基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

人生は無意味だ──『人間の絆/モーム』

いやはや素晴らしい。初めてこの人間の絆が世の中に出たのが1950年だというので、すでに60年もの時間が経過したことになる。しかし、こういう古典的な名作には決まって聞かれるセリフだけど今読んでもまったく古い感じがしない。とても新しく感じるし、ここに出てくる人たちはまるで日常的に身の回りにいるあの人とかこの人のような気がしてくる。

本書はモームの半自伝的作品であり、フィリップという主人公が生まれた時から物語は始まる。足が生まれつき悪くてびっこをひいていて、それが原因で様々な不利益を被る。精神は自粛し、しかしそのおかげで類稀なる自制力、他人と自分自身に対してシビアに現実的に物を見る力が備わった。その後、女に騙されたりギャンブルで金を全て失って路頭に迷ったり人生の意味を問いかけたりしながら漫然と放浪していく。

これまた月並みなセリフで申し訳ないけれども、本書が今読んでもまったく古臭く感じないのはやはり人間を書いているからだろうと思う。時代を超えて、文化がいくら変遷してきても人間の精神構造だけはずっと昔から同じままだ。そして数限りなくいる人間を、極限までシニカルに構えて、虚飾入り混じった人間達を率直に評しいくのが面白い。

それこそまるで皮を一枚一枚剥いでいくように、色々なタイプの人間を解体していく。その行動の大元にあるのは、「人間とは何か」という結構漠然とした哲学的な問いであって、「人生に意味はあるのか」という割と切実な問いであったりする。しかし今時「人生に意味はあるのか」と大真面目に問うのは、非常に難しいような気がしないでもない。

そして主人公のフィリップ少年がこれまた愛すべき主人公なのだ。これほどまでに主人公に感情移入したことはないかもしれない。いや車輪の下の主人公などには、結構したかな。でもめったにあることではない。フィリップ少年がどん底に突き落とされたらこっちもどん底に突き落とされたような気分になったし、フィリップ少年が女に騙されたら女が憎くなったし、フィリップ少年が幸せを掴んだ(ように見えたら)こっちまで心底うれしくなった。

しかし感情移入させられる条件とは何だろうか。それは恐らく同じ欠落を抱えているという点であるように思う。自分と同じ苦境に立っている。自分と同じ悩みを持っている。あるいは欠落ではなくて、満たされている点でも共感は生まれるだろうけど、満たされている点を共感させても物語にはならないだろう。そうなると、どれだけたくさんの欠落をフィリップ少年に背負わせられるかというのが鍵であるように思う。

そういう意味で言えば、フィリップ君はそれはもう可哀想なぐらい不運を背負っている。両親は彼が若い時に死んでしまい、伯父さんと伯母さんに預けられ、幸い二人はいい人たちだったがその後も金が無くなり、自尊心が尊重されないことに悩み、やりたいことがわからなくなり、金がなくなり、女に騙され、人生に悩み、びっこを気にしながら生きていく。

必ず、自分と重なる部分があるはずで、だからこそフィリップ少年の成長の過程に強く同調し、一喜一憂し、強い感情移入はもう一度人生を生き直しているような感動を与えてくれる。小説の力というものを、改めて実感した気分だった。小説に書かれた一つの人生は、学ぼうという姿勢さえ見せれば多くの物事を教えてくれる。

ペルシャ絨毯の哲学

フィリップ君の魅力も大変素晴らしいのだが、もうひとつおまけに素晴らしいのは作品を貫く「はたして人生に意味はあるのか」という問いかけである。宗教を信じていれば、そこまで考えなくてもいい問題かもしれないがあいにくフィリップ少年は神様を信じることが出来なかった。しかしフィリップ少年は、パリで出会った老詩人クロンショーに出会ったことで問いかけに対するヒントを得る。「ペルシャ絨毯に人生とは何かという問いへの答えが秘められている」というのがそれで、以降少年はずっと考えることになる。

考えていく過程で多くの苦難が襲いかかる。クロンショーは偉大な詩人だったにも関わらず、嫁には虐げられ金は無く最後はみすぼらしく弱っていって誰にもみとられずに死んだ。詩集が死後に刊行されたもののほとんど売れなかった。よく芸術作品は生み出した人間が死んだ後も世に残るという。人の記憶の中に人は生き続けるともいうが、しかしそれがどうしたというのだろうか。

ごく一部の人間がそうした恩恵にあずかれるかもしれないが、大多数の人はほんの数人にしか記憶されずに消えていく。特に世の中に影響を及ぼしたわけでもなく、ただ漫然と働いて消えていくのだったらそこに生きた意味なんかあるのだろうか。努力相応の結果は大抵与えられないし努力なんかしていない人間が恵まれた生活を送ることだってある。結局のところすべては運である。

作中に出てくるある東方の王様の話と言うのが興味深い。王様は人類の歴史が知りたいといって賢者に500巻の書物を運ばせた。だが王様は多忙だったので賢者に要約してくれといった。20年後要約が終わって50巻になったがそれを読むには歳をとりすぎていたのでさらに縮めてくれと言った。また20年後賢者が今度は一冊にして持っていくと王は死の淵にあって読むことなどとてもかなわなかった。

だから、賢者は人間の歩みを一行にまとめて王に伝えた。「人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ。人生に意味などなく、人は生きることで何らかの目的を達成することはない。生まれようと生まれまいと大した意味はないし、生きようが死を迎えようが意味はない。(p.242)」

この話の教訓はたぶん「500巻も読もうとか最初っから無理だとわかっていることを頼むのはやめよう」だと思うがそんなことはどうでもよくともかく人生に意味はないのである。ここでついにペルシャ絨毯の哲学が出てくるのであるが、僕なりに解釈して要約してしまえばそれはこういうことである。

つまり人生はそこら辺に咲いている花のようなもので、それはそこに咲いているというだけの意味しかない。いづれ枯れるし、枯れたらそこで終わりだ。しかし私たちは花を見ることによって「綺麗だ」と感じることが出来る。そのようにして人は、自分の人生を一つの模様として眺めたらいいのだ。

人生は無意味で、どんな事をしたって意味はないのだから自分なりに好きなように模様を編んでいけばいいのである。幸福とは無縁に見える織り模様だとしても、私たちはそこにある種の美しさを見いだすことが出来るかもしれない。「あるがままに生きよ」という思想である。そしてこの事に辿り着いた時に、フィリップは今までの幸せに生きなければならないという義務から解放されるのである。

最後に、感銘を受けた部分を。

 これまでのぼくは、他人が言った言葉、書いた文章に教えられた理想を追い求めてきたのであって、自分自身の心底からの願望をないがしろにしてきた。こうも言えよう。こうすべきだと考えたことに支配されたのであって、自分が心の底からぜひ成し遂げたいと願ったことは、せずじまいだった。自分の真実の欲求以外のものを、今やもう不要と言わんばかりに、すべて頭から払拭した。これまでは常に未来にばかり生きてきて、現在は指の間からこぼれてしまっていた。自分の理想は一体どういうものだろうか? 自分の無数の無意味な事実を材料にして、複雑で美しい意匠を紡ぎだしたいという願望を思い出した。だが、人が生まれ、働き、結婚し、子供を作り、死ぬという、もっとも単純な意匠であれ、他のものと遜色なく、もっとも完璧な意匠だと言ってもよいのではなかろうか?(p.412)

自分が、本当に何を欲求しているのかをちゃんと自覚することは困難なような気がしなくもない。とにかく今は「自由選択」の時代である。自由選択の名のもとに、結婚をしない人間も多く増えている。しかし気をつけなければいけないのは、「自分には結婚など出来ない」と思い込んでいるだけなのに「自分は結婚しないという選択をしたのだ」と自分を正当化してしまうことである。これは自由選択を享受して人生を受け入れているように見えて、実は縛られている。

そうでなくても私たちは縛られる。マスコミが宣伝する幸せな一般市民の姿に。本の中に存在する華麗で優雅な生活をする人たちに。一流企業でばりばりと働いて充実しているようにみえる本の著者たちに。しかし本当に本当の意味で「自分が本当にしたいことは何なのか」。それをもっと真剣に考えなければいけないと思った。

人間の絆〈上〉 (岩波文庫)

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人間の絆〈中〉 (岩波文庫)

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人間の絆〈下〉 (岩波文庫)

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