基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

清涼院流水のここが凄い

 あまりにも世間での流水大先生の評価が低いのでなんとかして流水先生の凄さをわかってもらいたい。もはやこのサイトはただのサイトではあらず。今日から流水ファンサイトとして活動していってもいいぐらいである。コズミック・ゼロ刊行決定(のような気がする)に合わせてずっと前に書いたものをこうしてアップする。ここでは清涼院流水をまったく読んだ事がない人にもわかるように凄さを書いてく。

1.世界でただ一人の流水大説家である。

いわずもがな、大説といえば流水大先生であり流水大先生といえば大説である。今のところ大説をかけるのは流水大先生だけであり、世界で唯一の使い手である。大説とは自分もよくわからないのだが小説に対して大とついているのだから少なくとも小説よりはでかい枠で物語を捉えたものだということはわかる。流水先生によると大説はある意味で「声に出して読みたい文Show」らしい。また文章(文Show)も小説とは一線を画しており、何度も同じ説明を入れたり、必ず本にトンデモな仕掛けがあったり、魅せ方が小説では考えられないようなものだったり、実はゲームブックだったりと凄いところがある。これについては後述する。

 中国では「小説」とは「個人の物語」。「大説」とは「世界の物語」。わかりやすくいうなら、両者の差とは、「物語を通して常に世界を考えているか、いないか」だと思います。難しく言うなら、「哲学的なまなざしを持ち続けるか、もち続けないか」でしょうか。

大説だ大説だ、といってもてはやしても初めての人にはわけがわからんので本人の言葉を借りて説明するのならば上記のとおりである。本人がいうには確かにこの通りなのだが、読者側の受け取り方といえばどれだけ小説ではあり得ないことをやれるか、その一点に清涼院流水の全てがあるといっても過言ではないだろう。少なくとも自分の中で大説といえば、「小説のルールを逸脱したもの」である。その逸脱の仕方が単純にあり得ない展開を持ってきた、とかなどではないところが凄いところなのである。

2.エンターテイメントに対する力の入れ方がプロを超えて超プロというべき次元。

大説を読めばすぐにわかることだが、読者を喜ばせよう、読者を楽しませようという試みが常になされている。その意気込みは、ノベルスが単行本落ちした時の修正っぷりからもうかがう事が出来る。文章を削ったり増やしたりなんてまだ序の口で、話の結末をまったく入れ替えてしまったり、内容を全く違うものにしてしまう事が多々ある。先生いわく、普通の作家さんたちは高いハードカバーを買ってくれた人たちに対して文庫で修正するのは失礼だという人がいますが、僕は常に進化していて現時点での最高傑作を読者に届けたいので常に全力で改編します(かなり省略)という高いプロ意識を見せてくれる。というより、こんなに読者に対して真摯に向き合う作家がほかにいるだろうか? またどこよりも薄い本を出したい! という強い先生の要望で生まれた秘密屋赤 白の二冊は限度を超えた薄さの割に値段が高い事を読者のために気にして、自分の印税を削ってもいいからなんとかしてくれとまで頼み込んだ。当時印税というのは完全に固定のもので、増やしたり減らしたりという発想は編集部には存在していなかった。そういった発想を、編集部の中に持ち込んだことについても流水先生の凄さが見られる。また小説以外の部分でも読者を楽しませる仕掛けが必ず一つはしかけられている。たとえばコズミック、ジョーカーでは読み方を変えることにより、清涼in流水となって仕掛けが浮かび上がるようになっているし、Wドライブ院では読み終わった後に地図を調べると浮かび上がってくる仕掛けがある。とにかく何らかの仕掛けがある。常に読者を楽しませようとするその姿勢は他の誰にも真似することのできない(しない)エンターテイナーとしての清涼院流水先生の凄さである。

3.文Showにおける二大特徴「言葉遊び(ワード・ショウ」&「文章並び遊び(レイアウト・ショウ」に対するこだわり

 これは本当に凄い。そもそも名前からしておかしい。清涼院流水。誰がどう読んでも清涼飲料水からとったとしか思えない。しかも取ったとしか思えないのはわかるんだけど、何でそんなことをしたのか誰にもわからない。本人が言うには水が流れるような思考を、という意味でつけたらしいが別に清涼いらない。凄い。流水先生の手にかかれば文学は文が苦、もしくは文がCoolになるし文章は文Showになる。もちろんそんなダジャレみたいな言葉遊びだけではない。最初の方はタイトルの文字数までそろえちゃう。デビュー作コズミックから始まってジョーカー、19ボックス、トップラン、彩文家事件、秘密屋 赤 秘密屋 白と少なくともJDCシリーズはすべて五文字で統一されている。何の意味もないけれど、こだわりでここまでやってしまう。また文字数、というよりも原稿枚数に異常なほどにこだわる。ミレニアムを重視しまくって書かれたトップランシリーズ全六巻は原稿用紙2001枚ぴったりで終わっていて、続くトップランド、トップラン&ランド完の原稿枚数を合わせると3333枚になる。正直いって意味が分からない。3333枚にしたって誰もほめてくれないし、誰も気が付いてくれないし、仮に気がついたとしても何がどう変わるわけでもないのにやっちゃう。そこが凄い。もうこれは狂気。他に凄いこだわりとして、文Showにおけるカットの技法がある。これも流水大先生の大説を語る上で外せない要素として書きたいところだが余白が足りないのでここに書き記すことはできない。ただひとつだけ技法を書いておくと、ストレート・リフトというものがある。これは行をまたがって一つの文が区切られてしまわないようにする技法である。たとえば私鉄の路線ならば、私鉄の、で行が変わって路線で次の行が始まる現象をなくす技術である。かなりの高等技術らしく、大先生いわくストレート・リフトをすべての文章に適用することは編集者のだれもがそんなこと無理に決まってんじゃんと投げ出してしまうほどの難事なのだ。そしてこの技法をはじめて徹底したのがカーニバル・デイである。読んだ人間、もしくは観た事がある人間はわかると思うがこのカーニバル・デイは小説というよりもむしろ鈍器といったほうが正しいぐらいの凶器であり、あの文章すべてにストレート・リフトを施した流水大先生は狂気に取りつかれているとしか思えない。

4.本人が凄い。

もちろんそんなとんでもないことばっかりする清涼院流水先生だから、人間だって凄い。2001年の1月1日に京都大学に退学届を提出して、21世紀初の京都大学退学者になる。普通の人だったら、ああ在学中に小説家になれてちょうどよく21世紀がきたから退学したんだなと想像するところだが先生の凄い所は入学したのが1993年というところである。2001年まで何をしていたのかというと、わざわざミレニアムに退学するために休学していたのである。大学もびっくりである。またWドライブ院の解説によると、四年に一回流水先生は引っ越しを繰り返しているようで、引っ越しするたびに関係者各位に四年に一度オリンピックがやってまいりますが、それと同じく四年に一度の流水大転居の時期がやってまいりました! 日付は3月23日(サントゥーサン)の日に転居いたしますと律儀にも手紙が届くのである。また友人の携帯番号をすべて語呂合わせで暗記しているらしい。すでに流水大賞という賞ができており、その影響力は無視できないレベルにまで高まっている。

5.発想が凄い

流水先生はその名のごとく、流れる水のような固定観念に縛られない発想をする。デビュー作コズミックでは、密室卿を名乗る人物が一年に1200人を全員密室状況で殺すと宣言し、それに対抗する350人の名探偵を有すJDCとの戦いを書いている。流水先生はここで、名探偵が溢れかえっている現状、密室殺人が入り乱れている現状を皮肉り壮大な物語にしたてあげた。当時人々のその思想に脳がついていかずトンデモ本として叩かれたそうである。JDCシリーズと呼ばれる御大の代表作では数多くいる名探偵の一人一人が独自の推理方法を持っており、たとえば数多くいる名探偵の中でも屈指の知名度を誇る九十九十九の能力名は神通理気(じんつうりき) - 推理に必要な手掛かりが全てそろうと、一瞬にして真相を悟ってしまう。(Wikipedia参考)となる。他にも絶対に推理を外す能力(ただし真相にかする)超迷推理を持つピラミッド・水野など、おいしいキャラクターが大量に存在する。この名探偵がたくさん出てきてメタ推理をするというのは舞城王太郎が狙っていたものだという。しかし清涼院流水に先にやられてしまったと。とにかくこうやって常に時代を先取りし続けていく存在が清涼院流水なのである。今はまだあまり売れていない、というか全然売れていないが三十年後にはきっと評価されている作家、それが清涼院流水

6.終わりに

物凄い勢いでオススメしてきたが、大量に著作があるのでどこから読んでいいかわからない、という疑問が当然沸き起こるだろう。今やほとんどの作品は本屋にならんでおらず、今も置いてあるといえば彩文家事件ぐらいしかない。彩文家事件はJDCシリーズの最新作であるが時系列的には一番最初のものなので、先にこちらから読んでも充分に楽しめるはずである。「手に入りやすさ」を基準にすると彩文家殺人事件しかオススメできないので無視するとまず最初にコズミックを読むのが良いと思う。Wドライブ院などの一見普通の作品もあるにはある。だがそれは本当に極少数の普通の作品であって、清涼院流水とは何か、大説とは何かがはっきりと伝わってくるのはデビュー作のコズミックなのである。Wドライブ院から入ると、他の作品を読んだ時に落差が激しい。コズミックからならば、代名詞ともいえる突飛な発想、文章遊び、その他もろもろの要素がすべてつまっているので全体の雰囲気をつかむことができる。。それから、同じJDCシリーズであるジョーカー。この二作品を読んだ後に、Wドライブ院などの他の講談社から出ている作品を読むとよいと思う。というのも講談社以外から出ているものは何故か色が薄かったり、単純に意味が分からなかったりと少々きついものがある。それからカーニバルというJDCシリーズの最終章があるがこれを読むのは相当の覚悟を持って挑まなければならないだろう。とにかく分厚く、展開は突飛で予想がつかなく、意味があるのかないのかわからない描写が延々と続くというある意味極地的な内容となっている。俺は清涼院流水に対する愛が絶対に揺らがないぜ! という心境に達してからでないと、読み終わってから本を壁に投げつけたくなるに違いない。それほどの傑作である。

思ったより伸びているので少しだけつけ加えておくと、素晴らしい点の一つとして流水ファンのスルースキルの高さがあげられる。どんなに罵倒されようが、いやだってこれ大説だし、の一言ですべてを無に帰すこのスルースキルの高さは全ての分野の人間に見習ってほしいところである。