基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

神林長平 膚の下

あまりにもおもしろすぎた。神林長平ここにありと小説が叫んでるみたいだった。物凄い小説を読んでるときは大抵、読んでるときから兆候が現れる。

膚の下の場合は最初の一文からすでに物語の中に引きずりこまれていた。これは今までで記憶している限り一回もないことだった。

素晴らしい経験をしたと思う。読み終わったときに、人生観が変わるとはこういう事なんだな、と理解した。

読んでる間からグルグルと思考が変転し続けて最後読み終わるまでに脳みそが一つの考えにかかりっきりになって他の事を考えるメモリ容量を残してくれなかった。

それはつまり人間とは何かという問いであり、神林長平はこの問題を書ききったといえるかもしれない。

ここまで神林長平はこのテーマをすべての本のテーマとしてきた感があるがそれがすべてここで結集したとそう感じた。
これは間違いなく人生に残る一冊である。

自分がこの作業を始めるきっかけとなるほどにすさまじい一冊であった。それを記念してここに未来へ残すというテーマの元、文章を作成した。人間は体は残らなくとも文字があれば自分を残せる。文字を書けるというのはさびしくなくなるという事なのだ。

ネタバレ有

かなり書きたいことがあるが一気には浮かんでこない。

特に感じこんだのはアミシャダイが私は幸運を祈られる必要がないという事を言ったところだった。弱い者だけが神にすがり幸運を祈るのだと、アミシャダイの機械人としての完璧さを表しているとみるべきか、それとも幸運を祈る概念と理解しようとする機械人というよりもこれから一人の個体となるアミシャダイの成長と取るべきか。

それから、お前たちは何を作るのかの問いに対して慧慈が われらは、これを創ったといったところは本当にこいつらはやり遂げたんだという感慨でいっぱいいっぱいだった。


終盤の怒涛の展開は本当にすごかった。特に慧淋 ジェイ ケイ エルとの別れのシーンは本当に鳥肌が立った。

しかし一番衝撃を受けたのはなんといってもここだ 

慧慈が最後 仲間を失い、哀しみというものを本当に理解した時に言った言葉

「それでも、わたしは、やったのだ」

このセリフの重みにかなわないと本気で思った。

全てを覚悟してなお慧慈はやったのだというのが全てわかる。かなり長い小説だが、それゆえにこの心境に達するまでの苦難の道のりが書き切られていて本当に重いセリフだ。

そして傘が欲しいと言う慧慈。生まれたときから兵士だったから傘がさせないという重み。冒頭が雨から始まりおしまいも雨で終わっている。

たぶん慧慈はここから本当に神になったんだろうなと思う。 それは仲間を失ったときに表面上はなんともないように振舞っていたのと同じだ。 実際これ以降の日記は何月何日に何を食べたという簡素なものになっている。感情を表すのをやめたのだろうか?それはよくわからない。 日記の一文 「きょう、サンクが死んだ」ここで涙腺崩壊。 号泣した。ついに慧慈が一人きりになってしまったと思って泣いた。 が、慧慈からすればそれは違うだろうなと思う。 慧慈はきっと哀しかっただろうが、しかし慧慈には実加がいたのだ。彼の日記を読んで彼の魂に触れてくれる存在がいたから 彼は哀しかったとしても孤独ではなかったろうし、寂しくもなかったのだろう。

慧慈は、最終的に愛をつらぬいたのだ。博愛の精神を持って子供を生めぬアートルーパーの彼は生命をもつ者すべてに博愛の精神を持って答えた。 かれの慧慈の慈は、慈愛の慈からくるものだというのは、考えすぎだろうか。