基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

平田オリザさんの『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』と押井守さんの『コミュニケーションは、要らない』を読んでコミュニケーションについて考えた

最近コミュニケーション能力がうんたらかんたらー! と叫ばれているがコミュニケーションという言葉には意味がいっぱい含まれていて「コミュニケーション能力を企業が重視している」とだけ書かれても読む方も書く方も絶対「なんのこっちゃ」って思っている。ところであなたがその記事で書いたコミュニケーション能力って具体的にどういう意味ですかね? と問いたくなることもしばしばある。

実際中小企業で就活担当をしている僕個人の主観的感想を言わせてもらえれば、中小レベルで、一言でまとめてしまえば「意見をちゃんと言ってね」ちう程度の話に過ぎない。というかちょっと考えてみて欲しいのだけど、相手のことがそんな30分とか話したぐらいで全部がわかるわけがないわけで、とにもかくにも話、それもある問題に対してどんな意見を持っているのかってことを言ってくれないと判断のつけようがないのである。

当然こっちから質問もするので、極端な話「朝何食べた?」って聞いて「あ、あわあわあわうちでは犬を飼っていて……」と云われても困るので最低限聞く力も求めているが、結局のところ就活、それも入れるか入れないかの判定部分でスタートラインに立つために、コミュニケーション能力というのは求められている。

逆に言えばそれさえ出来ない人間が集まってくるという話でもある(業界柄もあるけど)。そしてぶっちゃけそんなレベルの話でいいなら(大企業に就職しようと思ったらコミュニケーション能力とかは前提としてもっとちゃんとした戦略が必要になる。)単に「自分より年上の人間と話すのに慣れているのか」とかそんだけの話であって、コミュニケーション力とかそんな大層な話ではない。

というわけでコミュニケーション能力とは何か、という話である(ようやく本筋)。ようは世間で云われているコミュニケーション力なるものがいかによくわからない曖昧模糊としたものなのかを冒頭では説明したつもりだったのだけど予想外に間延びしてしまった。以下ではコミュニケーション能力とは何かを押井守さんと最近出た平田オリザさんの新書2冊を下敷きにしてなんか書く。

押井守さんの『コミュニケーションは、要らない』の中で、コミュニケーションは「異質なものとつきあうため」と「現状維持のため」の2種類に大別できると書いている。一方平田オリザさんの『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』では前者は「対話」後者は「会話」としているが、押井守さんの方が若干わかりやすいのでそっちを採用した。

この考えは割と納得できる。すでに出来上がったコミュニティを維持していくための「今日もいい天気だねえ」「そうだねえ」みたいなやり取りは後者であり、たとえばそれこそ就活のような一瞬でまったく知らない人間同士が相手をなんとか知ろうとするのは前者であるといえる。社会人には社会人なりの文脈があり、学生には学生なりの文脈がある。

一方で親しい人同士でも価値観が異なれば「対話」となる。ニーチェ主義者とカント主義者がいくら友だちとして親しいからといって、お互いの価値観について議論を始めたらそれは対話、異質なものとのコミュニケーションになる。そしてまあ言ってみれば、今なぜこれだけコミュニケーション能力が叫ばれるのかというと、この「価値観のすり合わせ」ができない人達が多いという話だろう。

それは「コミュニケーション能力がない」というよりかは、「単に慣れていないだけ」かもしれないのだが、だからといって放置していていい問題かといえばそうではない。40にもなって「慣れてないんです」といってもしょうがない。ここからはなぜ日本人からこうした対話のための言語能力が失われてしまったのかという問題に移行する。

押井守はこの問題について明治時代が文章能力、対話能力のピークであり太平洋戦争末期には命令書からみて、伝える能力が劣化したという。命令書に意訳すれば「がんばれ」みたいな抽象的な内容しか書かれなくなった。なぜかといえば、言文一致運動によりあらゆる文章が話し言葉に近い口語体になってしまったからではないかととく。

同時に漢文の教育が行われなくなった。古典言語とは言葉のルーツであり、ロジック剥き出しみたいな部分があるのだが、それが口語体に……つまりは「会話の文章」にとってかわられたことにより「対話の能力」が失われたということだろうか。

一方平田オリザさんの『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』では、これがまたおもしろいことに言っていることは違うのだがだいたい押井守さんと同じ時期にその原因があると見ている。原因は旧帝国大学が教えていた最初の10年間は英語で教えていたが、その後10年から20年でその教育を日本語で教えられるようにしてしまったことにあるという。

論理的な事柄を自国の言葉で話せるようになるには自然言語のままでは不可能であり、普通近代国家というのはそれを可能にするために語彙を増やし、政治を語り哲学を語り、裁判を起こし教育を行い果てはラブレターを書ける自国語を時間をかけてゆっくりと育て上げてきた。英語やフランス語はこの過程を150年とか200年とかかけてやってきたのである。

これを日本は30年ほどでやってしまった。すごいじゃん、と素直に思うがその過程で「対話が失われてしまった」というのがこの本で言っていることである。急速に言語を作り替えてしまったために、これをすりあわせ、馴染ませ、つまりは「長い時間をかけてわかりあっていく」という過程を得なかったために対話の為の我慢ができなくなってしまった。

これはねえ、ちょっとあやふやなところがあるけどわかる気もする。対話に必要なのって結局「我慢」なんだよね。異なる文化圏、価値観を持っている人と話をするのって、いらいらする。何言っているのかよくわからないし、こっちの常識からすればあり得ないことをやったりする。でもだから「君とはコミュニケートしません」というんじゃダメで、そこを乗り越えていかなくちゃいけないんだよね。

で、その為になにが必要なのかといえば対話のための基礎体力というか、いらいらしないで地道にすりあわせする能力だよね。たとえば日本人はお座敷に上がるときとかに靴を脱いで外側に靴の先を向けるけど、韓国人はそれを見ると「そんなに早く帰りたいのか」と思うらしい。「ええ、そんなこと考えんの??」って感じだけど、価値観や文化が違うってのはそういうことなんだよね。

そうすると異質なものと付き合う、対話としてのコミュニケーション能力に必要なものは、とりあえずひとつは我慢、基礎体力としてもいいのではないだろうか。

もちろんこの後には技術、手段みたいなものが必要になってくる。たとえば韓国人との価値観の違いは、コミュニケーション能力とかの問題ではなく文化に依存した問題だ。でも話しやすい環境をつくることはできる。会社だって同じで、「学生が大人と話すのに慣れていない」か「対話をする能力がまだない」というのだったら(そしてそんなヤツはいらないとばっさり切り捨てるのでなければ)、それを引き出すための環境を設定することが必要になってくる。

と、ここまで書いていて当然問いを立てておかなければいけないのは「対話」とは「価値観のすりあわせ」のことであって、「そもそも自分の考えが何もなければ対話も何もない」のである。価値観とは大層な言葉だがようは自分が何を大切にしているのかということだ。自分が何を大切にしているかがわかれば後はそれをどんどん広い物に適用していけば社会とか大きなものに対しても自分の価値観を持てるようになる。

でも自分にとって何が大切なのかって、考えるのが難しいんだよね。たとえば小説家になりたいという人がいる。じゃあその人は小説家にどうしてなりたいのか? ちやほやされたいのか? 才能を褒められたいのか? でも褒められたいだけだったら無料で公開すればいい。伝えたいことがある? それこそ無料で公開すればいい。とかね。

此処から先は別の話題になってしまいそうなのでまたの機会に。

コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

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