基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

Boy's Surface/円城塔

Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)

Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い証明です
      ──春と修羅

 本書は愛を数理学的に表現した傑作である。ただしその数式は意志を持ち自律稼働し何らかの意思を持って行動している。などと書くと、とてもおれわかってんだぜ! 的なオーラを発散できるが実のところ何も考えずに書いただけで何の意味もない。まあ、月並みなことをいうならば、円城塔の作品から一貫して感じられるのは何者にも縛られたくないという、真の意味での自由への信奉だ、とかかな。これは割と自分の気持ちを表しているようでもあるし、表していないかもしれない。とにかくルールを破綻させ、それを無茶なゴタクによってまとまあげていく、その手法に関心、感動すると共に、このままそんな作品だけしか書けないのならば読み続けることはできないだろうなという客観がある。

 とりあえず10ページ程読み進めて、何も考えずに文字を追う目を外にやり、本を一旦机に置いてベッドにしばらく横になった。ひょっとしたら自分が今読んでいたのを理解出来なかったのは、気のせいだったのかもしれないという現実逃避ゆえである。そして準備万端心もリフレッシュして読みなおしてみたところで結果は同じであった。難解である。恐らく上のプロセスを何度繰り返しても変わらずに難解であることは言うまでもない。だが、問題は難解だという点にはない。たとえばサリンジャーの作品は難解だが、読んでいて非常に面白い。わからないなりにわかっているというかなんというか、とりあえずあれは難解でよかった。あれがわかりやすい話だったらサリンジャーは台無しになってしまうだろう。

 もちろん本書も、というか円城塔も難解であることが一つの面白さの条件となっていることは言うまでもない。だが確実にサリンジャーの難解さとは一線を画している。まず意図的に難しくしているのかどうかという問題がある。難解な言い回しを使い、難解な語句を使い、一見意味があるかのようなゴタクを語りつくしその実何の意味もない。もしくはひょっとしたら本気で普通に書きたいものを書いたら難しく書くよりほかにしようがなかったという可能性もなきにしもあらずである。たとえば円城塔を解説しようと思ったならば、解説もかなり難解にならざるをえないだろう。いやどうなのかな? 解説する人がよくわかっている人ならば解説も簡単になるか。てことは、普通に書きたいものを書いたら難しく書くよりほかにしようがなかったケースの難解さの理由は、円城塔のスキル不足ということになる。もしくは内容が本当に難しかった場合どうこねくりまわしても難しくなる。簡単に説明することもできるかもしれないが、その場合大ざっぱに細部を曖昧にして伝えざるを得なくなる。結局のところ理由は不明である。

 だいたい書かれている世界勧が特異すぎる。基本的に何でもありでメタ的な要素が入りまくるし、この状態を小説として一応体裁を保つためには難解な言葉でぎちぎちに世界を絞めつけなければならない。それゆえにどれだけ馬鹿なことをやろうが整合性がとれているように読める。ってことはやっぱり難解なことにもちゃんとした理由があるってことかしらん。大風呂敷を広げてそれをまがりなりにもたたもうというのならば、円城塔のように難解なことばで強制的にオチをつけるしかないのか。すさまじいペテン師といえよう。それにしても本当に話がでかいよなぁ、円城塔は。そこがいいんだけど。基本的に何でもありだから戦艦は出てくるわ地球を海栗にたとえちゃうわ20世紀と21世紀が何かと闘ってるわとにかくどの短編でも戦争が巻き起こってるわでしっちゃかめっちゃかである。

 さてさて、短編一つ一つの話題にさりげなく入っていくことにする。やはり表題作である〜〜が一番わかりやすかったし、面白かったな。中でも最期の場面が非常に良い。プロポーズの言葉がよかったわけではない。そこに至るまでの描写がすさまじくよかった。噴水の縁石に腰かけている一人の女性、読んでいる本の中には数式が書かれている。隣に躊躇なく腰をおろし「あそこに見えるものは何ですか」と問いかける。

 天蓋を成し地表を成し、彼方に、そして此方に聳え立ち横たわる、ねじれきった超絶構造物、トルネド。無数の火花を全身にまとって、竜はゆっくりとのたうち続けている。
 彼女は三秒ほど沈黙を保ち、ゆっくりと僕の方へ向き直る。
 「天蓋」

 さらにここから最後までの一連の流れはとても美しいのだ。トルネドは想像できないし、竜がゆっくりとのたうち続けているかどうかもわからないが、美しいと感じる。ついでにいえばレフラー球とかのアイデアも面白い。周りを無数のレフラー球が膨大に渦をなして飛んでいるかと思うと、綺麗だなぁとしか感想を抱く事が出来ないだろう。円城塔の作品を、どこかが映像化してくれたらこれに勝る喜びはないかもしれない。きっと、映像だけで満足できるようないい作品になると思うのだけれど(あんまりひどくない限り)

 これもかろうじて恋愛小説として読めたな。この短編の一文紹介のところに、林檎と書いたのを林檎にきづかれぬようって本文に出てきた時は理解できたけど、この短編を表す一文としては理解不能である。正直なところこの短編も結構好きだ。ひょっとしたらBoy's Surfaceより好きかも知れないけれど、まあどちらも面白い。代替数学とキャサリンの戦いは燃えるし、いずれ敵となって戻ってくる霧島梧桐と敵対することを待ち望むキャサリンに萌える。まだ敵対できる力が残っているうちにかかってこいやあ! とかサイコーだな。これこそ愛だね。そういえば笑ったところの一つに、物事の捉え方の例の一つとして電撃を発する鼠をあげているけれど、こういう小ネタがいちいち面白いんだよなぁ。

 わ、わからん・・・。正直この短編が一番よくわからなかった。最後唐突に僕は彼女を愛しているとかなんとか書かれていて、一体今までのどこにこの結末にたどり着くルートが示されていたのか全く理解できなかった。そもそも基本的なギミックからして理解せずに読み進めていたのが問題かもしれない。これについてはうまく触れることができない。割愛。

 最後の、アガートは乗り換える、フレガートに。の一文はよく理解できないなあ。ってこんなこといいだしたら全体を通して理解できないことだらけなのだけれども。アガートとフレガートという名前は恐るべき子供たちからとっているようなのだけれど、アガートが恐るべき子供たちに出てきたのは覚えているが、フレガートという名前は思い出せない。Gernsbackはヒューゴーなのはわかるが、一体何がどう関係してきているのかさっぱりわからない。時間をかけてじっくり読みといていけばわかるような気がするのだが、そこまでする気にはなれないなぁ。僕らの子供たちという表現だったり、最後の方でカインやらアベルやらの名前が出てくることからも恐るべき子供たちリスペクトの予感はびしびしと感じるのだがどうなんだろうなあ。ここでの恋愛はアガートと、その空想の中でお互いの時間線が交わった誰だろ、ヒューゴーか? との究極の遠距離恋愛ってわけか。そう考えるとラストもちょっと切ない。 読み終わった後に誰と誰が恋愛関係を結ぼうとしているのかを考えないとわからない恋愛小説なんてはじめてっすよ・・・。