基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

四季 冬 森博嗣

うわー。やばい面白いです。

あらすじ

天才、真賀田四季はどこにも行かない。

感想 ネタバレ無

つなげすぎじゃないかな?とは思うものの、やはり面白い。

天才を登場させるだけではなくて、天才を書こうとしたところが素直に凄いと感じられる。

総括としての感想としては、S&MシリーズとVシリーズを読んでいて、なおかつ百年シリーズも読んでいたらさらに面白いという事だろうか。 Gシリーズは読んだことがないからわからないが・・・・。たぶん読んでいた方がよかったんだろうな。

春、夏、秋、冬。どれもこれも違った雰囲気を持っていてとても楽しめた。

天才が書けているかどうか には全く興味がない。天才って何?っていう事からわからない。

どうでもいいけど、ノベルス版の冬の文字が凄く格好いい。惚れた。

冬のタイトルの下にBlack Winterと書いてあるけれど、よく意味がわからないな。何か意味があるんだろうか。直訳で黒い冬っていう意味なのだろうか。

まぁ黒い冬って言われれば内容的に納得出来なくもないが・・・。

ネタバレ有



まさかウォーカロンが出てくるとは思わなかった、つまり百年シリーズとつながっているとは、まったく思わなかった。さすがにこれを先に予測するのはきついものがある。

壮大な時間の流れの中の一部といえる事だろう。というか、四季の能力がまるっきりラギッド・ガールに出てきた直感像的全身感覚と同じだなぁと思いつつ読んでいた。

そしてやはり人の科学の行き着く先は、自分のコピーを作る事に行きつくんだろうかと思った。未来に世界が移行する、自分がトップレベルだと認識している作家の想像力が必ずそこに行きつくからだけれども。あ、コピーじゃなかったな。つまるところ、肉体を捨てる方向への考え方か。

やはり肉体は精神をしばる邪魔なものでしかないという事か。すべてが肉体に縛られている。

時間の流れには逆らえないと諦めている非力。
何もしないことが安全だと信じている軟弱。
時間に逆らえないのは、単に躰だけのこと。
物体でできているゆえに、
質量を有するゆえに、
時空を超えることができない。
けれど、
思考は、もっと自由なのだ。
飛躍できる。


いろいろ書きたい事があるけれど、順序だてて書いていかないとこんがらがって書洩らしが出てきてしまう。それが不自由だ。頭の中に浮かんでくる言葉はいくらでもあるのに、それを打つ手が遅い。キーボードがあることによってかなり速くなったけれども、それでも打ち続けても1時間かけて8000文字しか書けない。遅い。考えたことがそのまま何か理解できるものに変わればいいのに・・・。文字じゃだめだ。文字じゃ遅すぎる。もっと瞬間的に理解出来るものが欲しい・・・。


頭の中に思い描ける形が確かならば、それはその世界に存在しているのに等しい。物体としてこの世に存在するものと、脆弱さは大して違わない。という文があったけれども、頭の中に思い描ける形が〜のくだりはどっかの哲学者が言っていたけれども、(哲学者じゃなかったかも)脆弱さは大して違わない、というのもその通りだなと思った。もともと存在しているものと等しいならその脆弱さも変わらないだろう。

そうなると現実なんて途端にむなしくなってしまうだけだけれども・・・・。
大体頭の中のものもこの世のものも大してかわらないんだったら、どっちに生きていたって同じだって事になってしまうじゃないか

真賀田四季が何なのか、についても考えてみよう。正直いって、特異な能力を持ったただの人、としか思えない。それはつまり、思考能力の早さと直感像的全身感覚を併用している、ただの人間であると。ラストで四季が自分と犀川とパソコンにたとえて比較しているけれど、その通りだろう。

神とかそういったものじゃなくて、ただ単にその時代には通常なかったはずのハイスペックなパソコンというだけだろう。あれ、そういうのを神というのかね。

ただの、人である。とはいうものの人は誰だって複数の考え、相反する疑問を持って生きている。真賀田四季は極めてそれが薄いと感じる。ただの人であるけれど、特別な事であることにかわりはない。何にも干渉せず、何にも触れずに、自分だけの中で生きて行っているのではないか。干渉しているのは、殺人という動機で干渉したのは、自分を生み出した母親と父親だ。

それから、自分の体か。そもそも、自分の体を失くして生きていったとして、はたしてそれは体を持っていた時の自分という存在と等しいものなのだろうかという疑問がある。体と心が同じ場所にあってこその自分じゃないのか。体がなくなったらそれは半身を失くしたのと同じ事。ああだめだまとまってないな。

人と人が、別れられるように。
人とこの世が、別れられるように。
人とこのときが、別れられるように。
切り離して見せよう。
「貴方は、貴方から生まれた」彼は言った。
私は私を殺して、私は私になった。
私は私を生かして、私は私を棄てた。
私と私が別れられるように。
私とこの世が別れられるように。
私とこのときが、別れられるように。
すべてを、切り離して見せよう。
「貴方は貴方だ。そして、どこへも行かない」
私が私であるためには、
どこからも、いつからも、私が遠ざかる必要があった。
空間と時間からの決別こそ、自己存在の確定。
浮いて見せよう。
何物にも触れず。
何物からも受けず、
何物へも与えず。
すなわち、私がすべてになる。


これがつまり、肉体との別離を露わしていて、なにものにも触れず、のくだりはすべての世間からの乖離を露わしているのではないか。そして誰からも理解されず誰のことも誰も本当の意味で彼女に近づけないという、孤独だ。

全てにおいて、真賀田四季は孤独だったのだ、と言えるだろう。どんな存在かと問われれば、誰よりも普遍的で、誰よりも孤独であったということだろうか。誰よりも孤独であるがゆえに、誰としても存在できるのではないか。

「神様にも、わからないことがありますか?」
「ありますよ。わからないことがあるから、人は優しくなれるのです」


神様がこの世界を作ろうと試してみなかったら、この世界はなかっただろう、つまり神にもわからないことがあるのだ、という理屈? 結構面白い。

「私たちは、どこへ行くと思います?」
「どこへ?」
「どこから来た? 私は誰? どこへ行く?」
「貴方は、貴方から生まれ、貴方は、貴方です。そして、どこへも行かない」


この問いは何だか、萩尾望都の半神のオマージュじゃないかなと思った。似たようなセリフがあった。

・・・・・・死

   どこへいった?

     遠い旅へ

   もう会えない?

     いない
   
   なぜ?
    
    天使になった
   そう・・・・・・?
               萩尾望都 半神

肉体が死んでも、、生きることができるはず。
それを受け入れることさえできれば。
そのとき、初めて、人は真の自己を認識するだろう。


肉体がないことを、受け入れることなんてできるだろうか。たとえば突然鏡を見せられて、脳みそと目玉だけになったものをあなただといわれて、それを新しい自分として定義できるだろうか。普通の人には、無理だと思うんだけどなぁ。

4章の最後で百年が過ぎた、と言って四季が誰かと話しているシーンで終わるんのだけれども、これは本当に百年が過ぎて、それで何故か犀川も生きていて邂逅したということなのだろうか?それとも別の誰か? それか、最後に四季はそこでスイッチを切った、とあるからそれはただの未来予測みたいなものなのだろうか・・・ もしくは、実際に百年たった後に、もし犀川がいたら、という過程の元で組み立てた仮説?

謎は深い。