基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

狐と踊れ/神林長平


エピグラフ

踊っているのでないのなら


踊らされているのだろうさ

感想


しょっぱなからこんな作品を書いていたのかと思うと身がすくむ思いだ。なんて男だ神林長平。この頃から文体がほぼ出来上がっているように感じる。かしらん、も、もちろんある。なんてすばらしい。この本を読んで、やはり自分が神林長平に惹かれる理由は、ストーリーだけじゃなくその文章に真髄があるのだと思った。とにかくこの文章を読んでいるだけで、気分が良い。


神林作品には果てのない魅力がある。創造への意欲をかきたてる。自分も何かしなければならない、後世に何かを残さなきゃ人間としてお終いだ、というような感覚にとらわれる。膚の下を読んだとき、滅茶苦茶に影響された。その片鱗はこの作品からすでに出ている。それにしても、何故そんな感覚にとらわれるのだろうか。まったく理解できない。作品を読んでいると創造しない人間はクズだ、と言われている気分になってくるというわけではない、負の感情一切抜きに、創造というものは素晴らしいものだ、という事をひたすら伝えてくるといったほうが正しい。なるほど、だから洗脳されたかのように創造的行為をしたくなるのだろうか。創造教とでもいえるかもしれない。エントロピー増大の法則から逃れるには創造しつづけるしかなぁぃ! というように。登場人物が、これでもかこれでもかと創造の素晴らしさを伝えてくる。それを受けて、自分もやってみるか、という気分にさせるのではないか。


ただ、やはり最初期の作品群だけにちょっと寒いセリフなどもあったが、その反面これから後ずっと続けられていく神林ワールドともいうべき世界群の片鱗が見え隠れしているのが面白い。返して! における姉弟の愛、弟が愛しているのは姉の中に存在する人格ではなく、姉というポジションなのではないかという疑心暗鬼はまるっきり猶予の月の元だし、エントロピー増大を主軸にすえた理論設定や、フロイト的精神の捉え方、超自我、イドの知識もいかんなく発揮されている。そしてなにより、敵は海賊の最初のストーリーが入っている。ふむん、敵の海賊は全部読んだが、こんなところにストーリーが紛れ込んでいるなんて思いもよらなかった。書くしたまま忘れていたヘソクリが出てきた時のような嬉しさを味わったぜ。海賊王は出てこないし、ラジェンドラもほとんど名前しか出てこないがそれでもアプロとラテルは健在で、ラテルの両親が海賊に殺されたという設定もちゃんと出ていて、このころからちゃんと考えてあったんだなぁと感慨もひとしおである。


文章のリズムが異常にいい。やっぱり、ビートルズの音楽を話の主軸に据えているからだろうか? 最初から最後までノリノリで読めた、といっていい。明らかに他の短編とも異色である。まるで歌でも歌っているかのように。とってもグルービーだ。グルービーの意味なんて知らないが。金色のガッシュベルでサンビームさんがグルービーグルービーうるさかったのを覚えている。きっとサイコーだぜ! というような意味なのだろう。文章はいいのだが、ストーリーはなんだかよくわからん。自分の世界だけに閉じこもってないで、とっとと外に出て来いよオラァ! というような感じだろうか? それよりも展開にスピード感がありすぎて呆気にとられたような気分だ。解説、眉村卓の文章の中で、神林長平のインタビューが挿入されていた。言葉を組み立てるのに夢中になりすぎて、それが構築したものが二の次になってしまう、というような内容だったけれど、読み終わって考えてみればふむん、まぁそんな気もする、という気がする。だが勢いがある。こういう雰囲気というか、ノリのまま終わる話は後年の神林長平作品の中じゃ珍しい気もする。

  • 返して!


重要な問題は、弟が姉を愛しているのか、それとも姉が、仮に姉じゃなかったとしても愛しているのか、というものだ。非常に短いが、書きたかったのが実際その問題を提示したかっただけだからではないか。ただ、この問題なんてのは考えても答えが出ないたぐいのような気がする。人は何故生きるのか、みたいな。答えが出ない問いというのはそもそも問いが間違っているのだということがよくある。何故生きるのかに答えられないのは問いが曖昧すぎて、一概に答えられないからだ。だからって人は何故生きるのか? というのを問いがおかしくね?と誰も考えなくなったらそれはそれで駄目なような気がする。 つまり考え続けろという事か。

  • 狐と踊れ


薬を飲まないと胃が逃げ出してしまう話。神林世界では基本的に胃というのは人間を支配しているか、人間とは全くの別物という観念があるらしい。最初からそういう事を考えていたのだろうか。確かに胃が痛かったらイライラするし、胃の調子がよかったら、気分もいいかもしれない、それは胃に、人間が操られているといえるのかもしれないが、別にそれは腎臓でも心臓でもよろしいのではないかという気はする。だいたい、毎食飲まなければいけないと聞いて、忘れたりとかしたらどうすんだろ、と考え、まぁ当然そのへんの人に借りるんだろうな、と想像した次のページあたりで、厳密に統制されており誰も自分の分を相手に分け与える事は出来ない、という滅茶苦茶な設定が出てきた。さすがにそれは無茶だろう。誰だって忘れることぐらいあるし、忘れたらアウトって。
しかし最下層では胃と人間が別々に、仲良く暮らしているという、それは想像するととてもシュールな光景だな。いろんな意味を含ませた短編のように思えたが、実際深読みすれば結構深読み出来そうだが、いつも通りそういうのは全部スルーである。

  • ダイアショック


今宵、銀河を杯にして、でも出てきたあの印象的なセリフ(というか、概念? と書いたら自分的にはわかりやすいのだが)が使われている。

 考えてみれば、ああいわれてみると、たしかにおれはなにも創造していない。人間が生んだものは山ほどある。でもおれが創ったものはなにもない。船やコンピュータやレーザー発振器や本や医療品や風船製造機や千倍麦やパンはだれが発明した、人間だ、しかし俺じゃない。数え上げれば星の数ほどあるだろう。使って食って利用する、その中に、おれの創造物はひとつもない。ひとつも。

今宵銀河では、あまりにもサラっと流された一か所だったが、強烈に印象に残っている。確かに人間は色々なものを作ったが、その実自分は何を作った?といわれれば何も作っていない。ただ、人間は群れとして生存しているわけで、その中の一つが創造すればそれはあっという間に全体にいきわたる。群れ単位で考えれば何の問題もないのだが、わざわざこの問題を持ち上げるために、対比として、あくまで個としか存在しない宇宙人をつくった、というのがこの短編か。考えてみれば非常に単純な構図ではある。これもまだ書き初め故の単純さだろうか? なんて偉そうに言える立場では、全然ないのだが。複雑だから偉い、なんて言う事はあり得ない。その逆もまたないのだが。そしてそういう事が出来るSFというものの深さ、というものを改めて実感させられる。もし超能力というものがあれば、光速を超える事はないだろう、アインシュタイン相対性理論的に考えて、というのはあらためて考えてみると確かにその通りだ、とうなずかざるを得ない。もし超能力というものがあるのならば、それは体からエネルギーが出ているに違いなくて、そのエネルギーは光速を超えないだろう。ということは光速を超えそうな超能力は全部無理、ということになる。んー?テレポーテーションとかか? 滅茶苦茶なたとえだが、5光年離れた位置にある物体をサイコキネシスで動かすにはやはり5光年かかるということだろう。ふむ、まぁ当然か。ていうか困らなそうだ。


うむ、やはり面白い。アプロとラテルが出てくるだけでおもしろい。ラジェンドラが出てくればもっと面白いし、チーフがしゃべればもっともっと面白いし、海賊王が出てくればもっともっともっと面白い。新刊がひょっとしたらまだ出るかもしれないが、わからない。ひょっとしたら、これで敵は海賊も読み収めかもしれんな。ところでアプロは相手の感情を読む能力がないから、それだけは救いだ、と言っている次のページぐらいで、インターセプターには相手の発汗などから相手の心理状態を読みとれる、という説明が書いてある。アプロが感情を読み取れないの全然不利じゃないのう。というか、どの場面を見ても、ほぼ確実に狙った点で感情を凍結させているように見える。相手の感情を読み取る能力なんてまったく必要ないじゃないか。しかしこの短編、ほとんど世界観の説明だったな。海賊課がいったいどれだけひどい組織なのか、そして海賊はその常識を超えてひどい組織に対していったいどんな対処をしてくるのか、市民の反応はいったいどんなもんか、ラジェンドラやチーフの名前も出てくるものの、まったくしゃべらないし、アプロの母星の話もちょっとしかでてこないし、ハナから長編を目指しているかのようなぼかし方というか、設定の仕方である。

  • 忙殺


文字通り忙しさに殺される話。エントロピー増大の法則を適用して、忙しさも絶対に減る事はない、増え続ける。社会制度をぶっ壊して新しくしても、まただんだん増えていっていつか破綻して、またその制度をぶっ壊すしかなくなる。つまり永遠にそれが繰り返されるだけだ、という。まぁそりゃそうなんだろうが確かにコンピュータが出来て仕事が楽になったかというと別にそんな事はない。

 「はあ・・・・・たとえば、コンピュータを導入して仕事の処理能力を上げても、そのコンピュータが処理する以上の新たな処理すべき仕事が、コンピュータを導入したことで、増える、ということです。反対に、稼働中のコンピュータを止めたらどうかというと、増分は負の値のわりには要処理量の絶対量はさほど減らない。この法則によると、とにかくどう転んでも忙しさは小さくならず、社会システム内の忙しさの度合はその要素が動けば動いただけ大きくなるというのです」


たしか文明の進化が人間を追い込む、と言っていた人がいたけれど、それもようはこういうことを言いたかったのかな。いったん便利な生活になれた人間は原始的な生活に戻る事は出来ない。どっかの僻地のだれも知らないような民族の中で暮らしている人たちは、その何もない場所で幸せだと感じるけれども、いったん便利な生活を知ってしまった日本人はそこでは幸せを感じる事が出来ない。ってこともないだろう。さぁわからん。コンピュータを導入すればそりゃ今までとは違っていろんな事が出来るようになるのだから、当然仕事も増える、か。世界中のコンピュータがとまったら世界はどうなってしまうのか、想像もつかん。ただその場合コンピュータで出来る仕事がなくなるんだから要処理量の絶対量は減少するんじゃないのか? 


結局その時点で出来る処理量に落ち着くと思うのだが・・・。というか、そりゃ一斉に止まれば要処理量は減少するだろうが、実際一斉に世界中のコンピュータが止まるということはないのだから詭弁か。そしてもし仮に一斉に止まったとしても、その時点では要処理量が減少したとしても結局また増大していって放り投げなきゃいけない事態になる、といっているのか。教祖の言っている事は思わず納得してしまうような、いっけんした正しさを持っていた。


世の中のいわゆるニートなどは、世界にとって不良因子であって、いなくなったほうがいいが、だからといって突然いなくなってしまったらそれはそれで影響力がなくはない。だから身辺整理をさせて、交友関係をたち、世間とだんだん乖離させていき、影響がすくなくなったら自殺させる。いっけん効率がよくなるように見えるが、アリの中にもよく働くアリとまったく働かないアリが7:3の割合ぐらいで存在して、3を排除したら働くアリがまた7:3で働くアリと働かないアリに分散するというし、正直あまり有効な手段だとは思えないなぁ。


というかこの不良因子を排除するっていう考え方はまんま企業のリストラだ。


そもそもなぜ働かないアリなんていう部分が存在するのかというのが疑問なのだが、多分遊びなのだと思う。いわゆる車のアクセルとかの遊び、つまり余分な部分である。きっちりかっちり一分の隙もなく造られたものは、一分の隙もないからこそもし仮に何かあったときに弱い。アリでいえば、全部が全部よく働くアリであったら、さっき書いたようにエントロピー増大の法則を仕事に適用したように、どんどん働かざるを得ないだろう、その場合破綻したらもう立ち直れない、遊びの部分である3割の働かないアリがいないのだから。もし仮に7:3でわかれていたら、限界量をこえた仕事をせざるを得ない時がやってきても、その3割の働かないアリが働き始めるだろう。人間にも同じことが言える。いわば不良因子ともいえるニート達、もしくはリストラされるような会社の人材は、いざというときの人間の遊び、なのではないだろうか。ふむ、これはいっけん筋が通っているような気がしないでもない。

 「わたしね、ダイヤが欲しいの。大きな。ティファニーでとはいわないけど、質流れじゃだめよ、蘭子がねえ、すごくきれいなダイヤをね、みせびらかすの、わたし、くやしくって」
 「相手をよく見てからいえよ、紅子。おれは腹も出ていなければ成金の親父もいない。ダイヤだ?ティファニー? なんだ、それ、何語だ? 通じないな。食うのにせいいっぱいだってのに、冗談はやめろ」

唐突に話はかわるが、思わず感動してしまった。なんてばっさりと断るんだ。これぐらいばっさりとした男になりたいものである。いつかこのセリフはまるっと暗記して使わせて貰おう。なんだそれ、何語だ?冗談はやめろ。 一瞬で人間関係が崩壊しそうであるがまぁそれはそれで。