基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ぼくらは都市を愛していた

『僕らは都市を愛していた』ここが神林長平の最前線───、新たな世界の、創造の物語なんだ。神林長平は常に世界の創造を書いきた。ここにあるのは未来の世界だ。

先日神林長平先生による本書の刊行記念トークイベントに行ってきた⇒神林長平「ぼくらは都市を愛していた」刊行記念トークイベントに行ってきたよ(レポ) - 基本読書。そこで語られた内容は三十年間小説家として常に最前線で闘ってきた人間に相応しい、常に「いま」の問題を中心に据えた問いかけと、応答の覚悟。本書にはそれがふんだんに現れている。

ストーリーを簡単に紹介しよう。物語は双子の姉と弟をめぐって、ふたつのパートで展開される。片方は公安として殺人事件を調査し、次第に不可思議な事象に巻き込まれていく綾田カムイを主軸としたパート。もう片方は情報震(デジタルデータのみを破壊する事象を比喩的にこう呼ぶ。何が原因で、何を目的としたものなのかまったくわかっていない)が起こった世界で観測を主任務とした女性だけの部隊を率いる綾田ミウを主軸にしたパートだ。

この二人は置かれている状況からしてまったく違うのだが、次第に二人の道が近づいていき……という話。まあ話の主軸としてはそんなところだが、本作にはいくつもギミックや、面白い仕掛けがあるのでそういうところを中心に語っていきたい。テーマとか「都市の意味について」などは主に前述のトークイベントレポに書いてしまったので、違う角度から。ちなみにたぶんネタバレします。

ミステリィとしての側面
本作では綾田カムイは殺された少女を、誰が殺したのかという謎を追うことになるのだが、犯人はすでにわかっている。「わたし」だ。たとえば被害者を殺した人間の肉体はAだが、意識は身体としては別、たとえばBが「自分がやっている」と感じている。情報がウェブ上に展開し、人格が入り乱れ個人と個人の区別が曖昧になった世界での「殺人事件」という新しさがある。

人を殺せるというのは特別なことだ。現代はウェブ上に人格がまばらになっている状況だが、これも先を見据えればきっと情報なくして生命なし、だ。つまり物は次第に生産されなくなり、人々の人格はネット上に仮想的に存在するようになるだろう。もう他人に会うためにわざわざ自分の身体をえっちらおっちら新幹線や飛行機に乗せて多大なエネルギーを消費しながら移動させる必要はなくなる。

そうなった時に、殺人事件はもう起きなくなるのだろう。しかし本作では男の主人公は、体間通信装置という、情報・意識をそのままやり取りすることが出来る装置を、腹に埋め込まれている。あるいは、腹に埋め込まれていると認識させられている。このようなどうしようもないフィジカルさと重みを持たない情報の相反する対比が、面白い。身体と情報という対比はこの作品のいたるところに見出すことが出来る。

身体的な感覚はこの作品では時折顔をのぞかせる。たとえば最初、有無を言わさず体間通信装置を体内に埋め込まれてしまって、デジタルデータのやり取りを感知できるようになってしまうが、これを「有無を言わさぬ現実の浸食」と捉えれば、リアルに近づく。また情報震に襲われた世界でサバイバルする綾田ミウパートでは、通信機器などが軒並み使えなくなっているので身体をつかってかけまわったり、あらかじめ集合時間を決めておかねば再会することもままならない。

何より情報震が揺さぶるのは我々の現実認識である。デジタルデータを破壊するというが情報を持っているのはパソコンだけではない。我々の記憶もまた、データの一種として破壊されうる。その先に現れた現実に対してどう対処していくのか、どう自分の態度を決めていくのかといったタフな問いに本書は全力で答えているといえるだろう。

何より、都市の物語
何より都市の物語だったと、読み終えてそう思った。本作における都市とは、簡単に言ってしまえば田舎の延長線上にあるものとしての都市ではなく、人間の観念によって生み出されたものという意味だ。人間が脳で作り上げ、流行やブランド、そういった人間の結晶が入れ替わり立ち変わることによって駆動を続けるひとつのシステム、それが都市だ。都市はその機能のひとつとして、人間が一人で生きていくことを可能にすることもできた。

ちょっと話はそれるが、神林先生には『膚の下』という作品がある。その中で、実加という少女が、読み書きを覚えることで寂しさから解放される、「読み書きができることは、他人を孤独から救う」という重要なテーマがある。本作でも都市は少女を「孤独」から救うのだ。精確には、都市は人を孤独のまま生きながらえさせてくれる。かつての田舎では人間同士の関係がなければ人は生きていくことができなかったが、現代の都市はそうではないのだ。

彼らは都市を愛した。孤独のまま人が生きていける場所として。あるいは人間の観念によって成立している場所として。観念によって成立しているというのは本作では重要な意味を持つ。僕は本作を「仮想現実が当たり前になった世界で、人間はどう生きればいいのか」 という問いかけをしている作品だと読む。

今は情報化社会の時代だと言われるが、その後に来るのは絶対に情報の独立・分散型社会だ。人はそこで自分の殻に引きこもって、自分自身の現実を設定し、自分自身の生を生きる。本作では「老い」がテーマになっているとトークイベントレポに先生の発言として書いた。「今まで書いたものがないものはなんだろうと考えた時に、自分が老いたというフィジカルな現実を書いたことがないと気づいた」と。

コウモリが発している超音波を僕達が感じ取れず、赤外線なども見えないように、僕たちはリアルな現実をそのまま感じることはできない。自分の五感で感じ取れることを脳内で再構成して、受け入れることが出来る現実を頭の中で構成するだけだ。「仮想現実が当たり前になるはずがない、現実があるんだから」というのはそういう意味で否定される。僕達が現実だと思っていることからして、すでに仮想現実なのだ。ありのままの現実を受け入れることはデキない。

神林先生は「リアルな世界」は「なんでもありだ」と本作の登場人物に語らせる。こんな風に

「そう考えるのが、わかりやすいでしょうね。だが、もう少し、複雑だと思います。リアルな世界というのは、人間の感覚や理解を超えて広がっていて、そこには、因果関係も時空も物質もエネルギーもない、あるいはそれらがみんなごったまぜに存在する、混沌の場で、それが、絶対的な真の姿なのだと思います。ビッグバンで始まった宇宙も、そうでない恒常的宇宙も、死滅しようとしている宇宙も、あらゆるもの、ものというより<可能性>が、そこに同時に存在する。わたしたち人間は、その一分を意識し、意識することで、いわゆるわたしたちの<現実>を生み出している。それは言い換えれば、どのような事態だって、意識し、認識できさえすればそれが現実になる、ということです」

時間の流れを感じるのも、物を物として受け取るのも、それは僕らがそのようにしか現実を受け取る事ができないからだ。真の現実とは「なんでもありだ」。だったら、仮想現実に移住することこそが、より真のリアルに近づくといえるのではないか? 真に人間的だといえるのではないか? 神林長平が問いかけるのは、そのような世界観である。そして、そのような世界観で、人間はどうやって生きていくのか、それを問うている。

解答としては、すでにアンブロークンアローで示されたものであるのかもしれない。すなわち、自分はどう行動するのか、自分自身をどう納得させ、どんな現実を選ぶのか、それは自分自身で決めて、行動していくしかない。自分自身で自分自身が生きる現実・世界を創造していくしかない。それが本書の結論だ。情報共有社会が終わり、情報分散社会がやってくる──。

綾田カイムは、教師として「都市」に残る。それは多数の新たな世界で生きている意識を駆動させ続けるということだ。カイムは、「仮想現実で生きる」新世代の人類の、創造者となった。かつて『膚の下』で主人公の慧慈が、アンドロイドたちの新たな世界を切り開く創造者となったのと同じように、カイムは新しい意識・観念を駆動させる都市で神になったのだ。

ぼくらは都市を愛していた

ぼくらは都市を愛していた