基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

いつのまにか話題になっていた佐々木中さんという方の本と革命についてのインタビュー本。主張はシンプルで、繰り返し繰り返し同じことを言ってくれてわかりやすくふむふむと面白く読みました。まあでもやけに情感たっぷりに語られる小説的な文章(語り口調?)はかなりイラっとするんですけど……。

普通に書けばすぐに一行か二行かで書き終わるようなことを、情感たっぷりに書きつづるのは正直気持ち悪いと思ってしまうのです。『蒼い空の下で咲く一輪の花の調(今日は良いお天気ですね)』などとやけに比喩的にどうでもいいことを言うネタが∞(ルシフェル)(33) | 地獄のミサワの「女に惚れさす名言集」にありますけど、まさにそんな感じで脳内再生される。イラッ。

言っている事はめちゃくちゃシンプルですね。高らかに文学の復興を謳い上げ、読み、書くことこそが真の〈革命〉なのだということです。違うのは文学の定義と、本を読み、書くことの定義、そして革命の定義、つまり全ての定義の再認識ですね。文学とは今でいうような小説を書く一部の文学者のものではなく、読みかつ書く技法一般、哲学者も、物理学者も、経済学も歴史学も広い意味では文学であるという。

そして本を本当に読むとはどういうことか。これは創作者の無意識に接続することであるといって、たとえばカフカの小説を読むのはカフカの夢を自分の夢として見てしまうことだという。情報をフォルダで保存するだけじゃなく、完全にインストールしきって自分を変革してしまうもの、とでもいうのでしょうか。

本を読むことについてはかなり書いてあって、いわく何度読んでも本当にそれがその本に書いてあったのか完全には確信がもてない(解釈が無限にあるから?だから何度も何度も繰り返し読まなくてはならない)最終的には自分の確信のようなものが自分の無意識が作りだした物にすぎないかもしれないと考えて狂気に陥っていく。そこまでして初めて「本を読む」なんだっていうわけです。

例としてあげられているのがルターで、当時の聖書に書いてない規律が大量に存在してしまっていたキリスト教に対して、聖書を徹底して読むことによって聖書に書いていない現実の秩序を排除しようとします。現実が、に書いてあることと違うのだったら、現実を改変しなくてはならない。自分の解釈を確信して。そこまでして初めて、読むことと書くことが両立されるのだと。

それこそが<革命>だというわけです。従来の革命の本質としてイメージされる革命=暴力は正しくはなく、実際は<革命>=文学なのです。

とここまでが大体二章までのお話(全五章)で、ここからは文盲なのに読めといって脅されて読んで革命を起こしたムハンマドの話や、現在のようなデータベース社会、情報世界になってしまった原因をローマ法大全が発掘され、それを本書の意味で読んで書き変えた十二世紀の法律を完全にデータベース化し、検索可能にしたお話などが続きます。

データベース化にした革命が何を生んだのかといえば、それは人間を統治するものが「情報」つまり文字? 検索可能な物のみになった現代へとつながる道だというんですね。本来広い意味での法や文学を表現していたのはダンスや呼吸法といった、身体表現まで含めたテクストだったにも関わらず、情報化によって押し出されてしまった。

これは今でもなお続いていて、「しかし今この瞬間にでも改変、革命はできるのだ」というのが本書の核かと。その為に今こそ本当の意味でテクストを読み、書き変え、革命を起こすのだ。革命の本質は暴力ではなく文学であり、それは今からだって、変えられるんだから。そういうことになるでしょう。

なんだろう、正直言ってかなり面白かった。何が面白かったって「小説的な」部分が面白かったのだな、と今は思う。たしかに小説的な文章にはイラっとする。あと各論の説得力みたいなのはさっぱりないと思う。自分の主張の都合のよい部分だけ引用してきて自説強化している感覚。でもその空想的なところが面白いわけで。だとしたら文章の部分も否定すべきではないかな。とか色々。