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意識は傍観者である: 脳の知られざる営み

僕たちは自分の身体は「わたし」が支配していると感じるが、実はそれは間違いである。正確には行動の大部分は無意識的な行動で支配されていて、意識は行動の最後に現れて「これは自分が決断したことだ」と思い込まされている。僕達が脳について真っ先に学ぶことは、僕たちは自分たちがとる行動にたいして意識はほとんど決定権を持っていないという事実である。

それが『意識は傍観者である』というタイトルによく現れている。これを説明するのにちょうどいい、最近の脳科学本を読むとどこにでも書いてある衝撃的な実験がひとつあるのでご紹介しよう。

被験者の脳に電極をつけて、指を上げるという非常に簡単な動作をしてもらう。そして「指を動かそう」と感じた瞬間を記録する。面白いのはここからで、被験者が「指を動かそう」と意識する一秒以上前に、指を動かそうという脳内活動が生じている。ようするに、脳が「指を動かそう」と指令を出した一秒以上後に意識は「指を動かそう」と思考するのである。

科学で主張が対立した時には、より人間を中心におかない説が正しいと一見ジョークのような主張の判定方法がある。地動説から天動説に変わり、人間は動物の王でもなんでもなくただの進化の一系統であるとダーウィニズムによって説明されていく。そして今の主流の考え方は人間の意識さえも特別な物の位置から落とそうとする。世界の中心から外れるばかりか、自分自身の操舵手であることさえ否定されてしまった。

しかし、中心の座から転落するたびに人類はより広い視点で物を見ることが出来るようになった。宇宙の中心は地球ではなくなったが、その外にもっと大きな世界が広がっている。さらには銀河を超えた先まで理解することが出来るようになった。意識が身体の傍観者でしかないと受け入れることによって、我々はもっと壮大で大きな世界を知ることができるようになると本書は言う。

本書が他の脳科学の本と一線を隠しているのは、この「自由意志が否定された世界のその後」を実際に考えようとしている点だと思う。なにか実際の問題を考える時に「意識」はどのように関与してくるのか? もっとも身近な問題は、有責性に関わってくるものだろう。あなたの子どもが壁にクレヨンでいたずら書きをしたら怒るだろうが、夢遊病の状態でやったとしたら怒らないだろう。じゃあもし、意識しないまま人を殺したらどうだろう??

人をクルマで轢き殺した時に、乱暴に運転していたのか持病があってその発作でタイミングが狂ってしまったのかで罪の多寡が決まってしまう。これらはすべて「自由意志がある」という前提の元の決まりごとだが、私たちの行動のほとんどは脳に起因していて、脳の状態によって怒りっぽくもなるし、言語障害が出たり、てんかんの発作が出たりする。さらには遺伝、幼少期の経験、環境、最初に説明したまやかしの自由意志含め、私達が下す決定の多くは私達が明確にコントロールできる範囲を超えている。

『つまり、自由意志は存在するかもしれないが、たとえ存在しても、それが作用する余地はほとんどないのだ。*1』私たちはある犯罪者を非難する時にそれが仕方なかったのかどうかを非常に重視する。小児性愛的な性向を突然持つようになって事件に及んだ人が、実はある時期から脳にでかい腫瘍をかかえていた、となった時に人は同情的になる。

一方そういった腫瘍が見つからない小児性愛者は脳はほとんど調べられないし、単純に自由に選択する行為者と判断され、非難される。しかし技術は向上し続けるので、脳の測定精度が向上するにつれなぜ人々がそのように振る舞う気になるのかを、神経科学はもっとうまく説明できるようになる。今は非難される犯罪者も、20年後には非難されないかもしれない。

有責性が技術の限界で決まるというのは筋が通らないと本書では結論している。『問題の核心はこうだ。「どこまでが彼の主体で、どこまでが彼なのか?」を問うことにもはや意味はない。この問いにもはや意味がないのは、二つが同じものであることがわかっているからだ。彼の生体と彼の意思決定に有意な区別はない。二つは切り離せない。*2

意識についての捉え方について、人間の行動に対する理解が向上したとしてそれを社会政策の改善にまで結びつけたのは本書が初めてだった(当然僕が読んだ中ではの話ではあるけど)。そしてこの考え方はのちのメインストリームになっていくだろう。意識はその権威を失墜させ、ただそのおかげで私たちは人間の行動についてより深く理解できるようになる。悲しむよりもわくわくするような話だ。

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

*1:p228

*2:p236