基本読書

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意味がなければスイングはない/村上春樹

意味がなければスイングはない (文春文庫)

意味がなければスイングはない (文春文庫)

 この本の存在を電車の中づりで知り即座に本屋に足を運んだ。本屋にて、村上春樹の新刊を探してもらえませんかと店員に声をかけたところまでは良かったのだが、持ってきてもらったのを見て少々ためらったのは事実だ。エッセイだというのは知っていたのだが、内容が全て音楽だとは知らなかった。村上春樹が十一人の音楽家に対して何かを書いていくらしいというだけで、ついていけるかどうか心配だった。しかし持ってきてもらった手前やっぱりいいですと返すのも気がひけたのでそのまま買ってしまった。

 結果的に言えば買ったことに間違いはなかった。ここで紹介された十一人のほとんどは、名前を一度も聞いたことが無いようなアーティストであり、音楽ばかりであったが、何の問題もなく楽しむことが出来た。音楽を作るのは所詮人間なのだから、音楽を語っているようでいて実は人間を語っているのである。勿論人物についても、この本は語っていくことになる。一人ずつ(例外的に一か所二人)紹介されていくわけであるが、その内容はおもに何故その人物を選んだか、その人物の音楽のどこがそんなに気になったのか、また人物紹介が主な内容となっている。

 村上春樹の小説を読むと大抵一つは悩みが解決する。自分だって人間なのであるから、常に二つか三つは悩みを持っている。その悩みを視野を広げることによって解決してくれるのだ。例えて言うならば、さっきまでそこにあったものを探しているときに、大抵視界の盲点に入り込んでいるのであって、冷静になって見渡してみればすぐに見つかるはずなのだがなかなか見つからない。そういう時に、一歩引いてみてみな、見つかるからと事実のみを表すような口調で教えてくれる感覚である。

 基本的に音楽について語っている評論であるにも関わらず、その内容は多岐に渡り示唆に富んでいる。ジョークは相変わらず面白いし、読み始めたら読むのをやめることができない。一篇読み終えるごとに手足がしびれるような感動が全身に広がっていく。知的興奮とはこういうことを言うのだろうか、と感動しかりである。さらに感謝したいのは、この本を読む事によって自分の音楽に対する姿勢が明らかに変わったことである。物ごころつく前からピアノを習っていて、そして今なおピアノを日常的に弾いている身としては音楽というのは聴いたり、受け取るものではなく自ら作り出す物だったのだ。本書のあとがきではこう書いている。

 本を読むという行為にあまりにも夢中になりすぎていて、自分が何かを書く・創作するという姿が、うまく思い描けなかった。受け手として長い歳月を送っていると、自分が送り手となることが想像できなくなってしまうのだ。小説というのは僕にとってあまりにも偉大な存在であり、作り手の側にまわる資格が自分にあるとはなかなか思えなかった。

 引用した部分と逆の現象が自分にはおこっていたのではないか、と今なら分析することができる。音楽というのは幼い自分にとっては創るものであって、受け取るというのがどうしても想像できなかった。昔から音楽を聴くことに関心が薄く、音楽とその辺の工事現場の音の区別もろくにつかない有様だった。永い間そうやって過ごしてきたのですっかり聴く能力というものが無くなってしまったように思う。音楽を聞いた時に、ひとつの作品としてイメージが湧きあがってこないのだ。なんとも説明しがたい。音楽の評論なんてのもほとんど読んだことがなく、音楽というものをどうやって評価するのかもろくに知らないままここまで来てしまったのである。今回村上春樹が語る音楽論のようなものを読んで、音楽の捉え方の一端を掴んだような気がする。今まで形をもたなかった音楽がにわかに鮮明になって捉えることができるようになったとでも言おうか。

 個人的に面白かったのはシューベルトウィントン・マルサリススガシカオ、ウディーガスリーあたりだろうか。十一人中五人だからほぼ半分ということになる。もちろん他の人物も甲乙つけがたいほどに面白く、それは題材とされた人物が例外なく面白いことも、もちろんあるだろうが村上春樹の文章が全体的にレベルが高すぎることが要因のほとんどを担っているのは間違いのないことだろう。さらに好きなものを語っているということで、文章からやる気とか、楽しんで書いているなぁという雰囲気が漲ってくるように感じられるのが面白い。

 シューベルトの話でおもしろかったのは、何故村上春樹シューベルトのピアノ・ソナタニ長調を好むのかという話である。それにはまずシューベルトのピアノ・ソナタが何故敬遠されるのかの話からしなければなるまい。長過ぎて退屈されるせいで家庭内で演奏するには難しすぎるのがその理由である。何故そんなものを書いたのかといえば、シューベルトがそういうものを書きたかったから、だそうだ。まずここが非常に気に入っている。生き様とでも言おうか。自分が目指している一端といえるかもしれない。しかもすぐに死んだせいで、その生き方故に困難な事態に直面することもなかった。ここもいい。できればそういう生き方がしてみたい。さて、話を元に戻すと、何故村上春樹がピアノ・ソナタニ長調を好むのか? シューベルトのピアノ・ソナタニ長調は一般的には名曲ではない。長いし、構築が甘い。だがこういった崩れ方によって、独自の普遍性を獲得しているという。精神的な力がよくでているという。こういった表現がこの音楽評論にはたびたび現れる。精神的な力、とか本気、と。目に見えない話だが実際に音楽の世界ではそういうものは非常に重要なのである。もちろん他の分野(文章とか、絵とか)中でも音楽における本気とか、これが伝えたいんだ!という思いは重要な要素となって盛り込まれているのである。無くてもそれなりの作品にはなるが、決して心の深いところにまでえぐりこんでくるような作品にはならない。

 僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。

 ブルース・スプリングスティーンについて語っている章で「おっ」と思ったのはここである。

 お仕着せの結論や解決を押しつけることはない。そこにあるリアルな感触と、生々しい光景と、激しい息づかいを読者=聴衆に与えはするが、物語そのものはある程度開いたままの状態で終えてしまう。彼らは物語を完結させるのではなく、より大きな枠から物語を切り取っているわけだ。そして彼らの物語にとって重要な意味を持つ出来事は、その切り取られた物語の枠外で既に終わっていたり、あるいはもっと先に、やはり枠外で起ころうとしているということが多い。
中略
 読者=聴衆が考えなくてはならないのは、シンボルや隠喩についてではない。テーマやモチーフについてでもない。そういう学術用語は、ここではあまり意味を持たない。彼らが(我々が)真剣に考えなくてはならないのは、その「切り取られた物語」が、我々自身の相対的な枠の中にどのように収まっていくのか、ということについてである。

 レイモンド・カーヴァーブルース・スプリングスティーンが共通の世界観を持っているという話から出てきたものだが、シンボルや隠喩について考えることにあまり意味を持たないというところに真実を見たような気がするのである。これはほかに多くの作品についてもあてはめられることではないだろうか。結末がぼかされて終わるすべての作品がそうとは言わないにしても、いやそれにしたって最終的に重要なのは自分がどう受け取るかであって隠喩ではないのかもしれない。たとえばカフカの変身にしたって、カフカの自伝からあれは現実における自分の体験を反映させているという話があるらしいがそれにいかほどの価値があるというのか。

 ウィントンマルサリスについては非常に手厳しい。ほとんどのアーティストが春樹より年上の中このウィントンマルサリスとスガシカオだけが、春樹より年下であるということも関係しているのかもしれない。いくつか忠告をしているがどれもが純粋な期待から、ふらふらと道を決められずに歩いている若者の手助けをしてやろうという父性的な愛情を感じる。

 彼の述べていることは、言葉としては、理論としては、クリアで正しい。しかし人々の魂にとっては、それは必ずしも正しいことではない。魂というのは多くの場合、言葉や理屈の枠からはみ出した、とてもクリアとは言えない意味不明なものごとを吸収し、それを滋養として育っていくものだからだ。

こんなことを言いながら、何故こんなにこいつの音楽は退屈なのかと言い切って分析までしながら、底が浅いとまで言い切ったのにもかかわらず十一人の中の一人に加えて居るのはやはり未来への投資という感じだろう。

 さて、スガシカオである。いきなり日本のアーティストが選ばれていてかなりびっくりした。村上春樹自身もあまり日本の歌は聴かないと言っている。今はスガシカオの曲を聴きながらこれを書いているが、特にどこがいいなどと思う事はない。歌詞をろくに聞いていないからかもしれないが。ここでは主に歌詞について書かれている。他には何故僕が日本の歌を聴かないのか、などなどである。そういえば少し前に、一分間の深イイ話という番組の中で武田哲矢がJ-POPは子どもにもばあさんにも聞いてもらえる歌詞を書かないといけないから大変だ、みたいなことを言っていた。そんな幅広く受けるような歌詞が、本当に今必要とされているのだろうかと疑問に思ったものだ。誰にでも受け入れられるというのは、誰にも受け入れられないのと同じようなものではないか? そしてみんなが万人に受け入れられる歌詞を、と考えた結果どの曲もありきたりで面白味のない曲ばかりになってしまうのではないか。 なんて新しい音楽を全く聞かない自分がいうのは勘違いはなはだしいのだが。自分の中の日本での歌はウルフルズブルーハーツで完全に止まってしまっている。