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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

タグに古典を読むシリーズをつけました。森博嗣作品には結構な割合で各章冒頭に引用がされているのですが、その引用本をちまちまと読んでいこうという心づもりです。まあ、その流れで気になったものがあれば派生で読んでいこうかなってところで。けっこうみんな古典の内容って、話のネタに知りたいんじゃないかなって思うので、簡単な内容のまとめもやっていこうかなと。

それが有名なものならば、すぐにわかる漫画みたいな感じでシリーズ化されているけど、マイナーな物はないでしょう。ブログでやるには、需要がないネタの分おもしろいかな、と思ったりしております。が、飽きたら別に誰に許可をとるまでもなく何事もなかったかのように辞めるので、まあそんなもんですね。これに期待しているのは、僕ぐらいでしょう。

というわけで今回はJ.Sミルの自由論です。いきなり有名ドコロ。森博嗣先生の作品で言えば、『θは遊んでくれたよ』で引用されていたものですね。自由論といえば森博嗣先生はそれで一冊本を書いているぐらいなので(自由をつくる 自在に生きる)発想の源がここで垣間見れるかな、と思ったんですが、まったく違う話でした。でもおもしろかった。

本書のテーマは意志の自由ではなく、市民的な自由、社会的な自由です。個人に対して社会が正当に行使できる範囲は、限界はどこにあるのかを論じています。これがおもしろいのは、ようは原理・原則にまつわる話だからでしょうね、と分析してみたり。時代が変わっても光速の速さが変わったりしないように、原理原則は時間がどれだけ経っても変わらないので、今読んでも新鮮な驚きで読むことができるわけです。

本書で言っている原理とは極めてシンプルなものであって、引用するならば『人間が個人であれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。』という部分だろうか。これは何も身体精神的関わらず、ほかの人に関わる部分については、社会に従わなければならない。しかし、本人のみに関わる部分については、本人の自主性が尊重されなければならない、というわけだ。

うん、この原理自体は、もう文句がつけようがないだろう。他人に迷惑をかけなければ、その他人自身が何をやったっていい。もちろん人間が人の間と書くように、人間は人間同士のかかわり合いの中に存在しており、他人に迷惑を……というと大げさだけど影響を与えない行為なんて存在しないという意見も当然ある。まあ、その辺がつまりはこの原理原則をどう実際に適用していくのかという摺り合わせの部分になる。

まあようはいくら個人の自由だからといって、たとえば酒を飲みまくって死にかけたりして、家族がおいおい泣いてたらそれは他人に関わる部分だからダメだよ、自由じゃないよっていうことをいろいろ考えなくちゃいけないのである。大抵の仕事がつまらないように、そうした摺り合わせは重要で不可欠ではあるもののつまらないので、説明は省こう。

いちばんおもしろかったのは、思想の自由と表現の自由が、人間の内面の充実のためになぜ必要なのかを理屈で説明しているところである。おもしろいのでご紹介しよう。4つ、ポイントがある。まず第一に、発表が封じられている意見は、もしかすると正しい意見かもしれない。また仮に「反論は許さん」などといったら、「自分の意見は絶対に間違っていない」ということと同義であり、そんなことはあり得ないのである。

大抵誰の意見もちょっとずつあっていて、ちょっとずつ間違っているものだ。おっと、書いちゃったけど、これが二点目。絶対的に正しいたったひとつの真理なんて、科学でさえもありえない。100%正しい訳ではない。いつどこでひっくり返るか、わからない。真理に近づくためにはだから、対立する意見の中からよさげなところを救い出すに限る。なので、そうした仮定をおいて他人の意見を封殺してしまうのは微妙だね。

第三に、世間で受け入れられている真理も、それがなぜ真理なのかという議論から遠ざかるとみなそのことについて感がなくなり、ようするに中身がなくなる。宗教と変わらなくなる。たとえば光速不変の法則などといっても、実質どうそれが正しいのかを知らなければ、神を信じているのとそう対して変わらない。合理的な根拠は理解されず、実感もされない。

第三の中に含まれていたことだが、第四に議論がされない場合、仮に真理に近いものだとしても、意味がよくわからなくなる。たとえばキリスト教が正しいかどうかなんてのは別として、教義自体は立派なものである。しかしそれも単に上からもらった教義であるとなれば、本来持っていたはずの強制力……人間の性格や行動を一変させてしまうような、内面化はなされなくなる。

というわけだ。第三と第四はまとめてしまってもいいような気がするが、なるほど納得の理屈であって、正しいと思う。この後話は個性についてに流れていく。基本的に多様性は善であるという思考があるので(そしてそれは正しいと僕も思う)、他人に直接関係しないことがらについては、多様性の為に個性を全面に出していけ! というようなことをいろいろ書いている。

これも、もっともなことだ。と思った。これが書かれた時よりも、今世間的な流れとして、こうした方向へ向かっているだろう。こうした方向というのはつまり、自分にあった靴を履くように、自分にあった生活を送るという当たり前のこと。靴になると当たり前の話なのだが、個人個人の生活(学校、仕事、性差、年齢)になるとなぜか画一的になってしまうのは、まだそこまで豊かではないからだろう。

逆にどんどん豊かになってきているからこそ、誰もが自分にあった生活を送りたいという欲望を持ち、実行し始めているのだと思う。「こうしたい」という考えが先にあるのではなく、「「こうしたい」と思える環境」ができてから社会の方向性というものは決まってくるのだな、と本書を読みながら思っていた。そしてたまに社会の方向性とは無関係にJ.Sミルのような、独創性ある思考を進めることが出来る人が出てくるんだろう。

古典だから、とかそんなアホみたいな理由ではなく、とても面白い本でした。オススメです。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)