基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

日本沈没/小松左京


あらすじ

日本が沈没するっていってんだろおおおおおお

感想 ネタバレ無

やべええぞおおおお。30年遅れで興奮している。
ものすごい面白いなぁ。映画の終わり方が、日本は沈没しないみたいな事を聞いていたので(真偽不明)原作もそうなんだろうと読み進めていたのだが、見事に裏切られたな。

第一章から無駄な描写が全くなくて、最初っから最後まで焦点は、日本が沈没するというただ一点に極限まで集中している。

読んでいると非常に安心する。まるで目の前で起こっている事をそのまま文章におこしたような圧倒的な文章。

日本人とは何か、という問い、国とは何なのか、そういったテーマがどこを読んでもあふれかえっていて息が詰まる。

常日頃からSFというのは、どれだけ突拍子もない馬鹿でかい事をやれるか、という事にかかっていると思うが、日本が沈没するというものを、どれだけ規模の大きさの話として書かれているかわかるだろうか。

日本が沈没する程度だから、他のSFでいう星が消滅するというSFに劣っているかというと決してそうではない。つまりは相対的な事なのだ。どれだけそれが重要な問題なのかを読者に認識させて、なおかつそれにリアリティを与えなければならない。

どれだけ非現実的な事を現実的な事に見せかけるか、というのがSFを面白いものにするかつまらないかの分かれ目だと思っているが、その点でいえばハードSFというのはそれ自体がすでに、非現実的な事を現実的に見せかける行為だろう。

つまりその点に関していっても完璧であり、考証に関してもかなり細部までよく組まれているというのが、読んでいればわかる。

もっとも科学的な知識はほとんど無いので、全くのデタラメなのかもしれないが。

何人かの科学者にも、当然話を聞いただろうが、それだけでこの作品が書けるほど、浅くはないと思う。何しろ本当に書こうと思ったら、自分がそれを理解するほかないから。たぶん地質的なものにたいしても、全ての科学的な側面に対して相当な勉強量を必要としたのではないかと思う。

思うというか、実際にそうだ。9年か8年だったかな?忘れたけれども、それだけの年月、これにかかりきりだったというわけではもちろんないが、時間を必要とする作品だったのは間違いない。

序盤と中盤と終盤でどうにも雰囲気がわかれていたように感じる。解説で序盤は海洋SF。中盤はポリティカルSF(政府の対応)。終盤はパニックSFと書かれていたが、確かにそのとおりか。

個人的には中盤が一番盛り上がった、と感じる。終盤はいうならば、完全崩壊、といった感じで、あらがう、戦うというよりも逃げ惑う、という印象が強かっただろうか。スピルバーグ監督の宇宙戦争のような。

しかし完全にSFという枠組みをも超えている、と思った。何でそんな事思ったんだったかな、あまりにもイメージがでかすぎて、追いついてこない。

人間を書くには、ちょっとスケールが違ったかな。主人公というのならば、小野寺なのだろうけれども途中全く出てこないところがあったり、と主人公という感じではないなぁ。

俗にいう人間ドラマとかいうものなら、そこらじゅうに散らばっている(何しろ日本が沈没するのだからそこらじゅうで別れがある)のだから、わざわざそれを書く必要はなかったかな。


ネタバレ有


ワンピースか何かで、国は土地じゃない!人間がいて初めて国になるのだ!といった王がいたけれど、そうじゃねえだろぉ!っていう事を書いていたように思う。

土地があって、国民がいて、初めて国になるんだと。日本という土地があって、日本国という母がいて初めて日本人は日本人になれるんだと。

成田か羽田かどっちか忘れたけれど、おかえりなさいという看板がはってあってそれに感動した覚えがある。

支離滅裂になっているが、要するに何が凄かったかというと、日本人であるという事の意味は何なんだ!というメッセージ性の強さか。ほとんど圧倒され続けた。

田所さんの活躍は異常。終盤の渡老人と田所さんの会話は涙なしには語れない・・・。

「田所さん、あんたは、あの連中の何千万かを救ったのじゃ。・・・・・・・わしが・・・・それを認める・・・・・わしが知っとる・・・・それで・・・・ええじゃろ・・・」


何千万! 桁が違う・・・。そしてその重みが、この終盤まで読んできたならわかるはずなのだ。何千万の日本人の命の重みというものが。

本文にも書いてあるように、どう考えても日本人が今までの生活を送れる筈はない。だがそれでも、一人でも多くの日本人が助かって良かった!のかどうかはおいておいて、一人でも多くの日本人を助けたその人間がいたという事が認められたというのは、しかも認めたのは大物、それはとてつもなく大きな事だと。

人はそう簡単に変われないというけれど、それをいったら民族だってそう簡単に変われないだろう。いつだって大人は今の若い者は、というけれど自分だってそう言われてきたことを忘れてるのだ。

自然災害を生き延びてきた日本人は変わっていないし、日露戦争であきらめずに戦い続けた日本人の精神はかわっていないし、バブルを乗り越え経済危機を乗り越えて、世界的な経済国に発展させてきた日本人の精神は変わっていないのだ!と日本人であることに自信を持たせてくれる本であった。

特にこの、日本人であることに自信を持たせてくれた、という事が大きい。八百万の神、といって宗教を何でも受け入れ、何でもあるが何一つ主導権を握っていない、そのかわり、どんなものでもきちんとうけいれ、ちゃんと応対できるマナーはある。

どこか一部分をとっても、日本の日本としての異常性というか特異性というのが隠れている。

 ── たのしんでくれ・・・・・小野寺は、光のあふれるあたりを見つめながら、ほとんど祈るような気分で思った。──せめて、今、しっかりたのしんでおいてくれ、みんな。一刻一刻を、かけがえのないものとして、たのしむのだ。ささやかすぎる快楽の記憶でも、ないよりはあったほうがましだ。今、たのしんでおくのだ。──明日は、・・・・・ないかもしれない。


小野寺の切実な思いが伝わってくる箇所。自分の命だって明日には、いや、次の一瞬にはなくなってるかもしれないんだ!というのはよくきく話だが、明日には国がなくなっているなんてことを覚悟している人間がはたして、いるだろうか?

悲しみは、今までも、そしてこれからも当然あるべきものとして想定していたものが突然無くなった時に、それに対する期待度の大きさに比例して大きくなっていくものだと勝手に考えていたが、その考えでいくと日本国がなくなるというのは、いったいどれだけの悲しみを併発するのか、想像もつかない。

地球の構造の話。実際人間が生活している部分は、わずか厚さ5キロだという。

歴史も、生物のいっさいの歴史も・・・・太陽ていで、わずか厚み5キロ・・・・・地球半径のたった千二百五十分の一の厚み──直径五十センチの風船の、0・二ミリの薄膜!


風船にたとえた話がゾっとした。薄氷なんてもんじゃない。エピローグで、地球の核の部分を竜にたとえたおとぎ話みたいな話が少しだけのっていたが、確かに地球からしてみたら薄膜の上でせこせこと生活している人間ごとき、地球という全体で考えた時は取るに足らない存在なのだと、想像せざるをえない。

しかし上巻の盛り上がりは異常という他ない。各地で起こる日本沈没の兆し、それをどのタイミングで発表するか、いや、そもそもどうやって政治的集団にそれを伝えるか、そして──関東大震災

もうここ何年か、明日にも関東大震災が起こるといわれているが、もうみんな言われ慣れてしまって、何も考えなくなってきているのではないかと。お気楽に構えているが、実際に関東大震災が現時点で起きたら、どうなってしまうのかという問題がここには明確に書かれている。人口密集地帯である東京が壊滅するなんて誰も考えていないが、地震という要因だけで容易に達成できてしまうあたり、脆すぎる。

ひっきりなしに往来する電車は全て、乗客もろとも破壊されるだろうし、何より経済的な支柱が根こそぎ奪われる形になる。東京に機能が集中している結果といっていい。そういう事を、少し考えればわかるような事を、改めて考えさせられる。

日本人は、やっぱり災害なれしてるみたいだな、と、小野寺はなんとなく目頭があつくなるのを感じながら、胸の中でつぶやいた。──幕末に日本へ来て、江戸の大火を目撃したドイツ人がおどろいて記録している。家を焼かれた人々が、ちっとも悲嘆にくれず、明るい顔をして、まだ煙がくすぶっているのに、もう元気のいい再建の槌音が聞こえる、と・・・・・・。


大昔から災害に追われ続け、外に移住する事も出来ずに、この狭い土地の中で精いっぱい工夫して、改良して、生きてきた日本民族がここにあるのだ、と感じる。
そう言った意味で考えてみれば、やはり日本人というのは元からあるものを、工夫、改良、改造していく民族であって、それがこのグローバルな世界において日本が特別な存在として見られている事の1つであるといえる。

人名が多くて把握しきれなくなってしまったんだが、寝てばかりいる──と称された福原は結局何をやったんだっけな?眠れる獅子の名のごとく画期的なことをやってくれる、と思ってたんだが、結局何をしたのかわからないまま読み終わってしまった。それは少し心残りだ。

下巻からは、もう人間がどうにかできる範囲を超えていて、日本が沈没するのを受け入れて、後手後手にまわりながら活動していたように思う。そのせいか動きがあった上巻に比べて、一種傍観者的な、長い長いエピローグのような視点で読んでしまった感がある。

日本が沈没していく描写は、まるで目の前でズブズブと沈んでいくのが見えるようで、心痛いものだ。

まるで日本列島というものを、生き物としてとらえているように書いてあって、エピローグで日本列島を竜に例えて描写していることからも、生き物としてとらえるというのは間違いではないと思うのだが、それは一つの巨大な生物の死であって、同時に日本民族の母であって、それを日本人が読んで悲しくならないはずが無いのだ。

「日本の救援組織は、官、民、軍ともに、おどろくほど勇敢だった。──いくつかの実戦で、死地を乗りこえてきたベテラン海兵隊員でさえ、二の足を踏むような危険な地点にも、彼らは勇敢に突っ込んでいった。同胞の命を救うとなれば、ある意味で当然であろうが、それにしても、あまりに無謀と思われる地点にまで、彼らが果敢に救援活動に突っ込んでいくので、私たちはしばしば、彼らは国土滅亡の悲しみのあまり、気が狂ってしまったのではないかと語り合ったものだ・・・・・」
オンエアの時はカットされていたが、准将はこうつけ加えた。
「私は、彼らは本質的にカミカゼ国民だと思う。──あるいは、彼らはことごとく勇敢な軍人だというべきかもしれない。──柔弱といわれる若い世代でさえ、組織の中では同じだった・・・・」

あるいはこのセリフは日本人という国民の美化しすぎかもしれない。が、一面の真実もあると信じたい。何回か外国に行って感じることだが、オーストラリア人がオーストラリア国民に対して抱く感情と、日本人が日本国民に対して抱く感情とは決定的に違うものがあると思う。 

オーストラリア国民の所を、アメリカにしても同じだろう。
それはまぁ、当然といえば当然のことなのだが。
日本は限りなく単一民族国家に近いものがあるのだし、人種のるつぼと化した
オーストラリアとアメリカと民族観を比較するのは、まったく的外れだろうが。
日本人は恐らく「国家的危機」といった状況になったときに、少なくとも、アメリカやオーストラリアよりも、死に物狂いになって日本国民を助けようとするだろう、という結論。

そしてこれは1970年代に書かれた作品で、その時も若い世代は柔弱といわれていたし、今だって、若い世代は柔弱だと言われている。つまり一緒なんだと思う。1970年代の若者も、2000年代の若者も、2010年代の若者も、2100までいくとどうかな?という気もするが、日本という国が今のまま続くとするならば、変わらないだろう。

「日本人は・・・・・・ただこの島にどこかから移り住んだ、というだけではありません。あとからやって来たものも、やがて同じことになりますが・・・・日本人は、人間だけが日本人というわけではありません。日本人というものは・・・・この四つの島、この自然、この山や川、この森や草や生き物、町や村や、先人の残した遺跡と一体なんです。日本人と、富士山や、日本アルプスや、利根川や、足摺岬は、同じものなんです。このデリケートな自然が・・・・島が・・・破壊され、消えうせてしまえば・・・・・もう、日本人というものはなくなるのです・・・・・・」

世界的に見れば、土地を失って放浪の民となった国はいくつかあるけれども、日本に限って言えば土地を失うということは日本人であるという事を失うということなのだろうか。確かに、日本という島国があったからこそ、日本人というものはある。それはまわりを海に囲まれた島国であったから、発展したアイデンティティというものだし、島国じゃなかったのならば、まったく違う民族になっていたのだろう。

そうなると、次から生まれてくる子供は、日本人と日本人の子供であっても、肝心の日本の土地がない、重要なもののかけた子供になってしまうのだろうか。良く言えば世界に対応した民族になっていくともいえるか?そうして世界に溶け込んでいって、日本というアイデンティティは失われるのか。

・・・・・・・未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の''おとな民族''に大きく育っていけるか・・・・・

しかし、小野寺は結局さんざんな目にあったな。愛する人を見つけたと思ったら即座に失うとは。最後が二部につながるラストだったんだろうが、二部はどうなんだろうなぁ。

一部は文句なしの面白さだった。ものすごい完成度。到達していると感じたSFはようやっとこれで2冊目である。やはりおよそ100冊に1冊の割合。