基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

村上春樹―都市小説から世界文学へ

「都市小説ってなんじゃ?」ということだけ疑問に思って読んでみたのだけど、ふ〜んっていう感じでした。否定的な反応というわけでもなく、文学解釈のテクストというのは基本的に「私はこう考えたよ!」という事を誰もが納得するように説明するのは困難なので、こういう反応にならざるを得ないと思います。要するに、可もなく不可もなく。しかし都市小説が何か、というのはよくわかりましたし、ねじまき鳥の解釈などは結構面白かった気がします。全体の流れとしては「都市小説から世界文学への変遷」を中心にして、村上春樹の各作品を読みといていく。。

世界で読まれる「ワケ」がある。平成の司馬遼太郎松本健一が読む「ハルキワールド」
[目次]
1章 『1Q84』から始まる新たな村上文学
    対立する二つの反応
    それでも村上作品への期待は変わらない
    都市小説と世界文学
    『1984年』と『1Q84』
    カルト集団が起こした事件と対峙して

2章 都市小説としての村上春樹
    三島由紀夫村上春樹
    村上春樹フィッツジェラルド
    占領下の文学体験
    孤独ゆえに市場価値の共有が始まる
    入口の工夫で読者を村上ワールドの物語世界に誘って
    著者自身の都市小説への違和感

3章 村上春樹を読む─『ノルウェイの森
    「死」にゆく物語としての『ノルウェイの森
    「僕」を主人公にしたファンタジー
    あらかじめ失われた者同士として
    オウム信者へつながる都会人のエートス(精神類型)
    人それぞれの歪みを認めること
    死者を抱え込んだ人はどう生きるのか
    新しい人生を始めよう
    はじかれたものが犯す犯罪

4章 「私」をめぐる冒険─『ねじまき鳥クロニクル
    日本における権威とは母親だった
    人の「つながり」は「愛」だけで得られるか
    アイデンティティーを喪失した人間の物語
    物語を開く扉としてのパソコン
    人はみんな「つなが」っている
    「これは私の事件だ」という冒険
    システムは常に新しいシステムを生む
    他者を理解することで物語を収斂する

5章 世界文学への挑戦─『1Q84』を読み解く
    戦後の時代精神を遡って
    カルト集団に変質してゆく「さきがけ」
    自分は正しいことをしているという確信
    都市小説の形式で書いた世界文学
    オウム真理教の事件が有する世界性
    権力者ははじめは「善」として現れる

都市小説とは何か

ちなみに都市小説とは何か。過去において日本はそこらじゅうが田舎で、「どこどこの息子さん」とかそういう人間関係から逃れられなかったわけです。そのせいで自分がどんなに個性を持っていても「誰誰さんの二男」という評価から逃れられなくて、評価の軸が個人の努力よりも伝統に偏っていたわけです。しかし都市が発展しみんなが都市に出てくることによって、「だれだれの息子/娘」という立場から解放され、「一個人」としての自由を手に入れた。

「都市は人間を自由にする」のです。しかしその結果、都市では人のつながりが失われ、自分が生きている意味はなんなのか、自分はいったい誰なのかということがわからなくなってしまった。要するに都市には大量に人間が居るのに、自分の事を認識してくれる人が誰もいなくてなんか異常に寂しいぜ! っていう話で。そういう「都市で自由ででも自分が必要とされているのか認識されているのかよくわかんなくて寂しいよう、どうにかしないと」って言って小さな物語として色んな女の子とセックスしたり付き合ったりしながら、「孤独と調和」していくのが都市小説であり村上春樹文学と言っている訳です。

世界文学とは何か

多分ここでいう世界文学はこの本の中だけの定義ですけど、ここでは「世界のために普遍的なメッセージを出していく」ことで世界文学のようになると言っているような気がします。言うならば都市小説におけるボーイミーツガールの小さな物語ではなく、戦争や善と悪をテーマにしたような大きな物語ですね。で、村上春樹は段々とこっちへシフトしているじゃないかという形でこの本は話を進めるわけです。「伝えたい事があるから」という理由で危険だと言われるエルサレムの授賞式に赴いたのも有名な話ですし、たしかに1Q84には明らかにオウム真理教の写しである宗教団体が出てきたりと、現実に物申す的な要素も見えます。以上のような理由から村上春樹1Q84は現代文学への挑戦であるといって本書は締められます。

村上春樹―都市小説から世界文学へ

村上春樹―都市小説から世界文学へ