基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ただのオタクの行き着いた先──メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット

 ノベライズ。それはすでに存在する物語を、小説として語り直したもの。本来の小説が、0から1を生みだすものだとするのならば、ノベライズはすでに100だか70だか60だかになっているものを、また別の形で引き継ぐ形になる。だからか、ノベライズの本質はむしろ「批評」に近いのではないかと思う。優れた批評というのは、元となった物語を既に経験した人と、これから経験する人の双方を満足させることができる。メタルギアソリッドのこれまでを伊藤計劃が解釈し、新たに語り直し、そしてそこに「自分自身の物語」を挿入した結果が本書です。長年映画評を書いてきた氏の実力と、作家としてデビューする過程で開花した物語創造能力の結合が、この幸福なノベライズを生みだした。傑作です。言わずもがな! ※以下追記 一日経った今でもまったく冷静になれない&別の本を読む気がしないです。この本は、最後の方はもうぼろぼろ泣きながら読んだ(最近泣いてばっかりだぞ自分!)。

 メタルギアソリッドは2と3をプレイ済み。しかし2をやった時は物語なんて1ミリも観ていなかった。自分が動かしているのが色んなスネークのうちの誰なのかすら知らなかった、ていうかスネークがなんなのかすらよくわからなかった。3をプレイした時にようやく「あ、スネークって何人もいるのか!」と実感した。2をやった時は主人公は雷電だったし、スネークとかなんだとか、よくわからなかったもの。だから当然2をやった時に、物語の機微なんてわかるはずもなかったし、あそこに至るまでにどんな歴史があったのかを考えたこともなかった。3をプレイした時も同じで、一つの面白かったとは思うもののそれを「メタルギアサーガ」という大きな視点で捉える事はできず、それ一つで完結したものと捉えていた。しかし伊藤計劃氏のノベライズによって、過去の作品が全て語り直され、今まで自分が漫然とプレイしてきた「メタルギア」に、新たに意味が生まれた。「ああ、あのゲームのあの場面はそういうことだったのか!」という感動が、過去から引っ張り出されてきた。だからこのノベライズを読んでいて最後に涙が止まらんくなったのは、ノベライズだけに感動したのではなくて、過去にゲームで語られてきた「メタルギアサーガ」が一斉に降りかかってきたからこそなのだ。幸福なノベライズである。ということがいいたいのだ。それだけ。

レビュー

「本を読むという好意にあまりにも夢中になりすぎていて、自分が何かを書く・創作するという姿が、うまく思い描けなかった。受け手としての長い歳月を送っていると、自分が送り手になることが想像できなくなってしまうのだ。小説というのは僕にとってあまりにも偉大な存在であり、作り手の側にまわる資格が自分にあるとはなかなか思えなかった。──『意味がなければスイングはない村上春樹

 優れた能力を持ちながらも、なかなか作家になろうとしなかったという伊藤計劃氏を押しとどめていたのは、村上春樹氏が言うような、受け手としての真摯さだったのではないでしょうか。そしてそんな氏が最も大きな影響を受けていたのがこの「メタルギア」サーガだったことは言うまでもありません。大ファンだからこそ、ファンの気持ちがあまりにも強くわかってしまうからこそ、ノベライズという依頼はハードルの高いものになったでしょう。受け手としての私達は、作り手の事情などをろくに考えもせずに好き勝手いうものですから、受け手と作り手のマインドを共存させるのは、ひどく難しいことなのです。しかしこの物語は、完全にその期待にこたえている。まったくメタルギアシリーズを体験したことがない人間にもわかるように、1〜3の物語が語られ、さらには計劃氏の解釈が加えられ、ゲームでは想像しかできなかった心情が描かれ、同時に作品の「テーマ」と、伊藤計劃氏自身の「物語」も強く語られていました。ただ、これをひと言で要約してしまえばこういうことなのかもしれないです。『俺は、メタルギアソリッドが大好きなんだ』というシンプルな叫び。その叫びを通す為だけに、文庫にして522ページという物語が出来上がったのではないでしょうか。わたしはそう思います。トークイベントで元SFマガジン編集長の塩澤氏は、人の作品のことばかり気にかける伊藤計劃氏を評して「ただのオタク」(もちろん蔑視的な意味は含まれていません)と言いましたが、その行き着いた先がこのノベライズなのだったら、それはなんて素晴らしいものだろうと思いました。

 人が物語を語り継ぐ意味が、この作品では語られます。なぜ物語るのか。人間が生きているのは、どんなかたちであれ他の人間に記憶してもらうためです。記憶してもらうために、わたし達は物語る。物語とは、決して一つの形を持っているわけではない。母の作る朝食の味すらも、一つの物語であり、咀嚼して、受け入れて、個人の一部とする。世界はそういう無数の「物語」で出来ていて、人は語り継がれている限りは敗北しない。というのならば……、伊藤計劃氏は未だに敗北はしていないのでしょう。こうやって多くの人が本を読み、感想を語り合っている限り。そして何年も経って、もうあまり多くの人が氏の物語に触れなくなっても、読んだ人の中にはきっと生きている。子供の時に母親が毎朝作る料理の中にも物語は宿っていて、わたし達は大人になって自分の子供、もしくは配偶者へと料理をする時に、知らず知らずのうちに受け取っていた物語を次の人へバトンタッチしていく。そういうものだからです。