基本読書

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人間小唄

あらすじ

俺の精神を踏みにじったあの作家だけは許さない。作家を拉致監禁し、「短歌を作る」「ラーメンと餃子の店を開店し人気店にする」「暗殺」のどれか一つを強要した俺。だが、事態は思わぬ方向へ--。希代の作家が描き尽くす史上最低のバトル!

daenさんにそそのかされ、さらにはあらすじが超面白そうだったので読んだ。冒頭の数十ページは作家が送られてきたクソみたいな短歌を延々とクソのようにこき下ろしながら解釈し続けていて、「いったいこの小説は何なんだ? 短歌の解釈とかどうでもいいんだが?」と思いながら、苦痛に耐えながら、読み続けていくと突然視点の主が変わり、そこからはいつものようにストーリーが二転三転するいつもの町田康のようになった。

突然変わった視点の主というのが作家を拉致監禁し「「短歌を作る」「ラーメンと餃子の店を開店し人気店にする」「暗殺」」という三つの無理難題を提案するキチガイなのだが、まさにキチガイそのもので要求は何らかのルールが設定されているとは思えない荒唐無稽さで決定され、しかも作家側は「暴力」によって圧倒的に支配されているので抵抗することもできない。

そうなのだ、人間、法もルールも届かないところでは、「言うことを聞かなければお前を殺す」という暴力を目の前にして、どのような抵抗もできずにどんな荒唐無稽な指示にでも従わなければならない。たとえば「俺たちを感動させる短歌をつくれ」と言われても。そのような事実は法に守られルールに守られ家族に守られ叫べばすぐに人が飛んでくるような日本の都会にいるとなかなか実感し辛いことだが、このような小説を読むことで強く実感する。

作家はクズな人間でウソは平気でつくわこざかしい真似をするわで、小さい人間の典型的なヤツなのだがあまりにも悲惨な状況に置かれるので同情してしまう。この作家はシンプルにいってクズだが、それも100人の人間を渋谷のスクランブル交差点から適当にピックアップしてきてクズ度をランキングしていったらまあ9番目か8番目ぐらいのクズかな、というぐらいのクズなのだが、僕にはそれぐらいのクズの気持ちはよくわかってしまう。感情移入してしまう。

何よりそういうクズを書くのが、町田康は本当にうまいから。

この小説世界は本当に意味が分からなくて、作家がキチガイに監禁されている場所はなぜか異空間のようになっている。出ようとしても延々と草原をさまよう事になって出れないし、街に出ても作家はほんの数百メートル四方の小さい空間の中から出ることが出来ない。そんな空間の中で、手持ちの資金も道具も何一つ与えられずに「ラーメンと餃子を作って人気店にしろ」と言われることを想像したら泣きそうになる。

そういえば僕は町田康は『パンク侍、斬られて候』と『告白』の二作品しか読んでいないのだけど、これはどちらも時代がかなり過去であった。過去というと一種の異世界のようなもので、どんな荒唐無稽が行われても「ふむふむ」と読んでいられる。一方でこの作品のように現代を舞台にしてよく見知った単語が出てくると(Auとかツイットルとか出てくる)違和感に頭がぐらぐらしてくる。これは現実か?

あと作中に出てくる美少女という設定の女の子とのやりとりがグっときた。こんなやりとり、いいよねと思ってしまう。

「そうですよねぇ。僕は小角と親友で、どれくらい親友かというと、ここの鍵を預かって自由に出入りするくらい親友なんだけれども、もう、あいつはやきもののこととなるともう、きちがいだからね。ね、そうだよね、末無ちゃん」
「きちがいです」
「だよね。まあそれ以外のことについても大体、きちがいなんだけど、まあそういう僕も実際はきちがいみたいなものなんだけど。そうだよねよね、末無ちゃん」
「きちがいです」

きちがいですね。この男と末無ちゃんときたら脈絡のあることはほとんど言わないし、それこそきちがいみたいなことを喚き散らすは、一人称は私から俺、僕と次々と変化するし、およそ現実の存在とは思えない。ひょっとしたらこの作品は夢だったのかもなとさえ考えてしまう。総じて意味不明であり、理不尽の連続であり、凡庸な人間はどこまで理不尽に耐えられるのかと言うような実験のようにも見えてしまう、そんな話だと思った。

面白いかどうかと問われれば、面白かった、けれど、既存作品の中から飛びぬけて面白いかと問われれば、特にそうではないと答える。微妙なところですね。さりげなく短歌小説でもある。同じ短歌を、めためたに批判するかと思えば、今度はめちゃくちゃに褒めて見せる。そうか、そう言う風に論じればいいのか、と論じ方はめちゃくちゃだったが思った。短歌ね。

人間小唄 (100周年書き下ろし)

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