基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

太陽の汗/神林長平

ぶっちゃけはっちゃけよく意味はわからない。

あらすじ

 古代ペルー人にとって
 太陽は重要な神であり
 黄金は聖なる物とされ
 「太陽の汗」と呼ばれた
 かれらは貨幣を造らず
 「文字」ももたなかった


感想

カメラを通してみた映像は、一度変換されてからみたもので実際の映像でないのと同じように、実際に見る映像もほんのちょっとだけれども、過去の映像を見ている。他者と自分の感覚は決して共有できないという哲学の序盤のような、そんな内容であった。


特に神林長平が繰り返し書いている、言語をテーマにした内容が地味に深い。自動翻訳機が発達した世界での問題もある。というか、現時点で自動翻訳機が無いというのは少々遅いんじゃないかという気がしている。2000年の時点で、あと五年以内に音声を翻訳する自動翻訳機が出来る、というニュースを見たのに現在2008年でそういったものが発売されたという情報はきかない


もしそんなものが出来たら英会話教室なんてのきなみつぶれるだろうし、英語の授業やなんやかやも消えてなくなるのではないだろうか。現にこの自動翻訳機が台頭した世界じゃ、母国語以外を操れる人間は珍しい存在となってしまっている。その場合の問題点も書かれている。実際どのように翻訳されているか、話している本人にはわからないのだ。とんでもない誤訳をされていても、まったく気付かない。相手の反応で見極めるしかないが、100パーセントの誤訳ならわかるだろうが、数パーセントの誤訳などはわからない。思えば言語が一つの世界を形作っているということをいっている神林長平ならば当然手をつけてしかるべき内容だった。つまり言語がお互いに通じ合っているかどうかわからないならば、二人の間の世界は全く別々なのだ。もともと一つだった現実が、一人一人の解釈によってばらばらの世界に分断され、それをさらに統一しなおす手段である言葉が信用ならないものだとするならば、世界はばらばらになったままだ。でも、何も世界を統一しなおす手段が言葉だけとは限らないと思うのだがなぁ。ていうかそれじゃあ英語を話し人たちと日本語を話す人たちの世界はまったくの別物だということか。確かに言語が違えば物事の捉え方も違う。


最終的に主人公であるJHが、グレンが心の頼りにしていた絶対の真実であるワードレコーターの記録内容でさえも、自分には意味のないものだとしてしまう。何故ならばグレンではないから。つまりグレンの言葉は所詮グレンの言葉であって、言語というのは世界を統一する手段などではない、と主人公が悟ってしまったのか。言語を否定して、エピグラフでいうところの、古代ペルー人による文字を持たない世界の住人になったと。文字を完全に捨て去ることによってはじめて古代ペルー人の世界にいけるのだろうか。言葉が世界を形づくっているとしたら、言葉がない世界にいくとしたら言葉を捨てるしかない。一種のパラレルワールドだな。そんでもって言葉のない世界で太陽の処女であるリャナと幸せに暮らすのか。というか太陽の処女という単語に何か深い意味はあるのだろうか。主人公は皇帝かなんかの血をひいていた! とはっきりかいてくれればわかりやすいのだが、そういうこともなく想像するだけにとどめる。


まぁわからないことの方が多い。結局主人公が迷い込んだのはどこだったのかとか、何故誰も主人公のことを覚えていないのかとか、いやそれは主人公が迷い込んだのが全く別の現実だったからなのかもしれないな。というか多分そうだろう。リャナは女王っぽいが


国という枠組みが薄れて、企業という枠組みが大きくなってきたら言葉という差もそれ程問題ではなくなるのかもしれない。企業の社員が多国籍になるのは当然の流れだし、その頃には自動翻訳機も相当発展しているだろうから。しかし身の回りにいる人間と、自動翻訳機を使わないと会話できないなんてのはちょっと勘弁願いたいもんだが。


カメラで見ている世界と、自分が見ている世界は違うものというのは面白い話である。しかもどちらが幻かなんてわからない。ひょっとしたら自分が見ている世界の方が幻で、カメラの方が正しいかもしれない。どちらが正しいかわからない時点で、どちらも正しくないと同じような事か。しかし、全員から自分というものが証明されないと自分はだれなのか? という気分になるだろうな。案外アイデンティティというのは自分の中にあるわけじゃなくて、自分を見ている他者の中に存在しているのかもしれない。