基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

小説「おおかみこどもの雨と雪」 : 映画を観た人が脳内で映像を再生するための触媒

※総評 アニメに実に忠実な文章。アニメを観た後に読むと脳内でデジタルからアナログに変換され、映画館に行かなくてもほとんどおなじに体験なるからコスパ的に良い。ほんとに、まったく、忠実に文章にしているので、一場面一場面が明確にイメージできるから素晴らしい。

映像でみるとあれだけ素晴らしい演出と面白さなのに文章にするとこんなしょぼくなっちゃうのかーとか思いながら読むとアニメってすごいなって思う。当然ながら文章としての楽しさはほとんどないので(まあ求めてないしね)映画を観た人専用だ。以下読書メモ。

・ぼっちだと思っていたらぼっちじゃなかった。たぶん物語上別に必要がなかったから友だちがいる描写も削ぎ落とされてしまったのだろう。

・選択をする話だというのはわかる。狼と人間のどちらを選ぶのか。それは自分の世界を持つということだ。でも僕は狼と人間のどちらも二人の本質なのではないだろうかと思う。作品の主軸からは外れそうだが、狼を選ぼうが人間を選ぼうが、彼らの中に「狼も人間も、どちらもいる」のは事実なのだ。なのになぜ「どちらか片方」を選ばなければいけないのかという疑問は最終的に残った。でも主軸からはズレてるんだろうな。

田舎回帰ではない。どちらかといえば、「どこにでもいける」っていう話では
・田舎は素晴らしい、とかそいう話ではないのだよなあ。都会にいて、都会に物理的な問題から居られなくなったから田舎に行かざるを得なくなっただけで。農業をやるのも家の修繕をやるのもそうせざるを得ないからだ。そして一応、田舎には田舎の生存システムがあるんだってことが明かされる。別に田舎に帰れって言っているわけではないのだが、どうもそう捉えたい人をTwitterでみかける。

・そして常識的に考えればわかることだが、都会は別に素晴らしいところでも何でもない。良い所もいっぱいある。都会は人が一人で生きていくには最高のところだ。でも何しろ人が多い。家畜を運んでいるよりもひどい電車に人が載って仕事にいく。クソみたいだ。知らない人間が自分のすぐ近くにいる。死は眼に入らないように排除される。「生きる」基本的な要素から隔離されている。我々は、脳の中で囚われて過ごしているようなものだ。
 もう一度書くが、良い所もある。でも、悪い所もある。そこが気にくわないなら、出ていけばいいだけの話で、「会社がある」とか「学校がある」とかいうかもしれないが、そんなのはあまり意味が無い話なんだよ。都会賛歌の中には「自分はここから動けないから都会のいいとこ探しをする」人達がいるのではないか。でもでていこうと思えばどこにだっていける。もちろん田舎とは限らないが。 
 そういう「田舎とかはとりあえずおいといて、合わなかったら合うところまで出ていけばいいんだ」っていう自由さを書いているんだろう。二匹の狼の選択も含めて。

映画をみていて疑問だったところ
・映画で、会話のつながりがおかしい部分があって、「あれ、なんか聞き逃したかな??」と思ったのだけど、小説版を読んでいたら疑問が解決した。雨が猫にいじめられて、花に「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言っている場面。これにたいして雪はそんなんじゃ生きていけないよと雨に言う。

「でも確かに──」
こんなんじゃ、生きていけない、かもしれない。
人間としての生き方は、あるいは教えてあげられるかもしれなかったが、おおかみとしての生き方を、どうやったら教えてあげられるのだろう。
「おおかみの子って、どうやって大人になるんだろう?」
彼の写真を見上げた。

映画では「でも確かに──」と「おおかみの子って、〜」のところしか台詞で言われないので、つながりがよくわからなくてあれ、っとなったのだった。なるほど。でもちゃんと考えればわかるなあ。

・映画を見ているだけではまったく気づかなかったのだが、シンリンオオカミと雨は普通に会話ができていたようだった。どうもキツネ?の先生と雨のやり取りをみても、なんか行動ベースで知恵を伝達しているだけで会話とかはできてないんじゃないかなーと思っていたのだが、小説版を読む限りでは普通に会話して情報を伝達しているようだった。

 たとえばシンリンオオカミは雨に、自分は森のことは何もわからないし、伝えることは何もない。だがひとつ言えることは、ここにいてはだめで何かを学びたいなら野に出るべきだと伝えている。だから雨はシンリンオオカミと会った後に森にいって先生と出会うんだね。どうもシンリンオオカミをじっと見つめる雨の場面は意味がよくわからなかったんだけどそういうことか。まだまだ僕はレベルが低い。

・花は理想のひとつの形としての母親だが。理想を高くかかげるのはいいことなのだろうか? それはひょっとしたら理想に追いつけない人達を地獄に叩き落としたりはしないだろうか? これは理想の程度の問題だと思う。手に届く範囲にある理想だと思えば、人は絶望なんかしない。どう考えたって自分には無理だ、と思ってしまうからこそ、絶望を感じるのだ。

 本作の花は数ある理想のうちのひとつだと思うけど、でもとても手が届く人間には見えなかった。そういう意味ではあまり理想的な理想ではないのかもしれない。でもなー、この世にこんな人が一人でもいたらいいなっていう理想ではある。そしてたぶん、いないってことはないんだろうな。