基本読書

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失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生

 この先に続けられるものは、おそらく「日本の近代文学史」のようなものである。ここで私は「日本の近代文学ってなんだったんだろう?」と考えて、そう考えるとおそらく、この先に始まるものは「日本の近代文学史のようなもの」になると思われるからである。
 私には日本の近代文学史を書こうという気などはない。なにしろ私は「日本の近代文学ってなんだったんだ?」と考えて、その答がまだ出ていないのである。それが出てからでないと、日本の近代文学史などというものは書けない。だから、この先にあるものは当然、「日本の近代文学史のように見えたとしても違う、別のなにか」である。

 相変わらず橋本治節というかなんというか、非常にややこしく意味が分からない出だしで始まったこの『失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生』。橋本治自身もわかっていないように、この本が書き終わった時に「一体何に」なるのかは私もわからないけれど、「橋本治近代文学史」だと思って読めばやっぱりそれは面白い。相当細かく順を追って説明してくれるので、え? 自然主義って何? 言文一致体って何? とかいうレベルでもよくわかる。圧巻のわかりやすさ。なぜそんなにわかりやすく、かつそれでいて面白いのか。それはそもそもの大前提から問いを放ってくれるからだ。近代文学史を学ぶうえでの、大前提とは何か? 起源か? 重要な転換点か? いやいや、「なんで近代文学史なんて学ばなくちゃいけないの?」だ。

とりあえず全体の流れを説明すると、まず初めに言文一致体を作り上げようとした慈円の『愚管抄』を取り上げる。次に近代文学の主流となった「自然主義」文学の支柱となった田山花袋の『蒲団』を通過する。最後に二葉亭四迷が『平凡』という小説で行った「私小説を題材にした小説」もしくは「私小説をしょっぱなで終わらせた小説」の解説によって、この一冊は終わっている。

「作者の在り方」と「作品のあり方」を考えさせることになった日本で最初の人物

文学史の始まりと言う意味では、前半部の、何百年も前の人間でありながら、非常に現代的な感性を持って「作者の在り方」と「作品のあり方」を考えさせることになった日本で最初の人物である慈円のパートが圧巻。

橋本治が言うには、慈円の『愚管抄』とは、日本で初めて書かれた「作者の姿がはっきりしている」歴史物語である。慈円が生まれたのは鎌倉時代であり、その前に当たる平安時代に書かれた「物語」は作者の姿がはっきりしない。「『源氏物語』の作者は紫式部」というのははっきりしていても、「紫式部は、なぜこれをこのように書いたのか?」という「作者のあり方」はわからない。これを書いたのはこれこれこういうわけで、これを書く私の立場はこうで〜〜というのはそれまで論ぜられてこなかった。「物語」の中に著者が消えてしまっていたからであるが、そうなってしまっていたのも「それでよかった」と思われていたからであるように見える。

しかし『愚管抄』は「私はこういう意図で、こういう書き方をしている」というのが明確にされているのである。その意図とは「人の関心を歴史に向かわせたい」であって、なぜそんな事が必要かと言えば当時の歴史は漢文でしか書かれておらず、官僚などは誰も歴史が読め無かったからである。だから慈円は「なんとかして関心を引こうと、面白い歴史を書こうとした」その結果、言文一致体のようなものが出来上がったのである。

蒲団と平凡

『蒲団』と『平凡』の関連をどこまでも細かく分析した後半戦もまた圧巻で、気合が入りまくっている。題材となった二作品共に青空文庫で読めるので、そちらを先に読んでからこの本を読み始めた方が理解度が段違いである。ここで読める→図書カード:平凡図書カード:蒲団

蒲団と平凡の話を簡単にまとめてしまえば、自然主義私小説を書いた作家と自然主義私小説を否定した作家の話である。私小説というのは、「人に言えない恥ずべきことを正直に告白しなければいけない」というなんというか、ぶちまけ根性のようなもので成り立っている小説である。ようは誰もがぶちまけられないけど持っている恥ずかしい出来事を、ぶちまけてしまったから偉いというだけのような気がするのだが、しかし当時はそれが絶賛されたのだ。誰もやらない行為をやるというのは、英雄的なのだ。

またそこで発達したのが自然主義、平面描写であり、「見たままに書く」の極致である。たとえば他人の心理描写などしない。なぜなら、他人の考えていることなどわからないからである。だから見えている他人の行為だけを書くのである。その代わり自分の心理だけは全部、何一つ隠さずにおおっぴらに書くのである。『蒲団』という小説のラストは、惚れた女がいなくなった部屋で、その女の蒲団を敷いてパジャマを着て襟に顔を埋めて泣くのである。情けないし恥ずかしい。なにやらそのようなものが「日本の近代文学の本流となった私小説の大元」であると、橋本治は言っているのである。

そしてそんな自然主義私小説に対して突き付けられた二葉亭四迷の『平凡』はつまりこういうことを言っているのだ。分からないのは、「他人のこと」ではなく「自分のこと」なのだと。自分のこともよくわかっていないくせに、いっちょまえに私小説なんて、書いているんじゃないよということが言いたかったのだ。(と橋本治は解釈している)なかなか面白かったですよ。

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)