基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

極北

著・マーセル・セロー。訳が村上春樹。マーセル・セローさんという方は知らなかったのですが、村上春樹訳なので読んでみました。最近ずっと小説を読んでいなかったので、久しぶりに骨のある小説を読みたいと思ったのでした。そういう点でいくと、村上春樹チョイスはかなり良い。彼の良いところは自分が良いと思った作品を自由に訳すことができる力を持っているところで、だからこそ彼が翻訳した小説=村上春樹セレクションの良い小説になるであろうという推測です。

さてはて、そういうわけで『極北』というタイトル以外何も知らずに読み始めたのですが、これが良かった。素晴らしい。絶賛です。生き死にといった、切実さがあります。荒唐無稽な話ではなく、現実と地続きの恐怖感、切実さで読んでいて血がたぎる。絶望が同化する。そのような体験を得られるのは、やはり優れた小説の(というよりかは物語の)特性のひとつでしょう。

あらすじを説明したいところですが、ためらわれます。というのも、本書は僕がそうだったからかもしれませんが、段々とほのめかされていく設定を推測しつつ読んでいくのが楽しい小説なのです。最初はどういうことだろう?? と全然わからないことが、まったく明快に地の文で説明されることなく、ただ淡々と事実のみの列挙で判明していく。

世界観を把握していくのと同時に、主人公の絶望感に同調していくことになります。

訳者あとがきに書いてあったことですが、著者のマーセル・セローさんは本書の着想をウクライナを旅行中に得たそうです。テレビ局の取材中に訪れたその地で、チェルノブイリ近郊に住むガリーナという名の女性を取材しました。原発事故から三十キロ圏内の立ち入りは禁止されているそうですが、彼女はそこに勝手に入り込んで、無視して生活を送っているのです。

そこで行われているのはきわめて原始的な人間の暮らしで、詳しくは書かれていないのですがきっと動物を狩ったり、火を自分で起こしたりするような生活なのでしょう。この事に関してマーセル・セローさんは、我々はほとんどためらうこともなく、並外れたことをどんどん受け入れるようになった。そしてこの歴史的な瞬間にたまたま生を受けたという純粋な偶然を、あまりにも当然のことと見なしてきたと書きます。

なるほど確かに。今のぼくらの生活からは原始的な人間の暮らしからは程遠く、数百年前の人達が苦労しているような生活上の数々から乖離しています。さらに冷蔵庫やら車やら、仕組みのよくわからないものに囲まれて暮らしている。自分一人で作れと言われても絶対に無理な物だらけです。

「2004年にチェルノブイリを再訪したとき、私はこんな風に考え始めた。もしものごとを逆回しにしてみたらどうなるだろう、と。現代社会においてはガリーナはただの無知な女かもしれない。彼女はインターネットも、携帯電話も、スシ・レストランも知らない。しかし落ちぶれてしまった世界においては、飢饉やら戦争やら、あるいはチェルノブイリで起こったような工業社会のもたらす災厄によって困窮の地に追い詰められた世界においては、またラブロックという学者の凄まじい預言が描き出すような大変動が起こった世界においては、たとえば私の身につけている専門知識などはほとんど価値をもたなくなる」

明らかに明かしすぎですけど、つまりはそういう話なのですね。言ってみれば終末の話です。終末とは言ってみれば「終わり」です。人類は、ここで終了ですよ、という話です。よく「自分は死んでも自分の遺伝子は残る」とかいったりしますが(まあ実際は遺伝子なんて回を重ねるごとに薄くなっていって最終的には殆ど残らないんだけど)そういった「何かが残るかもしれない」というかすかな希望さえない終わり。

大抵の場合誰もが「終わる」ことは予想しているし、わかっていると思いますが、どこかでそれでも物事は継続していくんだと実感しているものでしょう。自分が死んでも何かは残るんだと。すべてが終わってしまう瞬間に居合わせることを、ほとんどの場合は想定しないでしょう。フィクションの、物語の凄さというのは、その終わりを強烈に預言して、同化させてみせることにあります。

本書を読むことによって読者は「すべての終わりに居合わせる」。そのリアリティ(という言葉は物語を評価する言葉としてあまり好きではないんだけど……)は圧巻です。良い物を読みました。

極北

極北