- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2008/01/18
- メディア: 文庫
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基本的な面白さは笑いである。いや、違うかもしれない。まあとりあえず笑いで。笑える小説を全く読んだ事ないのだけれど、一つの例として西尾維新の化物語をあげてみよう。化物語は個人的に笑える小説にカテゴリ分けされている。うむ、化物語と比べれば2倍は笑えるはず。もりろぐあかでみーと比較すれば4倍は笑える。それぐらいである。MORI LOG ACADEMYも確かに面白いし毎日読みに行く、しかし大半が日々に何をしたかの定型文的な報告であってあそこはいらない。授業も興味のある部分がたまにあるが、それをのぞけば読まない。じゃあ何を求めて読みに言っているかというとそれはほんのちょっとだけ書かれているエッセイの部分である。大抵かなり少ないが、充分面白い。
このエッセイはその面白い部分だけを集めたものなのである。そりゃあ面白い。しかしMORI LOG ACADEMYで一旦は書かれたことがあるようなものがほとんどなので、内容的には何度も読んだものになる。何しろMORI LOG ACADEMY内部でさえ同じ事を何度も書くのだ。うむ、だから内容よりはMORI LOG ACADEMYとはまた違い、より自由になった文章だろうか。思う存分書き散らしてみましたてな感じで、読んでいて笑える。しょっちゅうことわざとか、言いまわしをちゃかしながら書いていく。この文章が暴走していく、どんどん脇にそれていく感覚は非常に共感が持てるのである。自分もいつも適当に書いているせいかどんどん関係のないことを書き続けて、同じ事を何度も繰り返し書き読み直すのも億劫なほど書いてしまう。だがそもそも科学とか数学の証明ならまだしも、社会学などで証明を行うのは結構大変である。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神でもくどいんだよ! と愚痴を言いたくなるぐらい色々な方法で、資本主義の生みの親はプロテスタンティズムであるということを繰り返し繰り返し伝えてくるのだ。結果にたどり着くまでの道のりが違うだけで、結果は常に同じなので飽きてくる。本の感想でいえば、どうにかしてこの本が面白いか伝えたい→数学のように1+1=2のように伝えられるものではないので、必然的にここが面白かった、故にこの本は面白い、ここも面白かった、ゆえにこの本は面白い、とプロセスが長くなってしまう。
最初のエッセイ、「散らかしの法則」からぶっ飛ばしていて、読んでいてこれは本当に森博嗣が書いた文章なのか・・・!?と思ったもののやはり森博嗣だった。森博嗣の両親が森博嗣に片付けなさいよといわなかったのはエントロピィ増大の法則を正しく理解していたからだろうとか笑える。しかしこの笑えるという感覚が非常に不確かなものであって、確かに読んでいる時は笑えたのだがしばらく時間がたつと本当にこの場面は笑えるのだろうかと疑問に思ってしまうのである。不思議だ。笑い程その場のノリが適用されるものも少ないのではないか。
「ワープロ航法」にて、笑った場所
もしワープロがなかったら、森博嗣の文章はどうなっていたかというと、無くなっていただろう。綺麗すっきり消えていると思う。絶対に小説なんか書かなかっただろう。
何回も強調しているところが笑える。ワープロがあっても書くのを嫌がっているのに、そりゃなかったら書いていないだろう。一時間で6千文字かけるそうだが、手書きとなればもっとスピードは落ちるだろう。その分収入も落ちるだろう。恐らく半分以下になってしまうのではないか。収入が半分以下になるなんて、不況どころの話ではない。とっとと転職した方が身のためだ、そういうことだろう。
「僕の小説の書き方」より
抽象画を観て「意味がわからない」という人がいるが、そういう人は、オソラクアートに製品的機能を求めているのだろう。絵は、意味をわからせるために描かれるものではない。
詩もそうだ。作者はなにかのメッセージを込めて、読者に訴えかけているのではない。もし、そんな目的があるならば、そんなわかりにくいメッセージこそ無駄だから、その無駄さにアートがあるのかもしれない。
抽象画を見て意味がわからないというし詩を読んで意味がわからんという自分には痛い話である。じゃあいったいなにを楽しめばええねんと反感でもって応じるのが自分の小物っぷりをあらわしているといえよう。もしくは、芸術的素養のない粗野な人間とでも言おうか。詩を読んでも何も湧きおこってくるものがないわけですよ。絵画についても同様で、凄い凄いといわれているから凄いような気はするけど何が凄いのかさっぱり理解できない。ここが凄いのだと解説されれば凄いような気もするけど全然わからない。詩については説明してくれる人がそもそもいない。だいたい説明できるようなものだと考えている辞典で何か捉え方を間違っているんだと思うのだが。
「飛行機の証明」より
ところで、人は自分の好きなことがなかなかできないとき、よく言い訳をする。
「いやぁ、金がなくてね」「仕事が最近忙しくって」「家が狭いから」「まだ子供が小さいから」「うちの女房は許してくれないよ」といった理由を次々に考え出して、自分の好きなことをできない言い訳に据えようとするそうすることで、自分自身が「やりたい」ことを「やれない」ことにすり替えようとするのだ。
この後に、上で書いたことは実は関係なくて、やらないってことは実は別にやらなくてもいいことなんだよとして締めくくっている。確かに本当にやりたいことならば、いいわけなんてしないで即座にやっているはずである。やっていないってことは、それほどやりたくないことなのだろう。
しかし森博嗣はやりたいことをやらなくてはいけないことにすり替えているような気がする。子供の世話をほっぽりだして飛行機を飛ばし続けるのも、子供をほっぽりだして必死になって遊んでいるという生き方を子供に示すというもっともそうな大義名分を盾に、実はやりたいことをやっているだけである。世間一般的に見ればかなりダメな大人だ。そう言えば自分も親に遊んでもらった記憶がほとんどない。いつも一人で遊んでいて偉いねーといわれて、さらに得意になって一人で遊ぶ永久ループにハマっていたような気がする。そのせいで今もこうしてもくもくと一人で文章を書いている。社交性があまりなくなってしまったのは両親のせいであるといってもいいのではないか。もちろん恨もうなんて気は全然ない。むしろ感謝しているぐらいである。
そのせい、とか書くと恨んでいるようになってしまうので注意が必要だな。そのおかげにするべきだった。