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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

相田家のグッドバイ

森博嗣先生の新刊。家族をテーマのひとつとしているように読める。それもエピソードの多くは、過去の日記などで読んだことのある内容で自伝的な要素もあるのだろう。良い小説だった。静かにすべてが進行していくのだけど、その静かさが心地よい。

一方で淡々と家族の説明が記述されていくので、物語のような起伏がなく最初は退屈だったが。本書『相田家のグッド・バイ』では劇的なことは起こらない。ドラマが生まれるわけではない。ただ父親と母親はそれぞれ一般的基準からは少し外れたところにいる人達で、その息子や周辺の人間も同様に変わっている。そういう人達の移り変わりを描写していく。

ドラマはないと書いたが、人が生きて死んでくのはそれだけで充分ドラマなのかもしれない。本書では死を劇的に誇張して書いたりしないだけで、人がどう生きて、どう死んでいったかが淡々と書かれていく。当たり前のように生きて当たり前のように死んでいく人達とそれを自然に受け入れていく紀彦の描写をみていると、とても泣けてくる。

なぜだろう。よくわからない。でも歳をとるっていうのは悲しいことだなと思うし、家族が死ぬというのも悲しいことなのだろう。誰だって死ぬんだから、家族がいつか死んでしまうのは当たり前のことだ。でもそれはとっても悲しいことなんだなあ。

家族がテーマなので家族の話を少し書く。僕は家族と自分はまったくの別人、個人と個人だし、家族だからといって世話をしなければいけないとか、お金を無心したり、特別なことをしたりする必要はないと考えている。

さらにいえば親にかえすのではなく、受けた恩は自分の子供に返すのが正しいだろうと僕は考えている。親に返すのではなく、いつか自分の子供に愛情を注いで、育て、成人したら僕のことなんか気にもせずに自分のしたいことをすればいい。森先生も同じ考えではあると思う。

森先生が家族についてブログに書いているものを読んだことがある。、両親が死んだ時にだいぶ解放されたと思ったというようなことを確か書いていた。森先生は解放感を感じるぐらい、親の世話には時間を使っていたようだ。なぜだろう、とブログを読んでいたときの僕は思った。

森先生ならば、家族とはいってもほとんど他人のように、自分の時間を割いたりはしないのではなかろうかと思ったからだった。ただこれには裏の意図もあって、僕は自分が絶対に両親の為に時間を使いたくなどないと、かたくなに考えていた。

なので僕は、卑怯なことに森先生に自分の考えを援用するような行動を期待していたのである。何でも人の意見を参考にして、自分の意図と合致するものを見つけては自分を納得させるようにしていた僕だったが、それも今では随分冷静に考えられるようになった。

なぜ理屈としては家族であっても一人一人は別々で、世話をしたり、余計なことを背負い込む必要もないと考える人が、解放感を感じるぐらい親の世話に身をついやしていたのだろうか。そんなものは自分には関係がないものと割りきって、精神の自由を得たらいいのに。

本書の最後はこの問いへのひとつの答えであるように思う。ただ自然に、呼吸をしないと死んでしまうから息をするように、あのとき、ああいうふうに行動していたのだと思う。(p227)

森博嗣先生はもう後に書く冊数をほぼ決めてしまっているので、一冊新しい本を読むごとに、今後の可能性は消えていく。読んでいるときは本当に幸せで、読めて良かった、読書って素晴らしいと思うのだけどページ数が少なくなると読むたびに悲しさが増していくのだ。でも誰だっていつ死ぬかわからない、それ以前に作家がいつまで書くかなんてわからない。

森先生は突然死ぬ可能性はあるだろうが、予告したものを書かないといったことはしないだろう。そう考えると、残りの冊数を知り、後を惜しみながら読める状況は幸福なのかもしれない。でもそれ以上に幸福なのは、森先生が書く小説がこの世にあることだ。本書も大変楽しく読んだ。ありがとう。

相田家のグッドバイ

相田家のグッドバイ