおもいきや見えない動物を見ることのできる目をもった女性が、生物学的な分析というよりかは、自分が観察してわかったことなどを体験談を交えて語っていくスタイルだった。分類や名前も語り手の女性が勝手につけたものが大半で、順繰りに「その辺によくいるいんびじぶるびーすつ」、「絶滅した、もしくは絶滅しかかっているいんびじぶるびーすつ」、「凄くレアないんびじぶるびーすつ」のように、基本的には珍しさによって章分けされ、一種ずつ語られていく。

これが世間一般的な感覚かどうかわからないのだが、僕はこういう架空生物史みたいなのが大好きだ(もちろん架空じゃない生物史も好きなんだけど)。「この動物はこういう生態を持っていて、こういう面白い特性があって、こんなことをするんですよ」とか語られるとキタキタキター!! オモシレー!! と興奮してしまう。架空生物とはいっても、「こいつは本当にいるかもしれないぞ」と思わせてくれるのが重要で、現実と地続きのところに存在していそうな感覚があるからこそこんなやつがいたらどうしようと想像が広がっていくのだ。

imaginary animalの語られ方

本作に出てくる動物は蜂にワニ、人類に蝶、輪虫に犬に蝙蝠とばらっばらな顔ぶれだが、それぞれの生態はほぼ現実の類似生物と共通しているか、それをほんのちょこっとアレンジされてイマジネーションをふくらませた形になっている。現実的な観察結果からはじまって、だんだんとこの世に存在しないオリジナリーな部分に空想が広がっていく、そのバランスが、かけはなれて非現実的なわけでもなく、面白みが失われてしまうほど現実的なわけでもなく、非常に面白いし技術的にウマいと思った。

たとえば蝶の説明なんかは、最初は3000マイルもの長距離航行をするGrand tour Butterflyとして紹介されるのだが、これはまったくオリジナルな設定ではなく現実にもオオカバマダラはカナダからメキシコまで4000キロ飛行したりするし、存在しない設定ではない。で、「なんだよ、そんなの現実にもいるぞ」と思いながら読んでいると、その蝶達は編隊時、外的に襲われないように三次元のイメージを描くようにして飛ぶなどという一歩想像を飛躍させるような話が出てきてうおおおおすげえええと読みながら興奮する。さっき書いた「あれそんなの現実にいるよなあ」から「うおおお確かにそんなやつがいてもおかしくないかもーーー」と思わせるこのちょっとした飛躍が素晴らしいのだ。

You can thank their unusual scaling. All butterflies have scales consisting of the flat, hard ends of tiny fibers, arranged like a mosaic. On Grand Tours, instead of a flat mosaic, the fiber ends stack up in a three- dimensional pattern, much like the patterns that produce the 3- D image in the corner of your credit card. Grand Tours, essentially, are flying holograms. This variety depends on aposematic patterning, i.e., colorful patterns that warn predators away. Most butterflies’ colors tell the predator, “You can’t eat me because I taste awful, may be poisonous, and you’re really not that desperate.” The Grand Tour’s travel pictures tell predators, “You can’t eat me because I’m far away in a foreign country.”

面白いのがこうしたBeastsの特性がただ紹介されるだけじゃなくて、語り手の体験談と紹介がシンクロしていくところだ。たとえば正直に話をする人の近くによってくるTruth Batと名付けられたこうもりがいるのだが、語り手の女性が妹に対して嘘をついた時に彼女の側からTruth batが消え去っていってしまう場面が、ショックと共に語られていく。特殊なこうもりの特性とドラマ的な部分が同時的に語られていて効率がいいというところもあるし、そもそも僕が、こういう個人の視点が感じられるエッセイ、体験記、観察記が大好きなのだ。

これについては読書原初体験、初めて自分で文字を積極的に摂取し始めたのが、シートン動物記やファーブル昆虫記だったことも関係しているような気がする。ファーブル昆虫記の面白さは、さすがに読んだ記憶が曖昧になっているけれども「身近なものを観察してそこから意味を引きずり出していく」ところにあったんじゃないかと思う。それは図鑑のようにデータ的ではなく、学術的な定義や文章で覆われているわけでもなく、ファーブル自身が昆虫をみて、観察していくある種の体験記になっている。

幼き日の自分が、昆虫がどのような機能と特性を持っているのかについて、わくわくして読んでいたことは間違いない。間違いないが、同時にファーブル自身の目線がそこには表現されていて、「どこに目を向け、どうやって情報を引き出すのか」、そして何より「わくわくして昆虫を観察するファーブル自身の興奮」にシンクロするように楽しんでいたんだと思う。本書の語り手は生物の専門家としてではなく、自分が動物たちとどのように関わってきて、自分がどのようにその特性を知ったかを中心に語っていく。そこにはやっぱりファーブルの時のような、「世界の真理を確かめていく」生々しい興奮が表現されていて、そこがまた面白かった。

本書一冊を通して、時系列的に何かの物語が進行していくというわけではない。あくまでもInvisible Beastsを通して、語り手の女性のエピソードがばらばらに語られていくだけだ。ただ一応、「Invisible Beasts」は結局何なのかといった部分の謎についてはちょっとずつ明かされていって、それがパズルのように組み上がっていって後半に盛り上がりを演出していくところはある。たとえばInvisible sharkの説明のところでは、誰にでも見える鮫と、見えない鮫が実は海では共生関係として一緒に存在していることが語られていく。

つまるところ我々の生活の中で、よくわからない現象は、実はInvisible Beastsの存在によって説明できるのでは? という仮説がその情報が明かされた時点でいろいろ浮かんでくる。たとえば人間が「魂」と呼称している部分、我々が意識と読んでいる部分もまた、Invisible Beastsとの共生関係によって、見えないもののそいつらが働いて我々を一緒に構成しているのではないか? 我々は目の前にあるコップをとろうとするときに、腕をどの角度で差し出してニューロンをどのように発火させて……などと考えない。Consciousnessは自分自身にあると感じているが、そこに至るThoughtを担当している存在がいるのでは? 

現に我々の身体は大量の微生物が巣食っており、すでにして共生関係にあるのだからInvisible Beastsがそうした共生関係に絡んでいたとしても不思議ではない。のちに紹介される「紙に印刷されたインクを食う輪虫」、こいつらがいるせいでインクがかすれていくんだよ! なんて話もあるし、こういう我々の生活に非常に身近な部分にInvisible Beastsが関わって、そしてそこら中に見えない生態系が我々の世界には存在しているかもしれない、と想像をふくらまされていくので、書かれている事以上に情報として広がっていく。

技術的にも文章としてかなりウマいし、構成として変則的な作品でもあるのでベテランが繰り出してきた一作かとおもいきや、著者のSharona Muirはこれが二作目(しかも純粋な小説作品としては一作絵)のほぼ新人作家だ。でもまあアマゾンの経歴を見る限りでは、彼女は今大学のクリエイティブライティングの授業を受け持っているProfessorだから、ウマさについてはある意味納得だったけど。『She is currently Professor of Creative Writing and English at Bowling Green State University.』*1

見えない動物を扱うことについて

そもそもなんでこんな「見えない動物」を現実に導入して作品にしようと思うのかといった発想部分が謎ではあったけど(それこそ現実に起こる不可解な事実を全部妖怪のせいとして回収した妖怪ウォッチ的な)、作中で語り手がいうところの“we need to see the beasts that we don’t see.” 私達は見ることの出来ない動物を見る必要がある。という言葉に象徴されているのかもしれない。

たとえば現実の生態系は直接的には見ることがほとんどない。蜂が花粉をせっせと運んで受粉の媒介になっているから様々な植物が育つわけだけど、そうした「関係性」として、広い視野ではなかなかみれないものだ。そして生態系がなくなったあとであそこはクリティカルな部分だったんだと事後的に気がつく。つまり、目に見えない生態系の比喩的な存在として、Invisible Beastsが設定されているところはあるのかもしれない……とかなんとか「俺の読みはすげえぜ」的に書いたがこれ、単にインタビュー記事を読んで書いてあったことを汲み取って書いただけだったりする *2

この他にもいろいろと面白いことを語っており、たとえば現実との地続き感については現実の生物学者と話して、インターネットで漁ってきた奇妙な事実を元に考えてイマジナリーアニマルを考えて言ってみると、大抵の場合「それはいるよ!」と返ってきたという話などもおもしろい。

Invisible Beasts began as a game played with some biologist friends. I would glean a few odd facts from the Internet, and then invent an imaginary animal based on them. I would then describe the imaginary animals to the biologists. Typically, they would reply, “Oh yes, there’s a creature that does that.”

うーんそうなんだよね。現実の動物ってそれ自体すでに「嘘だろ」と言いたくなるような不可思議な性質を持ったヤツがいっぱいいる。だからこそ不可思議な架空生物をつくるのはバランスの面で難しい(あまりに突飛すぎると現実感がないし、現実的にすると似たようなのが既に存在しているし)けど本作のバランス感覚は生物学者の協力あってのものだったのか。

まとめ

長くなってきてしまったのでそろそろまとめに入るか。紹介しきれていないのだけど他にもいろいろと面白い要素がある。たとえば伝説上の生き物であるクラーケンも、本作ではInvisible Beastsとして紹介される。それは直接的に見れるわけではなく、死体の残骸などから存在していたと推測されるだけなのだが、そうした「この世にはすげえものがいるんだなあ」と思わせるわくわく感が本作最大の魅力だったと思う。そして嬉しいのは語り手の女性が、自分と一緒にそのわくわく感やドキドキ感を共有してくれることだ。

この世の摂理みたいなものに近づいていく時、ものすごい興奮を覚える。それは昆虫や動物の仕組みについて知った時も同様だけど、なんだろうな、シートン動物記やファーブル昆虫記を読んだ時の興奮は歳を経るごとにどんどん薄れていってしまったような気がする。それは自分自身に知識がついてきて、そうそう簡単には驚かなくなったということもあるだろうし、そこまでの想像力がなくなってしまった、衰えたこともあるのだと思う。

しかし本作において久しぶりにあの時の純粋に「動物って、昆虫ってすげー!」と目を輝かせて読んでいた時の楽しさが蘇ってきた。本作は現実の動物からのイマジネーションを飛躍させることでその興奮を達成させてくれている。久しぶりのSF良書であった。

Invisible Beasts

Invisible Beasts

The Madonna and the Starship by James Morrow

James Morrowの新作。この人名前に聞き覚えがあったんだけど翻訳は本としてはないようだ。ただ短編がSFマガジンにはどうも載ったことがあるみたい※@biotit(橋本輝幸)さんに教えてもらいました。ありがとうございます。

190ページ弱なので中編ぐらいの内容なんだと思うが、Kindle版だとページ数表記がないからよくわからない。まあ3日で読めたのでそんなに長くはないのだろう。1950年代の古き良きテレビドラマ黄金時代、中でもとりわけSF、くだらない、やすっぽい話としてのパルプフィクション脚本家たちの一幕を書いた一冊。

先に大雑把な感想だけ書いておくと、かなりくだらなくてそこまで面白いわけではないが、読みどころはいくつかあるといった感じ。

本作において1950年代(1953年)に時代が設定されている意図は、当時のテレビドラマ状況を再現するとか、ノスタルジーに浸る為のものではなく、宗教観が変わりつつある時代における宗教を扱ったテレビドラマ作品の革命をメインに据えて話を創るためのものとして機能しているだけなので、当時の空気感を味わうためには使うことは出来ないだろう。

まあたかだか190ページの物語なのでそう何もかも描写できるわけではない。宗教風刺について、「こんな内容を描いて、本当に許されるのか!?」みたいなサスペンスのノリで展開していくが、宗教文化の前提を持たない僕のような読み手からするとどうにもよくわかんなかったな。つまり、神に対してのフィクション上のお遊びとして、どの程度の冒涜が許されて、どの程度は冒涜とみなされないのかその境目がどうにもぴんとこない。実際本作で冒涜的とされているシナリオも「そこまでいうほどのものか?」と思ってしまったし。もちろん「これは相当な冒涜なんだろうな」とノリを合わせて読むことはできるので本質的な問題ではないだけど。

物語の主役Kurt Jastrowはフルタイムのテレビドラマ脚本家で、自分が執筆しているSFドラマのエピローグでメタ的に作品内で行われている科学的説明を子供に向かってするという役者の役目も行い、時たま小説も書くというなかなかのやり手である。しかし突然青いロブスターっぽいQualimosansという地球外惑星からやってきた論理実証主義者がやってきてKurt Jastrowのファンだと宣言し、トロフィーを勝手に与えてくる。それだけなら気の狂った良い宇宙人もいるようだなといって終わるはずだが、たまたま見たドラマのリハーサルが「パンは肉に変わるし病人はたちどころに治るしこんな番組を見ている奴らは非理性的なクソどもだぜ。非理性的なヤツラは全員大虐殺だぜ」と無茶苦茶なことを言ってくるのであった。

なんだそりゃと言いたくなるし読んでいて「なんだそりゃ読むのやめようかな」ぐらいは思ったが、作中人物的にはこんなことを言われたらなんとかしないわけにはいかないのでKurt Jastrowとその想い人Connieは青い甲殻類に完膚なきまでに否定された宗教シナリオを宗教に風刺的な内容にリライトする羽目になったのであった。これは今でも存在するのかどうかわからないが、特定の枠にreligious programのように、宗教宣伝を目的としたようなドラマを放映することがあったらしく、今回青い甲殻類に批判されたのはこのドラマだったらしい。

面白いかと言われればそんなに面白くはないが、読みどころはいくつかある……と最初に要約して書いたが、「そんなに面白くない」の部分は、今どきこんなコミカルに宇宙人がきました的なノリを小説でやられてもどう受け止めていいのかわからないというのがある。うまくこうした宇宙人が物語の中で機能しているのならばいいんだけどなんか本当に、ただ「シナリオの書き換えを促すだけの存在」として描かれているようで、「それこんな無茶して宇宙人出す必要あるか?」という。こんな文章を大まじめに書かれてどう反応していいのかよくわからなかったよ

Before we sought you out in conference room C, I used this transceiver to contact Yaxquid, the navigator of our orbiting spaceship. From beneath her carapace Wulawand produced an object suggesting a green ocarina. "Acting on my orders, he placed our X-13 death-ray projector on standby alert Come Sunday morning, shortly after the Bread Alone cult has gathered around their television sets─"

death-rayとは笑いをとろうとしているにしてもまあちょっとひどすぎる気がする。こういうものなんだろうか、こういうもののような気もするなあ……。受け手の僕側の問題かもしれない。パルプ・フィクション脚本を書く脚本家たちを書いた本作もまたパルプ・フィクションであることは自明であり、パルプ・フィクション論にもなっているのが本作の特徴の一つではある。だからこそこうした自己言及的な、明らかに自覚的な古臭い安っぽさ、安易さはメタ的にギャグとして楽しめるのだろう。イマイチノリきれなかったが。

宇宙人以外の部分でいえば、企てている所の意図がわからないわけではないが……ようは宗教的な考えが優勢な時代において科学的な考証を必要とする流れがうまれて、そのどっちもをどたばたしながら行き来するという視点にある種のパルプフィクションとしての喜劇的面白さと宗教観に揺さぶりをかけるテーマ的な面白さが両立されているのだと思うが、まあさっき書いたようにここはどうもぴんとこなかった。

逆に読みどころはどこかといえば、1950年代の脚本家や役者同士のやりとり、空気感かな。毎週火曜日にKurt Jastrowと脚本家仲間が集まって自分たちが毎週請け負っているシナリオの問題点などを指摘しあう検討会を行うんだけど、この時の「君の脚本ぜんぜん矛盾してるんだけど??」「いやいやそれは矛盾してるんじゃなくてね……」「私こんなのやってたらテレビのチャンネル変えるわ」「俺は変えない!」みたいなクリエイター同士のブラッシュアップの過程がまず面白い。そしてKurt自身が、著者のパルプフィクション観、SF観の表現にもなっている。

“‘Tangible nothingness’? Really, Kurt, that’s a contradiction in terms.”
“No,it’s science fiction,” countered Howard, muting a strip of bacon. “it doesn’t have to make sense.”Of my three fellow Underwood Milkers, only Howard was unseeingly sympathetic to Brock barton, though he seemed incapable of exhibition this loyalty withoute making condescending remarks about science fiction per se. “if I were a kid encountering Kurt’s spectral sphere, I’d think it was swell.”
“And if I were a kid encountering Kurt’s spectral sphere, I’d switch channels to Crusader Rabbit,” said Connie, pouring syrup on her French toast.

あとはドタバタとリライトを重ね役者とプロデューサーを説得しなんとかかんとかリハーサルを終えて「俺達は面白い、革命的なものをとったぞ!!」と興奮している時の虚脱感伴う描写がいちいちしっくりくる。こういう要所要所の描写が実にさり気なくいかしていて読むのが愉しい。

The rehearsal ended shortly after 11:00 P.M. I bid Marshall good night, gave him ten bucks for his troubles and, taking hold of my valise, climbed the stairs to Connies sanctum I entered quietly, knowing sh might be in the midst of a creative meditation, but instead I found her talking on the phone.
With a wary eye I surveyed the console, a science-fictional installation comprising the switching device, the audio mixing board, and bank of small monitors labeled camera 1, camera 2, camera 3, preview, air, and film chain. Everything seemed fully functional. Connie cradled the handset. Having discarded Lennny’s motorcycle jacket, which now hung over the back of the technical director’s chair, she presented herself to me in the same maroon silk blouse she’d been wearing since we left the studio on Friday afternoon.

他に特に印象的だった場面といえば、冒頭でKurtが自己紹介的な独白をしているところだったな「なぜ幸福をつかむ場所としてニューヨーククを選んだの?」という質問にたいして僕はいつも「木の為にきたのさ」と答えている。この納得のいかない答え、木ならペニーシルバニアでもどこにだってあるじゃないか──といった疑問にたいして即座に答えを付け加える。

『That is, I came for the greatest of all the good things trees give us, better than fruit or shade, better than birds. I speak of pulp』つまり木は木でもパルプ・フィクションの為だよ~んというなんかこう改めて読んでみると人をナメくさったような受け答えだが、キザでかっこ良くしかし言ってるのはパルプ・フィクションへの愛というどうしようもない感じが良い。

全体的に宇宙人が関わってくる部分については納得いきかねるが、それ以外のシナリオをブラッシュアップしていく過程、シナリオをリライトして俳優人やプロデューサー人を説き伏せて、なんとか放映までに改変を終えようとする至極まっとうなパートについては満足いく内容だった。本書の題名になっている『The Madonna and the Starship』はこの作中作で改変が行われたシナリオの題名で、地球生まれの宗教が銀河を汚染する前に宇宙人が阻止しにくるような話になっている。

The Madonna and the Starship

The Madonna and the Starship

Memory of Water by Emmi Itaranta

作家:Emmi Itarantaのデビュー作。ほとんどの情報が明かされないまま話が進行していく、世界崩壊後の世界を描いたもの。洋書SFをあさっているとほんとに今はこの手の「世界崩壊後の人類」を書いた dystopian fictionが多くてお前らそんなに今の世界を崩壊させたいんかい、どんだけ現代が嫌いなんやとだんだんと辟易してくるんだけど、これはシンプルで、さっぱりしていて、割と面白かったな。描写は一つ一つがとても印象的で、映像として頭のなかにありありと浮かんでくる楽しさがある。

人類文明が崩壊しちゃうぐらいなにかすごい事が起こったんだからそれが何か知りたいと思うのは自然な欲求だと思うし、かつては栄えていた都市が荒廃し廃墟とかした世界を見て回るのは「破壊の美学」みたいなものがあると思う。いったん全部破壊されることによって我々の世界がどう成り立っていたのか、大切だったものはなんなのかといったことが懐古的に思い浮かべられることに成る。

ニュートラルな世界崩壊物では生き残った人類が原始的な状態に戻り、命のやりとりを日常的にするようになって欲望がわかりやすくなったりと作劇的に面白いところがいくつも出てくるが、本作の面白いところはそうした事をほとんど描写しないところだろうか。Amazonの内容紹介ではカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』が引き合いに出されていて、読んでいるときはまったく想像もしなかったが言われてみればまあ確かにという。あんな感じで特に世界観をガッツリ説明するわけでもなく、文明が崩壊してしまったあとの世界で、その世界を当然のものとして生きる少女と、そんな世界にも確かに希望はあるのだと思うところまでを丁寧に描いていく。

語り手は17歳の無知な少女で、もう自分たちの世界が当たり前なので、我々読者のようなかつての人類向けに「これはこういうことで〜」といちいち説明したりしない。説明をばっさりと切り落として、世界観についての断片的な情報をばらまきつつ少女の内面に情報を集中させ寄り添っていくスタイルはデビュー作とは思えないほど洗練されている。

それでも人類文明崩壊後からしばらく時間が経っているであろうことなど、いくつか状況から推測できる。それは過去の文明危機が地面に埋まっていて考古学のように掘り出す人達がいたり、現在の国家や人種が入り混じってぐちゃぐちゃになっているところからもわかる。相当な時間が経たないとそうはならないだろう。たとえば日本人名としてTaroさんが自然に出てきたりする。地名も中国などを思いおこさせるようなネーミングのものが多く、相当時間が経ってコミュニティや場所も大きく移動したんだろうなと想像できる。

で、タイトルにもあるとおり気候変動によって淡水が不足している、とにかく水不足の世界のようだ。語り手の少女がいるのは辺境の田舎町だが、都市部では戦争も起こっている。少女の父親はtea masterとかいう謎の職業で、少女が17歳になった機会にtea masterが代々受け継いでいる秘密を託されたりする。この職業、結局何が何なのかよくわからない。日本の茶道やらなんやらを混ぜあわせて、一応茶を入れる人ではあるようなのだが、tea celemonyのような形で儀式を執り行う人的なイメージになってしまっているのが面白い。

しかもとにかくその儀式が具体的に説明されない(とにかく茶を入れて出すことだけはわかる)上に、茶を入れる以外のこともたくさんやっている。たとえば水源を管理していたり前時代からの謎の記録を持っている研究者としての側面も持っていたりして、その職業、茶を入れる必要ある?? ていうかいろんな役目をtea masterに押し付けすぎじゃね?? と思うが。まあ「茶」にそういう「なんでもごたまぜにしてもいいよね? 別に。茶だもん」という勢いがあるのかもしれない。地名も人名もとにかく「時間が経ってしまってごちゃまぜになってるんだよ」という話なので、和洋折衷なtea masterもその象徴のひとつだろう。

このtea masterである父親はなんと自分だけが知っている水源を管理していて、増えすぎたり減りすぎたりした時にこれを管理する秘密の役目を持っている。だがこれは別に村人に解放されているわけではなく、自分たちの特権利益として好きなように使っている。え、それ解放しないわけ?? ドン引きなんですけど。まあ確かに大勢に解放してしまったら一気に枯渇してしまうのかもしれないが、水不足で風呂に入れないとかそういうレベルではなく、人間が死んでいたり、割当量が少なくて子供が死にかけている世界なので普通に外道に見える。

作品全体を通して意図的なのが、こうした「あきらかに外道なんじゃ……」と思わせるような、「現代人の感覚からすれば明らかにおかしいけどそこに疑問抱かないんだ?」というところが少女的には違和感なく受け入れてしまっているところだ。それは17歳の、しかも当事者なのだからある意味当然でありリアリティがあるといえるだろう。かなり違和感を覚えるが、それはたぶん「現代人の感覚を持った人達」をSFであろうが歴史物であろうが殆どの場合主軸に据えていて、それに僕も慣れきってしまっているからだろう。

なのでこういう入りにくい主人公は違和感自体が面白いと思う。

大まかなプロット

プロットは大きく分けると二つ走っている。一つはやはり「tea master」としての伝統を守り水の番人として生きるやり方。そしてもうひとつはそうした伝統を放棄して、別の場所に移動しようという「旅人」、研究者としての生き方。これは彼女の両親に端的に現れていて、父親は伝統を、母親は移動を提唱して彼女に分裂を迫る。そして同時に親友のSanjaはバラストとして存在していて、彼女の判断に常に影響を与え続ける。この揺れ動きが常に物語を前に進めていくキッカケになる。

こうした分割が面白いのは、どっちを選んでもどうせ迷い続け、ツライ目にあうのがわかりきっているところだろうな。Sanjaは水不足で妹が病気で死にかけているので、その姿をみていてNoriaは常に「水を自分だけが持っている特権性」の歪みに意識を向けられる。また水不足の世界で水源を秘匿しているわけなので、軍にバレたら普通に処刑物だ。伝統に生きるとしたらこのツラさと付き合っていかなければならない。

逆に移動するにしても都市部では戦争が起こっており、Sanjaと別れるのもツライ。話の途中でpost worldのCDを発見し、把握されていない歴史の情報と茶室の中でtea masterがたくわえてきた過去の歴史本を発見する。外の世界にはまだまだ隠された事実と、さらには水源があると確信するようになり、これがまた彼女の旅への欲求を強くする。こうしたどちらを選ぶべきかという彼女自身の葛藤と、否が応でも変化していく周りの環境に翻弄されていく様が描かれていく。

残った技術など

この世界、技術面で謎が多い。まずインターネット系は全滅しているようだが、謎のmessage podという空飛ぶタブレットみたいなもので手書きのメッセージをメールのようにやりとりしている。「ちょっといそいでうちにきてよ」「おk」みたいな。どういう原理で動いているのかよくわからない。電気はソーラーパネルによって運用されているが、どの程度の電化製品が生き残っているのかは謎。たぶん電化製品的なものはほとんど失われていると思う。水が不足していりゃあ食物の生産は絶望的なんじゃないの? とまず思うところだけど、水をほんの少ししか使用しない特別食みたいなものを食っているようで、なんかこの辺の世界設定は全般的にご都合主義っぽい。

ただしpost worldのテクノロジーを発掘する人達がいて、本書でも語り手のNoria Kaitioは文明崩壊の謎についてのヒントとなりえる音源を発掘したりする。このロストテクノロジーをざくざく発掘する感じは非常に愉しい。なにがでるのかわからないし、出てきたそれは環境を一変させてしまうかもしれないんだから。我々の世界にあって当然のものを、未来人が「わーなんだこれー!! 変なのー!!」と喜んでいるとほっこりするし(よくわからん感想だが)といってもだいたいプラスチック製品しか出てこないような設定なんだけど(プラスチックは風化しないからね)。

冲方丁氏の短編に世界が滅んでしまうとしたらみんなが自分の生きた証にプラスチックを残そうとする短編があったと思うけど、まさにそんな感じでプラスチック製品しか残っていない。

少女同士の友情

この作品を通して一貫して描かれていくのが語り手の少女と友人の少女との友情。特に百合というわけではなく、一度も疑いあったことがないといった純粋な関係でもなく、普通に喧嘩したり疑ったりする関係性なのだが、世界崩壊後のお話で特に色恋がなく少女同士のパートナーシップが描かれていくのは新鮮だった。初めて語り手の少女だけが知っている水源を友人のSanjaに見せた時の、受け入れてくれるのかそれとも非難されるのかといった緊張感、自由に使えるたくさんの水源をみて服を脱いで二人できゃっきゃしながら飛び込むところ、秘密の水源が村の人間にバレてしまい、立入禁止区域にあるであろうまだ見ぬ水源を見つけるため二人で長い旅に出る覚悟を決めるところなどなど。

どれもなんてことのないシーンなのだが、とてもぐっとくるのはこの世界観が関係しているだろう。ようは、追い詰められており、彼女たち自身が常に生きるか死ぬかの決断を迫られている状況にあるということ。一つ一つの決断にも緊張感があるのは、それが自分たちの生存に深く関わってくるからだ。最初はほとんど流されるまま、受動的に物事に対処し、結果どんどん悪い方向にすべてが転がっていく中で、Sanjaとの関わりやNoria自身の思考によって決断をし、誠実な対応を心がけていくように変化していく流れはこのすべてが漠然としてよくわからない世界の中でとても美しく輝いて見える。260ページちょっとの割合短めの長編なのだけど、ポストアポカリプス物の魅力が十全に詰まった物語であった。

Memory of Water: A Novel

Memory of Water: A Novel

The Happier Dead by Ivo Stourton

Ivo Stourtonは日本では既訳の本はあるのかな? Ivo Stourton 翻訳で調べても出てこなかったけど、まああまりメジャーな作家ではないことは確かだろう。2007年にデビューした後、これまで『The Night Climbers 』と『Book Lover's Tale 』の二冊を出していてこの『The Happier Dead』は三作目。ゾンビ物かな? となんとなく表紙のイメージから勝手に読み取って読んでみたが、完全に誤読で、サイエンス・フィクションサスペンスミステリみたいな感じ。The Great Spa というロンドンの端っこにある特殊な場所で起こった事件を、探偵役の男が追っかけていくうちに大騒動に巻き込まれていくというお話になっている。

時代が2035年で、人間は自分の身体を若返らせることが出来るようになっているが、精神までもが若返るわけではなく長く生きているうちに精神が耐え切れなく鳴って何らかの精神病が発症してしまうぞ! なんてこった! という設定がある。この設定で面白いのが、この施設はそうした精神までもが若返ることのできなかった金持ちの年寄り共が、new-youngとして自分たちがもっとも輝いていた頃を思い出して魂を癒やそうぜという施設なんだよね。ようは見た目は若いけど精神はジジババの精神的療養所なわけだ。とんでもな設定のようにも思えるが日本人だっておっさんになっても失われた青春を求めて学園モノアニメやライトノベルを摂取し続けているのでなんか納得してしまう。

しかも設定的に「魂の療養」とまで銘打たれているので、全員失われた青春を全力で取り返しにきているとしたら、ライトノベルにありがちな「なんかやたらとキラキラしている青春劇」が繰り広げられるのではないか。つまり、ジャパニーズライトノベルの設定として流用しても面白いんじゃないかと思った(ありがちな学園モノだと思ったら最後に魂の療養として行っていたジジババ達だったとオチがくるとか)。まあでも身体だけ若い精神的年寄りが青春をやり直している場所ってかなりグロテスクではあるよね。実際書いたとしてもホラー風味にしないとちぐはぐになってしまいそうだ。

どうせ不死になったんだったら若さの再演なんかしないで一度目の人生で達成できなかった更に先へ到達するような前向きさがあってほしいものだけど、実際身体が若返る方式の不死(しかも金がある)だと延々と家でごろごろしているかだらだらしかやりたいことがないかもしれない。不死になってまでやりたいことがごろごろだらだらって、それは最強のニートだよね。

簡単なあらすじ

そんなNew-Young達が療養しているところでゲストに事件が起こった、といって赴くのが主人公の警視さん。全体を通してよくわからないところではあるが、この警視さんは基本的に単独行動をとるんだよね。わりと無茶苦茶なことがこの後も起こっていくんだけど、基本的に一人で行動し続ける(そして何度も命の危険に陥る)ので、「この世界の警察は組織的行動を理解しているのか……」と疑問に思う。そうした「それはないんじゃねえの」というツッコミどころがちょくちょくあって、微妙に乗り切れないんだよなあ。あらすじじゃなかった。で、本格的な調査を始めるまでもなく一人の男が捜査線上にあがっている。管理人のAli Faroozで、もうほぼほぼこいつで決まりだろうという雰囲気が流れていく中主人公は違和感を見つけていって「こいつは犯人ではないんじゃ……」という疑惑を育て更なる調査に走ってゆく……。という感じ。

またこの違和感というのが「犯人は右利きなのにこいつ(Ali)は左で文字を書いている!!」みたいな物凄く微妙なもので「いや……文字を書くほうが利き腕とは限らんじゃろ……僕も文字はどっちだって書けるし……」となんか微妙な気分になるんだけど。というか正直に言っちゃうとこの作品、主人公周りの描写がどうにも面白くはないんだよなあ。正義感あふれる警察というよりかは、捜査の為に脅しもするわ襲われた時に相手を撃ち殺すわ、ほとんど問答無用で無実の人間を殴りつけるわで無茶苦茶な人間として描写されている。これは明確に彼の中に善と悪が同居している描写なのではあるが、善の部分が家族思いとかその程度なのでなんだか全然バランスがとれていないように見える。というかめちゃくちゃ悪いやつ……悪く言えばアホにみえてしまってつらいのだよ。ステレオタイプで魅力がまったくない。

ソレ以外の部分はなかなか面白いんだけどね。たとえば事件の謎が明らかになっていくのと同時にSF的な設定が開示されていくところとか、そもそもの世界設定であるとか。ああ、そんな世界なのね、という実像が謎の解明と密接にリンクしているので、どっちも気になってしまいリーダビリティは高く、ぐんぐん先に進む。

若返ることが出来る世界の主要なテーマ

実際に若返ることができるとして、まだまだ技術が未発展で莫大な金がかかるということだといろいろなひずみが生まれてくるものだ。たとえば死にたくないからといって次の生のための金稼ぎで一生がなくなるとか。でもそれ以上に問題なのは、階層の固定化だろう。金は金のあるところに集まってくる道理なので、金持ちが死なずにいつまでも金を所有し続けると経済が回らないどころか社会の階層が変わらない可能性がある。金持ちは金があるからずっと生き続け、金持ちになれない人間は金がないから死に続けるなんて明るい未来ではない。本書では途中、ロンドンで大規模な暴動が起こる様が描写されていくが、恐らく下敷きになっているのは2011年にイギリスで発生した貧困層の黒人男性が警官に射殺された事件である。階層の固定化への反発は不死の観点以外からみてもありふれているものだということだろう。日本だとあんまり表には出てこないけど。

またテーマ設定として面白いのは「長すぎる生をどうやって生きたらいいのか」というところにもある。現代の我々は不死ではないが、ほんの数十年前とくらべても平均寿命は格段に伸びているわけで、それが何を意味しているのかといえば余暇が単純に凄く増えたってことだ。仕事を引退した後の時間がとても増えた。そうしたぽっかりと空いた、これまでの人間はそこまで体験して経験談を残してくれていない「長い人生の過ごし方」について本書のような社会設定が教えてくれるものは多いように思う。The Great Spaは過去の良き日をもう一度というコンセプトなので時代設定まで明確に決められていて(1970年代後半ぐらいだったけ)、他の場所からは完全に分離された空間として企画されているんだけど、今後はそうした施設も増えてくるんじゃなかろうか。

完璧な作品というには程遠いが、なかなかの意欲作ではなかろうか(著者は明らかにこの文章を読まないと思うと超上から目線になってしまう)次作が楽しみな作家ではある。

The Happier Dead

The Happier Dead

The World We Made: Alex McKay's Story from 2050 by Jonathon Porritt

歴史の先生であるAlex McKayが2050年から歴史を振り返って何が起こったのか主要なイベントをざっと見ていく、未来予測系の本だ。単なる「未来はこうなっているかもしれません」とする未来予測とはちがって、時系列順に「この年にはこんなことがあってね……」と架空の歴史を紡いでいくので、個々の予測だけみるとたいしたことない(目新しいものはない)のだが、ストーリー仕立てになっているところが面白い。一貫して、網羅的にトピックをとりあげていってくれるので、たとえばSF作家などがこれを読むと未来社会の構築には役に立ちそうだ。歴史も全部作ってくれているし。

農業、水、食物、生物多様性、気候変動、経済、エネルギー、健康と教育、政治と安全、社会と都市、テクノロジーと工業、旅行と輸送それぞれに数ページだが「2010年以後に何が起こったのか」が描かれていく。本書の特徴を歴史仕立て以外にもう一つあげるなら、写真の多さだろう。全部ちゃんと色がついた状態で収録され、しかも数が多い。「なぜ未来社会の状況が写真(絵)にとれるのか」といえば、現代にとられた写真をハッタリかまして未来社会の写真ということにしたり、あるいは都市計画や大規模な開発計画などはたいてい何年も先の計画図みたいなものをつくるので、それらをさも「実際にできました」といわんばかりに提示されていくのだ。

ぶっちゃけ予測事態はガバガバというか、まともに受け取るようなものではない。基本路線は楽観論によって構築されているので、たとえば核については歴史の途中でサイバーウォーによるハッキングにより現場がクラックされたり、戦争で実際に核が使われるという事例が起こった後で各国は肝を冷やし核の根絶に世界は向かうことになっていたりする。まあ「2050年は核の炎で焼きつくされました。終わり。」ではお話にならないのでしかたがないかもしれないが、そういう感じで「え、そんなサラっと流されちゃうんだ」という部分は多い。

未来予測にはたとえば次のようなものがある。

  • エネルギーの90%は再生可能エネルギーで賄われており、そのうちの電気について30%はソーラーエネルギーである。
  • コンピュータは既に人間の脳と同程度の能力を有している。またロボットは街中に溢れ人間の良きパートナーになっている。
  • ナノテク、3Dプリンタ、biomimicryの技術が製造業を変質させている。
  • 個人向けのgenomics技術が進歩し、健康は誰しもに行き渡ったものとなり、寿命は伸び、死ぬ時を自分で選べるようになる。
  • 世界は依然として裕福な層と貧困層に分離している。しかし貧困層もまた幸せであり、貧困層から裕福な層へとうつる手段は増えている。

基本的には事実をベースにした未来予測になっている為、「なんだそりゃ」みたいな物は少ない。「現在判明している技術の延長線上の未来社会はこうなるんじゃないですかね」という内容だ。ナノテクも3Dプリンタも再生可能エネルギーもロボットも。都市計画なども十年二十年のスパンで考えるものだから、そうした部分はめっぽう当たるだろう。でも何しろ35年以上先のことだからなあ。今(2014)の35年前といったら、1980年ぐらいでしょう。でもそう考えると本当の意味で予測困難だったのはあんまり多くはないのかな。誰もが携帯を持っていることぐらいは簡単に想像がついても、それがスマートフォンであることは想像がつかないみたいな感じか。

個人的に今はあまり注目されていない分野で(注目されていないというのは、こういう現代を基にした未来予測本での話だが)伸びてくるのはバーチャルリアリティだろうなと思う。世界人口が増加の一歩をたどるのか、はたまたどこかの時点で減少に転じるのかはわからないが(先進国は軒並み少子化。文化が発展すると子供を大量に産む圧力が低くなるので文明レベルがあがると子供の数は減る。)限りある資源を有効活用するのに有効な手段として注目されるんじゃないかと思う(人が移動する、遊ぶ、といった行動を制限できる)。

項目としてあったら嬉しかったのは宇宙開発の分野だろうか。2010年台後半にむけて多数の企業から宇宙旅行パックが出てきている。今はまだ一瞬地球大気圏外をでますよ、みたいなのが多いが2050年にもなれば月旅行ぐらい一般化していてもおかしくはない。アメリカの国策としての宇宙事業がどこを向いていくのかも重要だ(火星か? 地球軌道上に施設を充実させるのか? 無人探査機を重視するのか?)。

物足りなかったのは経済の分野で、この崩壊しかかっているともいえる資本主義経済が果たしてちゃんと機能したまま2050年まで持ち越せるのかよという疑問がある。このへんの予測は難しい。本書では世界的に起業家が増え、世界中が経済圏に巻き込まれるといった当たり前のことからお金の価値(というか消費か)は今よりもずっと低くなり、協調と自身に必要なものは自分たちで取得する状況について言及している。再生可能エネルギーが主軸になり、食物の生産が生活と一体化(都市の至る所にソーラーパネルがあり、また都市全体に供給される食物の栽培書が都市と共存していることになっている)したという前提から導き出される状況で、このへんはなかなかおもしろいか。

※食物の生産が都市と一体化した図
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とまあ微妙な部分ももちろんあれ(この手の本だとしかたがないんだけど)、その一貫した歴史観と、あくまでも堅実に事実ベース、現在から予測されるものをキチンと書く、映像多めでというのが面白い一冊だった。Kindleで紹介できればよかったんだけど紙の本しかないから、欲しかったら紙で買ってね。

The World We Made: Alex McKay's Story from 2050

The World We Made: Alex McKay's Story from 2050

The Different Girl by Gordon Dahlquist

ヤングアダルト系のSF……といっていいのかどかわからないが、ジュブナイルSFとでもいったほうがいいのか。ただSF設定そのものについてはほのめかされるだけでガッツリ設定が語られるわけではない。240ページ程で、ぎゅっと詰まっている。女の子4人(+1人)を主軸にした作品で、彼女たちの心情の変化を追っていく方がメインだろうし、面白い。文章が心地よく、物語の性質上比喩などを用いないロジカルな語りに終始する一人称小説であるものの、その制限を逆手にとった直喩表現などはああなるほどそうやるのかと感心する。文体というか描写だけで楽しめるタイプの作家だ。こういうのは原文で読んだほうが楽しいだろう(というかこういうのは翻訳されないからな)。

序盤はなんだかとっても不思議な作品だというぼんやりとした印象で始まる。島で四人の女の子と、大人の男女二人が共同生活をしているのだ。四人の女の子のうちの一人、ヴェロニカが語り手役。彼女たちの物心がつくまえに飛行機事故で島に流れつき生き延びたのが彼女たちだけであるというざっくりとした説明がされ、あとはなんだかよくわからないが島でたった6人で暮らす彼女たちの生活が延々と描写されていく。飯はどうしているんだ? とか、なんでどこからも救助がこないわけ? とか、何でこの状況に誰も疑問を抱かないわけ? 脱出しないの? と疑問だらけだがそのあたりはヴェロニカの視点には入ってこない。彼女はこの状況に何も疑問を抱いていないからだ。

妙に同質的な彼女たちは日中は主に大人の男女二人によって授業を受けている。授業といっても昼寝をしたり、散歩にいったりゆるいものだが。その授業はだいたいが「彼女たちに個性を与えようとする」ものだ。別々の場所に散歩させてそれを報告させる。一つの事象をみせてそれに対する見解をみな個別にのべる。たとえばムカデの足はどうしてこんなにたくさんあるのか、どうやって機能しているのかについて。また檻に入ったオウムの写真から何が読み取れるのかなどについて。後者なんかはうまくて、比喩表現が使えないヴェロニカに変わって「籠にとらわれたオウム」を直接的に提示してみせることで直喩表現として彼女たちの状況を示している。

少女たちが新たな認識を覚えて自分たちの知る島だけが世界ではないのだと知っていく過程は読みどころのひとつだ。何歳ぐらいなのかは特に明言されないが、世界認識としては非常に幼い。ずっと島で暮らしているために彼女たち以外の人間がいるという認識がまずないし、両親という存在への認識もない。島の外に世界が広がっているという認識もない。そんな知識ガバガバな状態であらたなことを知って、あれこれ考えたり驚いたり、そうした経験をつうじて均質性の高い彼女たちはそれぞれの個性を備えていく。

最初は「大人の男の方が女の子を夜な夜な手篭めにしている暗い話なのかな??」と思いながらドキドキして読んでいたのだがそういうこともなく普通に良い人に描かれてるんだよね。途中で島に嵐に巻き込まれた船の生存者であるMayが流れ着いてきてから状況が一変していく。今まで誰も疑問を感じていなかった島の生活(ただし変なことばかり)にMayは恐怖し、おかしさに気が付き、次第にその場所から逃げ出そうとする。読んでいる方は「Mayがおかしいのか本当に島がおかしいのかよくわからない」と思うがままに読み進めていくのだが、島の状況がMayによって明かされていくにつれて「なんだか怖い島で起こりつつある事態」というホラー小説からサスペンス小説へとその性質を変容させていく。

おかしいといえばどこもかしこもおかしいのだが、しかし状況的には悪くない、なんだか気味が悪い……というのが前半のホラー展開だとしたらMayによってタネが明かされた後の状況は恐怖からいかにして逃げるのかというサスペンス小説になる。ぎゃああーーーMayの言っていたことは本当だったーーーと読者が絶叫している間もヴェロニカ達はそうした状況が認識できずに(自分たちのやっていること、やられていることが当たり前すぎておかしいと気が付かない)Mayは何をいっているんだかという状況がもどかしい。

このあたりの描写は本当にうまい。ガチッと切り替わるというよりかは、ひたっひたっという感じでネタがわれていくかんじ(よくわからない表現だが)。世界設定は謎だらけで最終的にもほとんど明かされることはないのだが、YAだからこんなもんだろうという感じ。それよりも語りと丁寧な少女たちの描写が面白い小説であった。

The Different Girl

The Different Girl

Speculative Fiction 2013: The Year's Best Online Reviews, Essays and Commentary

 WebのSF系レビュー(映画、小説、ドラマ問わず)にエッセイを集めた2013年傑作選版。特筆すべきはジェンダーの平等とは何かを論じたエッセイ、視点を多く盛り込んでいるところだろうか。フィクションの中での女性の役割、女性主人公のジュブナイルFの少なさ、イベントにおける女性へのセクハラ問題などなど。他にもヒューゴー賞をもっとよくするためにはどうすればいいか、ディストピア物のドレスコードってどれも画一的で面白くなくねー? など、日本だと小説の年間傑作選はあるけどノンフィクション系はないのでこういうのがあると面白いですね<レビュー、エッセイの年間傑作選。

 日本だとレビュー自体はあってもエッセイ的な文章がWebだとあんまりないような気もする。だいたい売上が──まあ今はKindleもあるんだし僕が個別に交渉してやってもいいかなあ。ぶっちゃけやりたいことのアイディア自体は腐るほどあるのだがそこに注ぎこむだけのエネルギーと時間が足りない。あと本自体は、基本的にはWebで読める文章を集めたものだからか、お値段も400円と抑えめになっております。2012年からスタートしているみたいで2012年版もあるよ。

エッセイについて

 最初の文章でこのコレクションはジェンダー問題をたくさんページを割り当てて論じていると書いたが、それは明確に、最初の宣言の中に明記されている。いわく「我々はなるべく広範囲のジャンルをバランスよく配置します」「我々はなるべく広範囲のSF,FジャンルのWebサイトを見て回っています」「我々はSF、Fの議論がなるべく非開放的にならないようにがんばります」「我々はジェンダーバランスを重視します。」

 女性議員に対する野次なども話題にあがる昨今だが、正直言って日本の女性差別への意識の低さは欧米基準からいえば低い。まあ欧米に無理して合わせる必要はないわけだが、でもここは見習ってもいいところなんじゃないかな。ジェンダー論は「どんな時でもキツく平等を言明しルールを制定するぐらいで現状はちょうどいい」と思っているが、それはフィクションでも同じだ。女性主人公のジュブナイルファンタジーは数が少ない(もちろんないわけではない)、だから私の娘はファンタジーを読まなくなりファンタジー読者が少なくなるんだ! なんてエッセイも是か非かをおいといて本作には収録されているが、こんな視点はなかなかお目にかかれないだろう。

 あとI hate strong woman characterというエッセイは題名からして挑発的で何が書いてあるのか興味深かったが「強い」というのはむしろ副次的な、キャラクタの魅力としてはそこまで上位にあるものではなく、「強い」もしくは「弱い」それだけがピックアップされるような状況はあまり良くないんじゃないのという常識的な内容でまあ確かになあと思った。

 たとえばシャーロック・ホームズはまあ強いんだけど、切れ者であり博識家であり推理力があり……と様々な魅力の他に「強さ」があるのであって、女性キャラクタにおいても「弱さ」「守られる存在」だけでなく多様な魅せ方があってもいいんじゃないかねえという。

最後に書き手が望む女性キャラクタの書かれ方への提言が載っているのでそこだけ訳してみよう。

女性が、自由に自身のことを表現できること
意味を持ち、感情豊かに他の女性キャラクタとの関係を持つこと
時には弱さをみせること
身体的な意味ではなく、強くあること
叫びたくなるような時は、叫べること
女性が助けを求めることができること

 「強い弱いの評価軸だけではない、複雑な魅力を持った女性キャラクタに登場してほしい」ともいうが、ジャパニーズライトノベルではむしろ男キャラクタの需要が薄く、女性キャラクタだらけである状況はどのように認識すべきなんだろうと考えが広がったりもする。多様性はとっくに生まれている状況であるというべきか、むしろこれは男性ユーザの欲望へのダイレクトな提供である点で女性軽視というべきなのか……。

 たとえばけいおんや東方のように極端に男を排除した世界において「ジェンダー的にフラットになったか」といえばただ単に要素として男を消失させただけで「フラット」かといえばまったくそうではなく、むしろ男性への欲望へのおもちゃとしての位置に甘んじているともいえるわけで、もちろん別の見方もできるがまあ微妙な話だ。上記のエッセイで問題にあげられているのは主にハリウッド映画レベルにメジャーな女性キャラクタの話だと思うんだけど。

レビューについて

 レビューは幅広く抑えられていて良い。いくつか読んでみたいと思わせられるものがあった。たとえばAncillary Justiceの著者であるAnn LeckieとStefan Raetsの二人(本作に収録されているレビューで唯一の被り本)がレビューしているC.J.CherryhのForeignerとか。Foreigner, CJ Cherryh | SF Mistressworks ←Stefanのレビュー。 Guest Post by Ann Leckie: Skiing Downhill, or Agency in C.J. Cherryh’s Foreigner | Far Beyond Reality ←Ann Leckieのレビュー だいたい、ここまで言われたら読まないわけにはいかないだろう。

If you haven’t read it, well, I’m not about shoulds. So I will say instead that I strongly, emphatically recommend reading it. You may bounce off it–a fair number of people have, and that’s the nature of things. But. My advice is, if you haven’t read it, go read it, and then come back and read this.

 あとは『Ancillary Justice』のレビューもあってこれも良い内容だったが既に既読⇒Ancillary Justice by AnnLeckie - 基本読書 あとはパシフィック・リムにアイアンマン3にクラウドアトラスのHeroを論じたStorming the Ivory Tower: A Company of Heroes: Pacific Rim, Iron Man, Cloud Atlas, and the Power of Ensemble Casts も面白かった。これは単一のヒーローを超えて、分散化、複数化、多層化していくヒーローについて語ったエッセイなのだが、こいつら本当にHeroについて考えるのすきだよなと思わせる内容。

heroism can be distributed far more widely, and the benefits to opening our narratives to such distribution are enormous.

 記事を全部いったんここでまとめてしまおうかとも思ったのだが、目次とリンクがこの本の価値でもありそれはさすがに営業妨害だろうということで自重しておく。まあ全部読まなくても400円なのでぱらぱらとめくってみるぐらいでもいいんじゃなかろうか。いろいろ発想も得られると思う。

Speculative Fiction 2013: The Year's Best Online Reviews, Essays and Commentary

Speculative Fiction 2013: The Year's Best Online Reviews, Essays and Commentary

 レビュー&エッセイについては自分で出した自分だけのものもあります。100冊売るのが目標だったけどもう100冊売れました。これを自分以外のものも収録すれば似たようなのになるんだろうけどなー。作家のインタビュー、対談とかで本に収録されていないものとか、個人ブログをまわって集めてみようかな。
冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

Sleep Donation by KarenRussell

 中編の近未来世界を舞台にしたSF作品。突如発生した「身体に異常を引き起こし死者を頻発させるほどの不眠症」に侵された世界で「睡眠の寄贈と配布(献血みたいなイメージ)」が行われるようになっている。寄付者から集められた睡眠はSleep Bankに入れられて、それを必要としている不眠症の人達のもとへ届けられる。ただしチェック体制が万全でなかったばっかりに、悪夢持ちのやつが睡眠を持ち込んだら死にたく成るほどの悪夢にうなされる人間が出てしまって──と嫌な感じになっていく中編。だいたい100頁ちょっとだろうか。100頁ぐらいの本がKindleなら出せるし、変えるので嬉しい限り。

 著者のKaren Russellは日本ではまだ本が出ていないみたいだが2012年のピューリッツアー賞フィクション部門の候補作に選ばれるなど※訂正 これ、出てました。『スワンプランディア!』、ワニの表紙。あともうすぐ新しく『狼少女たちの聖ルーシー寮』が出るそうです。新進気鋭の作家といっていいのだろう。語り手であるTrish Edgewaterはこの深刻な不眠症によって死んでいった被害者の最初の一人の妹。「睡眠を投入する技術がすぐに出来ていたら姉を救えたのに……」と常にそのことを気に病んで、今は非営利団体の睡眠普及組織でリクルーターとして働いている。

 物語はチェックをすり抜け質の悪い睡眠、つまりはそれを投入されると悪夢を引き起こしてしまう夢を寄贈したDonorYと、特別に上質な睡眠を提供することができるが赤ちゃんであるBabyAを中心として展開していく。この辺とかまんま、献血時のチェック体制とか、何歳から献血を認めるのかの問題、献血上の国の問題をめぐるものとしても読める。睡眠障害が精神病の類型であることも含めて、アメリカの現代社会への参照が含まれているのは間違いがないだろう。

 アメリカ人はうつ病をカミングアウトしやすい環境のせいかもしれないが、ちょっとそれだけでは説明がつかないぐらい精神病と診断される人の数が多いし。America: #1 In Fear, Stress, Anger, Divorce, Obesity, Anti-Depressants, Etc. | Survival 強烈な睡眠障害という現実に存在しない(実際は存在しないわけじゃあないんだろうけど)病気を扱いながらも、実にリアルな恐怖感が表現されている。危機感、状況自体はアメリカの社会状況をそのまんま反映させているからだろう。

 全体にわたっている雰囲気はホラーそのもの。そもそも不眠症で、20日間近く眠れずに起き続けたあげく死んでいくとか、悪夢を注入されてしまったばっかりに夜眠ることが恐ろしくて眠れないままに死んでいくとか、死因からして恐ろしすぎる。ナチュラルに拷問だよそれ。そして実は味方だと思っていたトリシュの上司が実は日本のカネ持ちに特別に睡眠を提供していたことなどが明らかになるにつれてやばい事態に巻き込まれていくドキドキ感の演出など、全般的にホラーの技法を使っていることもある。

 プロットがそう面白いわけでもないし、文体がそう魅力的なわけでもない。英語力の問題かもしれないがその時喋っているのが誰なのかわからないところもある。ただ現実と虚構が入り混じったアイディアとその魅せ方はなかなかおもしろくて、短編だけでなく長編にも期待がもてそうな感じ。

Sleep Donation: A Novella (Kindle Single)

Sleep Donation: A Novella (Kindle Single)

スワンプランディア!

スワンプランディア!