基本読書

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私とは何か――「個人」から「分人」へ

小説家の平野啓一郎さんによる「分人」論。誰だって高校の友だちと小学校の頃の友だちとでは接し方が違うように「いろんな人格」が自分の中にいて、そうした複数の人格こそが「自分」なのだというのが「個人」から「分人」への中心となる主張で、「なに当たり前のこと言ってんだ」って感じだったけど、考え方として利用すると便利なのだ。

もう少し詳しく説明しよう。たとえばネット上の人格というのはリアルな人間と対面している時とはまた違うものだろう。上司と接する時、高校時代の友人と接する時、全部違う人格を使っているはずだ。で、それらをすべて「仮面の人格である」とした時に必然的に出てくるのが「仮面をかぶっていない、本当の自分」だがそんなものはないのである。

上司と話す時の人格もネット上の人格もすべて本当の自分なのだ。すると当然「私とは何か」という前提も崩れてくる。「個人」からいろんな人との関係の中に存在する「分人」へ。僕が「当たり前だろ」と思っていたのは「一人の人間には複数の人格がいて、それらは全て本当の人格である。」というところまでだった。

僕は個人とはそういう複数の自己が状況に応じて出てきたり、合議制をとって運営しているものだと実感として思っていたし、考えていた。同じように考えている人もたぶん多いのではないかと思う。なにしろ僕がこの考えを知ったのは森博嗣先生の小説『すべてはFになる』の中で探偵役の犀川創平がそういうキャラクターだったからだ。

ただ僕はそういう「複数の人格を持った個人は当然だ」と思っていたから本書の問いかけである「自我を否定して、そんな複数の人格だけで、どうやって生きていけるのか?」は「え? なんでそんなことが問題になんの?」とよくわからなかった。どうやって生きていけるのかも何も普通に相手によって出す人格をかえるだけじゃん。

だからその辺はまあ何が言いたいのかよくわからなかったんだけど、でもこの「分人」っていう概念は「役に立つ」んだよね。それが良かった。たとえば目からウロコだった発想がある。「自分」とは「分人」であり、「複数の人格から成り立つものである」とした場合、その人としての個性とは「自分の中に存在する分人の構成比率によって決まる」ものであるとする発想だ。

たとえば僕らはどの時点においてもまったく不変的な存在ではない。性格も違えば考え方も違うし体格も違えば身体を構成する細胞も入れ替わっている。中でも個性が、「誰とどうつきあっているかで」構成比率により変化するのである。もう少し詳しく解説すると、分人という概念が面白いのはそれが「常に付き合う相手がいることを前提としている」ところにある。

上司とネットとで人格が違うというのなら、僕らの人格は何によってコントロールを受けるのかといえば「相手によって」なのである。そして相手によって僕らの人格が決まっていくのなら自分という個性を創りあげるのは少なくとも「半分は相手」なのだ。だから朱に交われば赤くなるとかいうけど、付き合う人間によって自分も変わっていく。

この考えを導入するといいのは自分のしたことに対してあんまり責任をもたなくていいところだろう。僕は正直言ってかなりたくさんミスをしてきたんだけど、ぶっちゃけ「自分だけが悪い」なんて思ったことない。ありとあらゆる要素があって自分の失敗という形で表出してしまっただけで僕だけが悪いわけないと思っているわけだ。もちろん責任の切り分けとして自分が悪かったところは適宜修正するのだが。

同様なことは他人に対してもいえる。たとえばどうしようもないクズみたいな人間がいたとしよう。と言っても僕は絶対悪みたいな人間にはあったことがないのでクズな面もある人としておこう。その人は果たして、その人が悪かったからクズになったのか? 分人という概念を導入するとそうとはいえない。「今までその人と関わってきたあらゆる人との中で人格が形成されたのだ」と考える。

まあそいつがクズなのが変わるわけではないが「まあこいつに腹を立ててもしかたがないかな」という気になる。

で、やはり平野啓一郎さんは小説家だから小説の話にもなる。というか物語か。いろんな人と会い、その時の人格が自分になっていくというのなら、小説を読んでいる時の自分だって分人の一人になるはずである。小説の中の登場人物との対話を自己の中で行うことによって自己の中に好きな分人が出きてくれば僕らはもっと生きやすくなるはずである。

状況を正しく認識する為に読んでおくといい一冊だと思う。状況が正しく認識できないとどっかで歪むんだよね。人によって人格を使い分けるのを「仮面の人格」なんて思ってたらつらいだろうし。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)