基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記

レオナルドが書いたモナリザはヘタしたらレオナルド・ダ・ヴィンチよりたくさん色々な媒体にでているかもしれない。万能の天才と呼ばれるレオナルド・ダ・ヴィンチだが、彼がいったいどんな人間でどんな発想をしていて何を考えていたのかを知ることは今までなかった。手記中の絵画論で絵は一瞬のうちに視力を通してものの本質を相手に示す。一方詩は同一のことに関係するが眼より効果の乏しい手段によってであるというように、絵は一瞬で、それだからこそ多くの人間に伝わる。

文字は……というより言葉はひどく不自由なものだな、と本書を読んでいたら切々と思ってしまった。心臓を描写するにしても、優れた絵かきなら一瞬で表現できることが、文字では一冊尽くしてもそれを見たことのない人間に明確にイメージさせられないどころか、言葉を増せば増すほど実体の把握が難しくなってくるだろう。一方、だからこそ形のないものを表すには、言葉は適しているといえるのかもしれないが。

そう考えると、なんか自分が書いている言葉も、大した意味がないものだな、と思って少しさびしくなったり。そもそもしょうがないんだろう。それどころかほとんどのことはその言葉で伝わっていくんだから(この本だってそうだ)、言葉でいろんなことに理由をつけて、どんなふうにでも物事を変えてしまえる。解釈を変えてしまえるのだ。所詮言葉だけのこと。

しかしそういう言葉があったから、こんな600年近く前の天才の断片が見えるのだから、捨てたものではないというか、素晴らしいといえる。

さて内容だが……人生論、文学、絵について、科学論、技術論、手紙とメモで終わっている。絵についてまでが上巻で、科学論からが下巻だ(上下巻なのだ)。どれもギッシリ描かれているわけではなく、手記なので断片的に短い、ものによっては一行ほどの内容が連なって、適当に分類されているわけだ。細かい内容に言及してもしょうがないので、ざっくりと抽象的な話でも続けよう。

レオナルド・ダ・ヴィンチといえば万能の天才として知られる。モナリザ、最後の晩餐を書いた画家であり、彫刻家であり建築家であり、未だニュートンが引力すら発見していない物理学・天文学の初期段階における科学者でもあった。いったい全体なにがどうしたらそんなに広い分野に精通……それも高いレベルで、出来るのかと思っていたのだが、読むとまあ納得ができる。

あらゆることを疑い、自然を(この場合は現実といってもいいだろう。目の前で起こったこと、といってもいい)あるがままに観察し、そこから得た洞察を信じる。自分の経験から学ぶが、見えないものは信じようとしなかった。だからこそ人間を解剖して、中身を調べ科学を信仰した(此の時代としては偉大である)。

それどころか、鳥を注意深く観察し、紙切れやとんぼがなぜ空をとぶのかを分析し、人間だって飛べると結論付け、その為の方法を模索すらした。ようは発想を飛躍させることができる人間だったといえるだろう。「人が飛べるはずがない」という思い込み、偏見、制限を外し、その為の実際的な方法を考えられる偉大な人間であった。

鳥を観察し、人間は飛べるのではないか、どうやったら飛べるのかと思考を進めていく部分は、600年前の知識的制約から考えれば驚くほどスリリングで、興奮する。今では人が飛ぶのは当たり前だが、この時代は当然ながら当たり前ではなかった。そんな時代に「どうやったら人間は飛べるのか」を考察していくのは、エキサイティングな体験だっただろう。

その根底にあるのが科学的な精神だったのはいうまでもない。静力学動力学、ニュートンが発見するより前に、数式化していないだけで引力を発見しており、エネルギーの転換と依存、速度と力について、そして月に思いを馳せてそこには水がないはずがないのに他の人間は何を言っているのだろうとすら書いている。

飛び抜けて独創的である。しかし同時に「そんな天才にも、限界があった」ことを示してしまう例になっていて、それがまた思い込みから、既に持っている知識から自由になることの難しさを知らしめている。例えば近世的な宇宙観から逃れられていない。視力がものの形だけではなく、ものの持っている能力を伝達するという迷信を捨てきれていない。

人間は飛べる、というところまで思い込みを排除し、発想を飛躍させられる人間でも、知識的な制約、思い込みから完全に自由になることは困難なのだ。そう考えると、ぼくなどはもはや知識・言葉にがんじがらめにされた憐れな存在でしかないなあ。だってレオナルド・ダ・ヴィンチだって、無理だったんだからと悲観的になる。

時代的な有利さは、もちろんあるだろうけれど。何しろ、レオナルド・ダ・ヴィンチが生きた時代はろくに科学もなかった時代なのだから。本書にはそうした暗闇の中から原理・原則を導き出そうとする、姿勢がある。レオナルドでさえ無理だったが、しかし彼は自由を求めたのだ。だからこそこの時代にあってあれだけのことが発想できたのである。見習うべきは、その姿勢だろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 (岩波文庫 青 550-1)

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 (岩波文庫 青 550-1)

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下 (岩波文庫 青 550-2)

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下 (岩波文庫 青 550-2)