基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

天の光はすべて星/フレドリック・ブラウン

私は月まで届くようなロケットを作りたかった。あの時代のドイツでそのような大型ロケットを開発できるのは、軍だけだった。私は宇宙へ人間を飛ばす目的のためならば、悪魔と手を握ってでも働き続けたと思う。
 
[ウェルナー・フォン・ブラウン]


号泣した。文章のなんたるかとか、展開の魅せ方とか関係なしに感情に訴えかけてくる作品というものを、久しぶりに読んだような気がする。あるいは感情に訴えてくる、と感じるのは自分がまた星屑の一員であるから故なのかもしれないが。笑傲江湖と膚の下を傑作と評したが、それ以外にも傑作というよりも、何か別のベクトルでもって評価した作品がある。日本沈没だ。傑作というよりもむしろ大作? とかなんとか、感覚的なものなのでどうにも言葉のつけようがないのだが、日本沈没系の面白さであった。忘れていた物を思い出させてくれる物語といったところか。


日本沈没で、日本人だということを改めて思い起こさせてもらい、さらに天の光はすべて星で、SFが好きで、宇宙が好きだという気持ちをもう一度強く意識することになった。


どこをとっても宇宙への情熱しかない、というひどく偏った小説でもあった。とにかく最初っから最後まで、宇宙に対する情熱を主人公であるマックスが語りつづける物語だ。それにしてもすばらしい表紙ではないか。まるで子供の頃思い描いたような単純な形の宇宙船が空めがけて飛んで行く、それを見上げる一人の星屑と、星屑候補生。物語は継承されていくのだ。思わずグレンラガンのラストまでもを思い出して、この表紙だけで泣ける。エピローグでは実際に発射する場面まで書かれていないが、表紙を見た時にはじめて物語が完結する。いい表紙だ。そしてタイトルも。


SFはタイトルだねぇ、というセリフをエッセイで中島かずきが書いていたが、確かにこのタイトルは凄い。この一言だけで宇宙への興味はかきたてられるし、それは無論すばらしいことだ。もう一つ好きなSFのタイトルをあげろ、と言われれば流れよわが涙、と警官は言った なのだがまだ読んでいない。タイトルだけは、はじめて読んだときから格段に気に入っていたのだが。


それにしても、グレンラガンのラストはこれと酷似しすぎているというか、まぁどこまでも意図的なものなのだろうが、これを読んだ事によって、少しグレンラガンの結末に拍子ぬけしたといってもいいかもしれない。宇宙船を、子供と見送るのも一緒なら、その子供に自分の技術を、魂を継承するのまで一緒、さらには恋人を亡くしたのも一緒。ってそんなこと改めていうようなことでもないが。最初自分が考えていたのと同じようなことが書かれていて、と書いているが、そういうとき作者としてはくやしくはないのだろうか。ミステリーでいうトリックが先に使われていた! というような話ではないのだろうか。


エッセイで語られていることも、ほとんどグレンラガンに関係する話なもので、グレンラガン以外からこの作品を読もうとした人には拍子ぬけかもしれないが、自分のようにグレンラガンから入って来た人間には非常に面白かった。というかむしろ、グレンラガンを見た人にはこの作品を読んでもらいたい、と心から思った。基本的に人にこの本を読んだ貰いたい、なんていう衝動に駆られる事は少ないのだが・・・。


何かに熱中し、他を顧みないほどにのめり込んでいく男の物語、というものは面白いと今これを書いていて思った。夢枕獏の作品にその傾向が多い。神々の〜は山に打ち込んだ男の物語だし、餓狼伝はどちらが強いのか?だけを確かめるために生きているような男の物語だ。この作品は、そののめり込むものが宇宙なだけに感情移入しやすかった。いや、しすぎたともいえる。主人公のマックスが熱を持って訴えかければそれに熱を持って頷けたし、マックスを理解してくれる人間が現れた時にはまるで我が事のように嬉しい。


しかしマックスの周りにはいい友人が多い。どいつもこいつもマックスに力を貸してくれて、マックスのやろうとしていることを以心伝心で何も言わずにわかってくれる。いったい、ひたすら宇宙のことだけを考えてきたような宇宙バカにどうやってこれほどいい友人が出来たのか。餓狼伝の主人公も、神々の〜の主人公もまともな友人なんてほとんどいなかったというのに。


自分には出来ない事をやろうとしている人間だから、だからこそ何をおいても支援したくなるのかもしれない。普通じゃ、こうもひたむきに宇宙を信じて、限界などないと何回も何回も、自分に言い聞かせるように繰り返して暗示をかけてまで宇宙を目指し続ける男に、誰だってもっているはずの冒険心とか、夢を託していくのかもしれないな。エレンの髪の毛のように、同じ星屑であるクロッカーマンや、エムバッジのように。そして読んでいる自分も何もできない自分の代わりに、どうしてもマックスには宇宙に行ってもらいたいと思いながら読んでいた。まるで熱に浮かされたかのように読み始めから、読み終えるまでほとんどノンストップ。主人公が、いっときたりとも休まないからだろう。壱分壱秒休まずに、宇宙へ飛び立つという最大目標のために何でもやっていく。実際に主人公が言っているように、たとえ恒星間宇宙船が出来ないとしても、何回も何回も別のやり方を試して、打ち上げ続けていけばその中から偶発的にでも恒星を移動できる技術ができあがる、というのを自分自身微塵も疑っていないというように。自分に暗示をかけるというそれだけの行為に特化したジジイだったな、こいつは。


最初の、あまりに宇宙バカすぎて目的のためなら盗みだろうが恐喝だろうが、人殺しだろうがなんだってやるというその姿勢はとても許容できないように思えたが、あまりにもバカすぎて簡単に操作されてしまっていて安心した。しかしそういうタイプの主人公が、バカだな、と軽蔑の対象にならずにそれどころかすげぇ! という尊敬の目で見られるようになったというのはこれ作者の力量か、もしくは自分がたんなる宇宙バカだからかはてさてどっちだろうか。自分にも似たようなところがあるからかもしれない。


エレンが死ぬ前夜、ひたすらマックスが今まで抱いてきた宇宙についての夢を、希望を、語っている場面は涙なしには語れん。言っている事といえば、ただ宇宙は果てしないし、人間も果てしない、どこまでも限界なく進化し、もし仮にダメになったとしてもどんな手段を使ってでも人間は進化し続ける! と。その場面に続けてさらにエレンがマックスの、宇宙船を奪取して自分一人木星に旅立とうという計画を許している、と知った時もうわあああまじかああと興奮あめあられであった。それにしても、幾人もに自分の極秘の計画を簡単に見透かされているあたり、マックスの行動が単純すぎる。


これは確かに継承の物語であった。エレンの志はマックスに受け継がれ、クロッカーマンの意志もマックスに受け継がれ、マックスの意志はビリーに受け継がれ、そうやってどんどん継承されていくのだろう。継承されていく道は一本だけじゃなく、エムバッジのような、マックスとは別のやり方もまた、継承されていくのだろう。そういう受け継がれていく中でどんどん人間は進化していくと。時の流れというものは、決して止められないというものも、テーマにあったように思う。将棋や囲碁の世界だって、奨励会は年齢で足切りがあるし、宇宙飛行士だったらなおさらだ。そういう世界に生きる人たちにとって、時間というのは自分よりはるかに価値があるものだろうが、ことはそう単純な、価値とかそういう問題ではないのだろう。何にしろ人は歳をとるし、それによって自分に出来なくなった事は、自分以外の人間にやってもらうしかないのだ。


エムバッジのとった道、精神だけを肉体から剥離させる、というのは別の作品でもたまにみるアイデアっていうか、あれだな。四季でも、西の善き魔女でも、同じ事を言っていた。ふむん、考えた事はないが、割とポピュラーな考え方なのか? 精神が肉体を捨てたとして、果たして光速を超えて移動できるものなのかどうか、謎だ。

 そうだ、脱出だ。このちっぽけな世界から、誰もかも脱出したくてうずうずしている。この願望こそ、肉体的な欲望を満たす以外の方向にむかって人間がやってきたことすべての原動力にほかならないのだ。それはさまざまの形をとり、さまざまの方向にむかって発散されてきた。それは芸術となり、宗教となり、苦行となり、占星術となり、舞踊となり、飲酒となり、詩となり、狂気となった。これまでの脱出はそういう方向をとってきた。というのは、本当の脱出の方向を人間たちがつい最近まで知らなかったからだ。その方向とは?──外へ! この小さな、平べったい、いや、丸いかもしれないけれど、とにかく生まれついて死ぬまでへばりついていなければならない地面を離れて、未知に、永遠に向かって。外へ! 太陽系の中の塵の一片、宇宙の一原子にすぎないちっぽけな地球から、外へ!

よく、宇宙に行くのに金を使うぐらいならば未知の深海調査に金を使った方がましだ、という意見を聞くが、それは全くのお門違いであると思う。確かに深海も未知に違いないし、宇宙にいったって何もないかもしれないが、深海には限界がある。最初から限界が設定されてしまっている。それを探し始めたら、何百年といわずに、何十年で謎が大方はれてしまうかもしれない。はたしてそんなことに、耐えられるのか。


マックスは結局、その夢であった木星行きの宇宙船に乗る事はできなかった。エレンの髪の毛まで託されていたのに、それではあんまりだ、何故マックスに、行かせてやれなかったのだという気持ちも無論あるが、それは違うのだ。夢というのは、叶える事じゃなく追い求めることに価値があるのだと、読んでいて初めて思った。追い求めていく過程で何回もマックスが繰り返しいうように、見えてくるものがあるのだろう。今まで夢を持つ事は無駄な事だと考えてきた。夢を持つことによって、そのほかの道を閉ざしてしまう、それだったら夢なんて何一つ持たない方がマシだと信じていたが、夢を持つのもそうまんざら、悪いことではないのかもしれないな。


いやしかし面白かった。表紙、タイトル、内容、すべて雲がない晴れ空のように何もかも気に入った作品というのは、ひょっとしたらはじめてかもしれない。特に表紙なんていうものは、ちょっとでも趣味にあわないと批判するくせに、これだ! という表紙にはなかなか出会えないものだ。大抵作品のイメージを損ねなければいいという消極的な希望しかもっていなかったが、なるほどこういう表紙もあるのか、と。満足も満足、大満足だ。今日はいい夢が見れるぞ。