基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

物理学・生物学的に考えた時、地球外生命体はどのような機能を持っているのか──『まじめにエイリアンの姿を想像してみた』

この『まじめにエイリアンの姿を想像してみた』は、書名だけみると小学生ぐらいの夏休みの自由研究みたいだが、実際は動物学者の著者が、生物学、物理学など科学の知識を総動員して「地球外生命体の機能や生態はどのようなものでありえるのか? 逆に、どのようなものではありえないのか?」を考えていく一冊になる。

化学の本や生物学の本で、一章ぐらいこのテーマに割いている本は少なくないが、まるまる一冊地球外生命の生態を考察している本は珍しい。そもそも、「地球外生命体って、誰も見たことがないんだから想像しようがなくない? ソラリスの海みたいなやつだっているかもでしょ」と疑問に思うかもしれないが、世界は物理法則に支配されているわけで、この宇宙の生き物である以上、制約から逃れることはできない。

地球には現状、空を飛ぶクジラのような、空を漂い続けて空中の微生物を食べるような生物は存在しないが、そうした生物は他の惑星だったら存在することはありえるのか?(たとえば重力が軽く、浮きやすい惑星で)、性は地球の動物にはよくみられる特性だが、これは全宇宙の生物に備わっている可能性が高いものだろうか? など、地球の生物多様性を分析しながら、生物の持つ特性のうちどれが地球特有のもので、どれが宇宙で普遍的といえるものなのかを、じっくりと突き詰めていくのである。

学者の本ではあるが筆致は軽快でおもしろく、ほとんど一日で400ページ読み切ってしまった。非常におすすめの一冊だ。

最初に軽く収斂進化の話

最初に全体を貫く概念を紹介しておこう。別々の生物が似たような解決策を進化の果てに獲得する事象を「収斂進化」という。たとえば地球上では少なくともこれまで4回、羽ばたき飛行が進化したことがわかっている。そのうちの二種類である鳥とコウモリは見た目も飛翔のための機能も異なるが(コウモリの翼は長い指の間を覆う膜で、腕全体と身体側を覆う。一方の鳥の翼は羽毛に覆われ骨の形も異なる。)、最終的な用途、使い方は似通っている。飛び回るツバメとコウモリの姿はそっくりだ。

動物にとって移動速度が他よりも速いことは圧倒的に有用──はやく食事にありつけ、外敵や環境変動から逃げることができる──だから、飛翔機能が進化の過程で幾度も産まれたことは不思議な話ではない、同じことは他の機能にもいえる。卵を母体内で孵化させて幼生の形で産む卵胎生は独立して100回以上も進化を繰り返したといわれている。光合成も、少なくとも31の系統で別々に進化してきた。この収斂進化の力によって、おそらく地球のコピーで生物が生まれ進化を繰り返していったとしたら、飛翔する生物も、光合成をする生物も生まれるだろう。

生命が棲む惑星の物理的・化学的性質が地球と大きく異なり、もっと暑かったり寒かったりすれば、地球上の生命に似た「形態」を期待することはできない。羽毛は地球の空気のなかを飛ぶためのものであり、木星のアンモニアの雲のなかを飛ぶためのものではないからだ。しかし、地球上で見られるのと同じ「機能」(すなわち飛翔)を木星で見つけたとしても驚きはしない。(p.60)

地球の最初の生命と同じ流れを、地球外生命体も繰り返すのか?

すべての生物は細菌、古細菌、真核生物のいずれかに分類されるが、これらの生物はすべてLUCAと呼ばれる共通祖先から分岐していったものだ。LUCAとその子孫たちは、拡散、多様化していく中で、似たような問題に直面していく。いちばん重要な問題はエネルギーをどこから手に入れるかだが、30億年以上前の当時エネルギー源になりそうなのは海底火山活動による地熱か、太陽光の二つしかない。

海底火山は特定の場所にしかないが、太陽光はあらゆる場所に降り注ぐので、最初の生物たちは太陽光を捉え、そのエネルギーを利用するための器官を進化させた。この時代は現代と比べると安穏とした状態だ。何しろ太陽光は奪い合わなくても平等に降り注ぐから、捕食者もいないし、ほぼ動く必要もない。だから、生命はおよそ38億年前に誕生したが、最初の32億年間は太陽光以外のものを摂取する生物はいなかった。

そこから何が原因になったのかは定かではないが(日光浴をする生物でビーチがいっぱいになっったのかもしれないし、気候変動で日照が減ったのかもしれない)、ある時から一部の生物は他の生物をエネルギー源とするようになった。捕食がはじまると、身を守るための棘をつけるものあり、捕食するための歯をつけるものあり、移動速度を速くするものありと進化が急速に進む。弱肉強食の世界がやってくるのだ。

はたしてこうした生命の進化の流れは地球に特有のものなのだろうか? 確かなことはわからないが、太陽の光は最初の生命維持のためのエネルギー源の中では最も手に入りやすく、強力なものである可能性が高い。生物において太陽光を利用する方法が最初に生まれるのは、理にかなっている。その後の進化の過程──捕食し、移動する生物の誕生──はどうかといえば、これも、一般的な物語といえそうだ。

というのも、宇宙のどこであっても生命はエネルギーと空間の二つを必要とする*1。ゆえに、太陽光をメインに増殖を繰り返す生物がいた場合、その生物群もいつか必ず飽和し競争をはじめることになるからだ。『生命が存在するところでは、いずれエネルギーと空間をめぐる競争が起こる。だから、乏しい資源を求めて移動し、競争する動物が出現してくるのはほぼ必然なのである。p.85』

空中を浮遊し続ける地球外生命体は存在するか?

魅力的なトピックが多い本だが、個人的におもしろかったのは、「地球外生命体に空中を浮遊し続けるような生物はいるのか?」という問いかけ。これは、少なくとも地球にいないのは皆様御存知の通りである。しかし、物理的に不可能なわけではない。理論的には、魚の浮袋のような気体の入った袋(中身は水素になるだろう。代謝の過程で細菌や微生物が生成してくれる)を使って、浮遊する生物を想像することはできる。

あとは、大気中にプランクトンかそれに類するエネルギー源になる何かが浮いていれば、クジラが海を泳ぎながら大量のオキアミを吸い込んで暮らすのと同じように、浮遊性の生物が生きていくことはできそうだ。これは地球のような環境では難しい(地球の大気は水と比べると密度も粘度も薄く、微生物らは空気の流れや動きに翻弄され、自分を浮遊させ続けることはできない)が、地球外惑星では成立する可能性がある。

たとえば、木星のような巨大ガス惑星の最も密度の高い大気中や、地球より小さくて重力が弱い惑星の大気中でなら、微小な生物は浮遊しつづけることができて、そのまわりに食物連鎖や生態系ができてくるかもしれない。しかし、この仮定にも問題はある。浮遊できるほど重力が小さい環境を想定すると、大気をとどめることができず、大気が宇宙に逃げていってしまうのだ。実際、重力が地球の3分の1の火星の大気の質量は地球の200分の1であり、これではとても浮き続ける生物は存在できないだろう。

木星型のガス惑星にはまだ希望があるともいえるが、ほとんどのガス惑星の大気は激しく乱れていて、生命の進化には適していなそうだ。

おわりに

と、ここまでの内容でまだ100ページ程度の内容をかいつまんで紹介しただけであり、ここから様々な考察が続く。たとえば地球の生物にみられる普遍的な特徴である「群れを作る習性」は、地球外生物にも生まれるのだろうか。地球外生命体はコミュニケーション能力を発達させるのか、させるとして、どのような手段をとるのか。

基本的に本書では生物は進化論に沿って考えていくわけだが、知的生命体が自己複製する人工生命体を宇宙にばらまいたとしたら、その機能や性質を予測できるか──など、後半に向かうにつれ壮大なスケールの話が展開していく。SFや地球外生命体好きな人にはたらまないだろうが、生物が好きな人も大いに満足させてくれるだろう。

*1:系はエネルギーが入ってこないと崩壊して無秩序になり、生命がひとつからふたつに増えればその分だけ空間を多く占める(増えない、もしくは不死の生命で宇宙が溢れない理由についての考察も本書では別途行われている)。

遺伝子特許の是非を問い、不可能に挑戦した人々の物語──『ゲノム裁判――ヒト遺伝子は誰のものか』

この『ゲノム裁判』は、ヒトの遺伝子に特許が認められるのが当たりまえだった時代のアメリカで「誰かが発明したわけでもない、自然に存在するヒト遺伝子に特許が認められるのは人間の権利の侵害といえるのではないか?」と疑問を抱き、歴史的な裁判を起こし、最高裁で判決が下るまでの流れを記録した一冊である。

遺伝子特許がとられると何が起こるのかと言えば、特定の疾患のリスク要因となっている遺伝子を検査する時に特許使用料をとれるので、ほぼ独占的に検査ができるのである。しかしそれは検査を行いたい個人からすればはなはだ不都合な状態だ。

普遍的な書名に惹かれて買ったので、読み始めてから「アメリカの裁判の話なのか〜」と若干読む気が失せたのだが、読み進めてみたらこれが意外なことにめちゃくちゃおもしろい! 「自然の産物」ついての特許面での新しい解釈や、ヒト遺伝子の科学的に詳細な解説、特定の遺伝子で特許が取得されることの医療分野への影響といった本書の概要から期待できる部分のみならず、30年以上の伝統を持つ分野を相手取る大規模な訴訟がどのように仕掛けられるのか、その入念な準備、戦略検討の描写、最終的には三権分立の意義まで浮かび上がってきて──と、読みどころが次々現れる。

助言を求めた専門家たちは、勝算はないと声を揃えた。それでも、熱心なアドボケイトたちの一団は、三〇年以上にわたって施行されてきた伝統的な政策を覆すため、バイオ業界、商務省、そして厳格な特許弁護士や特許エージェントに挑みかかった。勝ち目がないように聞こえるなら、その通りだったのかもしれない。これは不可能に挑戦した人々の物語である。

値段も安くはないし(4950円)ページも分厚いのだが(544ページ)、読み通すだけの価値がある一冊であった。

裁判の大まかな概要

最初にこの訴訟の概要と前提について紹介しておこう。前提として、1980年代から20年以上もの間、単離された(本来の状態にあるゲノムDNAから特定の遺伝子領域を切り出したもののこと)遺伝子は特許対象として認められてきた。

数多くの遺伝子特許が民間企業に取得されたが、目立っていたのは乳がんや卵巣がんのリスクに関連するBRCA1とBRCA2と名付けられた遺伝子だ。ミリアド社はこの特許を取得しており、遺伝子検査を独占的に、高額で実施していた。そうした状況に対して異議を唱えたのが、175万人の会員を持つ非営利団体の米国自由人権協会(ACLU)だ。ACLU曰く、人間の遺伝子は自然に存在するものであり、特許の対象にはならない。一方ミリアド社は、遺伝子を体外で単離精製することは人工的なプロセスであり、自然界に存在する状態とは異なるため、特許対象だと主張する──。

どのようにしてこの歴史的特許訴訟がはじまったのか

というのが大まかな流れだが、ここまで大きな裁判なので、そこには無数のドラマが存在する。最初に誰がこの裁判を引き起こしたのか? 地方裁判所、二審ではどのような判断がなされたのか? 判事は何を考えていたのか? ミリアド社は死にものぐるいで抵抗するわけだが、彼らは何をし、法廷ではどのようなやりとりが行われたのか──そうした無数の細部が、本書では突き詰めて語られていくことになる。

この物語の中心の一つは、アメリカ自由人権協会(ACLU)という組織だ。名前の通り自由と人権のための組織で、人種差別、報道の自由、女性の権利など、各種のテーマに取り組んできた。その流れで、遺伝子特許にも行き着いたのだ。ヒト遺伝子は普通に考えたら自然の産物なのに、そこに特許が付され、検査に膨大な費用がかかるのは権利侵害なのではないか? と。ACLUの科学顧問のターニャ・シモンチェリは、遺伝子特許に異議を申し立て、訴訟を起こすアイデアをACLU内で最初に表明した人物だ。シモンチェリは法に関する実務経験がないので、同じくACLUの訴訟弁護士クリス・ハンセンが仲間に加わることになるのだが──、彼の描写がまたおもしろい。

ハンセンはACLUのナショナルリーガルスタッフであり、その中でもひと握りの特定任務を負わない――つまり自分が最も重要だと考える案件ならどんなことでも、権限と予算を行使して追求することのできる在野の戦士、ジェダイ・マスターだった。ハンセンは言う。「私の仕事は、この国のどこか、どんなところからでも、不正義を探し出してくることでした。テーマとする領域に制約はなく、地理的制限もありません。見つけるべきは市民の自由に関連する不正義であり、その解決策を考え出すのが責務でした。素晴らしい仕事でしたよ」

自分が最も重要だと考える案件を追求できる法廷の在野の戦士とはあまりにもカッコいい。シモンチェリはハンセンと話すうちに遺伝子特許のおかしな部分を話題にあげ、盛り上がり、二人は次第にこの訴訟闘争にのめり込んでいくことになる。

仲間を集め、戦略と魅力的な物語を練る。

盛り上がったからといってこの訴訟は容易に手をつけられるものではない。特許訴訟に詳しい弁護士はACLUにはおらず、経験も乏しい。そのうえ遺伝子特許は30年近く当たり前のものとして運用されてきたのだ。その間、ハンチントン病、糖尿病、アルツハイマー病など、疾患へのかかりやすさを診断するのに役立つ可能性のある遺伝子は次々と見つかり、取得数は着々と増加していた。その壁を崩すのは容易ではない。

そこで重要なのは、仲間集めと戦略の構築だ。ハンセンとシモンチェリは遺伝子特許に関する文献を読み漁り、専門家に話を聞いて、法廷に持ち込める法理論の構築を行った。また、「誰を相手取るか」も重要だ。遺伝子特許を取得している企業は数多く、誰も聞いたことがない珍しい病気の原因遺伝子に関わる特許訴訟を巻き起こしても、医療雑誌に掲載される程度で終わってしまう。誰もが興味を惹かれ、自分と関係した問題だと考えられる遺伝子と、それを独占している企業を相手にする必要がある。

最終的にハンセンとシモンチェリは(乳がんなどに関わる)BRCA1と2の特許を持つミリアド社を相手にするわけだが、それが「魅力的な物語」を提供してくれるからだった。たとえば、この遺伝子の検査には3100ドルもの料金がかかり、ミリアド社は無断でBRCA遺伝子検査を行ったものを訴える脅迫的な態度をとっていたから、ミリアド社は悪い言い方をすれば「悪役」としてちょうどいい企業だった*1。同時に乳がんは有名な疾患であり、女性がかかることがほとんどであることから、女性の権利を守るための訴訟というイメージも与えられる。国民が反応を示すのは必至だ。

法理論の構築と訴訟相手と具体的な特許内容を定めたら最終段階として必要となるのは原告を揃えることだ。ハンセンらは狭義の法の問題を超えた物語を語るためにも、遺伝カウンセラーから研究者、女性の権利団体や実際のがん患者まで、幅広い人々を原告として仲間にしていく──と、このあたりの描写には、こうした必然的に社会問題化する大規模な訴訟には「その訴訟に触れた人を感化できる、物語として優れたものにする手法」が必要とされるんだなと考えさせられる部分があった。

あらゆる「インパクト狙いの訴訟」において、国民の支持を得ることは不可欠なのである。判事も陪審員も人間であり、人間は時代精神や周囲の人々の考え方に影響される。

訴訟パート

訴訟はまだ始まってすらいないので、本筋はまだまだこれからだ。訴訟パートは準備パート以上にドラマチックで、二転三転していくのである。最初の判決がくだされるニューヨークの地方裁判所では、驚くべきことにミリアド社の特許無効が言い渡された。ミリアド社が控訴して移った連邦巡回区控訴裁判所*2の判決では逆に特許は有効であるとの判決が下り──と、最終的に最高裁判所までもつれこむことになる。

参戦者はミリアド社と原告だけではない。裁判所にたいして当事者ら以外の第三者が事件に有用な意見や資料を提出するアミカスブリーフという制度があるが、アメリカ政府がこのアミカスブリーフを、単離されたヒトDNAは自然の産物であり、特許適格性を有さないという見解を示して提出し*3、このヒト遺伝子訴訟がもたらした火種は大きく燃え広がっていくのである。

おわりに

最高裁での判決が出て(『ヒトの体内に存在するのと同じゲノムDNAは、特許適格性のない自然の産物である。』)、すぐにBRCA遺伝子検査の値段は下がり、現在は199ドルほどで提供され、今日では検査を望むほぼすべての女性が受診できるようになったという。これが歴史的な裁判だったのは間違いないが、本作の魅力はそうした歴史的な裁判の裏側でどれほどの人とと思惑が渦巻いているのかがよく見えるところにもある。本記事ではヒト遺伝子の科学的な議論の部分には踏み入れなかったが、本文中では仔細に説明されているので、気になる人はぜひ読んでみてね。

*1:重要なのはあくまでも大衆に説明するための「物語」の「悪役」としてミリアド社がちょうど良かったというだけで、別にミリアド社は違法なことをしていたわけではない。あくまでも正当な手順に則って、他のすべての企業がやっているように特許を取得しただけだ。

*2:この連邦巡回区控訴裁判所は特許法が関わる時の控訴で使われる裁判所で、特許裁判所とも呼ばれる。で、それだけでなくこの裁判所の判事はかなりの割合が特許弁護士で、特許弁護士ほど特許を高く評価する者はいないから、目に見えて特許重視、特許擁護の判決が出るのだという。だから、CAFCに特許訴訟でいった時点で勝ち目が薄い。特許訴訟に関しては判断に相当の知識が必要とされるからこういう仕組みが必要なのはわかるが、それで判断にブレが出るようだとちと変なきもする。

*3:これで特許庁と政府はバチバチの関係になったり(当時の特許庁長官は何百時間もかけて特許庁が発展させてきた見解を、アメリカ訟務長官は弁護すべきではないのか? 仲間なのではないか?)と、

2055年の未来の食事の風景はどうなっているのか?──『クック・トゥ・ザ・フューチャー 3Dフードプリンターが予測する24 の未来食』

仮想世界やAIなど未来により発展していくとみられる技術はいくつもあるが、そのうちのひとつに「3Dプリンタ」がある。これは3DCGなどで作られた3次元のデータを元に、断面形状を積層していくことで(それ以外の方法もあるかもしれないが、わからん)立体造形することができる機器を総称したもので、難しいことを抜きにして言えば「複雑な構造体やパーツでもソフトウェアからすぐにできちゃう機械」である。

最近よく話題になるのは「家」の生成だ。通常一軒の家を建てるにはコンクリートを流し込んだり骨組みを組んだりと様々な手間と技術と時間がかかるが、3Dプリンタなら3次元の家のデータと素材を用意したらあとはそれを使ってぺっと出力するだけでいい。で、こうした3Dプリンタで生成できるのは家のような無機物だけでなく、人間の臓器を3Dプリンタでつくる研究なども行われている。そうした3Dプリンタの無限の応用可能性の中で注目を集めているひとつの分野が「食事」だ。

食事を3Dプリンタで出力するというとぱっと思いつくのは「栄養満点だが味気ない見た目をしたディストピア飯」的なイメージだけれども、実際3Dフードプリンタが実現したら、われわれの食事とその風景はどのように変わりえるのだろうか? 

前置きが長くなったが本書『クック・トゥ・ザ・フューチャー』はそうした未来を描き出す一冊だ。特徴的なのは3Dフードプリンタ関連で将来重要そうなトピックの解説を行うだけでなく、2055年という具体的な年代を設定し、そこで暮らす人々がどのような食事を行っているのか、ショートストーリーがはさまれていく点にある。どれも見開き2ページの日記的な文章なので短篇小説というほどではないが、ある意味では「SFプロトタイピング」フード篇とでもいうべき作品だ。イラストも豊富で、フードプリンタ絡みの未来像には説得力もあり、読んでいて楽しい一冊であった。

どのような食の未来があるのか──すでに行われている研究・計画

すでに行われている3Dフードプリンタ関連の研究の紹介にも愉快なものがたくさんあって、まずそこがおもしろかった。たとえば3次元の造形だけでなくそこに時間によって変化する要素を付け加えた「4Dプリンティング」という概念があるが、これを使って「時間の変化と共に変形する食品」の開発が実際に行われている。

MITのグループによって開発された「折りたたまれたパスタ」がそれで、これは水につけたり茹でることで徐々に変形していく。プロトタイプ版は異なる密度のゼラチン2層とその上に3D印刷されたセルロースの3層からなり、それぞれの層が異なる速度で水分を吸収するため膨らみ方にムラがでて、形状をコントロールできるという。本書のストーリーパートではこの発想を膨らませ、「最初はサナギ形をしているが、茹で上がるとアゲハチョウになる」パスタを食べる風景が描かれている。

そうしたエンタメ用途だけでなく、時間経過と共に形状を変化させる技術は、コンパクトに食品を収納し輸送コストを削減できる可能性もある。

もう一個個人的におもしろかったのが、現在すでに人間での臨床試験も計画されている「動く可食ロボット」という発想。論文によれば、胃の中に食べられるロボットを放り込んで、胃液によって覆われたゼラチン質の膜が溶けると電気回路を完成させるバネつきのピンが解放される。そしてそのピンがバッテリー駆動のモーターを動かし、約30分間胃の中で振動することで満腹中枢が刺激される仕組みなのだという。

そんなもの胃にいれて大丈夫なんかいなと不安になるが、仮にこれが実用化されるなら小さな部品が必要とされるので、フードプリンタのような技術が必要とされるだろう。飲みたくはないが、脂肪の吸収を阻害する薬よりかはマシかなという気もする。

ロスの軽減

フードプリンタの効果がわかりやすいのは「無駄を省く」ことについて語られた章だろう。たとえば家庭や販売所からの食品ロスが現代ではたびたび話題にあがるが、3Dフードプリンタでその場で食品・食材を生成できるようになれば、そのロスは劇的に削減されるはずである。究極的には、フードプリンタでの生成のための食品カートリッジの衛生状態さえ清潔に保っておけば、食品ロスはほぼほぼでないことになる。

規格にあわない果物や野菜は廃棄されることが多いが、これらもフードプリンタの材料として使えるようになればゴミの山が宝の山に一変するかもしれない。ロスの削減について語られている章のストーリーパートでは、生ゴミなどを放り込んでおくと分解し、さらにそれを3Dフードプリンターが再び食品にする「The Compost Got You」という商品のある日常について語られている。実際それができるかはともかく、こうした技術があれば宇宙での滞在などではとても有用になりそうだ。

培養肉を食う未来はディストピアか

動物の細胞を体外で組織培養し食べられる状態にした肉のことを「培養肉」という。衛生管理が徹底された環境において細胞培養されるので細菌やウイルスによる汚染リスクが低く、あたらずに生で食べられるなどの利点もあるし、現在すでに3Dフードプリンターを用いた培養肉生成の研究も行われているが、どうしても本物の肉が安価に大量に流通している現在では「偽物」という悪いイメージがつきまとう。

やはり「自然な肉ではない」というのが嫌悪されるポイントになる。一方で、現在の家畜が置かれている状況──たくさんの肉がとれるように遺伝子操作され、衛生状態の劣悪な狭い施設に押し込み、抗生物質やビタミン剤を大量に投入し異様な速度で成長させた家畜たち──が自然で非人工的かといえばそんなこともないわけだ。こうした、食の倫理や思想に関するトピックも本作では扱われている。

おわりに

小麦を潰して小麦粉にすることでパンや麺などの料理が生まれたわけだが、3Dプリンタで食材を自由に造形できるようになれば、食事の形態は無数の可能性を持つ。

食品学では、分子生物学のように食品を細分化して調べることなどが行われてきた。この分解して解析する学問の先には、「合成食品学」という分野が立ち上がり、発展するのではないかと考えられる。すなわち、食品を分子レベルのパーツに分解しながら解析したあとに、分子レベルからパーツを使って構築し、検討するという学問である。(p27)

この部分を読んでいて、技術の行き着く先はだいたい同じ方向性になるのかな、とAIの発展をここに思わず重ね合わせた。現在の生成系AIがやっていることもだいたいここで書かれているようなことと同じ──人が書いた絵や文章を一度すり潰して学習し、命令に従って最適化して出力する──だからだ。

3Dフードプリンタの発展と普及はわれわれの生活の風景を一変させるだろうな、とリアルに想像させてくれる一冊だ。

世界の天秤を傾ける事件に関わった、歴史に残る翻訳者たちの苦闘について──『生と死を分ける翻訳: 聖書から機械翻訳まで』

日夜世界の様々なニュースやコンテンツが翻訳されてくる昨今。翻訳に触れる機会が増えているからこそ、翻訳の限界や難しさを感じることも多い。僕が最近翻訳の難しさを感じたのはアニメ『葬送のフリーレン』の「葬送の」の訳だ。

日本人からしたらその意味を完全に理解しておらずともなんとなく字面でその曖昧なニュアンスが理解できるが、そのニュアンスを完全に翻訳するのは難しい。たとえばタイトルを英語で直訳したら「Frieren of the funeral」になるが、これはいってみれば「お葬式のフリーレン」であり、感覚的にはダサくなってしまう。

英語版タイトルは直訳ではなく作品のテーマを優先し「Frieren :Beyond Journey’s End」、「フリーレン:旅の終わりの先」となっている。一方、作品に登場する魔族たちがフリーレンのことを指して「葬送のフリーレン」という時は、Frieren the Slayerと訳されている。こっちはこっちで葬送のニュアンスは消えてしまっているので、なかなか難しいところだ。たとえニュアンスが失われても直訳で簡潔にか、より正確にニュアンスを優先して長くか。翻訳家は常に難しい選択を迫られる。

エンターテイメントなら翻訳が下手くそだったり端的に誤訳だったとしても微妙だな、と批判されて終わる話ではあるのだが、ことが政治だったり法廷での通訳だったりすると誤訳は誰か──時に、国民──の命にかかわってくる。

本書『生と死を分ける翻訳』は、そうした翻訳の成果が誰かの生死を分けたり、歴史を揺るがした事例を集め、そもそも翻訳、通訳とは何なのか、素晴らしい通訳とは何なのか──といったことを問うていく一冊である。著者はロシア語の文学やノンフィクションの英訳を行い、通訳を担当することもあるジャーナリストのアンナ・アスラニアンで、政治の舞台や法廷での通訳から聖書の翻訳まで、専門であるロシアを超えて、幅広い分野の事例を論じて見せる。僕は自分で翻訳をするわけではないが、日頃から翻訳ノンフィクションやフィクションをメインで楽しんでいるから、本書で語られていく数々の翻訳苦労話やエピソードはどれも興味深く読んだ。

黙殺をどう訳すか?

最初に「翻訳が人の生死を揺るがした例」として紹介されているのは、奇遇にも日本における例だ。時は1945年の7月26日。連合国首脳は交戦相手の日本に降伏を要求するポツダム宣言を発表した。日本の新聞各紙はこの通告にたいして検討に値しない代物と断じて批判的に報じたが、国としての立場は最終的にポツダム宣言を拒絶もしないが重視することもないと曖昧な態度をとることになった。

当時の鈴木首相は記者会見で、この宣言文書には重大な価値があるとは考えないと述べ、「ただ黙殺するのみ」と付け加えて終えたがこの訳が難しい。「黙殺」は英語に直訳すれば「Kill with silence(沈黙でもって殺す)」になるが、鈴木首相はこの語を「ノーコメント」の意味で使ったと語っている。「黙殺」は英語圏では「無視する」や「無言の侮蔑をもってあしらう」と訳され、『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面には「日本、連合国の降伏勧告を公式に拒絶」と(意図の離れた)見出しが踊った。もちろん、「黙殺」の語をめぐる翻訳のすれ違いだけでその後の広島に原爆が落とされたわけではないけれど、翻訳は片方の天秤に加担したとはいえるだろう。

私たちは多言語世界に住んでいるが、この世界の歴史の天秤は、いたって平穏な時代でさえ不安定なものであり、言葉の解釈一つで左や右に大きく傾く。翻訳者の中には、自分を単なるパイプ役と考え、意味だけを通す不可視のフィルターに徹することを理想とする人もいるが、そんなに単純にいくものではないとの声もある。翻訳(通訳)者は、自分なりの単語を使い、自分なりのアクセントや抑揚をつけて翻訳(通訳)するしかない以上、どうしたって原文に影響を与えてしまうからだ。(p.13)

政治の舞台でのすれ違い

「生死にかかわる」といえば、まず最初に上げられるのは政治の舞台だろう。今でこそ国際的な情報のやりとりは活発で、たとえ一瞬通訳と現地の人々の間での意図の行き違いがあったとしても訂正することもできるが、かつてはそうではなかった。

たとえば1962年のこと。キューバでのソ連のミサイル基地建設をめぐって米ソが対立したキューバ危機が起こった。最終的にアメリカはミサイル基地への海上封鎖まで行い、ソ連はミサイルを撤去することで両者衝突は回避されたのだが、この時のやりとりには翻訳の難しさがよく現れている。たとえば海上封鎖に関するケネディとフルシチョフの電報でのやりとりの中でケネディは隔離、検疫を意味するquarantineを使いそのまま疫学的意味で使われるロシア語に訳されたが、これがもしそのまま封鎖を意味するblockadeが使われていたとしたら、レニングラード包囲戦をソ連側に思い起こさせる訳語があてられ、より文面は威嚇的に伝わった可能性がある

最終的にフルシチョフはキューバ危機をめぐるやりとりの中で「貴国が攻撃的とみなす兵器の解体を約束する」と送ったが、結果的に「攻撃的とみなす兵器」の定義をめぐって争い、ソ連は爆撃機も撤退せざるをえなくなった。この推移は曖昧な言葉の使用、またその翻訳が良い方に左右した例ともいえるが、ボタンがひとつかけちがえば、より凄惨な出来事(たとえば核戦争)につながっていたとしてもおかしくはない。

翻訳(通訳)者は冷戦の仲介者であったばかりでなく、当事者でもあったということだ。p39

ユーモアをいかに瞬間的に訳すか

個人的におもしろかったのが、瞬発力を求められる同時通訳者がどうやって「ユーモア」を訳すべきなのか? が問われている第二章「笑いの効用」だ。ここで取り上げられていくのは、イタリアの元首相でありながらもエンターテイナーとしても知られるベルルスコーニの通訳を長年つとめた、メルクムヤンという人物である。

ベルルスコーニは会話や演説の中でジョークをよく仕込む人物だが、難しいのはジョークは自国の文化や常識と密接に関わっていて、それをそのまま訳すと本来の目的(相手を笑わす)が達成できない可能性があることだ。たとえばイタリアでよく知られたジョークにシラミがオチに使われるものがあるが、ロシアではシラミは不衛生の象徴であり、嫌われている。そのため、そのままシラミジョークをロシア人向けに通訳すると笑いが取れない可能性があるのだが──そういう時、メルクムヤンは相手の国、そして文化にあわせてオチを変える(たとえば、オチのシラミを蛾にかえたり)のだ。

メルクムヤンはこの手の見事な翻案のエピソードに事欠かない。たとえばベルルスコーニが盟友であるプーチンについて問われているインタビューの中で、お二人の無尽蔵のエネルギーはどこから来るのですか、と言われ、ベルルスコーニは「仕事前に特別な座薬を使うだけだ」とジョークを言った(イタリアでは座薬を使うのはごく普通のことだという)。とはいえロシア人向けに座薬は具合がよくないなとメルクムヤンは判断し、これを「魔法の錠剤を三錠飲むだけだ」に変えて訳した。逆に、錠剤の言い回しはイタリアでは使えない。麻薬常習者のイメージがついてしまうからだ

メルクムヤンは通訳者について、下記のように語っている。

「通訳者には、正確に訳すことが肝心で、あとは仕事の範囲外だという考えの人も多いですが、私は違います。話し手が念頭に置いている目標、それが何であれ、その目標に向かって最大限の努力をします。」

すべての通訳者がかくあるべしというわけではないけれど、メルクムヤンはベルルスコーニや雇い主らから、高く評価されていたようだ。少なくともジョークをよくいう話者にとっては、素晴らしい通訳者であったことだろう。たいていの場合ジョークが機能するためには最低でも二人の人間が必要だが──『もし、そのうちの一人がそのジョークの作者で、もう一人がその翻訳者だとしたら、まずは一緒に笑うことこそが、翻訳先言語でも笑えるジョークを作る第一歩になる。p54』からだ。

おわりに

本書を読むと、翻訳がいかに一筋縄ではいかない職人的な技術と、技術以上にたゆまぬ努力が必要なのかがよくわかるだろう。メルクムヤンはベルルスコーニが話題に出したりジョークに出す可能性を考えてその日のニュースのチェックをしていたというし、ジョークを適切に訳すには通訳相手の文化にも精通している必要がある。

通訳の話題ばかり取り上げてしまったが、活字翻訳の話も存分に語られている。たとえば科学系の文章は簡単に直訳できるだろうと思うかもしれないが、実際はそうではなくて──と、最初期の火星の観測報告をどう翻訳するか(すでにある言葉に翻訳すると、火星に文明があるかのようにも読めてしまう)の事例であったり、バベッジの解析機関のように新しい概念について翻訳するためには、その対象への深い理解と、自国の言語に訳す時、ある種の創造性さえもが必要とされて──と、原文と深く向き合った翻訳家の女性エイダが取り上げられたりと、トピックは多岐に渡る。翻訳ノンフィクション、フィクション好きにはたまらない一冊だ

医学の発展に貢献したにもかかわらず、歴史から抹消されてしまった人々を掘り起こす──『帝国の疫病 - 植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか』

「疫病(えきびょう)」とは、集団発生する伝染病などのことを指す。少し前ではコレラや赤痢。最近ではコロナウイルスなどのような病のことである。同様の病は昔からあったが大きな問題になるようになったのは多文化がより頻繁に交錯するようになったこの数百年のことで、疫病の広がりと共に疫学もまた発展を遂げてきた。

本書は主に疫病に対抗する疫学がどう発展してきたのかの歴史をたどるわけだが、そこからさらに踏み込んで「疫学の発展に大きな貢献を果たしてきたにもかかわらず、これまで歴史からその存在を抹消されてきた人たち」に光を当てた一冊である。どういうことかといえば、1700年〜800年代はまだまだ観測技術や遺伝子についての理解も進んでいなかったから、医学の理論や検証のために用いられてきた主な手段は現場を観察し法則を見つけたり検証を行う事例研究であった。で、一般に住まう市民などさまざまな人がその対象になっているわけだが、病において多くの有益な情報を提供していたのは、ひどい扱いをされた奴隷や植民地現地民たちだったのである。

彼らはその命を軽く扱われ、船旅に際して栄養も換気も不十分で窓もない船底のスペースに何百人もが詰め込まれることもあった。彼らはそこでは息ができないと苦しさを訴えた記録が残っているが、過密な空間がいかに人体に有害かすらもろくに理解されていない時代(1700年代中頃)は、彼らの証具体的な症状や死者数のデータを足がかりにして、当時の医師たちは理論を組み立てていったのである。つまり、奴隷の人々の犠牲の上に現在の医学や疫学は成り立っているともいえるのだ。

本書は、統計、データ収集、聞き取り調査、それに医学的監視を用いる手法が、帝国主義、奴隷制度、及び戦争──そのどれもが暴力を基盤としている──によっていかに拍車をかけられたかを明らかにしている。疫学は、それ自体の歴史から抹消された人々と場所に対する大規模な侵犯行為の結果として誕生したのである。(p.203)

そして、実はそうした「奴隷や植民地現地民が医学にどのように寄与したのか」というのはこれまで歴史から抹消されてきたのだと著者は語る。彼らを観察した結果であったり、そのデータは最終的に科学的原理として体系化されたが、当事者たちのエピソードや悲惨な状況それ自体は積極的に書き残されることもなかったからだ。

従来の医学史研究において、彼らは存在しないも同然であった。彼らの名前と声はしばしば忘れ去られ、時には歴史的文献から作為的に抹消された。本書が目指しているのは、彼らが姿を消した状況を明らかにし、その歴史的功績を本来の形で伝えることである。(p.11)

けっこう専門的な本ではあるのだけど、難解な表現はほとんどなくどのエピソードも興味深いものばかり。知的関心を満たしながらもサクッと読み終えられるだろう。

奴隷船の過密な空間。

最初に取り上げられていくのは、奴隷や捕虜が船底の過密な空間に押し込まれた状況と、それがもたらした医学的知見についてである。1700年代半ば頃、人間の生存に空気が必要不可欠であること自体は知れ渡っていたが、空気の有効性が過密な空間で失われる理由を詳しく理解するまでは至っていなかった。科学者たちが実験室で空気の構成を調べていた時、医師たちは密閉空間で過ごした人々に注目していた。

密閉空間が人体にどのような影響を与えるかについての有効な事例になったのが、奴隷を運ぶ船なのだ。たとえばイギリス海軍に所属していたトーマス・トロッター医師は、1783年から84年にかけて奴隷船ブルックス号で行なった観察の結果を数多くを残している。ブルックス号には西アフリカに到着すると100人以上の奴隷を購入し、二人一組にして腕と足を鎖で縛り、窓も換気装置もなく空気が淀んだ船底に押し込めたのである。船底のスペースは空間の高さは1.5mから1.8mほど。窓もなければ換気システムも存在しないから、室内の暑さもひどく35度を超えたこともあった。

当然呼吸は苦しかったようで、トロッターは奴隷たちが苦悶の表情を浮かべながら必死に呼吸している姿や、自分たちの母語で「息ができない」と叫び声を上げていた様を目撃している。彼は換気の重要性を訴え、従来よりも少人数を船で運ぶように推奨するようになった。のちにトロッターの奴隷船に様々な事例を付け加えながら(インドの換気の悪い監獄内でイギリス人捕虜たちが123人窒息死していた事件など)新鮮な空気とそれに伴う換気は人間の生存に必要不可欠であるとを訴えたロバート・ソーントン(1768-1837年)もいる。要するに当時は過密状態や空気の不足が病気や死を招くという、今では当たり前の知識すらも事実として定着していなかったのだ。

多数の人間を過密な密閉空間に幽閉するのが当たり前奴隷貿易が、あらたな医学理論の誕生を促したといえる。このように奴隷船はきわめて重要な調査対象だったわけだが、医学専門誌や報告書では「事例」や「船舶」といった表現に置き換えられ、通常奴隷の存在は科学的事実とは無関係のものとして抹消されてきたようだ。

天然痘と奴隷

他、個人的に印象に残ったのは天然痘の予防接種の初期において、人体実験的に黒人奴隷が用いられていたことを明かす第七章「歌え、葬られぬ者たちよ、歌え」だ。

天然痘は古くから二度はかからないことが知られていた。そのため、アフリカやインドでは天然痘の予防のために天然痘患者の膿やかさぶたを感染していない人の皮膚に植え付ける「人痘接種法」というやり方で予防接種が実践されてきた。1700年代初頭、アメリカではまだ人痘接種法は行われていなかったが、当時の医師は天然痘の大流行に対抗するため、奴隷の身体を使ってその実験を行ったという。

ボイルストンは、接種後の様々な段階を〔奴隷の身体を使って〕観察し、記録した功績をマザーと共に称えられた。北アメリカのイギリス植民地で予防接種が新たな医学的処置として定着したのは、奴隷制度に負うところが大きかった。(p.198)

天然痘と奴隷の関係はそれだけではない。アメリカの南北戦争時にも天然痘は猛威をふるったが、戦中であることも手伝って予防接種のワクチンの数は足りなかった。そこで、人痘接種と牛痘接種の双方において、奴隷の子供たちを意図的に天然痘に感染させ、発熱し膿疱ができたらそこに薄く切り目を入れて痘苗にするための漿液を採取していたのである。当時大農園には何百人もの奴隷の黒人の子供がいて、そこは痘苗の大規模な生産現場であると同時にその後の追跡調査の実験場となっていた。

おわりに

本書では他にも疫学者としてのナイチンゲールを評価しようとしたり(彼女は戦時中に収集した死亡率のデータと国内の死亡率統計を比較して兵士のリスクを分析したり、兵舎病院と総合病院で様々な要素を追跡するための記録管理システムを開発したりとデータを駆使し仮説を導き出す最初期の疫学者であった)と、植民地主義や戦争がどのように現代でも用いられている疫学的手法につながっていたのかが語られている。

当時の人々のリアルな観察結果や証言から、どのようにして疫学とそもそもの「科学的手法」が発展・立ち上がってきたのかがよくわかる。おもしろいだけでなく、いまのわれわれの社会を支える貢献者たちに敬意を持つためにも、重要な一冊だ。

二酸化炭素除去技術から湿地創造プロジェクトまで、自然を操作しようとした試みを描き出す──『世界から青空がなくなる日:自然を操作するテクノロジーと人新世の未来』

人類は技術が発展するたびにそれを使って自然を操作・征服しようとしてきた。その試みの中には成功したものもあれば(農耕だって自然の操作の一種である)手痛いしっぺがえしをくらったこともあるし、成功したと同時にそれがもたらした悲劇の対応に追われたこともある。本書では、特に最後の、「問題を解決しようとして生み出された問題を(主に技術で)解決しようとする」人々の姿を描き出していく一冊だ。

たとえば昨今騒がれている気候変動対策では大気中に粒子を撒いて地上に届く太陽光を減らすことで気温を下げるジオエンジニアリングと呼ばれる種類の技術も大真面目に議論されている。大気中に粒子を撒くのは即効性のある手段で今のところ有望な技術のひとつだが、結局地球温暖化の「原因」を取り除いたわけではないので、風邪でいうと体に悪いウイルスが残ったまま、熱や喉の痛みだけ取り除いたようなものだ。

炭酸カルシウムを撒くにせよ硫酸塩を撒くにせよ成層圏に投入した粒子は2年ほどで地表に落下するので、絶えず莫大な量の粒子を巻き続ける必要がある。ある時世界で戦争などが起こって粒子を撒くことができなくなれば、オーブンのようにして突如地球の気温が跳ね上がることもありうる──というように、自然を操作する技術と試みは手痛いしっぺがえしを食らうのが常である。本書では、そうしたしっぺ返しに対抗する試みや、しっぺ返しを食らう可能性のある自然操作技術を網羅していく。

著者は『6度目の大絶滅』などの著書があり、主に気候変動分野についてを扱うサイエンス系のライターだ。ただし本書は遺伝子改変による自然の問題解決などにも触れていて、扱っている分野は広い。そして、本書は決してそうした技術群を楽観的に描き出していく本ではない。専門家たちも皆、疑念を持ちながらそうした技術を追い求めている。成層圏に粒子を撒くなんてことは、本来やらなくてすむのならその方がいいのだ。しかし、地球温暖化が深刻になり、この技術をすぐにでも使わねば人命や土地が多大に損なわれるのであれば、使わざるをえない時だってくるかもしれない。

本書では、問題を解決しようとする人々の生み出した問題を解決しようとする人々を追ってきた。(……)魚を止める電気バリア、コンクリートの人工決壊口、偽物の洞窟、人工雲──それはどれも、テクノロジー楽観論というよりは、テクノロジー宿命論とでも呼べそうな精神でもって提示された。どれも本物の改良版ではない。むしろ、与えられた状況のなかで、だれかしらが思いつく最善策というべきものだ。p270

本書にはこの手の本をそれなりに読んでいる僕も知らない事例がけっこうあり(二酸化炭素除去ビジネスとか)たいへんおもしろかった。

いたちごっこの湿地創造プロジェクト

最初に紹介されているのは、気候変動や最先端の技術を用いた自然操作ではなく、湖で繁栄してしまった外来種らを別の湖に移動させないために設置された「電気バリア」の事例だ。次に「問題を解決しようとする人々の生み出した問題を解決しようとする人々」そのものの事例といえる、「土木工学」に焦点が当たる章がくる。

この章(「ミシシッピ川と沈みゆく土地」)で取り上げられるアメリカのルイジアナ州は地球上屈指のスピードで消えつつある場所だ。1930年代以降、ルイジアナ州は5000平方キロメートル以上縮み、一時間半ごとにアメリカンフットボール場ひとつぶんの土地を失っている。なぜそんなことになっているのかといえば、気候変動に伴う海面上昇は理由のひとつだが、この地を特別にしている理由にはこの中を通るミシシッピ川が関係している。この川は絶えず堆積物をばらまいて川の流れを変えるので、その時々で周辺には盛り上がった土地ができたり、水底に沈んだりもする。

そうした状況に対応するのは直観的には簡単で、堤防を作ればいい。実際ミシシッピ川周辺では川が氾濫するたびに堤防は改良され、より高く、長くなっていった。しかしそうやって水量を管理するようになると、別の問題も生み出される。たとえば、ルイジアナに堤防や水門や放水路がない時代であれば、極端に水が多い時がくると、ミシシッピ川は氾濫し周辺に数千万トンの砂と粘土をまきちらす。そうしたら、周辺に被害はでるが、それが新たな土壌の層となり、土地の沈没を相殺してくれていた。

しかし人為的な技術の介入で氾濫が起こらなくなると、土地に新たな層ができることもなくなり、ルイジアナ南部は水没への一途を辿ることになってしまう。そうした状況に対抗するため、ミシシッピ川の底から砂と泥をえぐりだし、別の場所に運ぶことで「人工的な湿地を作り出そう」とする試みも行われるようになった。当然これはいたちごっこの施策であり、そのコストも莫大なものになっていく。

そこで、ミシシッピ川の堤防に8つの巨大な穴を穿ち「自然な土砂堆積プロセスを再構築する」試みも計画されている。決壊を防ぐために作った堤防が結局回り回って土地を破壊し、今度は人工的に決壊を再現しようという、なんとも迂遠な状況になっている。しかし、人間が未だに理解しきれない自然を相手にする時、こうしたいたちごっこは起こりがちであることが本書を読むとよくわかるのだ。

二酸化炭素除去

個人的におもしろかったのは二酸化炭素除去技術を扱った章。大気中に二酸化炭素を出さないのではなく、排出された大気中の二酸化炭素を除去する。実際、これが大規模にできるのであれば、無尽蔵に二酸化炭素を出してもいいわけではないが、それでも「二酸化炭素を出すな」というより話はずっと簡単になる。

そして二酸化炭素を除去する方法は無数に存在する。一番わかりやすいのは空気中から直接除去する方法だろう。スイスのクライムワークスは、大気中の二酸化炭素を回収し、石に変えて地中に埋める技術を開発している。手法としては、扇風機のような装置で空気を吸い込んで、二酸化炭素と化学結合するフィルターを通して二酸化炭素の粒子を集め、それを100度まで加熱して二酸化炭素分子を分離。それを今度は水に溶かして地中に送り、周囲の岩石と反応させて、2年も経てば石に変化する。これは自然界で起こるプロセスと同じなので、特に危険性もないのがウリだ。

植物の光合成を利用するのも手のひとつだ。植物は成長中に二酸化炭素を吸収するが、その後腐敗する時に二酸化炭素を待機中に戻してしまう。そのため、二酸化炭素を除去したい場合、成熟した樹木は後に切り倒し、地面に掘った溝に埋めるか、深海に沈める(深海の真っ暗で冷たい環境では腐敗はゆっくりにしか進まない)。玄武岩を掘り出して粉砕した後、高温で湿度の高い耕作地に散布する方法もある。こうすると、粉砕された岩石は二酸化炭素と反応して、空気から抽出してくれるのだ。

ジオエンジニアリング

最初に紹介したような、大気中に粒子を撒いて太陽光を反射させ気温を下げるジオエンジニアリングの手法も紹介されている。これは数年後には落ちてくるので影響はそこまで大きくないともいわれるが、どうだろうか。ある試算では、気温上昇分を相殺するために撒く必要のある量は年々増え、初年度は硫黄10万トン前後で済んだのが、10年目までには100万トン超に増加するという。そのためのフライトも一年あたり4000回から4万回に増大し、「気温を減少させるための作業それ自体が(二酸化炭素を生み出して)気温を上昇させる」、悪循環を生み出す可能性も見積もられている。

成層圏に投入する粒子が増えるほど、空の見た目もかわる。560ppmの二酸化炭素濃度を相殺するケースを検証したケースでは、空の色は白く変わるという。後世の人々が空と聞いて思い浮かべる色は、青色ではなく白色になっているかもしれない。

おわりに

本書では、自然を操作する技術を、こうやって影の部分まで含めてしっかりと取り上げていく。ここで紹介できていない事例(遺伝子操作とか)にもおもしろいものがたくさんあるので、気になった人はぜひ読んでみてね。

はるか未来の人々の生活を向上させるため、いま何をすべきかをあらためて考える──『見えない未来を変える「いま」――〈長期主義〉倫理学のフレームワーク』

この『見えない未来を変える「いま」』は、現在シリコンバレー界隈などで人気の高い「長期主義(Longtermism)」という思想について書かれた一冊だ。著者はオックスフォード大学哲学准教授にして『〈効果的な利他主義〉宣言!』などで知られるウィリアム・マッカスキルで、主に倫理・道徳哲学の観点から長期主義について、またこの主義に基づくなら、われわれ個人と現代文明は、はるかな未来に向かって何をすべきなのか(あるいは、何をしないべきなのか)を考察していくことになる。

長期主義には現在批判も出ているが、個人的にはおもしろい観点だと思った。長期主義的観点に立つからこそ出てくる問いかけもあり、そこには独創性がある。

長期主義とは何なのか?

長期主義が何なのかといえば、次のような意味になる。『本書のテーマは、一言でいうと「長期主義longtermism」だ。長期主義とは、「長期的な未来にプラスの影響を及ぼすことが、現代の主な道徳的優先事項のひとつである」、という考え方だ』*1たとえば地球人口は80億人を突破したところで、まだ数十年は増えるとみられている。

未来に生まれる人間は数百年から数千年の単位&その期間の総数でいえば、圧倒的に現在生きている人口の数より多いわけだから、未来に生きるであろう数兆の人間たち(人間以外も含むかどうかは主義によって変わる)のために今できる、今やっていくことで効果の高い施策をたくさん打つべきだ、というわけである。人類が典型的な哺乳類の種と同様の100万年前後存続するとして、人口は現在と同規模を保つとしたら(人口減少していくので同規模はたぶんありえないが、仮定として)今後80兆人が地球で暮らすことになる。仮に地球環境が核戦争などで明日壊滅的になって人がほとんど生まれなくなったとしたら、生まれたかもしれない80兆人は消えることになる。

 未来の人々は重要。未来の人々の数は膨大。私たちは未来の人々の生活を向上させることができる。
 長期主義の言わんとするところを一言でまとめると、こうなる。これらの前提は単純で、強硬に反対する人がいるとは思えない。それでも、これらの前提をとことん突き詰めていくと、道徳の革命が起きる。活動家、研究者、政策立案者、それどころか私たち全員の考え方や行動のしかたに、とてつもない影響を及ぼすはずだ。*2

著者によれば、人類は無分別なティーンエイジャーに似ている。親目線でみれば子供(ティーンエイジャー)には将来を見据えてその準備をしてもらいたい。一方でティーンエイジャー目線からみると自分の将来がどこまで続くかなどわからないし想像もつかないから、人生の今を満喫したい。どちらか一方が絶対に正しいわけではない。未来が重要だからといってティーンエイジャーの時間すべてを将来のための準備に費やすことが求められるわけではないように。重要なのは、そのバランスだ。

世界には不可逆的な部分だったり、可逆であってももとに戻すには多大な時間がかかる部分が多いから、早めに軌道修正が行えるならそのほうが利益は大きい。たとえば気候変動対策が今よりも何百年も前から行われていたら、地球と人類文明はどのように変化していただろうか。資源を大量に用いて産業革命など数々の革新が起こったからこそ今の文明が成立したという状況もあるだろう。その代償と気候変動リスクの緩和ではどちらの方が後世において「プラス」が大きいのか。そもそも、「プラス」とはどう定義すべきなのか──長期主義ではこうした数々の問いに答えていく。

長期主義ってようは数世代先のことまで考えようってことで、気候変動対策やりましょうねで終わる話なんじゃないのと思うかもしれない。実際、気候変動対策は長期主義においても最初に考慮すべき事態である。しかし、長期主義で考えられていくのはそれだけではない。本書では、「重大性(ある状態を引き起こすことで付加される平均的な価値)」、「持続性(引き起こされた状態が持続する期間)」、「偶発性(該当する行動をとらなかった場合、その状態が持続する期間)」の三つを用いて、気候変動を超えて何をすべきか/何ができるのかを模索していく。

価値観に変化を起こせるか?

たとえば、人類の歴史上奴隷制は長いあいだ一般的なものだったが、18~20世紀にかけて、世界各国で奴隷制は廃止の流れに向かっていった。現代の道徳的価値基準によれば奴隷制が廃止されたのは、間違いなくいいことといえる。

しかし、この道徳的価値観の変換をもっと早い時期に起こせていたら、不幸な目にあう人々の総数はもっと減ったのは間違いない。長期主義的観点でいえば、気候変動対策などと同じく奴隷制の廃止も「対処すべき事態」だ。しかし、そんなこと(価値観の転換)は可能なのか。仮に価値観を転換させるアクションを一切何も起こさなかったとしても、結局歴史の流れの必然として奴隷制廃止に向かったのだろうか(偶発性)。著者は長い議論の果てに偶発的な出来事や思想家、作家、政治家、反乱者たちの行動がいくつも重なって奴隷制が終わったのであって、奴隷制の廃止は運命づけられていたわけではないと結論づけるが、ここに関しては異論もかなり出そうだ。

とはいえ重要なのは奴隷制廃止の偶発性の度合いというよりも「そうした価値観や制度の変化もまた長期主義の中で議論すべきポイントだ」、という点にある。そして、その前提に立つと、同時に大きな問題が湧いてくる。われわれは現代的価値観から過去を断罪しているが、それはいまが未来だから可能なだけだ。問題だと認識しているのであれば問題を解決する方に動くこともできる。しかし問題だと認識できていない問題がある場合、どうやってそれに気がつくことができるのか?

問題だと認識できていない問題をすべて洗い出し、未来に備えることはできないというか、未来に至るべき「完璧な道徳観・価値観」なんてものが存在すると考えること自体間違っていると考えた方がいい。しかし、少しでも(理想的な道徳観・価値観に)近づくためにできることはあると著者はいう。できることのひとつは、選択肢をなるべく広げておくこと。世界政府の樹立や、世界を支配するような汎用AI(AGI)の開発は選択肢を狭める可能性があり、道徳探求的な観点では好ましくはない。

ふたつ目に挙げられているのは「政治的な実験主義」を取り入れることだ。マルクス主義的な考えで運営される都市、無政府主義で共同体主義的な都市──そうした無数の方針をとった都市をつくり、多様な文化を実験的に養うのである。言論の自由、誠実な討論、慎重な議論や熟考の場の奨励も重要だ。価値観の自由度を高めるために自由な移住も推奨されるが、ひとつの国の人口が増えすぎると単一の価値観に染まってしまう可能性があるので、国あたりの人口に歯止めをかける国際的な規律や規範も必要で──と、あれもこれもと夢物語みたいなことを語っているが、ようは未来に発生しうるより良い価値観・道徳観を検証するための土台として、「多様な価値観・道徳観」が育まれる社会の設計が重要だという話である。

危機に対抗する

長期視点に立って未来のためにがんばってもその未来に生きている人々が絶滅していたら意味がないので、長期主義においては核戦争などによる「生物絶滅」の未来はもっとも避けるべき事態である。そのため核戦争や生物兵器にパンデミック、AGI(汎用人工知能)による世界支配まであらゆる破滅シナリオを回避する、またそのために投資を行うことは最優先事項になり、本書でもページを割いて触れられている。

未来の危機を考えていく中で個人的におもしろかったのが「停滞」について考察した章だ。将来的に世界の人口は減少に向かうとみられるが、それでも技術進歩があれば経済は成長していく。しかし、技術の進歩が今のような速度で進むとは限らない。スタンフォード大学とロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの経済学者たちによる「アイデアの発見は難しくなっていっているか?」と題する論文によると、進歩はどんどん難しくなっているという。技術進歩の全体的な水準を倍増させるには、控えめに見積もってもその前の倍増時と比べて四倍の量の研究活動が必要だと。

研究が進むにつれ、検証が難しいものが後に残っていくから、技術進歩が今後停滞していくのも必然といえるのかもしれない。そのうえ研究者を増やそうにも、世界の人口自体が減少するので限界がある。では、経済・技術停滞の時代がくるとして、その停滞が終わる時はくるのか。また、抜け出るには何が必要なのか。停滞の時代を遠ざけるには何が必要なのか──といったことまで、長期主義のテーマになるのだ。

おわりに──批判もある

本書では他にも「人類」文明を存続させることが良いことといえるのか? 人間がいなくなったほうが地球の他の生物たちにとっては幸福の総量としては好ましいのではないかという問題だったり、そもそも「幸福の総量」をどう定義するのか、本当にそれが目標とすべき指標でいいのかといったことを問いかけていくことになる。

もっともらしいことをいっているように見える長期主義だが、批判もある。後世の最大多数の人々にとって良い結果を生み出すようにがんばるというが、それが優生学に近い考えになるのではないか。「最終的に」幸福な人類の総数が増えるのであれば現在の人類が大きな被害を払うことにも繋がるのではないかと。
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本書ではそうした批判に対して単行本刊行後のペーパーバック版の序文で反論・反省しているし、長期主義に対しての批判はあまりに極端な事例を提示しているものもある。たとえば著者は別に現代の人間の生活を苦しめてまで未来の人類に投資をしろといっているわけではなく、個人にたいして提言していることは寄付をしようとか、よりよい価値観や戦争、パンデミックの問題など重要な考えについて友人や家族と話をしようとか、そんな程度のものである。ただ一方で本書で展開しているのもざっくりとした議論・主張ではあるので、そのまま読めば批判されて仕方がない穴も多い。

仮に今後より長期主義が広がっていくのだとしたら、その理論もより洗練されていくのではないか。危険性も含めて注視していきたいテーマである。

*1:ウィリアム・マッカスキル. 見えない未来を変える「いま」――〈長期主義〉倫理学のフレームワーク (p.20). (株)みすず書房. Kindle 版.

*2:ウィリアム・マッカスキル. 見えない未来を変える「いま」――〈長期主義〉倫理学のフレームワーク (p.25). (株)みすず書房. Kindle 版.

ヤドカリやハチやタコの「経験」はどのようなものなのか?──『メタゾアの心身問題――動物の生活と心の誕生』

この『メタゾアの心身問題』は、タコやイカがどのような「意識」を持っているのかについて様々な観察・研究をもとに紹介した、『タコの心身問題』の続篇にあたる。

『タコの心身問題』は本邦での刊行が2018年で、その後何度も「人以外の生物の心、意識」や「タコの知性について」語る時にこのブログや他所の原稿で何度も取り上げてきたノンフィクションだったが、本作(メタゾア〜)もそれに勝るほどの知的興奮を与えてくれる傑作だ! 本作でもタコの話題が前作より最新の情報とともに語られているので、ある意味では続篇にしてアップデート版といえる内容に仕上がっている。

タコに続いての「メタゾア」なので、当然本作ではメタゾアの心と意識について触れていくわけだが、メタゾアとはなんなのか。これはかつて生物学者ヘッケルが19世紀末に導入した用語で、基本的には多細胞動物のこと──つまりほとんどの動物のこと──を指している。本書では「自己」との関わりにおいて進化的に重要な動物──カイメンやハチやタコ──に絞って、その「心身問題」を扱っていくことになる。

ハチやタコの体も脳も人間とは大きく異なっていて、人間と同じように世界を感じているわけではない。しかしそれは「何も感じていない」ことを意味しない。大なり小なり彼らは彼らなりのやり方で世界を経験しているのであって、本書がテーマにしているのはまさにその部分──彼らはどう世界を経験しているのか──にある。

私たちは、現在するさまざまな生物を手がかりに、生命の物語をその始まりから歩いて──這って、泳いで、身体のサイズを変えながら──追いかける。それぞれの動物の身体や感覚の機能、行動の仕組み、世界とのかかわり方からの学びだ。この動物たちの助けを借りて、過去の現象ばかりでなく、今日私たちの周囲に存在する多様な主観性のあり方を理解することを目指す。

ヤドカリは痛みを感じているかもしれない

本書では最初、カイメンやサンゴのような比較的シンプルな構成の動物からはじまって、エビやタコ、魚に昆虫──と次第に取り扱う対象を遷移させていく。個人的におもしろかったのは、エビやヤドカリといった甲殻類の経験についての章だ。

エビやヤドカリは痛みなど感じていないと一般的に思われているが、実は「痛みのようなもの」を感じている可能性がある。ある動物が痛みを感じているかどうかについてどう判断すればいいだろうか。たとえば何らかの攻撃を加えて、何らかの反応が返ってきたとしても、それは単なる反射なのかそれとも経験として苦しさを感じているのかの判断はつかない。そこで、ダメージを食らった時にそこを手当するとか、痛みを和らげる化学物質を探すとか、ダメージの結果から反射以外の行動が起こるか(トレードオフなど)を見ることで「痛みの感覚らしきものを持っている」指標とする。

エビの例からいくと、彼らは触覚に酢や漂白剤がつくと、触覚をきれいにするような動きをし、水槽の壁に触覚をこすりつける。これは「傷口にたいする手当てをする行動」に含まれるだろう。おもしろいのはヤドカリの例だ。ある実験では、ヤドカリに弱い電気ショックを流す。そうするとヤドカリは住処の貝殻を捨てるのだが、彼らが状態の良い貝殻に棲んでいる場合は、それを捨てるのを渋って耐えたのだという。また、近くで捕食者の匂いがするときも、なかなか殻を捨てようとしない。

この実験が示唆しているのは、ヤドカリには善い、悪いと感じる一連の事象や可能性が存在し、弱い電気ショックによる痛みにたいして通常は殻を捨てるぐらいには悪いと感じる一方で、それ以外のリスクも勘案して行動を決定しているということだ。おもしろいのが、電気ショックを与えられて貝殻から出たヤドカリは、そのあとでその殻を入念に調べることもあったという。何か異常を探しているかのようだ。

この結果だけで「甲殻類が痛みを感じている」と結論できるものではないが、それを示唆するものではある。現在社会的に、甲殻類にたいする痛みの配慮は存在しないし、生きたまま茹でたりもしているが、もし甲殻類も痛みを──人間と同じではないにせよ──感じているのだとしたら、その状況は変わってくるのかもしれない。

タコと分離脳の話

著者は10年ほどオーストラリアにある二つの場所でタコの観察を続けているのだが、観察結果を知るといかにタコが複雑な生物なのかがわかる。たとえばタコは巣を作ったり掃除のためだったりで物を投げることがあるのだが、メスがしつこく迫ってくるオスのタコに物を何度も投げつけることもある。小型のカメラをタコが見つめて、突然死んだカイメンを自分の身体に覆わせてカメラから身を隠したりもする。

タコは普段群れをつくらないが、そのわりにまるで社会性の動物のように、人間の視線や他者(他タコ)のことを意識した行動ができるのだ。それには、ニューロンの数も関わっているだろう。タコは犬に近い5億個ものニューロンを持っているが、脳ではなく腕にその3分の2が集まっている。そのせいなのかどうか、タコを観察していると、何かを吹き出して腕も含めた統一体として身体全体で移動することもあれば、反対に腕一本一本が自分の意志を持っているかのようにバラバラに動いていることもある。

そうした事例をふまえて、タコの「自己」については複数の説が提唱されている。ひとつめは、人間と同じように、腕に多大なニューロンがあるにしても統制としてはひとつであるとする普通のもの。ふたつめは、腕は個別の脳といえるものであり、自己は1+8存在する説。みっつめは、タコの腕と脳は1+1の関係とするもの。著者はここに別の可能性を加えていて、タコの腕と脳の関係は「1」と「1+8」をスイッチングしている──とするものだ。これは、人間でいう「分離脳」のような状態だという。

人間の重度のてんかん患者は、脳で起きた発作が反対に伝達することを防ぐため、大脳半球を連結している脳梁を切断することがあり、この状態を「分離脳」と呼ぶ。で、この手術を受けた患者は、一人なのに二つの心を持つようにふるまう場合がある。基本的に分離脳であっても実験状況になければ分離しているようには見えないのだが、片目・脳半球ごとに別々のものをみせると、答えがバラバラになるのだ。

これと同じように、タコもある時(どこかに向かって移動したい時とか)は8本の腕まで含めて統一された単独の行為者であるが、また別の時は腕は勝手に動いて周囲の様子を探って情報を集める、「1」と「1+8」のスイッチングを行っていて、後者の時のタコの中枢は腕の動きを「自分のもの」とは認知していないのではないか(各腕から得た情報は中枢にも伝わるが)──と著者はいうのである。

おわりに

タコやヤドカリの事例をみただけで、われわれが気軽にいう「心」とか「意識」というものは、「ある/なし」で語られるようなものではなくて、生物種ごとにまったく異なる形で立ち現れるものなのではないかという考えが浮かび上がってくる。人間以外の知覚を想像する主体はどうしても人間になるから、自分に引きつけて考えてしまうのは仕方がないが、しかしその枷からは脱却する必要があるのだ。

ヤドカリやタコなどにはおそらく何らかの形の経験があるといったん認めると、広い見方──人間以外の動物にあって、なおかつ人間にもある、すべての動物を経験する存在にしているものについての包括的な説明──が必要になる。じつはそれこそ、私が本書で進展させようとしてきたものだ。(p274)

本書では他にも魚にはどのような知覚があるのか(痛みは感じているのか、自己を認識することはできるのか)や、一般的に痛みがないとされる昆虫に本当に痛みがないのかについての現代的な検証など、「各種動物がどのように世界を経験しているのか」についての、広範な仮説・研究が大量に紹介されている。

近年、『魚にも自分がわかる──動物認知研究の最先端』をはじめとして、「これまであまり知的と思われてこなかった動物たちに高度な認知機能が備わっている」ことを示すことが次々と明らかになってきていて、個人的に注目の領域になっている。

本書で述べられていることの多くも仮説であり、ヤドカリやエビに痛覚らしきものがあることが確定したわけではない。それでも、彼らの「経験」が、それぞれ程度の差こそあれど豊穣なものである可能性が、本書を読むとよく分かるはずだ。

地球がどれほど劇的な変化に見舞われてきたか、広範な科学の知見を動員し描写する地球史ノンフィクション――『素晴らしき別世界 地球と生命の5億年』

※山と渓谷社からの依頼で山と渓谷社のnote用に書いた書評ですが大変おもしろい本だったので自分のブログ用にちょこちょこと書き換え、許可を得て転載しています

われわれは自分の周りの環境を「当たり前のもの」として受け止めがちだ。

何しろ先祖の時代から日本列島は日本列島だし、一日は24時間だし、気候変動や災害による水位の上昇、地形の変動こそあれど、世界の構成──大気中の酸素・二酸化炭素濃度、大陸数、生物の数──に大きな変化はない。しかし、5億年の物差しでみると、過去と現在の地球には、「別世界」と表現しても過言ではないほどの変化が起こってきた。今の六大陸もかつては繋がっていて、陸伝いに移動できたし、そうした世界では、当然植物や生物はわれわれの想像を遥かに超えた形態をみせる。

というわけで、本書『素晴らしき別世界』は、そんな地球環境の変遷を、約5億年の期間にわたってみていこう、という地球史・生命史に関する一冊である。本書は全16章で数百万年ごとに年代を区切って地球を描写していくが、年代ごとに世界の風景はガラッと異なり、最初から最後まで飽きさせるということがない。

本書は植物、地学、生物学、気候科学など広範囲を扱っているのだが、著者のトーマス・ハリデイは地学、古生物学、環境科学などを専門とする学者で、その記述には安心感がある。また、単に変化の流れを事実ベースで追っていくと教科書のようになりがちだが、本書は科学の積み上げと詩的な描写もバランスよく組み合わさっている。

下記は約4億4400万年前のオルドビス紀(生物が生まれてしばらく経ち、陸上生活に適応し始めた生物も数を増した時期)のアフリカのスームについて書かれた一節なのだが、惑星規模のゆったりしたペースで変化していく氷河を美しく描き出している。

 何百年にもわたって頑として動かない、詩情漂う光景の象徴である氷河は、せわしなく騒々しい存在、大地を掻き回して褶曲させる存在、岩層を創造して破壊する存在だ。水は流れるはずのないところを、大気の中を気体として、氷の中を固体として、水の中を液体として流れる。物質の複数の状態が混じり合い、大地から氷、川、流れへという変化、岩石から土埃、風、浮水へという変化は、不毛の大陸から生命力をあふれさせて季節ごとに生命を花開かせる。p399

本書は約2万年前の更新世からはじまって、5億5000万年前のエディアカラ紀で終わるが、そこまで読み通すと世界がどんな変動に見舞われてきて、われわれが今いる場所・環境が、いかに一時的で奇跡的なものなのかがわかるだろう。

だからこそ、われわれは今の環境をできるだけ維持する必要もある──地球やその生物たちのためというよりも、人類のために──わけだが、そうした小難しいを考えず気になるところだけ読んでもたいへん楽しめる一冊だ。

二酸化炭素濃度を激減させた植物

本書の特徴は、生物、地質、気候といった個別の対象に限定せず、そのすべてを通してある時代の情景を描写していく点にある。生物や植物や地球環境はそれ単体で存在しているわけではなくて、相互作用によって変化していくわけだが、本書ではその関係性がしっかりと描き出されているのだ。

その特徴がよく現れているのは3億900万年前の石炭紀だ。この時代のアメリカ合衆国イリノイ州のあたりには、幹の表面で光合成を行うことができるリンボク類の植物が生まれ、高く(10〜30メートル)生い茂っている。リンボク類は頑丈な樹皮を持った最初の植物だが、われわれのよく知る硬い幹を持ち体を支える木とは違って、内部はスポンジ状で軽い。材質が軽くて巨大だと地上部分が不安定になるわけだが、リンボク類の根は地中で広がって、隣の木の根と巻き付いて絡み合う。地上では不安定だが、土の下で木同士が連帯することでがっちりとした土台になっているのだ。

リンボク類の根が地中を掘り進んでいくと、ナトリウム、カルシウム、カリウムなどアルカリ金属のケイ酸塩に富んだ砂岩の間にももぐりこみ、そのミネラルを取り込んで水の中に放出する。そうすると、金属イオンが水中に流れ出し、二酸化炭素と反応し(炭酸塩とかになる)、大気中からさらに多くの二酸化炭素が取り込まれる。

石炭紀に栄えたリンボク類のような革新者の存在によって、地球環境の二酸化炭素濃度は大幅に減少した。具体的には、1億1000万年前のデボン紀から、石炭紀までのあいだで大気中の二酸化炭素濃度は現代の大気中に存在する二酸化炭素の10倍に相当する約4000ppmも下がったのだという。植物による大気への影響はそれだけではない。光合成の過程で酸素を排出するようになって、この時代は酸素濃度も上昇している(現代は約20%だが、この時代は32%)。その影響で、石炭紀の世界の平均気温は現代よりも最大で6度も高い。酸素濃度が23%を超えると植物質は湿っていてもいなくても火がつくから、現代なら燃えそうにない湿気った木材も燃え上がってしまう。

結果として、この時代には森林火災が頻繁に起こっている。

南極のペンギンが巨大化した理由

大気の組成が変化すると生物にも影響があり、石炭紀には数多くの昆虫や、甲虫が生まれ、暮らしていた。特にイリノイ州のあたりは知られている限り地球上ではじめて甲虫が暮らし始めた場所だ。

ただ、大気組成と生物の関わりについての良い例は、約4100万年前の始新世にある。この時代に入った頃、二酸化炭素とメタンの濃度が高くなって、世界の気温はかつてないほどのスピード(1000年で5度)で上昇していた。濃度上昇の理由は定かではないがグリーンランドで激しい火山活動が続いて海が温まり、深海の固体メタン(二酸化炭素より協力な温室効果ガス)が海中に溶けたことが起因となっているらしい。

当時の二酸化炭素濃度は最大で約800ppmと現代の約二倍(現代は417.9ppm)だ。それによって何が起こったのかといえば、まず北半球一帯の哺乳類が小型化したのである。温血動物の失われる熱の量は表面積に比例し、小型の動物の方が体重あたりの表面積が多くなるので、小型化したほうが熱を放出しやすくなるのだ。

始新世はその名の通りプランクトンから巨大な捕食哺乳類まであらゆる生物が絶滅or新たな形態へと進化した時代であり、その背景にはこうした気候の影響があった。地球全体の温度が上昇したことで両極の氷も溶け、水位は現代と比べて100メートルも高く、南極の夏の気温は25度にもなったという。

この時代には南極に平均身長165センチメートルとほぼヒトと同じぐらい巨大なペンギンが住んでいたりと、入れ替わりの時期だけあっておもしろい生物がたくさん暮らしている。そうした描写を読んでいくのもおもしろい。

”素晴らしき別世界”へ旅に出る

本書の最後に配置されているのは5億5000万年前のエディアカラ紀だ。この時代、陸上では何も生きていない。細菌や古細菌という単純な生物ドメインの他、複雑な多細胞生物も生まれている(八本の腕を持つ円状の生物など)。

この時代は地球環境どころか宇宙の他の星々すらも現代と同じではない。エディアカラ紀は現代よりも二銀河年以上昔で、つまりその間に太陽系が銀河系の中心にあるブラックホールの周りを二回以上公転している。そうなれば当然恒星の見え方も異なる。北極星は見つからないし、現代の夜空で最も明るいシリウスもみえない。月も現代よりも1万2000km近い位置にあり、15%も明るいのだ。地球の自転も年を経るごとに遅くなっているので、当時は日の出から次の日の出まで22時間しかない。

過去が「別世界」であることが、この記事を読んでもらっただけでわかっていただけただろうか。別世界とはいっても、われわれの世界と無関係であるはずもなく、地球の二酸化炭素上昇が続いたら気候に何が起こり得るのか(海洋から酸素が失われ海水温が上昇していく状況は、ペルム紀とよく似ている)など、学ぶべきことは多い。

おわりに

ここで紹介できたのは本書の全体の中でも一部の時代に過ぎないので、興味を持ってもらった方には、ぜひ一冊通して読んでもらいたい。

「能動的に行動する能力」はいかにして生まれ、進化してきたのか──『行為主体性の進化:生物はいかに「意思」を獲得したのか』

この『行為主体性の進化』は、認知科学が専門のマイケル・トマセロによる、「行為主体性」について書かれた本だ。霊長類や他の哺乳類はアリやハチといった昆虫と比べると「知的」であるようにみえる。しかしその知的さをどのようにはかるべきだろうか。もちろん、これについては行動の複雑さなど無数の尺度が考えられるだろうが、本書ではその知的さの違いを「行動の制御」に見出していく一冊だ。

たとえば、アリやミツバチの行動は、それがどれほど複雑であっても個体がすべてをコントロールしているようにはみえない。彼らの行動を主に制御しているのは個体の判断ではなく生物学的機制(バイオロジー)である。一方の霊長類や他の哺乳類は、ある程度は自分のコントロールにおいて、情報に基づく決定を能動的に下しているようにみえる。これに関連して出てくるのが本書で最も重要なワードの「行為主体性」という概念で、具体的には「自分で主体的、能動的に行動する能力」のことをさす。

たとえば、地球上に出現した最初の生物は行為主体性を持っていなかったといえる。彼らは口を開いて単純に動き回る単細胞生物で、お腹が満ち足りたから動作を停止するといった行動はとれなかった。自己の行動と結果を結びつけ、それが成功したかどうかを判断することもできない。ただ刺激に駆り立てられ、漂うのみである。

アリやハチのような昆虫と、哺乳類、人間では、明らかに後者の方が行為主体性のレベルが上がっている。では、いったいそれらの間で行為主体性についてどのような違いがありえるのか。行為主体性はいかなる経緯で進化し、人間が持つような高度な行為主体性にどうやって至ったのかを問うのが、本書のメインテーマになっている。

とりわけ人間の行為主体性を最終的に解明するためには──それが私の望みである──、高度に制約されたわずかな決定を行うだけの生物から、何をすべきかを常に独力で決定する生物に至る、行為主体的な行動組織の進化の段階を跡づけていくことが必要になる。p10

生物が生息する環境は、新しい種が出てくることもあるし、隕石などが降ってくることもあるしで、時間的にも空間的にも大きく変化し、予測不可能なものになりうる。ゆえに、著者の仮説によれば、そうした予測不可能な状況にぶちあたっても自分で臨機応変に環境を評価し、次になすべき行動を独力で決定できるものが、ある生態的ニッチでは生き残り、子孫を残すことができた。人間の意思決定を下す能力や、非合理的なバイアスは、そうした進化的な適応の結果である可能性がある。

4つの主要なタイプの心理的行為主体

著者によると、そうした人間の意思決定や行動制御の起源を解き明かすような系統的な試みはこれまでまったくされてこなかったのだという。そこで本書ではまず、「人間の心理的行為主体性が進化した道筋を再構築すること」に焦点をあて、人類に至るまでの重要と思われる四つの主要な行為主体の段階──太古の爬虫類、哺乳類、大型類人猿、初期人類──に絞って、それぞれがどう異なるのかのを論じていく。

目標指向的行為主体

時系列順に進んでいくので、最初に取り上げられるのは目標指向的行為主体と呼ばれる太古の爬虫類たち。先に地球上に出現した最初の単細胞生物の話を出したが、彼らは行為主体性を持っておらず、目的も何もない。それでも生きていけるので、何も問題ないわけだ。しかしその後神経系を備えた生物が生まれ、徐々に複雑な行動をとるようになる。特に5億年前にカンブリア爆発がおきて、四肢、歯、爪などの付属器官をもった「複雑な能動的身体」を持つ生物が登場すると、状況は変わる。

生物が全般的に複雑になると、捕食にしろ防御にせよ予測不能な状況が起こり得る。著者によれば、そのために必要とされたのが爪などの武器だけでなく、自己の行動を制御するための効率的な手段だ。『そこで登場したのが、フィードバック制御組織を備えた生物であり、少なくとも特定の行動領域に関するいくつかのコンポーネントを実装していたという点で、それが最初の真に行為主体的な生物になったのである』

で、太古の爬虫類がその「最初の真に行為主体的な生物」なわけだが、彼らは単に刺激に駆り立てるのではなく、目標を指向し、個体の決定によって行動をコントロールすることができた。飢えていれば餌となる昆虫を探し、見つけたら殺して食べ、飢えが満たされたら行動を停止する。その過程で「襲われる」などのイレギュラーがあれば、太古の爬虫類(や実験対象となっている現代のトカゲたち)は行動を止める。

ある実験で、トカゲは不透明の管に入ったエサを、管の端の開口部まで回り込んで入手できることを学習した。その後、透明の管にはいったエサの前にトカゲをおく。被験個体が生得的な傾向に従うのであれば、まっすぐ見えているエサに向かうはずだが、トカゲの中にはその「生得的な傾向を抑制」して、不透明な管で学習したように、管の端まで回り込んで入ることができた個体もいた。この「生得的な自分の行動を中止できる」ことが意思決定者として大きな意味を持っているわけだが、それでも人や哺乳類と比べると単純な意思決定機構しか持っていないことにかわりはない。

意図的行為主体

続いて紹介されるのが、意図的行為主体とされる太古の哺乳類だ。彼らは意図的に自己の行動を目標に向けて導く。実際に行動を起こす前に、行動計画をシミュレートし(たとえばリスが自分がいる枝からとなりの枝に飛び移ろうとして、落ちるリスクを考えるみたいに)、失敗しそうだなあと思ったら別の道を模索する能力を持っている。

そんな能力なら便利だし爬虫類だって持っていたっていいのでは、と疑問に思う(もちろん高度な行為主体性にはより大きな脳が必要になるのでその使用コストはあるのだが)。著者によれば、哺乳類だけが高度なスキルを発達させたのは、彼らが社会集団を形成して仲間と暮らすことが多いことに起因するという。

爬虫類は、おもに捕食者と餌の他の生物とせいぜい天敵と相互作用しているだけで、そこで生じる不確実な出来事に対しては目標指向行為主体が持つ程度のスキルで十分に対処できる。一方の哺乳類は群れを作ることが多いので、そうすると目標となる餌を外敵だけでなく仲間と奪い合う必要がでてくる。仲間との競争という高度な社会性を必要とするに、複雑な認知スキルが必要になったというのだ。続いて出てくるのが、同じ哺乳類の中でも太古の類人猿で、こちらは合理的行為主体と呼称される存在だが、これについて深く紹介していると長くなりすぎるので割愛させてもらおう。

社会規範的行為主体である太古の人類

そして最後の行為主体の段階として現れるのが社会規範的行為主体である人間だ。重要になってくるのは個体の枠を超えた「社会規範」である。人間は幼少期の頃から「規範」を持ち「協働」を行う。たとえばチンパンジーはそばにいる適当なやつと一緒に狩りをはじめるのだが、狩りの最中にパートナーが抜けていなくなり、狩りが終わった後戻ってきておこぼれをもらったとしても抗議をしない。

一方の人間は、三歳児の時点ですでに協働に際して、自分の役割を果たそうとしないパートナーがいた場合抗議を行う。一緒に作業し始めたパートナーが謝りもせずに協働から抜けたり、余分に分け前をもらおうとしても抗議する。それも、しなければならない、する義務があるといった規範的な言葉で抗議を表明するのだ。人間は個体の行為主体だけでなく、その上位の「われわれ」による社会規範による目標を追求する主体でもあるといえる(だから社会規範的行為主体と呼ばれるのだ)。

環境には数多くの不確実性が存在し、それに応じてここで述べてきたような行為主体性が生み出されてきた。人間が今ほどの高度な心理的能力を持っている理由は、人間が対応する不確実性が捕食対象だけでなく協働のパートナーにあったからで、他者との複雑な連携を可能にするためにはそれまでの類人猿にもなかった様々な社会的・認知的スキル、社会的な意思決定や自己調節能力が必要とされたのだといえる。

 人間が他の動物と大きく異なる点を考えると、人類が新たに獲得した組織がいささか質素であることには驚きを感じるかもしれない。しかし、その点こそがまさに奇跡なのである。見かけは質素な変化が、あらゆる種類の偉業を可能にする新たな形態の行為主体をもたらしたのだから。p210

おわりに

こうした各生物における行為主体の変化は、彼らが世界をどのように経験しているのかにも関わってくる。行為主体という枠組みを通して生物について考えていくと、行動プロセスとそうした心理プロセスの両方を一気に説明することができるので、その応用範囲はシンプルさに似合わず(だからこそ、ともいえるが)驚くほど広い。本文200ページちょっとと短めだが、中身はぎゅっと詰まった一冊だ。

アンチ優生学の立場で、遺伝がもたらす人生への影響を「平等」の観点から考え直す──『遺伝と平等―人生の成り行きは変えられる―』

近年、遺伝子研究が進展してきたことで身長や顔といった見た目の要素だけでなく、「学歴」のような生涯収入やそれに伴う生活の質に直結する部分も遺伝子の影響を受けることがわかってきた。しかしそうしたデータは気軽に世に出すと、何度否定されても議論が絶えることのない優生学や、何をもってして社会は「平等」や「公平」といえる状態になるかといった、簡単には答えのでない議論を呼び込むことになる。

しかし、実際に遺伝子によって学習能力や最終学歴に差が出るのであれば、議論が難しいからとか、遺伝による差が明らかになると優生学に結びつく可能性があるからと危惧し「遺伝的な差異をなかった/見なかった」ことにするのは間違っているのではないか。それ──遺伝的な差異による富の格差──がある前提で、平等についての議論を進める必要があるのではないか。けっして優生学に陥ることがないよう、アンチ優生学の立場を表明し、それでもなお遺伝的な差異を直視し、平等を目指すために。

本書『遺伝と平等』は、最新の遺伝子研究をもとに、間違いなく人類社会には遺伝による富の格差が存在することを示し、どのように設計をしたら遺伝的な差異がある人々に「平等」をもたらすことができるのかを議論していく一冊だ。

そもそも遺伝による差異が本当に学歴などに関わってくるのか。関わってくるとしても、どれぐらいの影響力があるといえるのか(世帯収入の方が重要なんじゃないの?)、相関関係と因果関係の違いといった基本的な部分を、双子研究やGWASなど数多の研究手法・データを通して抑えていく第一部と、差異が存在することを前提に、ではどのように平等を設計すべきなのかを議論する第二部にわかれている。

あなたは両親を選べなかった。そしてそのことは、両親が環境としてあなたに与えたものだけでなく、遺伝としてあなたに与えたものについても言える。社会階層の場合と同じく、遺伝くじの結果もまた、社会の中でわれわれが大切に思うもののほとんどすべてについて、人々がどれだけのものを手に入れるかを左右する、制度的な力なのである。p23-24

将来的に研究が進展して遺伝子が人生にどのような影響を与えるのかが今よりもはっきりとわかってくると、本書で書かれるような問題提起や議論を決して無視できなくなるだろう。本書は遺伝学という知識を、社会の敵ではなく味方として使いこなすための、現時点で最良の水先案内人になってくれる本だ。

本当に遺伝的な差異が学歴にまで反映されるの?

人間の能力と遺伝子に関する議論は相当にセンシティブなだけに本書では細心の注意をはらって研究やデータや因果/相関関係を扱っているので、かなり簡略化したここでの紹介だけでわかった気になられると危険なのだが、本当に遺伝的な差異が学歴にまで反映されるの? という最初の疑問点について簡単に紹介しておこう。

それを理解するために重要なのが、「ポリジェニックスコア」と呼ばれる概念とゲノムワイド関連解析(GWAS。個人のゲノムの全領域について、遺伝的な変異のある場所と表現系の関係を調べる手法)と呼ばれる手法だ。前者は、大雑把に説明するとひとりの人が測定された結果(身長や体重や富)に関連する遺伝子のバリアント(DNAの塩基配列に生じる差異のこと)をどれだけたくさん持っているかによって加算される数だ。

単純化していえば学歴に関するポリジェニックスコアが高い人は、数百万人といった人間を対象に行われた研究で関連するとみられる遺伝子のバリアント、SNPs(スニップスといって塩基配列における一つの塩基の個人間の差を指すが、遺伝子バリアントのより細かいやつと理解しておけばいい)を多数有していることになる。

現在学歴に関連するSNPsがすべて発見されているわけではない。サイエンス誌で発表された2013年の研究では、12万人6千人(端数省略)を調べて学歴に関する3つのSNPsを見つけ、その3年後には29万人を調べてさらにSNPsを74個、18年には1千200個以上見出し──と関連していると思われる箇所を見つけ続けている。身長で関連するSNPsは10万にもおよぶとみられるので学歴に関連するのがそれ以下ではなさそうだが、数多のバリアントがひとつの形質に関与している時、それぞれの小さな相関が足し上げられることで、人々のあいだで目に見える違いになって現れる。

で、結局ポリジェニックスコアが最終的な発現(たとえば学歴)にどれぐらい関与しているの? というのが気になるところなわけだが、本書では次のように説明されている。『学歴GWASから作られたポリジェニックスコアは、学校教育を受けた年数や、標準学力テストの成績、知能テストの得点のような成り行きについて、一般に、分散の十パーセントから十五パーセントほどを捉えている。(p.106)』

この部分だけ読むと、小さいね、と思うかもしれないし、大きいな、と思うかもしれない。アメリカで白人を自認する人々の学歴で、世帯所得によって説明できる割合は11パーセントなのだが、それとほぼ同じかそれ以上と考えると影響は大きく見える。また、これが遺伝と学歴の発現に関する唯一の指標というわけでもない。たとえば日本でもよく持ち出される双子研究(一卵性の双子は出生時には遺伝子がほぼ同一になるので、その後の差を研究する手法)では、学歴のばらつきは約40パーセントは遺伝子によるという推定が出てくる(研究によってばらつきはあるが)。

GWASで見つかった遺伝子で説明される分散と双子研究の推定にここまで大きなギャップがある原因はいまだわかっておらず、「遺伝子の行方不明」と呼ばれている問題だ。ポリジェニックスコアはまだ遺伝的バリアントをすべて測定できたわけでもないので、今後研究が進むとGWASによる現在の推定値は過小評価だったね、となるかもしれないし双子研究の推定値が大きすぎる可能性もある。しかし、どこに収まるにせよ、学歴の遺伝率がゼロでないのは間違いない。しかも、このまま何も変わらなかったとしても、遺伝子の影響は世帯所得と同じぐらいはあるといえるのだ。

平等をまじめに受け止める

で、本書ではその前提(遺伝の影響は最低でも世帯所得と同じぐらい重要な要因である)をおいたうえで、では平等や公平についてどう考えていくべきだろうかと第二部「平等をまじめに受け止める」で考えていく。たとえば誰もが同じだけの支援や機会を与えられることが公平か? もしくは、生い立ちの社会的条件や誕生時の偶然故に学校で苦労しそうな子ども個人個人に特別な支援が与えられるのが公平か?

一足とびに平等のための制度といった結論に飛びつくのではなく、遺伝学の知識を「排除」ではなく「平等」のために地道に使っていくのが重要だ。たとえばポリジェニックスコアが低く統計的にはドロップアウトしそうな子であっても、評判の良い学校では、ポリジェニックスコアが高いが評判の悪い学校に通う子と同じくらい学び続けられることもわかっている。遺伝データを活用し、そうした「環境」にはどのような違いがあるのかが分かれば、最終的な教育改革に繋がる一歩になるだろう。

おわりに

AIが発展したことで人間の仕事にはより高度なスキルが求められる。そのためにはさらなる「教育」のチャンスが必要だと語られることも増えたが、その大前提として、遺伝子は最低でも世帯所得と同じ程度には考慮される必要がある。そのためには、まず「遺伝による差異」が存在することを、社会が広く認める必要もあるのだろう。

平等とインクルージョンが必要だという主張を、遺伝的にはすべての人がみな同じだとか、遺伝的性質は人間の心理には影響を及ぼさないとかいう前提の上に打ち立てる必要はないのだ。修正されるべきは、人々がどんな遺伝的バリアントを受け継いでいるかによらず、この国の社会的・経済的生活にすべての人が十分に参加できるように社会を作り替えることに後ろ向きな、社会そのものなのである。(p333)

遺伝データが誤った使い方をされる危険性は常にあるが、遺伝による差異をタブー視して見なかったことにすると、見当違いの支援や対策に税金が投入されることにもなりかねない。ある人の学歴や収入が持って生まれた遺伝子にも影響を受ける──つまり、ある人の成功の大部分が運であることが知れ渡れば、サンデルによる『実力も運のうち』を代表とする能力主義にも議論は繋がってくる。本書(『遺伝と平等』)は現代において様々な領域につながる、重要な論点を持った本なのだ。

地震から火山まで様々な津波の発生メカニズムを教え、いざという時に命を救ってくれるかもしれないノンフィクション──『津波 暴威の歴史と防災の科学』

この『津波』は津波の研究者であるジェイムズ・ゴフとウォルター・ダッドリーによる、世界中・歴史上で起こった津波についての一冊である。

本書のテーマのひとつに、どれほど大きな被害をもたらした津波であっても、人はすぐに忘れてしまう、というものがある。だからこそ、繰り返し津波の被害とそのメカニズムを語り継ぎ、時に魅力的なエピソードも添えて興味をひきながら、津波に襲われた時にどのような行動が生死を分けるのかを伝えていかなければならない。

「知識が津波から命を救う」例のひとつに、21世紀に入ってからの最大の津波被害をもたらした2004年のインド洋大津波(死者は22万人にも及ぶ)でのエピソードがある。この時、10歳のイギリス人のティリー・スミスはタイのリゾートビーチに休暇で遊びにきていた。彼女はちょうど地理の授業で津波について学んでいたので、海が引き始めた時にそれが津波の前兆だと気がつくことができた。彼女はそのことをすぐに両親に伝え、両親はそれをリゾートのスタッフに伝えたことで、このビーチは今回の津波災害で、犠牲者がひとりも出なかった唯一のタイの海浜リゾートになった。

知識があると、自分の命だけでなく周りの人たちを救うことにも繋がる。日本のように周りを海で囲まれた国で暮らすなら、その重要性はなおさらだ。とはいえ本書は危険危険! と危険だけを煽り立てる本ではなく、人類史以前に津波がもたらした大量絶滅の可能性についてだったり、果てはウイスキー蒸留所で起こった事故によるウイスキーの大津波に巻き込まれた人々についての話だったりと、扱っているエピソード・対象は幅広く、楽しみながらそのメカニズムと恐怖を教えてくれる一冊だ。

「TSUNAMI」の由来

「津波」は日本発祥だがその後世界で「TSUNAMI」として使われるようになったのだが、その歴史についても本書では触れられている。まず、「津波」が日本で最初に記されたのは1454年の享徳地震津波について述べた文書の中(当時は「津浪」)。

だが、日本で一般に使われ始めたのは1896年の明治三陸地震津波の頃からだった。その時日本の新聞各社が一斉に「津波」という単語を使い、同年の『ナショナルジオグラフィックマガジン』の記事でも「tsunami」が使われた。ただ、西洋での普及の理由は、1946年のアリューシャン地震津波でハワイに被害があった時、博識な科学者3人が津波という単語を採用し、その意味を丁寧に説明したことにあるらしい。

日本の単語が世界に広まったのには偶然の要素もあるのだろうが、ひときわ津波に襲われやすい国であり、その恐怖・脅威を伝える言い伝えが豊富に残っていたことも挙げられるのだろう。700年代や800年代から数々の津波の言い伝えあり、「津波」という単語こそ出てこないものの、様々な言い回しで津波を表現している。

牛のエピソード

個人的におもしろかったのは、1964年のアラスカ地震のエピソード。多くの住民が津波の危険性を理解しておらずサイレンが鳴らされているにもかかわらず見物に行って死んだり、漁師が自分の船を救おうと港に下りていって死んだりと反面教師的なエピソードに満ちているが、それよりも「牛」のエピソードが印象的だった。

地震や津波の際にはよく「鳥が消えた」とか「牛が高台に逃げていった」とか動物は危機を察知していた系のエピソードが語られる。著者らはそれは後付で思い込んだエピソードかもしれない、と懐疑的な面もみせるが、アラスカ州のコディアック島でのインタビューでは地震後に牛が丘の上へと逃げていったエピソードを数え切れないほど聞いている。一方、無数の牛たちが津波によって溺死した話も聞く。

はたして、どっちが正しいのか? といえば、インタビューの中で多くの牛を所持する牧場経営者がおり、その人物が答えを教えてくれた。なんでも、牛たちは地震が起きた時、牛は丘の上に一目散に走って逃げた。しかし、地震が起きてから津波がくるまでにかなりのタイムラグ(1時間)があったので、その間に牛たちは平地へと戻ってきて草を食みはじめ、その時に津波にやられてしまったのだという。どうも危機(あるいは地震波)の察知能力は本物のようだが、精度が高いわけではないらしい。

地震以外の理由によって発生する津波

地震警報がなったあとすぐに津波の心配はありません/津波にご注意くださいと警報が流れることが日本では当たり前なので、津波とは地震とセットだという認識があるが、津波は地震だけが起因となるわけではない。

たとえば津波を誘引する原因のひとつに「火山」がある。歴史上最大規模といえるのは紀元前1600年頃に起こったサントリーニ火山の噴火による津波だ。これはそうとう巨大な噴火だったようで、噴出物の体積は10〜1000立方キロメートルにおよぶ。どうやって火山の噴火が津波に繋がるの? と思うかもしれないが、噴火の初期段階で火山が崩壊し、大量の海水がマグマ溜まりへと流れ込み、水は灼熱に触れたことで一瞬で蒸気になり、大爆発を引き起こす。これをマグマ水蒸気噴火といって、当時波高60〜90メートルともいわれる破滅的な津波を引き起こしたとされている。

その津波は地中海東岸全域を飲み込み、その後世界中に伝播していった。エジプト人、バビロニア人、ギリシャ人など地中海文化の多くにはこの津波のことを指す洪水の神話があるうえ、モーセがエジプトを脱出する際に紅海が真っ二つに割れたという話はこの津波がもとになっているという説もある。火山による津波の例はそう多い訳では無いが、記録されているものは破滅的なものが多い。

火山よりも頻度は低いが深刻な被害をもたらすのが、「小惑星の衝突」による津波だ。地球の表面の約7割は海なので、小惑星が落ちるのは確率だけでいえば海の方が高い。たとえば約250万年前頃にエルタニン小惑星が地球の海に衝突した形跡が残っているが、これは現状では唯一知られている「深海への隕石衝突」の事例だ。

直径1~4kmほどの小惑星がおそらく秒速50km前後で、水深4、5kmの海底に衝突したと考えると単純に考えれば波高が4、5kmに達してもおかしくない。調査によってエルタニン小惑星は深海とぶつかった直後に粉々に粉砕され、融解し、蒸発したとみられる。それは当然破滅的な津波や気候変動を引き起こし、メガロドン(前兆30mにもなる巨大なサメ)などの絶滅のきっかけになったのではないかと言われている。

おわりに

地震以外の津波については他にもダムの決壊や、ほぼ閉ざされた湾内に地すべりで土がなだれ込んで周辺に水が津波のように押し寄せるなど多様なケースが紹介されている。今回は個別具体的な生存者たちのエピソードには触れなかったが、一人ひとりの体験談(津波をなめ腐って避難しなかったら一瞬にして8kmも流された人など)を読んでいくと、わがことのように津波の恐怖を感じることができるだろう。

椅子にふんぞり返って、自分たちの海は大丈夫だろう、「ここへはそんな津波は来ないだろう」と安心しきっている人々は、たくさんいると思う。大惨事が起きるのは、決まってそんな慢心に浸っている瞬間なのだ。(p298)

本書解説には日本の津波研究者である河田恵昭さんによる日本の津波の災害事例、防災・減災の現状などについても詳しく書かれているので、興味がある人はぜひ読んでみてね。