- 作者: 舞城王太郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/01/12
- メディア: 文庫
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徹底的に作中作であることを強調したメタ小説であるが、JDCシリーズでは九十九十九は探偵神<メタ探偵>として存在しているらしいからさもありなんといったところか。作中作を何回も連発させるなんて、西尾維新が初めてだろうとミステリに疎い自分は思っていたのだがとっくに先人がいたとは。この分じゃ舞城の前にもたくさん作中作を積極的に使って行く作家もいるのだろう。いやいやミステリは奥が深い。やっていることは非常に単純のように思えるのだがだからこそこういう作品も生まれてくるのだろう。
何より面白かったのは、この作品のオチが二段落ちになっているところだ。これは勝手に自分が思っているだけかもしれないが最後の気持ちのいいオチを読み終えてページをめくり終わった先には参考文献が書かれている。
参考文献
『コズミック』清涼院流水 講談社ノベルス
『ジョーカー』清涼院流水 講談社ノベルス
『カーニバル・イヴ』清涼院流水 講談社ノベルス
『カーニバル』清涼院流水 講談社ノベルス
『カーニバル・デイ』清涼院流水 講談社ノベルス
聖書 日本聖書協会
いやそりゃ清涼院流水のJDCシリーズのトリビュートなんだから清涼院流水の作品が参考文献に入っているのは何の笑いどころでもないのかもしれないけれど、参考文献として清涼院流水の名前が載っているだけで何とも笑えるし、しかも清涼院流水の作品が五作品並んだあとに何が来るかと思えば聖書が並んでいるのを見て爆笑である。作中で何度も清涼院流水=神説をとなえておきながら何回も清涼院流水を被害者にして殺しておきながらこうして最後は聖書と清涼院流水を並べることによって清涼院流水の本を聖書と同格であるつまり、清涼院流水=神を最後に持ってきたところに舞城王太郎の底知れぬお茶目心を感じるのである。いやもちろん勝手に考えたことであって、そうだったら面白いな理論なのだがやっぱりそうだったら面白い。
さて、ちょっと調べてみたところによると清涼院流水の作品は言葉遊びおよび極端でぶっ飛んだ解釈が持ち味ということだが、
運命とは何だろう。ここで何が決まっているんだろう。僕がここの神だとして、僕に一体何が決められるんだろう。本当は今の<<九十九十九>>=<<9109100>>=<<αΩαΩα>>の解釈のように、誰が決めたわけでもなくただそこにあって、神を名乗る誰かが勝手に自分がそれを行ったように主張しているだけなんじゃないだろうか。
ここで書いてあることプラス、作中で何回も語られているように解釈やらアナグラムやらってのは強引にやれば結構なんとでもなるものであって、それは本来そこにあるものを好き勝手に自分の思うように主張することが解釈という行為なのであると言っている。だからかどうか知らないが、ネットのどこかで本書は流水批判であるということが書かれていた。しかし最終的に九十九十九が僕は神だ(読んだとき爆笑した)と真面目に断言したように、解釈をする人間が神なのだ、つまり流水先生は神なのである。コズミックは聖典でありそれを書いた流水先生は神なのである。素晴らしいトリビュートだった。すぐにコズミックを読む作業に移らなくては。