基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

偽物語 上/西尾維新

あらすじ
妹がなんやかんや

感想 ネタバレ無

予想していたよりもずっと面白くてなんかもう最高だわさ。この場合の予想というのは傷物語と比較しての話である。せいぜい傷物語程度の面白さであればいい、と考えていたのである。

いやはや、恐れいった。ギャグパートはこれ以上ないほど面白かった。シリアスパートは、何か言葉に出来ないような違和感をもったものの傷物語よりは格段に楽しませて貰った。これはひとえにキャラ小説ゆえの障害というかなんというか、傷物語のヒロイン的立場にたっていた吸血鬼と羽川にほとんど何の関心も持っていなかった事もあげられる。

アホをやっているキャラクターがシリアスパートになると急にまじめになる、という展開が大嫌いなのだが。特に銀魂クレヨンしんちゃんはその最たるものだろう。どこがどう嫌いって、今まで普通にバカやっていたキャラがある一時だけまじめになる、というのが理解できないだけだ。正直な話、このシリーズにシリアスな場面をほとんど期待していないのである。これが小説ではなく漫画だったら読み飛ばしているレベルだ。そういえば漫画だと平気で読み飛ばしという行為をする自分であるが、何故か小説に対してそれをやる事はひどくためらわれる。だが少しだけちゃんと考えてみるに、読み飛ばしという行為が起きるのは週刊連載の漫画だけであって単行本を買ったらいくらなんでも全部読む。金を払っているかどうかという問題ではない、週刊連載の漫画だって金を払っている。なんというか、せっかくあるのだから読もうという精神だろうか、それだったら何で週刊連載の漫画は全部読まないのだろうか。小説より漫画を読み始めた方が速いからだろうか、つまりそれだけなれたという事だろうかいやいやそんな事はないだろう、考えてみるに小説という媒体をページ単位で読み飛ばすという行為をしているという話を過分にしてきいたことがない。過分にしてって適当に使ったけれど実際意味はわかっていないのである。それにしても最近考える力が落ちている、と実感している。何か変だな、と思う事があってもそれが何故変なのかというところまで問い詰める気力がない。ちょっと前はそれが自然に出来たのだが今は何故か出来ていないような気がするこれはおかしい。まぁ何か原因があるようにも思えないのでほっておけばまた元に戻るかあるいはこのままなのかはわからないがこのままならそれはしょうがないことなのである。それにしてもと書いておいてなんだが、少し前、文章を書いていたらそれにしてもと一つの記事の中でなんと6回か7回も使用していたことに気づいた。とりあえず話を繰り出す時にそれにしても、といって前おきのようにして繰り出していたのだ。それに気づいて以来それにしても、というのを出来るだけ使わないようにしているのだがそこはそれ、クセというものがなかなか治せないように(ギャンブルを読んでもわかる)結構大変なのだ。少しでも気を抜くとそれにしても、とタイピングをしている自分がいるのである。何しろ自分タイピングをするのが結構速いものであっと気づいた時には自分の目の前にはそれにしてもという文字がすでに打たれているのである。これは恐怖でありますぞ。クセを消すには新しいクセをつければいいのであるからしてそれならばとそれにしてもに変わる言葉をしようとしているのであるがそれがしかしであったりなにか別のものであったりしているのであるがってこれ正直偽物語に全く関係ない話なのである。ただいったん書きだすと止まらないうねりというか流れというものがあるからしてこうやって自動記述ではないがだらだらだらだらと文章を書き続けているのである。本質的に無意味な行動であるがこれが普段の思考の流れなのだと考えて読みなおせばまたこれにも価値が生まれてくるのかもしれない。何も練られていないただの文章というのは練られていないがゆえの価値というものが存在するのだろうか、当然時間をかけていない脊髄反射的文章なので支離滅裂もいいところでそういった方面での魅力は皆無であるが、脊髄反射的文章であるがゆえのいいところといえば、はてそんなもの存在するのかどうか。

なにごともなかったかのようにギャグパートとシリアスパートの話に戻ろう。前半150ページは、ほとんど本筋と全く関係のない、登場人物と主人公の絡みというだけの恐ろしい紙の無駄遣いというやつであった。それからの本筋、いわゆるシリアスパート、絶賛といえるほどではないが、ふむ、面白いか。ただ何かがひっかかるのだけが、気になってしょうがないのである。それが何なのかがわからないだけに困惑するほかない。確かに笑えるのだが、どこか笑いきれない違和感と
でもいうのだろうか。何故かはよくわからない。ただ面白かったのは確かだ。
傷物語の時は、シリアスパートに比重がかけられすぎていたように思う。戦闘描写ばかりで、それが読みたいわけじゃない・・・という気分であった。ただこうして、本編の半分が本編と関係のないただのじゃれあい、というのも結構大変なものだなと思いなおした。まだストーリーをおった話をやっていた方が楽だ。今回は最大の欠点だと勝手に自分で思っていた戦闘描写もほとんどなく、純粋に面白い。

どんどんその阿良々木ハーレムを拡げていく。まるでときメモか何かをやっているかのようだった。携帯アプリでやったときメモは、少しでもケアを怠るとものすごい勢いで好感度がどんどん下がっていくという恐ろしいゲームだった。しかも何人もいるのだ。きっと主人公はてんてこまいだっただろう。偽物語を読んでいてずっとそんなことを考えていた。フラグを立てるだけではだめなのだ、維持するのがこれほど困難だとは。前半150Pが語りのための語りというべきか、本当にただ何の意味もなく女の子のまわりをまわってまわって喋っていただけであるそれにしても本当により取り見取り。

まったく素晴らしいのは上巻と銘打っておきながらこれ一冊で完結している点である。

ダンシング・ヴァニティを読んですぐだからこう思うのだろうが、繰り返しの表現が目立つ。そういえばこれには確かれっきとした現象名がつけられていたように思う。たとえば新しい単語を知った時に、新聞などをちらっとめくるとやけにその単語がよく目につく、というような具合に。今まで意識していなかった、というだけでそういった現象はあふれているのかもしれない。というか反復の話だが、繰り返しネタである。意外と反復という表現は小説でも日常的に使われている表現だったのだろうか。今まで反復があるというのは知っていてもそれを全く意識していなかった。意識していないということは、存在しないも同じ事である。こうやって自然にスルーしてしまっている作者の意図みたいなものがたくさんあるような気がする。

ネタバレ有

ついに妹まで惚れさせてしまったか。なんというハーレム・・・。火憐の口調がどう読んでも戯言シリーズの零崎人識だったように思う。少なくとも記憶の中の零崎人識はこんな口調だった。まあ概して記憶と現実は違うものであるから、実際全然違うという事もまったくありえるのだけれども。

さて、これで残されたキャラはもう一人の妹の月火だけである。あと一人終われば全員攻略ということに相成る。もう新キャラも出てこないだろうし、これではれて、やっと、このシリーズ完結となるのだろう。面白いシリーズというのはそれはもちろん結構な話だが、まだ続いているというのは意外と不安なものだ。ひょっとしたら面白くなくなるのではないか、という不安がある。出るたびに面白かったとしても、期待が膨れ上がればそれに応じて求めるもののレベルも高くなる。完結してくれればその心配もない。

反復の話だが、なんといっても八九寺と主人公のかけあいだろう。なんというかこの二人のやりとりははじめから終りまでもはやテンプレート化している感がある。


 「なるほど、修羅々木さん」
 「ものすげー格好いいからむしろそっちの名前に改名したいくらいだが、しかし八九寺、何度も何度も繰り返して言うように、僕の名前は阿良々木だ」
 「失礼。噛みました」
 「違う、わざとだ・・・・」
 「噛みまみた」
 「わざとじゃないっ!?」
 「ファミマ見た?」
 「そんな気軽にコンビニの場所を確認されても!」

ただやはり化物語での神はいた、ほどのインパクトはない。

以下笑ったところ。


 「そうなんだ。病院のベッドで眼を覚まして、お前はすぐに言ったものだよ」
 「『ここはどこ、わたしは誰?』と」
 「いや、『高校はどこ、わたくしりつ?』と」
 「記憶を失ってなお学歴社会の虜です!」

 「暑いんなら、そこの壁に据え付けられているエアコンを入れればいいんじゃ・・・」
 「だ、駄目だよっ! 暦お兄ちゃんはこの地球がどうなってもいいの!?」
 地球が人質に取られた。
 なんて壮大な人質だ。

 「何がボランティアだ、得意げに横文字使ってんじゃねえよ、馬鹿。この間、ディフィカルトと言おうとしてデカルトって言っちまったような中学生がインテリぶるな」
 「いいじゃねーか。デカルトの言ってることって大抵ディフィカルトだし」

 「口の利き方に気をつけることね。さもないと凶悪犯罪に手を染めた挙句、阿良々木くんが好きな漫画に影響されて犯行に及んだと供述するわよ」
 「お前、漫画家の先生を人質に取るの!?」

ここまでだらだらだらだらだらとだらを五回も書いてしまうぐらい長々と書いてきたが、そのどれもが過去の繰り返しである。ギャグパートの個人間のやりとりは完全にすべてテンプレート化してしまっている。何回か会話のキャッチボールを交わして流れにのってどっちかが突っ込むパターンと、地の文で突っ込むパターンが主なパターンで、他に読み間違えネタ、似ている漢字ネタ、人質ネタ、大別して、ネタの種類がそんなにあるわけではないがパターンが豊富なのだ。いや、内容が豊富か? とにかくよくそんなに考えつくものだと感嘆するしかない。

またしても正義言葉をなんか色々やっていたようにも思う。正直真面目な部分をあまりまじめによんでいないのだ。ギャグパートを真面目によんでシリアスパートを真面目に読まないというのは一貫性というか法則性という意味では割と整っているがはたしてそれはいったいどうなのだろうか、と疑問に思わざるを得ないが。世の中案外そんなものなのかもしれない、という言葉でしめれば世の中案外そんなものだよな、というような気がしてくるから不思議なものだ。

貝木のいっていることがまるっきりストレイト・クーガーでちょっと面白いと思ったが、読んでいる最中はそんなこと全く思わなかった。時間をかければ誰でも名作小説が書けるっていうクーガーのセリフはどうかと思ったが時間をかければ誰でも同じ事が出来るっていうのを将棋のたとえでもって説明するのはふんふんとうなった。確かにパソコンは今はまだ将棋のプロに勝てないけれど、時間をかければ最適の手を導き出せるものな。いや、どうなんだろう。先の先を見据えた手はうてないかな?せめて盤面が終盤まで行けば話は別だろうが。初手からすべてを計算するのは不可能なわけだし。


 「あまり考えすぎるな。俺から見れば、己の考えに没頭している奴は、考えなしの奴と同じくらいに騙しやすい。適度に思考し──適度に行動しろ。それが──今回の件からお前達が得るべき教訓だ」