- 作者: ヘミングウェイ,福田恆存
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2003/05
- メディア: 文庫
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まあぶっちゃけ読み方によって、いいものだと思って読めばいいものだし、ただ老人が漁に出て大物と闘って何とか戻って来たけど全部鮫に食べられちゃって悲しいねなんていうストーリーだけをおった読み方をすればそりゃあつまらない作品なわけで。ストーリーだけを見れば確かになんだこれ、日記なの? というぐらい内容がないのだけれども。晩年の作品ということで、なんか厭世観がばりばり出ているような気がするのもヘミングウェイが自殺したという情報を持っていることから逆算しての感想かもしれない。
さて、言うまでもなくここに出てくるサンチャゴ(老人)の職業は漁師である。彼はたった一人きりで大海にでて誰の助けも借りずに魚と一対一の対決をする、それだけで正直燃えるものがある。やっぱり釣りっていうのは人生である。だれしもが一人で生きなければいけないのと同様に、結局のところ釣りというのはあくまでも個人競技。しかも作業の大多数はいかにぼーっとして過ごすかなのである。「これでいいのだ怠けの哲学」でも、釣りについて言及されている、少し引用。
「魚が捕まるのはいいことだ。しかし、それは重要なことではない」中略
釣り人が達成すべき目標は、そこにいるということだ。だがそれも懸命になりすぎると本末転倒になるが。
感想をちょっと読んでみたところ、おじいさんが格好良いというものが多いけれどどうしても格好良く読む事が出来ない。何しろ作中で何度もこんなことになるなら漁に何か出るんじゃなかった・・・とか、ああこんなときにあいつ(少年)がいてくれたらなあ・・・とか若いころだったら鮫なんかいちころだったのによおとか、一人しかいないのにいちいち言い訳ばっかりで自分が想像する嫌な老人をそのまま体現したかのようなクソジジイだ。確かに諦めない執念で魚を追いかけまわして、そのあとも迫りくる鮫から必死に魚を守っているけれど要するにただの頑固ジジイである。ただし強い部分も同居しているのだ。この愚痴愚痴した老人の語りは晩年のヘミングウェイの自殺を思い起こさせるが、その反面ヘミングウェイの理想を体現したかのような生きる希望に満ち溢れたセリフもこの老人は吐く。強さと弱さが渾然一体となって、ちぐはぐな印象を与えるがそこがまた評価をあげているのではないか。どちらの面に注目するかによってこの作品の持つ意味合いが全く反対のものになってしまう。結局愚痴愚痴いうのも(打ちのめされるのも)含めて人生なんだぜ、と老人は言っているのだが、そういう前向きなことが言える人間は愚痴愚痴言わないと思うんだよなぁ。
何故海は女性なのか
老人はいつも海を女性と考えていた。それは大きな恵みを、ときには与え、ときにはお預けにするなにものかだ。たとえ荒々しくふるまい、禍いをもたらすことがあったにしても、それは海みずからどうにもしようのないことじゃないか。月が海を支配しているんだ、それが人間の女たちを支配するように。老人はそう考えている。
海が擬人化されると大抵女性になってしまうのはよくわかる話である。すべての生命は海から生まれたのだから、子どもを産む事が出来る女性を海に当てはめることは正しい。ただ月が海を支配している=女説はこれを読んで初めてああなるほどと納得する思いだ。戦記ものを読んでいると、軍人などは自分が載る船は大抵女性としてとらえているのがわかる。このあたりは考察してみると面白いかもしれない。たとえば戦闘機ではどうか? 戦闘妖精雪風、などというが妖精というぐらいだから雪風は立ち位置的には女なのだろうか? 日本だけの現象なのか? 何故戦闘機や戦艦だけを擬人化するのか? などなど。誰かやってくれ。サンチャゴも自分の乗る船を擬人化などしていないし、また他の作品でも聞いた事が無い。何故戦艦だけなのか。やっぱり自分が乗り込んで、死ぬかもしれない場所なのだから死=生と捉えると、女性の内部で死にたいと思うのは当然の欲求かもしれない。少なくとも男である必要はないわけだ。大体心理的な欲求として、女だと思って扱えば当然愛着もわくし、帰属意識も高まる。ただの実務的な意味から上が押しつけているのがいつの間にか押しつけられなくても伝統化してしまったという可能性も考えられる。