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道徳の系譜/ニーチェ

道徳の系譜 (岩波文庫)

道徳の系譜 (岩波文庫)

完全に自分用メモ。全部書こうと思うと長すぎるので、とりあえず序言と第一論文だけ。第二論文第三論文について書くかどうかは不明。

序言(P7-18)

 われわれはわれわれに知られていない。われわれ認識者が、すなわち、われわれ自身がわれわれ自身に知られていない。それはそのはずである。われわれは決してわれわれは決してわれわれを探し求めたことがないのだ。──われわれがいつかはわれわれを見出すであろうなどと、そんなことがどうして起こるというのか。

自分を決して認識することができない、何よりも自分が自分より一番遠い存在であるということだ。こうして簡単に説明して初めてわかることだが、このなんとも伝えにくいことを伝えるためにはわれわれわれわれとなってしまうのもうなずける。別にギャグなどではなく、必死に伝えたいことを伝えやすいやり方で伝えた結果だった。

ニーチェは自分の思想がどんどん円熟していき、明快になっていく、さらに緊密に結びあい成長してきたと言っている。さらに、自分の数々の思想が、ばらばらに育ったのではなく、ひとつの認識の根本意志から生じたものなのであろうと断じている。その理由は、哲学者にふさわしいから、らしい。正直な話、理由になってねえだろと突っ込みたい気分である。

善人と悪人だったら、善人の方を悪人よりも価値の高いものとみなすのはどうだろうか? と疑問を投げかけてくる。
この論文の冒頭には一つの箴言があって、これ以降は全部それの注解だ! それにこの本を理解するにはスルメを噛むみたいに反芻しなくちゃならないんだぜ、といって序言は終わる。続いて第一論文。

「善と悪」・「よいとわるい」

1.よいの起源(P20-24)

道徳の成立史に貢献したのはイギリスの心理学者である、といいその批判をする。彼らには根本的に非歴史的な考え方をしているというのだ。イギリスの心理学者たちは、非利己的な行動をする人間がいた場合、その恩恵を受けた人間が非利己的な行動をした人間を「よい」と呼ばれた、その後そういった起源は忘れられたが、習慣的に「よい」と呼ばれたおかげで慣性かなにかでその後も「よい」の捉え方は変わらなかった。
反対にニーチェは、貴族などが自分たちの行動を「よい」と決めて、それと反対の卑賤なものたちと対置したのだ。そして貴族的立場と、卑賤立場的距離から、価値を創造したのだ、と。さらにニーチェはイギリスの心理学者が言っている、「忘れられた」という部分に粘着攻撃を仕掛ける。 忘れるわけねーだろと、功利はむしろ日常的経験であって、むしろ強調されてんだろ、と。

2.よいの語源学的意味(25-29)

ニーチェが発見したところ、どのよいという言葉の意味も、貴族的な、とか高貴な、とかがよいの基本概念であって、卑賤な、などの概念はそれとは逆で、常に「わるい」という基本概念にとらわれている。最初は「存在する者」「実在性をもつ者」「現実的な者」「真実な者」を意味する言葉だったものが、主観的転意により、「真実な者」は「誠実な者」と呼ぶようになる。さらにこの言葉は「高貴な」という意味に移り変わって、卑賤な人間との対置となる。

3.僧職ってどうよ(29-36)

最高の階級が僧職であるとき、常に政治的優位の概念は精神的優位の概念のうちへあった。ニーチェはこいつらの習慣って不健康だよな、とばっさり切り捨てる。しかもその治療法として、僧職の人間が考え出したものといえば、さらに危険になるだけで(断食とか禁欲とか)ほんとにバカじゃねーのとそこまでは言っていないかもしれないが似たような事を書いている。

 僧職者の手にかかると、全く一切がより危険なものになり、療薬や療法になるばかりではなく、更に慢心に、復讐に、狡智に、放縦に、愛欲に、野心に、徳行に、病気になる。──いくらか公平に見てそれに附け加えるならば、人間の、僧職的人間のこの本質的に危険な生存形式を地盤として、初めて人間一般は一個の興味ある動物となり、ここで初めて人間の魂はより高い意味において深くなり、かつ悪くなった。──そしてそれこそ実に、人間がこれまで他の蓄類に対して保ってきた優越性の二つの根本形式なのだ!・・・・・
(P31)

この道徳の系譜の中だけでも、上で引用した中の一部のような文章の書き方がやけに多発する。それとはつまり〜〜に、〜〜に、とひたすら色々な単語を重ね合わせてどんどん強調していく書き方である。これははたしてクセなのかどうか。かっこつけでやっているのかそれとも本気でやっているのかどうかわからない。
このあたりの詳しい話は確か第三論文禁欲主義的理想は何を意味するかに書いてあったような無かったような。
こと戦いという見方に立った時に、僧職者は最も無力ゆえに最悪の敵であるという。

 この無力から憎悪が成長し、やがてそれが巨怪な物騒なものとなり、最も精神的な、最も有毒なものになる。世界史上における最大の憎悪者は常に僧職者であったし、更に最も才気に富んだ憎悪者もまた僧職者であった。

僧職者の生気はすさまじいもので、彼らがいなかったら人間の歴史は気の抜けたものになっただろうと、さらにつけ加えている。
話はキリストに移り変わる。イエス・キリストが磔にされたのは、イスラエルに対しての復讐の術策だったのではないかと書いている。イエス・キリストが磔にされたことによって全世界のすべての敵がそれを理由にイスラエルにかみつくことが出来たのである。これをニーチェは恐るべき妖魔術やら、いかに奸智に長けた人間でもこれ以上に危険な餌を案出できたか! と凄い恐れようである。もしこれが事実だとすればイエス・キリストは自分が磔にされた時に、「乾坤一擲の大智謀、秘計が当たったわい!」と大喜びしながら磔にされ、にやにやしながら槍で突かれていたのである。凄まじいドMといわざるを得ない。

4.道徳上の奴隷一揆(36-45)

が始まったのはルサンチマンが創造的になり、価値を生み出すようになった時である。
貴族道徳はすべて自己肯定から始まるが、奴隷道徳は自己でないものの否定から始まる。この否定が奴隷道徳の創造的行為だとニーチェは書く。奴隷道徳が本質的に他者を必要として、そこからの反動を生み出すのに対して貴族道徳が対立物を求めるのは、自己肯定をさらに満足させるためである。貴族達の幸福は基本的に受動的なものとしてあらわれる。対して下層民はルサンチマンに取りつかれ必ず貴族的種族より怜悧になる。

貴族的人間の反感はもし現れてもその直後に続く反動の中で消えてしまうから害を及ぼさない。何をされても笑って忘れてしまうということだろうか。すべての弱者ならば現れるのを避けがたい時にも、貴族的人間は真面目にとりあうこともない。ニーチェはこの種の人間のみに、真の「敵に対する愛」がありえるだろうとしている。貴族的人間は自分を引き立たせるために敵を必要としている。つまり、雑魚じゃ話にならないということだ。もし仮にドラゴンボールフリーザがチャオズに攻撃を受けたとしても、なんら気にしないだろう。チャオズごとき殺しても俺の株はあがらないしな、と無視するだろう。しかし悟空が来たならばフリーザ、頑張るはずである。

 これに反して、<<反感>>をもった人間の考想する「敵」を考えてみるがよい。──そしてここにこそ彼の行為があり、彼の創造があるのだ。彼はまず「悪い敵」を、すなわち「悪人」を考想する。しかもこれを基礎概念として、それからやがてその模像として、その対照物として、更にもう一つ「善人」を案出する──これが自分自身なのだ!・・・・
(P40)

まとめると、「よい」というつまり自分自身から根本概念から発し「わるい」という概念を作り出す貴族的起源を持つよいわるい。「わるい」ものがあってはじめてそれと反対である自分が「よい」という考え方をした奴隷道徳、この二種類がある。

人間という猛獣を飼いならして家畜にすることがあらゆる文化の意義であるという仮定で、そうならば貴族的主義を圧服した力の反動と反感の本能は真の文化の道具であるという。
そして文化の道具の所持者が単純に文化の体現者であるかというとそうではない。むしろ反対だ。こいつらは人類の退歩を体現しているのだとして、
次に貴族的種族の根底に潜む金毛獣に対する恐れを免れえず、それを警戒するのは極めて当然のことなのかもしれないといっているが、何故そこで何故貴族的主義の根底になってしまうのだろうか。単純に考えるならば奴隷階級の人間の反動を警戒するのではないか。反動を生み出したのは貴族的主義だということかな? 
最後に、希望として、疑いようもなく人間は「より善く」なって行くのだと言っている。

5.つよい、よわい(45-49)

子羊が狼に向かって、あいつらは悪いやつだ、だから子羊たちは善いやつだ、とするのはまったく間違っているという話。強さに対して支配とか暴圧とかをやめるようにいうのは、弱さに対してそれが弱さとしてあらわれないことを要求するのと全く同様に不合理である。
さらに、反対のものが善だとしたときに。つまり何物も傷つけないものを善としたという概念はできないことはしないという意味以上のことは言っていない。そんなこと虫は本能でやってんのに、非暴力をとなえたからって偉そうにしてバカじゃないの? という話である。非暴力っていうか出来ないことをあえてやらないと言っているだけでしょ? と。

6.理想製造工場

本邦初公開、理想製造工場の実態に迫る。
内部情報1 弱さをウソでごまかして手柄に変える。
内部情報2 弱者のことなかれ主義が忍耐といってもてはやされる。さらにはそれが徳を意味するようになり、復讐することができないが、復讐をしたくないに変わっていく。
内部情報3 これらのつらいことも未来への準備、試練であるといって至福だと叫ぶ。
内部情報4 支配者より俺たちは幸せになれると信じ切っている。
内部情報5 未来の至福へ向けて、信仰に、愛に、希望に生きる。
ニーチェさんの見解→こいつらもいつかは強者になりたいと願っている。

7.結論

「よいとわるい」「善と悪」という二対の対立した価値は長いこと闘ってきた。この戦いの象徴は「ローマ対ユダヤ」「ユダヤ対ローマ」と言える。この二つのうち、どちらが一旦は勝ったのかというと、言うまでもなくユダヤ人である。なぜならイエス・キリスト一派(イエスペテロパウロマリア)が全員ユダヤ人だから、という理由。

最終的に、ナポレオンの登場によって貴族的理想は生身の問題となって表れたのだー! 彼は非人と超人の綜合なのである、といって終わる。