基本読書

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猫を抱いて象と泳ぐ/小川洋子

 「哲学も情緒も教養も品性も自我も欲望も記憶も未来も、とにかくすべてだ。隠し立てはできない。チェスは、人間とは何かを暗示する鏡なんだ」──P76

 本書はチェス小説です。しかし同時に人間についての小説でもあります。引用文にあるように、チェスの戦術、その人間がどんな手を指したか、どのように勝ち、負けたかにはその人間の全てが出る、普通に面と向かってしゃべるよりも、出てしまう。その理由も、本書を読んでいればよくわかりました。盤上を見つめて、最適な答えを見つけ出す一連の作業には、「自分」は必要ないからです。盤上には有限ながら人間からしてみれば無限に近い選択肢だけがあって、必要なのはそこから最も美しいと思われる手を打つことだけです。人と話している時にどうしても出てしまう、虚栄心や自分を偽ったりする必要は、チェスを打つ時にはなくなります。だからチェスには、普通に人間を書くよりも雄弁にその人間が映し出される、そういうことだと思いました。

 小川洋子さんといえば『博士の愛した数式』が有名で、あれは確かに面白かったですけれども、しかし正直言ってそれだけだったんですよね。良い人たちの、良い話だなーという印象だけが残った。理由はよくわからないけれども。なので、個人的な好みとして言えば、こちらの『猫を抱いて象と泳ぐ』の方が、2.4倍ぐらい良かったです。チェスという題材の奥深さで8割方勝っているし、比喩と象徴が多すぎず、違和感も残さず使われていて、とてもよかった。何より伝記風の書き方と、リトル・アリョーヒンという主人公の妙なこだわりを持った主人公とその不思議な運命を書くことによって、博士の愛した数式にはあまり感じられなかったリアリティを感じました。そこが、重みを分けた原因ではないかと思っています。以下はどうでもいいこと。

最初の一文

 たまにだけれども、表紙とタイトルだけ見て「これは凄まじい傑作だ」とビビっとくることがある。アホなと思われるかもしれないけれども。ある。神林長平の『膚の下』の時とかね。その時は予感でしかないのだけれども、大抵最初の一文を読んだ時に予感が確信に変わる。『猫を抱いて象と泳ぐ』がまさにそれだ。その直感というのは何も、本から発せられるオーラを感じ取っている訳ではない。ただ単に、タイトルからして「本気だ」ということが伝わってくるだけのこと。この『猫を抱いて象と泳ぐ』も、読み終わってみたらタイトルの意味を想像しただけで、涙が出てくる、マジで。そして本気の仕事を受けて、表紙のデザイナーも同様に本来出せる力以上の仕事をする。そういう相乗効果は、あると思う。タイトルと、最初の一文が大事だ。だから、今回はそこにだけ焦点を当ててみよう。

 『小説を書く時、作者が行うべきことは、ただ「世界」を作る。それだけです。(Twitter / 高橋源一郎: @levinassien ありがとうございます。小説 ...)』と高橋源一郎先生はTwitterで言っていて、なるほどそういうことなら、小説の最初の一文というものは、聖書における神の最初の言葉「光あれ」と同じ意味を持っていることになるのだろうと思った。つまり小説における最初の一文の役割とは、これから先築き上げていく物の道しるべとなること。全体を照らし出すテーマを与えることだ。だからこそ最初の一文で、その小説がどれだけの見通しの上で描かれているかがわかるのではないか。この小説は、こう始まる。

 リトル・アリョーヒンが、リトル・アリョーヒンと呼ばれるようになるずっと以前の話から、まずは始めたいと思う。彼がまだ親の名付けたごく平凡な名前しか持っていなかった頃の話である。

 人は二度死ぬという。一度目は言うまでもなく肉体が死んだ時であり、二度目は人の記憶から消え去った時だ。二度死ぬのならば、当然人は二度生まれるとも言えるだろう。一度目は母親のお腹から出てきた時だとして、二度目は? それはたぶん、その後の人生を決定的に変えてしまうものに出会う時、あるいは選択をした時ではないだろうか。たとえばチェスの名プレイヤーになる未来を持った少年であれば、二度目の生とはチェスに出会った時なのだ。チェスや将棋にも、似たような瞬間があるという。勝負が終わった後に振り返ってみれば、あの時のあの一手が勝負を分けたんだな、という時が。同じことが人生にもあるはずで、たぶんそれは、終わった時か、終わりが間近に迫った時にしかわからないのだ。この小説の主人公、リトル・アリョーヒンの場合、それは七歳の時に起こった。この冒頭である。小説として一人の人間を追っていく時に、二度目の生が始まった時ほど相応しい開幕はあるまい、と思う。

猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ