基本読書

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カーボン・アスリート 美しい義足に描く夢:ただの義足デザインの本ではなく、人体と人工物の融合を義足を切り口にして扱った良書

プロダクトデザイナーである山中俊治さんの新刊。その名も『カーボン・アスリート 美しい義足に描く夢』、かつてなかった『義足のデザイン奮闘記』である。意外に思われるかもしれないが、今まで日本には義足をデザインをした人たちはいなかったのだ。

いや、「しようと」試みた人たちならば、いたのかもしれない。しかし純粋に需要と供給の問題で出来なかった。デザインとは1つじっくりと考えて、コストをかけるが、その後は大量生産を行うことにより1つあたりのデザイン料を賄うものだ。車やバイク、家具などに凝ったデザインの物が多いのは理由は数あれど「欲しい人がたくさんいるから」であることが最有力なのだ。

残念ながら走るための義足にそこまでの需要はない。そこに山中俊治さんたちは研究という名目で、デザインを持ち込んだのである。これは、目の付け所が凄い。

しかも最初に書いたように、先陣がいない状況でのスタートである。義足デザインという構造から何から何まで知らない状況で、ゼロから学習し創りあげようとするのは道なき道を切り開くことであって、やっていることは過去の探検家と変わらない。現代において未知の領域とは決して深海や宇宙だけではないのだなと読んでいて思った。

義足デザインプロジェクトは山中俊治さんの個人プロジェクトではなく、慶応義塾大学の研究プロジェクトとして発足している。その時、山中俊治さんが研究室のメンバーに言った言葉が、なんかかっこつけすぎで出来過ぎな感はあるものの、かっこいい。

「宝物を見つけたと思う。だれも手をつけていない宝石の原石のような物だ。私のこれまでの経験からすると、ここには輝かしい未来がある。だれもがデザインを必要としていることは明らかなのに、それにみんな気がついていない。もちろんそこにデザインを持ち込むのは簡単じゃないし、どうやったらデザインが導入できるのかもわからない。しかし、ほんの少し何かをすることができれば、歴然とした効果が表れるだろう。君たちは幸運だ。こんな未開の荒野が広がっている光景が見られることはめったにない」

本書にはプロトタイプからほぼ完成形、走っている写真、それから大量のスケッチで様々な義足が見えるが、義足のデザインというのはこうして実物を改めて見せられてみると、驚くほど重要な要素であることがわかる。

少し脳の話をしよう。僕らの脳は差別意識とかの問題ではなく、人体の欠損を視線に入ったときについ違和感として捉えてしまう。僕らの脳は……というか眼は、常に状況を把握しているわけではない。たとえばボールを投げた時、僕達の奥深くにある物理過程の内部モデルから落下地点を予測する。決して速度と距離を計算しているわけではなく、だからこそキャッチボールが出来るわけだ。

予測する内部モデルのパラメータは、産まれてからの経験を通して作り上げられていく。当然日常的に、頻繁に目にする「人体」のあるべき形というのは強固に練り上げられている。神経科学者のドナルド・マッケイがいうには、視覚野は眼から入ってくるものとすでに予想されているものの「差異」を報告する。視床は視覚野にその予測されなかった部分だけを報告し、意識に上るという。

なんだか脇道にそれてしまったけれど、ようするに人体の欠損というのは差別意識があるとかなしとか関係なくどうしてもひと目をひいてしまうっていうことだ。もちろん義足・義手には「自然に見えるよう最大限配慮されたもの」も存在している。

ただし「かっこよく見えるもの」……ちょっと違うな、積極的に「人体を模倣」したものはあっても、「人体と工学の融合」を目指したものは存在しなかった。本書で著者の山中俊治さんと、義足の選手、そして学生さん達が目指していくのはそのような今までにない「新しい観念としての人体」である。これは燃える。

僕たちの頭の中には一瞬で欠損を違和感として捉える能力があるし、それだけ脳に直結した強い観念、イメージが刷り込まれている。もしこれをより強いイメージによって上書きできたら……(わあ、かっこいい! とか)、それはみんなのあたまのなかにある「人間」像、人間という存在自体の上書き、アップデートだ。

SFというジャンルでは人間をくっつけたり剥がしたり全身機械にしてみたりっていう人間の身体っていう観念に揺さぶりをかけて興奮させるのはお馴染みで、当たり前だけど現実でそれを見るとフィクションとはまた違った衝撃がある。むしろなんで今まで誰もやってこなかったんだろう? と不思議な気分だ。フィクションではかっこいい機械人間なんて、あんなにやられているのに。

先ほども書いたように本書には著者の山中俊治さんが書いた何点ものスケッチと、それから実際の義足、走っている姿が載せられているのだけれど、(表紙も当然義足)これがまたとんでもなく美しい。違和感よりも先に、「なんだこれ、目が離せない!」という感動の方が先にくる。山中俊治さんたちが作った義足やウェアには、非対称をむしろ際立たせているのだが、それなのに見事な調和がある。

この感動っていうのは、同情とかじゃないんですよね。それがこのデザインのすごいところだと思う。元から持っていたマイナス、ハンデをバネにより一段とがんばるという筋書きはテレビなんかだとお馴染みだし、そういう要素はハンデを背負っている時点でどうしても出てきてしまう。あるけど、この感動はそれ以前の段階で生まれるものだ。義足で走っている姿は、それ自体がただただ綺麗だ。

「隠し、擬態する」ものから「魅せつける」ものへ。山中俊治さん達の義足プロジェクトはそのような考え方の転換をもたらしたんだろう。それはきっと義足選手たちにとっても、傍で接する人たちにとっても良かったはずだ。ついつい見てしまって、気にして、気を使おうか考えたり、相手がその事によって負担をおったりしてほしいとは、五体満足の人間でも思わないのだから。

他に面白かったところを簡単に。
山中俊治ゼミの葛藤。⇒4年で学生が入れ替わる為に長期で関わることが難しい。育ったらいなくなってしまうなどの、学生であるが故の欠点。もちろんこのプロジェクトは「研究」という名目が立っていたから成立しているので、利点は大きいのだが、マイナスも大きい。でもここでの山中俊治さんの教育観、実践観は素晴らしいものがある。僕もこれぐらい主体的に大学では生活したかったものだ。

山中俊治さん個人の考え方について。山中俊治さんのデザインに対しての思想が端々に表れていて、ただ単に「義足デザインの本」ではなくもっと抽象的で広く「デザイン」について面白い内容になっている。あと上にも書いたように教育観とか、写真をとらないでスケッチをとる理由のように経験に裏打ちされた話が面白い(記録の為には写真を撮ったほうが確かに精確なのだが、自分の中を一度通すことによって「記憶」するのだそうだ。この感覚はよくわかる)。

私にとってスケッチは記録ではなく、記憶である。写真は記録としては正確だが、写真を撮ることに夢中になってしまうと、実物そのものの観察を怠ってしまうことも少なくない。しかし絵は、一度すべての細部を頭に入れなければ、描くことはできないので、一度描いたものは容易には忘れない。地面に並べられたさまざまな種類の義足をスケッチすることで、その構造や細部のすべてを観察し、頭に叩きこんでおきたかった

・ロボットが人間らしい動作をとるにつれてある時点で突然強い嫌悪感に変わる事象のことを不気味の谷現象というけれど、その解決方法は「もっと似せる」にあるのではなく「むしろ引き離して、別の調和を目指す」ところにあるのではないかと思った。人間の意識は意識されない無意識に支配されていて、そちらはかなり精度が高く違和感を抽出するようだから。

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