基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

百年の孤独/G・ガルシア=マルケス

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

 あまりにも壮大な物語。かといって世界観が壮大というわけではない。舞台はマコンドというただひとつの村であり、物語がその枠から飛び出ることは一切ない。ただそのマコンドという小さな村の中に全てが詰め込まれていて、これほど濃厚な物語は今まで読んだ事が無い。時間の広がりや、精神的な広がりがすさまじく読んでいて頭がくらくらしてくる。内容が詰まっている分読みにくさも一級品。ちょっとずつ読み進めて、十日ぐらいかかった。半分を過ぎたあたりからは二日で読み終わったけれど、そこまでは人間関係やら名前やらが複雑すぎてなかなかつらかった。何しろ同じような名前の人間んがいっぱいいて、しかも新たにどんどん生まれるので頭がしっちゃかめっちゃかになる。理解するのを諦めると物語がどうなっているのかさっぱりわからないので理解せざるを得ないし。ただ物語が後半戦になるにつれて人物はバタバタと死んでいき、非常にわかりやすくなる(ひどい)。また密度というのも、一行一行に詰め込まれている事実が多いせいでちょっとでも読み飛ばすと知らない大地にワープされたかのような状況に陥ってしまう。一文一文しっかりと読み進めていけばいいのだが。

 途中読み方の認識を改めることになって、より読みやすくなった。というのも半ばまではこの物語をブエンディア一家だけに焦点を当てて読んでいたのだが、よく考えたらこれはブエンディア一家だけの物語ではなく、マコンドという村の物語でもあったのだ。そこをおろそかにしてはいけなかった。クラナドが街の物語でもあるように、マコンドという村とブエンディア一家は綺麗にシンクロしているという事実をすっかり忘れていた。ずっとブエンディア一家に視点がうつっているものだから。またファンタジーとしても読める。マジックリアリズムといって評価されているらしいが、まったく聞いたことのない言葉だ。あんまりそういう言葉で考え方を狭めない方がいいのではないかという思いで調べもしていないが。つーかこれ結構読んでいて笑った。四年半ぐらい雨が降り続いていたのだ! とか平然と描いてあるし、キノの国とかでありそうだ。雨がやまない国とかなんとかいったりして。十人以上いた大佐の息子がバンバン殺されていったり、書いていてこんなにたくさんいてもめんどくさいしややこしいから殺しちゃうかと思ったのかなあとか多分違うであろう事を想像してにやにやしていた。最後に向けて二十ページに一人の割合ぐらいでばんばん人が死んでいくので、わいわい賑やかだった最初期のブエンディア一家を思い出して切なくなった。あの頃は孤独は孤独なりにわいわいやっていたなあ。

 キャラクター一つとっても過剰なことのオンパレード。たとえば絶世の美女という設定の小町娘のレメディオスとか、もうええっちゅうのと突っ込みたくなるほど美人描写が続くので九十九十九を思わず思い出してしまう。彼女に手を出そうとすると呪われて死ぬとか、実際ありえる世界観だから恐ろしい。このしつこい描写とか偏執狂的なところとか流水大先生そっくりだな。あとおかしいのは、美人描写だけじゃ飽き足らず匂いをやたらと強調している点である。ニオイをこんなに強調している小説は初めて読んだ。いわくレメディオスさんは凄いにおいを放っていて、家族以外の人間はその匂いの強弱でどれぐらい前にレメディオスさんがそこを通ったのかわかるらしい。しかもそのニオイにつられて死んでしまった男は、墓にまでその匂いがついていて死んで骨が土にかえってからも男を苦しめるのだという。ンなアホなと笑い転げながら読んでいたのだがしばらく読んでいるとギャグではなくマジでやっているようなので笑うというよりもちょっとひいてしまった。しかもその匂いがどんな種類の匂いなのかという描写がない。妖しい匂いとか死の香りとかばっかりで、たとえばバナナのようなにおいとかゲロのようなにおいとかうんこのようなにおいとか書いてくれたら想像しやすいのだけれどもそれすらも許してはくれない。残るぐらいの匂いだから悪臭に違いないと思うのだがどうやらそういうわけでもなさそうだし。

 他に目立ったキャラクターといえば三十三回反乱をおかして負け続けた大佐とかね。しかし彼の死に際はこの小説の中で一番素晴らしかった。これほど孤独を感じる死に際はそうそうないだろう。サーカスだ! といって人々が集まっていき、みんなは友達やら知り合いとわいわい騒いで去っていくのに大佐はひとりぼっちで家に戻って死ぬ。しかも家族は次の日まで気がつかない。ここだけは読んでて泣きそうになった。しかしキャラクターという面で語るならばどいつもこいつも奇人変人そろい踏みで大変楽しい。とにかくこいつらがアホなことをやったりアホな世界観に突っ込みを入れながら読んでいたら異常に疲れてしまった。一番笑ったのはレメディオスのにおいの説明の場面だったが二番目はここである。

 「そんな話、信じるでしょうか?」尼僧がそう言うと、フェルナンダは答えた。
 「聖書を信じるくらいですもの。わたしの話だって信じるはずだわ」

 突然届けられた子供を家に住ませようとしているフェルナンダが、家族に説明するときに籠に入れられて川に浮いていたってことにしよーぜと持ちかけた時の会話。結構な言い草である。

 マコンドという村は狭くてほとんど何もない空間だが、そういった制限の中でこそすべてを内包することができたのではないか。何もないからこそ何でもあるとか、矛盾したこういうものってあると思う、あるはず。さっきはまるで馬鹿にしたかのように笑える笑えるがはははと書いてしまったが、そうでもしないとこの物語について語ることなどできないからなのだ。人々が死について真正面から取り組むのを避けるために笑い話に変えてなんとか取り組んだり、そういう歪曲したやり方をとるしかないのである。というのは今思いついた屁理屈である。