基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

小指の先の天使/神林長平

堰をたたき割れ
世界を開くとき
幽霊は消え去る

あらすじ
仮想世界をテーマにした連作短編集。

感想 ネタバレ無

1時間かけて書いた文が消えたけどきにしねぇ・・・・

神林文学の原点にして到達点、という煽り文句がついているが、到達点というにはどうだろうという気がしてならない。こと仮想世界というテーマに至っては、到達点などというものがあるのか?という疑問があるので。

仮想世界設定を一番使いこなしているのは、やはり神林長平であろうという気はする。当然神林ファンとして。

毎回驚かされるのは、毎回の発想の飛躍、というか、そんな事があるのか!というアイデアである。そこは本当に凄い。今回でいえば猫の棲む処という短編に出てきた、ペット観がそれである。

しかし初出の第一短編が出たのが、1981年で一冊の本としてまとまって出たのが2003年なので、ゆうに20年の月日が流れていることになる。あなたの魂に安らぎあれ、から膚の下まで長い年月が経過したのにも関わらず、作品にブレがないように、ここでも神林作品には一本筋が通っているように感じた。

抱いて熱く、は1981年に書かれた短編だけれども、登場人物は若いし、設定もありがちというか、ライトノベル的である。でもやっぱり書いている事は昔から一緒で、その一貫性というか、テーマ性というか、そういったものが変わらないから20年たっても30年たっても一つの作品として出せるのだろう。

ネタバレ有


本当なら短編一つひとつ書いていたはずなのだが、一回全部消えてしまってそれらを全部書き直すのは気力的に不可能であるので、総評という形でまとめてしまおう。

「時計はなくても時はすぎるわ」

こんなセリフがすらっと出てくるから神林作品を読むのがやめられないぜえええ。
一番最初期の短編でありながら、人としての本能であったり、生きるとはどういうことか、アンドロイドは生きていると言えるのか、愛とは、などなどのちの作品のテーマとなっていく事がたくさん書かれている。最初からずっとこんな事ばっかり考えていたんだなぁと思わず笑ってしまうぐらいだ。

ウイルスに関する話も出てきた
完全に制御された世界である、仮想世界内では、現実世界において発生する細菌などが発生しないため、生物は進化をやめてしまうという話。仮想世界ものにおいては、基礎的な問題であるといえるこの問題だが、結局だからどうした、という話にはならなかったように思う。
生物は進化をやめてしまうのだったら、ウイルスを作ればいい派と、そんなものがなくても、いいじゃないか、むしろあると、進化するかわりに危険が増すという永遠にこたえの出ないテーマともいえる。死刑を廃止するべきかしないかのような。

猫の棲む処で出てきた、ペット観が面白い。

喋る猫はもはや猫ではない。喋るということはヒトの言語世界を共有するということであって、そうなった猫は、猫の形をしたヒトと同じだ。ヒトは、自らが生み出した言語的仮想世界だけが世界ではなく、黙って自然をながめれば、そこには仮想ではないリアルな世界があるということを、決して喋ることのないペットを手元におくことで確認し、自分もまた自然の部分をまだ持っていることをペットを通じて感じ、安心するのだ。

確かに、言葉というものは特殊なものだ。人間しかもっていないし、それを持っていることによって現実認識に多大なる影響を及ぼす。いうならば、三次元に生きている生物と四次元に生きている生物との違い、みたいなもので、言語を持っている生物と言語を持っていない生物とでは、それぐらい生きている世界が違うのだといえる。世界を認識する手段が違うというのかもしれない。

そして、猫や犬、ペットを通じて、本来人間が認識できない言語のない世界というものを感じる事が出来ると。


仮想世界を語る時に、何かに結論をつけるという行為がひどくあいまいになってしまう。意識も何もかも信頼できないものとして処理されてしまう。我思う故に我あり、ぐらいだろうか?信頼できるものは。

意識は、幽霊や魂や他人の記憶といったものとしていつまでも保存されるのではなく、蒸発するのだ。そうでなくてはならない。それでこそ、世界は真に開かれている。
そう、それが現実というものだと、わたしは思った。


自分が思った事も何もかも、永遠ではない。人に記憶されつづけることで永遠となるのだ、というのはありえないと。それでこその世界だと。

父の樹 から
人間の本体は胃腸だ、などという面白い話が出てきたがもうかくのめんどくさいからやめ。同じような事を飛浩隆がいっていたような気がする。
飛浩隆の場合は肺とかだったかもしれぬ。まぁようするに、脳が本体のように思われているが、実際そんな事はないのだということがいいたいのだろう。

腹が減ったら体が勝手に食べ物を探し求めるように、体は胃によって支配されている。

脳だけになって生き続ける父が、しあわせなのか、という問いに答えられなかったが、息子がしあわせだ、と答えたことによって安心して死ねる、というのは親子間でしかわからないのだろう。
息子は親の分身、一部であるから、息子がしあわせならば、親もしあわせであるというのは道理であろう。
その延長線上で、子の夢と親の夢を同一視してしまうのは、子供からしたら大迷惑だろうが、親の立場からしてみたらどうしようもないのかもしれない。