基本読書

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時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず/宮沢章夫

劇作家や小説家、演出家に大学教授と多才な顔を持つ宮沢章夫さんが、横光利一の『機械』という、普通に読めば30分ぐらいで読み終わってしまうような短編を『11年かけて』読み解いといていくのがこの『時間のかかる読書』である。11年、文字にしても何の重みもないが、11年である。小学校に入学した子供は、高校生になってしまう。高校生は余裕で社会人になって、新入社員はもう全盛期と言った感じでばりばり仕事をしているであろう。何にせよ、恐ろしい時間だ。一つの小説とはいっても、カラマーゾフの兄弟のような長大な小説ならばともかくとして、30分程で読める一つの短編である。いったいどこにそんなに読むところがあるのか。はたして、11年もかけて本を読むのは良いことなのか、悪いことなのか、それさえもよくわからない。

私個人としては、ぐずぐずと同じ本を読み続けるのは悪いことじゃあないと思う。むしろ一冊の本を、凄い速さで読み終えてそこに「読了」と頭の中で印をつけてしまう行為に、危険さえ覚える。たとえば料理を想像してもらえればわかりやすい。料理を創るのには時間がかかるが、食べてしまうのは一瞬だ。創造する時間に比べて、消費する時間はあっという間である。しかし創る時間に比べて消費する時間が短いからといってかっ飛ばして食べていいということにはならない。よく噛んで食べなければ、健康の面でもお行儀の面でも、良いことはないだろう。もちろん読書は食事とは違うが、ある程度は似通っている。よく吸収もしないでただ「読了」タグを頭の中で貼りつける行為に、意味はない。

ただし、何事にも限度がある。5時間かけて創った料理を、5日間かけて咀嚼して喰われたら「さすがに大丈夫か? 頭がおかしいのではないか? いったいそこに何か意味はあるのか?」と問いかけを始めるだろう。11年かけて一つの短編を読むという行為には、同じような問いを発さずにはいられない。「なぜそんなことをしたのか? いったいこれはどんな種類の冗談なんだ?」と。ある意味ではそれこそが本書の核心であるのだろうと思う。長い時間をかけて『機械』を読み解いていくことによって、『機械』と同時に「長い時間をかけて本を読むこと」についての理解に近づいて行く。それが是か非か、という問題を起こしている訳ではなく、そこにはどんな意味があるのか、どんな景色が見えるのか。を試している。

あまり関係が無いかもしれないけれども、11年かけて一つの短編を読むというような、そんな……言ってみれば「アホ」な行為をやってみたくなる著者の気持ちが、ちょっとわかるような気がするのだ。中二的な妄想で自分の頭が誰かに監視されていると想定して「今俺の頭の中を誰かのぞいてんだろ、気づいてんだぜ」と呟いてみるということを誰もがやったことがあると思う。そしてその延長線上で「こんなアホなことは誰もやらなかったし、やるなんて想像もしなかっただろう!?」と考えたのじゃあないだろうか。11年も経ってしまえば書き始めたときのことなど、著者も覚えていない。だからこそ、そこは「想像」する為に残されている。色々想像できる、良いエッセイ? でした。

時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず

時間のかかる読書―横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず