基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

疾走/重松清

まさに「疾走」オーバードライブ!

感想 ネタバレ無

ラストまで駆け抜けた。なるほど、読むのが止まらないというのはこういう事を云うのだ、と読み終わってからしみじみと思った。今までも、よむのが止まらないという作品には何作も出会ってきた。

その作品は面白かったから読むのが止まらなかったり、先が気になるから読むのが止まらなかったり、要するに理由があったような気がする。

ただ、この作品の場合、作者の意図するままに操られて疾走させられたと、そんな気分だった。もちろん面白い、それに先が気になる。というかそれは凄い作品の必須条件であるように感じるが、それだけじゃなかった。面白い作品を書いたから結果的にそうなったのではなく、最初からそれを目指したら結果的に面白い小説になった、というのが正しい。うまく説明出来ない。

最初の数ページでひきこまれ、ラストまで同じテンションを持続させ続けて読み切った。同じテンションでいられたのは特異な語り口のせいだろうか。常に同じテンションで、ペースで語られる故そのペースに、マラソンのペースメイカーのようにぴったりと歩調をあわせられるその感覚。ベルカ、吠えないのかの神視点を彷彿とさせる。

素晴らしい。

特に上巻の終盤あたりから最後までは、ほとんど休憩を挟まずに読み続けた。
ラスト付近は涙無しには読めないだろう。もしくは、何かを感じたはずだ。あるいは嫌悪感かもしれないけれど。

最後まで救いのない物語だった。あるいは人によっては、最後は救いや希望だと感じたのかもしれない。全編を通して聖書の言葉が引用されている。

幸福とは何か、なんて面白くもない事を考えさせられてしまうぐらいには暗い話だった。それにしても、色々考えさせられる。
はたして色々考えさせられる物語が、良い物語なのかどうかというのは、よくわからない。読む目的にもよるか。

ただうまく説明出来ないのだけれど、言葉では説明できない何かなんて言うと一気に陳腐というかキザというか、基本的に物事は何だって言葉では説明できないとかいう屁理屈を置いておいて、概念をぶつけられたというか、難しいなぁ。

いろいろなところに、性的な描写がある。どういう意図のものかは考えてみる価値があるだろうか。ないかな?

それにしても下巻の中盤辺りまでは本当につらい。自分は上巻を読んだ勢いでそのまま突っ走ったからよかったけれど、いったん中断していたらどうなっていたことやら。自転車でいうならば上巻を読みぬけた慣性でそのままいったわけだ。しかもその先に報われる結末が用意されているとは到底思えなかった。

ネタバレ有

シュウジはどこまでもツイてない男だった。兄は放火をし精神崩壊を起こし、父は金持って逃げ、母親も借金まみれになってどこかえ消え、自分も逃げた先で人を殺してしまう。

およそいい事なんて何一つ無い。もちろんイジメもあった。マイナスしかない。ここから這い上がる事なんて、出来るのか?精神崩壊した兄が復活し、父が金を持って戻ってきて、母親も戻ってきて殺しもなかったことになる、そんな幸せな未来が来るはずがないのだ。

こんな状態で生きていたいと思えるはずが、無いだろう。
知り合いと、生きていく時に、大事な事は何かというのを話し合った事がある。
知り合いは、現状に満足して、いつだって「今」が幸せな状態だと認識することが生きていく上で大事なことであるといった。身の回りにあることで幸せを追求するのだと。

反論した。仕事をして、かえって寝るだけの人間にお前はそれを言って、仕事に幸せを見つけ出せというのか、と。そうだと答えた。

はたしてシュウジに同じ事が言えるだろうか。家庭が崩壊して家もなくなって殺しをしてしまってそれでも、そんな状態の人間に、お前は今幸せなのだと、紛争地帯に居る人間や、ゴハンにありつけないで死んでいく人間よりお前は幸せだと言えるのだろうか?

誰が死にたいと思ったシュウジを責められるだろうか。殺してくれと頼んだエリを責められる? 死にたいと思う事は悪いことなのだろうか。

からっぽな目だと作中で何度も言っている。まるで穴ぼこだと。希望も何もない状態だとそうなるのだろうか。またシュウジは誰にも期待しなくなる。

人に期待しないというのは、怒りとかそういった感情からも切り離される事だ。
他人が何をしようが、それはその人が勝手にしたことで自分とは全く関係がない事だと認識する事だ。悲しい事だとは思うけれど、そこまで悪い事だとは思わない。ただまだ15歳なのに、人に期待するのをやめてしまった事は悪い事だろう。

大人になるまで生き延びられたら、死ぬ事もなかったのに。大人になるまで生き延びる事ができなかった。

戦争から帰ってきた人間は、まわりの人間があまりにも普通に過ごしているのを見て、精神の均衡が崩れるという。 どこまでも不幸だったシュウジは周りと自分を比較して、精神の均衡が崩れないはずがあるか。まわりが幸せな中の不幸は周りが不幸な中の不幸よりよっぽどつらいんじゃないだろうか。

ある意味これは聖書か?人々の罪を背負ってしんだキリストが、シュウジなのか?シュウジは復活はしないが。それにシュウジは「ひとり」を背負った。 神視点だと思っていたが、神父視点だったのには訳があるのか。


 罪を犯そうとするひとを止められるのは、そのひとの丸ごとすべてを信じている相手だけなのです──

普通、それをやるのは両親の仕事だ。もし死んでいたとしても、信じられていたという過去の経験がその人を支える。あるいは過去の信じられていた頃にされた自分の行動が。

誰が悪いかっていったら全ての元凶は両親だろう。何がというまでもなく、全てがダメな親だった。ある意味こういった親を痛烈に批判している。一見するといい親にうつるのにその実情ときたら・・。

いかん、いらついてきた。


 仲間が欲しいのに誰もいない「ひとり」が「孤立」。
 「ひとり」でいるのが寂しい「ひとり」が「孤独」。
 誇りのある「ひとり」が「孤高」。

なるほどなぁー。誇りのあるひとりってのがどうにも想像できないけれどな。エリみたいなのっていわれたらそれまでなんだが・・。どうにもしっくりこない。


 聖書の時代から、どうしてひとは物語を紡ぎつづけ、語りつづけるのか、おまえたちは知っているか?
 ひとは、同じあやまちを繰り返してしまうものだから──だ。


ここでいうおまえたちとはエリとシュウジの事。
しかしどうもこういうセリフを読んでいると、どうしても神父というより、神の事を意識しなくてはならない。断定口調だ。ひとは、と全てをひとくくりにしている。それを断定口調で言えるのは、神しかいないのでは?あるいは神父という身体を持っているけれど、魂は神という見方も出来る。
シュウジの事について、これほど綿密に語れるのはやはり神しかいない。神父が語り手だけれど、神父は神なのだ、と自分の中では結論を出してみる。
それにしては神父に弟がいたりとそう考えると微妙な結論だがまぁいいだろう。誰に迷惑をかけるでもないし。

2008/7/12 読了