基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

科学的とはどういう意味か

小説をたくさん書いていらっしゃる森博嗣先生の新書。

読んでいて「僕は、バカだ」と強く感じずにはいられなかった。
あまりにも物事を「知ろうとしなさすぎた」。また「科学的」でなかった。強く反省することになった。科学的である為に必要な最初の事は「わからない」と「決めつけてしまわない」ことだ。

本書は題名通り「科学的とはどういう意味か」について語っている。

科学的とはどういう意味か、本書の言葉を借りていえばそれは『誰にでも際限ができるもの』です。「こうすれば、このような現象が起きる」という現象を観察し、それを観察した人が大勢の人に広め、観察してもらう。その結果同様の結果がほとんどのパターンで得られた時、それを「科学的」というのである。

「科学的」は「客観的」という言葉に置き換えられるかな。どこかで森博嗣先生が書いていた「客観的」の意味として、凄く納得したたとえがある。「丸い穴がある。そこに入るかどうかわからない棒がある。「私はこの棒は穴に収まると思う」と言うのが主観であり、「実際に棒が入るか入らないかを確かめてみる」ことが客観だ」というのである。

棒が穴に入ると思うとか入らないと思うというのは単なる感想、主観であって、客観とは誰がみても「その通りだ」と頷く指標なのだ。その意味では科学と通じるところがあるだろう。今回はわかりやすい例えだと思って話をあげた。

本書で問題として挙げられているのは「主観を重視し、客観を軽視する現代人の多さ」というと俗物的になりすぎてしまうが、とにかくそういうものだ。そしてその根っこには「科学から逃げようとする傾向」があるという。

僕は文系の大学にいって数学や科学とは縁の遠いところに居たので凄く実感としてわかるのだが、「科学的な説明」に対して「わかんない」と思ってしまうのだ。たとえば原発の内部構造についてや、シーベルトのような実際的な数値の話になると「分かんないから聞かなくてもいいや」とか「わかんない」と思ってそれで終わりにしてしまう。

原発がどれぐらい危険か、それは自分で調べればわかることだ。政府は、東電は情報を隠していると言う。「ただちに健康に影響はない」という言葉が信用できないなどと声を上げる。しかしちゃんと数字は示されているし、数字を自分で調べることもできるし、数字の意味も知ることが出来る。

自分の住んでいるところの数値をグラフ化することもできるし危険度を具体的に知ることもできるだろう。それなのにそんな単純なこともしないで文句をいう人が多い(僕もそうだ)。これはまさに「僕は穴に棒が入ると思う」と語っている状態に過ぎない。

そして「早くわかりやすく説明しろ!」とか「安全と言え!」とか「安全と言われたから安心だ」とか言葉のみを信じているよりもずっと「科学的な方法によって自分で勝手に調べる」やり方が、自分を救う。科学的は誰よりも自分にとって必要な物なのだ。

第四章では「科学的であるにはどうすれば良いのか」として科学的である為の方法が書かれているので少し引用していきたい。

 繰り返し述べているように、まずは科学から自分を無理に遠ざけない事。数字を聞いても耳を塞がず、その数字の大きさをイメージしてみること。単位がわからなければ、それを問うこと。第一段階としてはこんな簡単なことで充分だと思う。
 さらには、ものごとの判断を少ないデータだけで行わないこと。観察されたものを吟味すること。勝手に想像して決めつけないこと。

余談だが多くの人が主観に頼って客観視をしたがらず、科学や数学に対して極度な拒絶反応を示してしまう理由が(僕が実際にそうだから)わかる気がする。たとえば、自分の声というのは録音して聞くと凄く変な感じがする。自分が動いているところを動画で見せられるのもあまり気持ちが良いものではない(少なくとも僕の場合)

恐らく「自分で思っている自分の声とか姿」とその「客観的に見た自分」があまりにもかけ離れているから、眼をそむけたくなってしまうのだ。自分ではもう少しいい声で喋っていると思っているのに実際は「なんかひどい声だな…」と思ったりする。それって凄くつらいのだ。

きっと他の点についても同じなんじゃなかろうか。客観視して観た物というのは主観とをかけ離れている際、とても残酷(当人からしてみれば)なものになる。主観にとじこもっていれば、自分だけは満足できるので、心は平穏に保たれる。

僕は「つらいから見たくない」とかなんとかいってないでとっとと「実際の自分」を見るべきだったのだろう、と本書を読んでいて思った。だから本書は僕にとってかなり「つらい」一冊になった。でも、それが自分を救うのだ。

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)