基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

理性の限界/高橋昌一郎

 理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めること
             ──パスカル『パンセ』

ディスカッション形式で色々な限界について語り合っていく、という形式をとっている。このディスカッション形式というのが、非常にわかりやすい。神様のパズルでも思ったが、ディスカッション形式は答えに行き着くまでの過程が明確に記されているからわかりやすい。出てくる役柄も、会社員、大学生、数理経済学者、哲学者、急進的フェミニスト、生物学者、国際政治学者、フランス社会主義者、フランス国粋主義者、運動選手、カント主義者、心理学者、情報科学者、映像評論家、心理学者、科学主義者、ロマン主義者、科学史家、方法論的虚無主義者、司会者、などなどなど多種多様である。合計二十人以上のキャラクターが入り乱れていた。

中でも急進的フェミニストと、カント主義者のうざさは異常。ことあるごとに出てきて、そもそもそんな事しなきゃいいだの、女性差別だ! とそういう、うざさまで、わざわざ再現してくれるのだから面白い。結局最後までカント主義者が、カントについて延々と語る場は与えられなかった。何回司会者に、その話はまた後日お伺いいたしますというような返答をされていたかわからん。急進的フェミニストがちょっとしか出てこないのに比べカント主義者はでずっぱりなので、待遇はよかったのだが。

序章は、これから先どのように進めていくかのルール説明のようなものだ。だが面白い話もあった。運動の限界値の話である。すでに生物学者によって、100m走なら男で9秒37、200m走なら18秒32、マラソンなら1時間48分25秒、と限界が求められてしまっている。マラソンの限界を秒単位で計算できるものなのか、と不思議に思ったものだったが、よくわからん。適当に書いたって、証明しようがないわけだし。いつか本当に9秒37で走る人間が出てきて、それ以上記録が更新されなくなったら競技はいかに9秒37を出すか、という方向にシフトしてしまうのだろうか。でもこれ、理性とは関係ナイネ。

本書では主に3つの限界についてディスカッションしていく。選択の限界、科学の限界、知識の限界の3つである。順に追っていく。

  • 1.選択の限界

民主主義でいう多数決に、どれほどの欠陥があるかの説明から始まる。多数決に欠陥があるという話は、聞いた事があるが、実際に解説を読んだのは初めてである。
〜〜のパラドックスや〜〜の原理や〜の原則、法則などなど頻発してこんなにたくさんの法則が多数決にあったのか、とその時点で愕然としたが、特に複雑なものでもないので苦労する事もない。だが、それをここに書いていくとなるとなかなか大変な作業である。元が単純な原理故に、本書で書かれている以上に簡略化して書くことをし辛い。
コンドルセパラドックス、ボルダのパラドックスから説明は始まる。どちらも単記投票方式についてのパラドックスで、一人一票しか与えられていない。単記投票方式などというと、すでに解説するまでもなく矛盾だらけなので特に説明もしない。

興味深いのはアメリカ合衆国大統領選挙の矛盾である。まずアメリカの大統領選挙がどのような方式でおこなわれているかを書くのは面倒くさいので簡単に説明すると、州ごとに、予備選挙によって合計五百三十八名の選挙人(つまり州の代表である)を選び出し、その選挙人が持っている投票数の過半数を持っていたものが大統領になれるのである。
ゴアvsブッシュの大統領選は、ぎりぎりの僅差でブッシュになったわけであるが、国民全員の投票数を数えてみるとゴアの方が三十三万票上回っていたという。国民投票によって選ばれたはずのブッシュ大統領が、アメリカでさえ馬鹿にする人間が多いというのはこのあたりにあるのかもしれない。じゃあ直接投票にすればいいじゃん、という話だがそちらはそちらで、また一癖も二癖もあるわけである。簡単に説明すれば時と場合によっては、普通ならば選ばれないような、奇想天外な人間が選ばれてしまうこともあるという話である。

さて、単記投票方式の話は終わり、複数記名方式と順位評点方式にうつる。
自分では、順位評点方式は結構いい線いくんじゃないかと何の理屈もなく思っていたのだがめったくそに欠陥を指摘されている。最初に単純な欠陥から書くと、20点持ち点があり、5人の候補者に期待度に応じて振り分けるとしたとき、そこそこの人が数人いたら得点がばらけてしまうが、候補者の一人に熱狂的な信奉者がいた場合20点全部個人に集まることになり、たとえ投票した人数が少なくても得点だけでいえば熱狂的な信奉者がいる人間が勝つというものだ。また、第二に、1位には5点、2位には4点として5位まで選ぶ選挙があったとしたときに、1位が決まったがその1位が辞退した場合に、2位から5位までを繰り上げて点数を採点しなおすと順番がひっくりかえってしまうという問題がある。第三に、ある人物を当選させたいと思っている有権者が対立候補である人物を、わざと5位にすることによって順位が変わってしまう問題がある。

多数決というやつはやり方を変えれば順位がいくらでも変えられるものだ、ということがここまでの様々な欠陥で理解できる。

そして完全民主主義の不可能性へと話が移っていくのだが、ややこしすぎてとても書き切れん、要するに完全な民意をくみ取った選択肢を選びとる事は不可能だということを証明した、というただそれだけの話である。なんて言いきってしまうには複雑な話であるがどうしようもない。

話はまた変わり、ゲーム理論。最初に囚人のジレンマの問題に突入していくが、これについては詳しく利己的な遺伝子で解説されていたのを、読んでいるので特に意味はなかった。ゆえに書かない。囚人のジレンマの話は問題がシンプルで簡単に楽しめるのだが、その分答えも単純で、何度も読む必要がない。そしてミニマックス理論、ナッシュ均衡、チキンゲームなどの話だが、どういう戦略を取るのがいいか、という話だけなので省略する。というところでまずは選択の限界、終了。
選択についての豆知識は増えたが、限界がわかったかというと疑問である。いや、ある意味完全民主主義ができないという証明を説明して、どの理論もあやふやだということは確かに伝わってきた。ある意味、限界はわかったわけだ。

  • 2.科学の限界

ほとんど科学の限界というよりは、今まで科学がどのような道のりを歩んできたかの解説で、初歩的なことしか書いていない。ラプラスの悪魔、ハイゼンベルグの不確定性原理光速度不変の法則、相対性理論量子論へとお決まりの科学ネタをなぞっているにすぎない。それにしてもシュレディンガーの猫からはじまる量子論の説明や、アインシュタイン相対性理論などは、あまりにも内包している事柄が多すぎるからか、ちょっと科学に関係した新書を読むと必ず説明される。何回も何回も色々なところで説明されたので、もう一番簡単な部分は覚えてしまっている。

EPRパラドックスの話は興味深い。このパラドックス、よくわからんのだけれども、めんどくさい理由を抜きにして説明すれば二つの電子を観測した瞬間、一方が右回りのスピンを示せばもう片方は全く同じ瞬間に左回りを始める、というものである。その場合、電子の距離が光速で1年以上かかる距離に置かれていた場合、光速度不変の法則によって同じ瞬間にスピンを観測することはできないというパラドックスである。だが実際に実験をしてみたところ、光速を超えて干渉することが明らかになった。考えようによっちゃあ、宇宙レベルで長い棒をはじっこにいる人間がちょっと動かせば、同時に宇宙レベルに長い棒のはじも、光速を超える伝達速度で動ける、という話であると勝手に解釈したがまぁあってはいないだろう。専門用語じゃ量子もつれというらしい。

http://www.jst.go.jp/pr/announce/20080712/index.html

ここで量子符号化を用いた「量子もつれ」光子対の配信実験に成功
ということをいっているが、よくわからん。今まではこの量子もつれ現象を安定して行うことができなかった、しかしノイズを除去することによって安定して行う事が出来るようになった、そういうことだろうか。複雑すぎる。量子コンピュータ量子テレポーテーションはまだか

進化論的科学論というものが出てくる。基本的に科学は、すでにある科学理論をバージョンアップしていくことで進化していくというものである。また、科学進化論の反対意見として、パラダイム論などというものも飛び出してくる。その主張は

 科学者が新旧パラダイムを選択する過程において、実際に効果を上げるのは、「説得」や「宣伝」の技術にかかわる「プロパガンダ」活動だと考えられるのです。
クーンは、科学革命において「合理的」な基準など存在しないと明言しています。要するに、科学理論の変革において決定的な意味をもつのは、「真理」や「客観」の概念ではなく、科学集団における「信念」や「主観」に基づく「合意」だとみなされるのです。

というものである。たしかに、と思う反面、本書でも批判されていたようにパラダイムの定義が曖昧すぎる。だが科学史を見た時に、いったんは信念や主観に基づく合意に至ったとしても結局はのちのち、客観という概念が入ってきてより正しい道に進んでいるような気がする。

このままではまったくまとまりがなく終わってしまうのではないか、というところで方法論的虚無主義者が出張ってくる。そしてそのまま場をかっさらい強引にまとめてしまった。いっけん煙にまかれたような感じを持つが、これはこれでおもしろい。方法論的虚無主義者は、ファイヤアーベントの「何でもかまわない」という方法を主張する。要するに誰だって自分の好きな事をすればいいし、どんな理論があらわれようがそれを受け入れるか受け入れないかは個人の自由である、何事にもとらわれないという姿勢の哲学ともいえる。何事もとらわれないという主張ゆえに、その何事にもとらわれないという主張さえも時には無視することがあるだろう、つまり時々は別の主張を持つかもしれないし、ようするに自由なのである。なんだっていいじゃーんと今までの議論をすべて無にして、この章は終わる。

  • 3.知識の限界

やばい。意味わかんない。最初の方は論理学の初歩といった感じで、簡単に理解出来たけれど後の方の、テューリング・マシンだとかよくわからん・・・。というか、ぬきうちテストのパラドックスを最初は理解できたのに、発展した瞬間に論理学のくせに数字が出てきたり無矛盾性とか命題とかわけのわからない単語が頻出してきてもうわけわかめである。しかもそういったわけわかめな理論が最終的に、最初は単純だとおもっていたぬきうちテストのパラドックスと関係しだしてまるで飼っていた猫が実は虎だったというようなひどいしっぺ返しを食らう。ゲーデル不完全性定理いみわかんねええ。
神の非存在論の中で誰も論理からは逃れられない、だから神でさえもすべての真理をする事は出来ないとある。本書に書いてある説明をそのままキリスト教の人間などに喋ったらどういう返答が返ってくるのだろうか。ちょっと興味深い。自分でやってみようとは思わないが。よっぽど知識に長けた人間でない以上、本書に書いてあるように、俺たちが信じている神は人間理性を超越した神である、なんていう小難しい返答は出来ないだろう。

いやーしかし難しい。論理学なんてやるもんじゃないな・・・。

総括
ディスカッション形式はやはりいいな。会話調というのが、さらに良さを増しているのかもしれない。あとがきで、科学者の論文発表などより、雑談が何より心に響いたというその面白さというものが伝わってくる。わいわいがやがや、みんなでテーマを絞って語り合うのは、ちゃんとまとめられている限りでは楽しいものである。
さて、ここまで読んできたが驚くべき事に理性がどういう意味なのかすら、よくわかっていなかったことに気づいた。Wikipediaで調べると、推論能力ということだがうまく伝わってこないな。ま、いっか。こんなところで。