基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

もうやめようと思っちゃうのに買ってしまう村上春樹

村上春樹 雑文集』が先日出たのでもそもそ読んでます。買うたびに「もういいだろう、村上春樹は。もうちょっと広く視野を持とうぜ」とか思ったりするのですけど、だめですねえ。買っちゃいます。別にいいんだよう趣味なんだから。ちなみに本のデザインとしても秀逸だと思います。カバーの手触りがまずいいし、本の中央よりちょっと下に書かれたネズミとウサギが凄くいい味を出している、文字のバランスもさすがだ。

ちなみにまだ32ページしか読んでいません。でも読んでいたらいてもたってもいられなくなって今書いているわけです。何故か。おとといぐらいに『切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』を読んだ時に、その気取った、やけに遠まわしな文章に対して「イラッとする」とか書いてたんですよね。

でも村上春樹を読んでいると、その批判はこっちにも当てはまる気がする。むろん、多くの違いはあるのですけれど。しかし、なぜ村上春樹だけが特別なのか、よくわからない。もちろんうまいところはいくらでもあげられます。比喩だったり、割と真実を言い当てていることだったり。でもそれだけじゃないな、とも思うわけで。

こうやって読んだ本についてだらだら書いていると、どうしても書きやすいこととして「何が面白かったのか」を文章にすることが多いんですよね。こじつけや思ってもいないことを書いたりすることも多いわけですが、でも村上春樹の場合は「何が面白かったのか」が書けない、と感じてしまう。

しかしまあだからこそ出るたびに買ってしまうんだろうとも思うのですよね。「何が面白いのかわかった」となってしまったら、そこには「完」の字が出てきて、自分の中では終わったことになってしまう、のかもしれない。「わからないわからない、何が面白いのか全然わからない」と考え続けているから、こんなに読み続けているのだろう、ととりあえず今は思うわけですよ。

一方で、ブログで「面白かった理由探し」をするのは、読書の楽しみをひょっとしたら削いでいるのかもしれないなんて思ったりして。面白かった理由、なんていうのに真理はありませんから要するに「自分が勝手に納得する面白かった理由」なんてものをひねくりだして、「完」をつけて終わってしまったことにするのだけは避けたいな、とそう思いました。

それにしても雑文集の最初に入っている『自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)』という文章は、圧巻でした。読んでいて、よくわからないなりにすごい、すごすぎる、とひとりで興奮してしまうぐらい、凄かったです。文章はこう始ります。『小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする人間です」と。*1

そして、インターネットのメールでされた質問の話が出てくる。原稿用紙四枚以内で、自分自身について説明しなさいという問題が出た、そんな問題を出されたらどうしますか? というものだ。村上春樹はそれに「牡蠣フライについて書かれてみてはいかがでしょう」と答える。牡蠣フライについて書くことで、牡蠣フライと自分との距離感が自動的に表現される。それはつまり自分について書くことであり、『小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書き続ける人間のことである*2と続く。

最初に引用した部分と次がつながっていない、とおもうかもしれないが、実際これは読めばつながっている。わずかしか判断を下さないということは、つまり仮説しか立てない、ということだ。状況を綿密に観察し、描写し、仮説を立てる。牡蠣フライやハンバーグについて観察した文章を書くことは、つまりは状況を観察することにつながる。

「自分自身」は、他のものとの相対的な距離でしかはかることが出来ない、という風に読むことができるかもしれない。よくわかんないけど。いやでも実際は、凄まじいのは文章のリズムであり、読んでいる時の流れるような感覚なわけだ。内容なんかどうだっていい気さえする。是非読んでもらいたいと思った(本は読み終わったらまたなんか書きます。)

仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる。*3

村上春樹による、なんだかよくわからないけどすごい、と思えるものを読んで、圧倒的だ! と僕は心の中で奇声をあげる。少なくとも僕の一面はそういうものでできている。

村上春樹 雑文集

村上春樹 雑文集

*1:p.18

*2:p.22

*3:p.20