基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

漂泊の魂/ヘルマン・ヘッセ

 ヘッセ作品を読んだ時に与えてくれる感情は圧倒的な孤独、強烈な自己肯定である。ふとヘッセを読みたくなる時がある。このままでいいのだろうかと自分の方向性について迷っている時が多い。そんな時に読むと道を決められるというわけではない。ただなんとなくなるほど、とどこかに落下していくような気分を味わう。今はダメでもそのうちなんとかなるかもしれないと。やはりヘッセは凄いわ。海外文学の中じゃ今のところ一番好きかも知れない。詩を楽しんで読んだことが無いのだが、詩人が書いた小説はどれも外れがない。たとえ物語が面白くなかったとしても、雰囲気だけで読ませてくれる。念のため書いておくとヘッセの物語が面白くないといっているわけではない。最後の場面は思い返しただけでも体の底から震えが止まらなくなる。

 意外というかなんというか、主人公であるクヌルプは自由を愛し旅を愛するお調子ものの猫のような人間である。そのたち振る舞い故に誰にでも好かれるが、誰にでも好かれるということはひどく孤独なものだ。誰にでも好かれるということは誰の敵にも味方にもならないことだ。誰にでも好かれる、波風を起こさない、そんな存在はいてもいなくても同じなのである。最初の短編「早春」では、クヌルプには孤独の影を感じない。好きなように、楽しそうに生きているように見える。だけれども、友人に対して孤独を少し漏らしている。すでにこのときから孤独を強く意識していたとは思えないけれども。単純に持たざる者は持つ者がよく見えるというだけの話かもしれない。三つ目の短編「終焉」で書かれていたクヌルプの詩

 人々も
 花にしありき
 春くれば
 帰りて咲きて病なく
 なべての罪も赦されむ

 であらわされるようにきたるべく本格的な春に向けての幸せそうなイメージで満ち満ちている。続いて第二の短編「クヌルプへの追憶」では時系列的にはクヌルプの死後だが、回想という形態をとっているため実際は三つの中ではクヌルプが一番若い頃の話である。ここではクヌルプの人生観のようなものが直接的に語られる。

 「だから、僕は夜、どこかで打ち上げられる花火ほどすばらしいものはないと思うんだ。青い色や緑色に輝いている照明弾がある。それが真っ暗な空にのぼってゆく。そうしてちょうど一番美しい光を発するところで、小さな孤を描くと、消えてしまう。そうした光景を眺めていると、喜びと同時に、これもまたすぐ消え去ってしまうのだという不安に襲われる。喜悦と不安と、この二つは引き離すことができないのだ。そうしてこれは、瞬間的であってこそいっそう美しいんじゃないか。そうだろう」

 何物も、消えなければいけない未来は変わらない。小林泰三の酔歩する男で、死を論理の基盤としていたの捉え方がようやくわかった。というよりも考えようとしていなかっただけだ。死があるからこそ美に感じ入ることができるのだしだからこそ人生には起伏が生まれるのだ。死が無くなったらすべてには意味がなくなってしまう。ヘッセを読んでいて安心するのは、話の根幹にあるものが現状を肯定する意思だからだ。確かに、色々挑戦することは何よりも価値があることだし、困難に立ち向かっていったり選択し、痛みを伴う決断をしながら進んでいくことも大切なことだ。だが行動することが良い事だと誰もが知っていながらも、実際に行動を起こせる人間は少ない。そういった人間はヘッセを読むと自分を作品の中に見出す。だらけていても動き出せなくても未来から見れば、または過去のつながりから見ればすべてはそうあるべきだったのだ。

 三つ目の短編「終焉」、クヌルプは一転死へ向かう。過去の自分の行動を振り返って、あの時こんなことが起こっていなければ・・・と人生を否定する。病気に侵され死を意識して自分が孤独だということに気がつく。マヒャルト医師がさっきまではクヌルプに対して軽口をかわしていたにもかかわらず、妻との会話ではあいつはもう先が長くないんだから優しくしてやらないと駄目だ、と言っているところ。またマヒャルト医師が弱り切ったクヌルプを見て一言可哀想な男だ、といわれるところ。何でもない場面なのだがクヌルプの孤独が浮き彫りになっていく感じがして泣ける。今まであれだけ優雅にまるでアリとキリギリスのキリギリスのように生きてきたのに、冬になって弱っていくようだ。

 数ページにわたって延々と故郷の描写が続く箇所があるのだが読んでいる間、震えが止まらなかった。死に際がすばらしい小説ランキング(勝手に作った)でもかなり上位にいくはずである。死を覚悟して、生を肯定した時に何もかもが美しいと感じるあの一種独特な死の直前の気持ちが明確に表現されている。もっとも死を覚悟して生を見た経験が自分にはないのだが。なんでもない日常とはこんなにも素晴らしいものだったのかと強烈なイメージでもって伝えてくるのだ。

 彼はかくてすべてに対して傍観者となり、放浪児となり、ロハの見物人となってしまった。そうして、幸福な青年時代に人々に愛された彼が、年老いて病み疲れた今、得たものは孤独なのであった。

 そしてこの孤独を肯定するものが最後の神との対話である。一瞬ここのイメージを完全に掴んだような気がしたのだが、またどこかに逃げて行ってしまった。ここで行われているのは人生の肯定である。一生が無であることなんて無い。たとえどんなにつらい人生であったとしても、どこかには楽しいと思える瞬間があったはずなのである。神が言うのは在るがままに在れという究極の自己肯定である。怠惰な自分も、孤独な自分も、人には何かしらダメなところがある。そういったものをすべて肯定して在るがままに在れというのである。かくしてクヌルプは、孤独も何もかも受け入れて死んでいく。