基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

フラニーとゾーイー J.D.サリンジャー

サリンジャーなめてたな。

あらすじ

ヒステリックになって喚き散らし、苦悩の果てに大学にも行かずひきこもるフラニー。そしてそれを説得しようとするゾーイー。

感想 ネタバレ無

自分でもよくわからなくなってきたのだけれども、あらすじって必要なのだろうか。いや、もちろん自分が読み返す時にあれ、どんな話だったっけ・・・という時にあらすじがあったら連鎖反応式に思い出せそうだという微妙な打算あってのあらすじ、なのだけれども。

そんな事は置いておいて、おいておいてって何か面白いな。いやどうでもいいんだ。
作品の中でやってる事は別になんてことない事、といえるだろう。現にこんな感じの茶番をやってる人たちは、時代を問わずいただろうから。問題はそれを書くのがサリンジャーだった、という事だ。

正直に言って、読んでいる最中に異様な感動を覚えていた。読んでいる最中にヤバイヤバイこの作品おもしろすぎる・・・。という感動を覚えた事は、片手で数えられるぐらいあった(この表現おかしい)けれども、それともちょっと違う。
なんというか、展開にひきこまれたら上のような感動を覚えると思う。または書いてある事が人を感動させるようなセリフであったら、感動するだろう。

どうでもいいけれど人を感動させるというのはかなり簡単な事だと、思う。正直いって、その簡単な方法で人を感動させようとする作品は、嫌いだ。


だから、何に感動したのかというと、こんな表現があったのか・・という感動である。何も比喩が優れているとか、そういう話じゃない。文章の隅々に状況をにおわせる描写が隠れていて、わかりやすいのに膨大な情報量を持っているというのが、率直な感想。

つまんない事を説明するのに長々と文章を書くのはもうこりごりだな。

世界とズレている感覚という、なんとも表現しがたいものを生々しいものを表現されていたと、そう思う。なんとも書きづらいものではあるのだが、そう思ったのだからそう書いておこう。一見フラニーは青春期にありがちな悩みをもった若者、という感じに見えるが、自分は早く大人になりすぎたがゆえに生じるズレ、というものを感じた。要するにすでに若者ではないということだ。

才能が一つ多い方が、才能が一つ少ないよりも危険である。──ニーチェ

というように、フラニーの苦悩は才能が一つ多いが故の苦悩ではないかと。

多くのことを中途半端に知るよりは何も知らないほうがいい。
他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、むしろ自力だけに頼る愚者であるほうがましだ。 ──ニーチェ ―「ツァラトゥストラかく語りき」―

まさかのニーチェ二連続!しかしこの本から感じるのは、ニーチェ的な思想なのであった。フラニーは自力だけの愚者であろうとして、そうなりきれなかったのだと感想を吐かせてもらう。

ネタバレ有

聡明に思えるフラニーが、どうしてレーンみたいな人間を愛しているのかがさっぱり理解出来ないが、それが理解出来たといったらそれは愛が理解出来たという事になるのだろうか。つまりこの場合は理解できない方が正解、だといいのう。

フラニーが、世の中全ての事に我慢出来ない、といった感じで世間のつまらないところについてぶったぎっていく。

「それもたまんないことの一つなの。つまり、あの人たちは本当の詩人じゃないってこと。あの人たちはジャンジャン出版されたりアンソロジーに入ったりする詩を書いてる人っていうだけのことよ。でも詩人じゃないわ」

「なんていうかなあ、詩人ならばね、何かきれいなものがあると思うの。つまりね、読み終わったりなんかしたあとに、何かきれいなものが残るはずだと思うの。あなたの言う人たちは、きれいなものなんか、ひとつも、これっぽちも残しやしないわ。ちょっとましな場合だって、こう、相手の頭の中に入り込んで、底に何かを残すというのがせいぜいじゃない? でも、だからといって、何かを残すすべを心得ているからと言って、それが詩だとは限らない。そうでしょ? なんか、すごく魅力的な文体で書かれた排泄物──と言うと下品だけど、そういうものにすぎないかもわかんない。マンリウスとか、エスポジトとか、ああいったご連中みたいに」


日本の作家で、私の書くものは私の排泄物でしかないといった人がいたが、果たしてだれだったかな・・・。いや、この場合いってることに微妙に相違があるのはわかっているけれどもね。それに微妙に表現が違ったかもしれないし、私が消化した消火物でしかない、といっていたかもしれない。その場合自分の中でいっかい咀嚼して変化させたということで、その意味合いは全く違ったものになるだろうけれども、これを言った人はおそらくサリンジャー的な意味でいったのではないかと思う。

この場合のキレイなもの、というのが何かはわからないがすべてのものは劣化コピーだといいたいのかもしれない。詩人であれ作家であれ、何かを創造するときにその元となるものがあるはずなのだ。昔読んだあれがすごかった、とかそういう感情の元に生み出されたものは、それはやはり元の劣化でしかないとそういう考え方なのかもしれない。

フラニーの苦悩の根源といってもいいかもしれない

「エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようなことなんかをやりたい、人から興味を持たれるような人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ──ほんとに、ほんとなんだから。人がなんと言おうと、わたしは平気」


誰だって人に褒められたいと思っているし、男だったら女の子の前だったらいつだってかっこつけたくてそっけないふりをするし、とにかくいつだって誰だって、自分のことを認めてもらいたいんだ、というそんな単純な人間の心理が全部嫌になってしまって、さらに自分すらもそう考えている事がたまらなく嫌だという。だったら山にでもこもって誰ともかかわらない生活を送ればいいという話だけれども、それが出来ない自分が嫌いなんだと、そういっているわけだ。

そんな事目の前にいる人間にいわれたら、じゃあもう勝手にしてくれ、ばいばいってなりそうだが耐えて聞き続けているレーンは凄いと思うよ。一番最初にどうしてレーンみたいな、なんてことを書いたけれども、まぁいいやつだなぁとは、思う。

場面かわって
バディからゾーイーにあてた手紙の中から重要と思われる話があったので書く。
バディが肉の売り場にいたら、4歳ぐらいの少女がバディの事をじっと見上げる、バディはあなたは今日私が見た中でまず一番きれいな女の子だと言ってやった。

このロリコンめ!と思わず心の中で叫んだがそれはまあどうでもいいんだ。

バディは彼女にボーイフレンドがいっぱいいると考え、聞くと頷く、そして何人かと訊くと こっから引用

彼女は指を二本差しだした。「二人!」と僕は言ったね「そりゃまたずいぶんたくさんですねえ。その人たちのお名前は何ていうの、お嬢ちゃん」すると、彼女は、つんざくような声で言ったんだ「ボビーとドロシー」ってね。僕は羊の肉をひっつかむと一散に駈け出したね。 しかし、この手紙を書かしたのは、まさにこの出来事なんだ

〜中略〜

今日の午後、あの子が自分ノボーイ・フレンドの名前を、ボビーとドロシーだって、そう僕に言ったあの瞬間、僕は完全に伝達可能な真理(ラム・チョップ的イメージ)を掴んだことは間違いないんだ。


この後にシーモアがいったこととして宗教をつきつめて考えると熱いとか寒いとか男とか女とか、見かけだけの相違にとらえられなくなるといっている。何故ここを長々と書いたかというと、ナインストーリーズに書かれているシーモアの最後と符合することがあまりにも多いという事か。

シーモアの自殺する直前に、シーモアも少女とあっている、その時に描写はなかったが、自分はバディと同じように完全に伝達可能な心理を得たのではないかと、そう考えている。もっとも物凄い素人意見なので、もうどこかで解釈みたいなのが出ているかもしれないが、それだともう完全にこれは恥ずかしい的外れの意見なのだろうけれども(実際そういう事ばっかりだ)こればっかりは譲ることのできない直観的インスピレーションというやつだ。

少女の純真さとか、こう、うまく書けないのだけれども、子供を通して真理を得るというのは全く理解できない話ではない。さらにシーモアは男と女の見かけだけの相違のように生と死の相違も関係なくなってしまったのではないかと。生きてるのも死んでるのも、一緒のことだ、とかなんとかとんでも理論を生み出してすぐに自殺してしまったのじゃないかなぁ。

バディはゾーイーに向かって手紙で、母さんには優しくしてやれよ、と書いてあるけれど、そのすぐあとに出てくる母親との会話はとても優しくしてやっている雰囲気ではない。しかしその奥底に流れている愛情というのが、わかるようになっているあたりが、サリンジャーの凄いところだろう。

同様なことはフラニーとゾーイーの会話でもいえる。鬱鬱としている人間にむかって、お前がそんな状態だとみんな困るんだよ、ていうかうざいんだよ。そんな風になっているんだったら家にいないで学校でやれよ、とか散々ひどい事を言っている中に愛情が流れているなんて、とてもじゃないがいえないが、それを言っても大丈夫だと信じているその土台のところが愛情なのだ、とそういえるだろう。または絆、か。

「俳優の心掛けることはただひとつなんだ。観客のことなんかについて考える権利はきみにはないんだよ。絶対に。とにかく、本当の意味では、ないんだ。分かるだろ、僕のいう意味?」


いい小説だったと心から言えるだろう。