基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

小説とは何か どうして書くのか に対する森博嗣の考え

 小説の存在理由は、「言葉だけで簡単に片づけられない」ことを、「言葉を尽くして」表現するという矛盾にあり、その矛盾に対する苦悩の痕跡にある。読み手も、「読んでも、もやもやするだけのもの」「感動をどう表現すれば良いのかわからないもの」を求めてつぎつぎと本を手にするのである。(小説家とう職業/森博嗣 P118)

 小説とは何だろう。たぶん、人間の思考、生き方、感情のポインタなのではないか、と思う。つまり、「ほら、そこにあるよ」と指さすものだ。指の先にあるのは、単なる教訓かもしれない。だが、教訓のように簡単には言葉にできないものでも、小説は指さすことができる。(P199)

ああ、これは今までで一番「小説とは何か」に対する、しっくりくる答えだなぁと思いました。ポインタか、凄い言葉の選択力だな、と読んだ時は思わず震えました。結構世の中には言葉にうまくできないものがあるもので、たとえば僕が「ああ、これは美しいなあ」と思う物、あるいは人だったり、人の人生そのものだったりに対して、「凄かったんだよー」といっても「へ〜凄かったんだ〜」って言われておしまいになってしまう。だからこそ、それを相手にもわかってもらう為には、相手にもそれを「経験」してもらう必要がある。

それが物ならば──、たとえばあの「丘の上で見える夕日」なんかだったら、連れていけばいい。けど、そういうものばっかりでもないもんで、そう言う時に「小説」は役に立つのだろうかと。『神話の力』のなかで、キャンベル氏は神話の持つ意味について、「生きているという経験を得ることだ」といっていた。美しいものに触れた時、楽しい経験をしたとき、「あ〜生きてるんだなぁ〜」と実感する、そういうのが「生きているという経験」なのかなあとこれを読んでいたら思った。

いったいどうして書くのだろうか?

 「アウトプット」することの苦い快感が、まさに生きていることと同値である、というほかは説明のしようがないように今は思っている。また逆に、生きている心地がしない、生からの逃避とも解釈できる。書いている間、息を止めていて、書き終わったら生き返る、みたいな感じか。「生還」を味わいたい、という無邪気さではないだろうか。(P199)

「苦い快感」なんていうものは、正直言って僕はアウトプットしているのか? というと怪しいもので、よくわからなかったりする。こうして文章を書いている行為というのはアウトプットではなく、煙草を肺にまで入れずにすぐに吐き出すような、ほとんど無意味な行為だからだ。咀嚼もせずに書きうつしてぐだぐだと書く、こういうのは、アウトプットとは言わない、と自分では思っている。あるいは「苦い快感」というのは、出した後に「来るであろう批判」「誤解の危険性」「書くことによって成長した自分が、過去を見る際に感じる不満感」と同時に存在する「やってやったぜ!」という達成感、がごっちゃになった感じなのかもしれない。その辺はよくわからない。これも「言葉だけで簡単には片付けられない問題」に入るだろう。

ただ生からの逃避、というのはなんとなく理解できる。これは読む事でも同じだけれども、文字を一文字一文字追っていく、あるいは文字を一文字一文字タイピングしていく時は、そこに集中せざるを得ないので、他の色々なことが頭の中から消えていく。雑念が消えるなどというとかっこいいけれど、単純に脳が追いつかなくて必死だ、というだけの話で。これはまあ、個人的なことを言えば結構快感かもしれない。一つのことに集中することができるというのは、それが何であれ気持ちがいいものだと思う。

小説家という職業 (集英社新書)

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